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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
北方大陸編
8/111

8. 北の魔女と死人兵

 一拍おいて、すぐに扉が開き、中からリオンが顔を出した。


「ユーリを絞めにきたの? よければ俺も手伝うけど」


 中へ通しながら優しい声でとんでもないことを言うリオンに、セラは半目になった。ユリシーズが絞められるようなことを言ったと、なぜ知っているのだろう。


「それはもういいの。オルガが、アキムさんに用があるって」


「俺に?」


 窓側で紙切れを眺めながら、沈んだ顔をしていたアキムが振り返った。足音をさせずに二人が座るソファへと歩み寄ると、綺麗な所作で片膝をつく。


「昨日の精霊の件だろ」


 バルコニーからよく通る低い声がして、白い襟のついたシャツと朽葉色のズボンの、簡素な服を身に着けたユリシーズが姿を現した。少し濡れた長めの亜麻色の髪が妙になまめかしげに見える。黙っていればけっこう素敵なのにと、じっとユリシーズを見ていると、セラと目が合ったユリシーズが一瞬気まずそうな顔になり、つかつかとセラのほうへと歩いてきた。


「あの、さっきはごめん」


「も、もういいってば。私も忘れるから、ユリシーズも忘れてよ」


「わかった」


 赤い顔をして慌てるセラと、忘れていいと言われて安堵した顔で笑うユリシーズのやりとりを見て、三人はやれやれといった表情になる。セラの早とちりと、ユリシーズの言葉の足りなさが招いた誤解がとけたところで、居住まいを正したオルガがアキムを見た。アキムは穏やかに笑んで「どうぞ何なりと」とオルガを促した。


「では、アキムさんにいくつかお聞きしたいことがあります」


「はい」


「セラの持っていた『精霊の貴石』を触って、意識が飛んだそうですね?」


「一瞬だけ」


「周りに、何か見えませんでしたか?」


「砂が」


 少し言いよどむアキムを、オルガの硝子玉のような瞳が、じっと答えを待つように見つめた。


「生まれ故郷の、南方の砂漠が見えた」


「アキムさん、手を」


 セラは邪魔にならないように立ち上がると、ユリシーズが座るソファの近くへ移動した。オルガの差し出した華奢な手を、アキムはそっと握った。一瞬ぱち、と青い火花が散る。オルガが口の中で何かを呟くと、今度は大きな音を立てて白い火花が散り、素早く立ち上がったユリシーズの背に、セラは庇われた。リオンはユリシーズの隣に立ち、何かあればすぐ動けるように、注意深く様子を見ていた。髪が逆立つような、ピリピリとした刺激が肌を刺す。それでもオルガはアキムの褐色の手をしっかり握ったままだった。一切の表情が抜け落ちた中性的な顔立ちは、異質さを感じさせ、アキムはアキムで、昨日のように意識が遠くにあるような表情を浮かべていた。


 突然バルコニーから突風が入ってきて、人形のように微動だにしない二人を囲むように渦を巻いた。逆巻く風に混ざる細かい砂粒が、全身にピシピシと当たる。オルガとアキムの二人以外は、明らかに人外の力が働いている空間に圧倒されて動けずにいた。そして、唐突に風が止んだ。風は入ってきたときと同じように渦を巻くように砂粒を巻き上げ、窓からゴォっと音をたてながら抜けていった。


「終わったか?」


 ユリシーズは背中でセラを庇いながら、部屋をぐるりと見渡した。テーブルの上にあった地図は巻き上げられたような形で床に落ち、ユリシーズが書いていた書類はあちこちに飛び散り、室内は燦々たる有様だった。片膝をついていたアキムの上半身がグラリと傾いで、床に激突する寸前でリオンが受け止めた。


「アキム、しっかりしろ。それとオルガちゃん、手は大丈夫か?」


 リオンはそっとアキムを横たわらせながら、心配そうな声で尋ねた。


「何ともないですよ」


「何ともない?」


 怪訝そうな顔のリオンにむかって、オルガはアキムの手を握っていた右手をヒラヒラと振った。白い繊手は綺麗で、傷一つなかった。リオンは信じられない、という顔をして、ソファに座るオルガを見つめた。


「精霊使いは、常に術の反動に備えているんです。リオンさん、左手を」


 差し出した左手をオルガに無造作に握られて、リオンは一瞬だけ瞳を細めた。


『ごめんなさい、怪我をさせて』


 瞳を閉じたオルガの口から、鈴を転がすような細い声がした。先ほどまで話していたオルガの声は透明感のあるアルトで、今の声とはまったく違う。ユリシーズとリオンはぎょっとした顔でオルガを見た。精霊使いの身体を使って、言葉を発することができるのは、高位精霊だけだ。めったに見られるものではないので、セラも少しだけ驚いた。


「アキムさんの守護精霊が、驚かせてごめんなさいと、伝えてほしいと言っていました」


 段々苦しそうに俯くオルガに、セラは慌てて駆け寄った。


「オルガ」


「ん……少し休めば平気……」


 セラはオルガを二人掛けのソファに横たわらせて、冷や汗で額にはりつく銀髪をそっと払った。霊力が極端に失われると、精霊使いはひどく消耗してしまう。場合によっては昏倒してしまう。オルガがここまで消耗する姿はあまりないことで、見るからに頑健そうなアキムが完全に意識を失っているのも、セラは心配でたまらなかった。


「治ってる! 何で?!」


 リオンが血の滲んだ包帯を片手に、自分の手のひらを見て「うぅわぁ〜」とドン引きしていた。その様子をちらりと見たオルガは、心配そうにこちらを覗きこむセラに小声で何事か囁いた。頷いて「わかったわ」と返事をすると、アキムのそばで「何これコワイ」を繰り返しているリオンの肩を、トントンと叩いた。


「アキムさんの守護精霊が、お詫びに治してくれたんですって。よかったね、リオンさん」


「そ、そうなの? ありがたいけど、何かコワイよ」


 セラの言葉を聞いたリオンは、完全に怯えた瞳で左手をわきわきさせた。裂けていた傷も、自分で縫った痕すらも綺麗に消えている。噂に聞いていた「北の魔女」とは、オルガ達のような女精霊使いへの畏怖だろうと思っていたが、実際にその力を目の当たりにして、人知を超えた存在への恐ろしさが先にたった。

 オルガと同じように、ぐったりと床に倒れこんだアキムを介抱しながら、ユリシーズは心配そうにリオンとオルガを見た。リオンが怪我をしていたなんて、知らなかった。そういえば昨日小屋に飛び込んできたとき、火花が散る貴石を握りこんでいた。たぶんあの時に怪我をしたのだろう。気づいてやれなかった不甲斐なさに、唇をかみ締めた。


「なぁ、アキムは大丈夫なのか?」


 セラがユリシーズの落ち込んだ声に振り向くと、アキムの額に手を置いた姿勢で、項垂れている姿があった。


「ユリシーズ……」


「霊力切れ、休めばよくなる」


 オルガの小さく呟く声で、ユリシーズが顔を上げた。セラにはその顔が今にも泣いてしまいそうに見えて、ちくりと胸が痛んだ。


「わかった。寝かせてくる」


 床に屈みこんでアキムの脇に肩を入れて引き起こすと、ユリシーズは肩を貸すようにして担いだ。リオンが慌てて寝室の扉を開けにいき、アキムを担いだユリシーズが入っていくと、パタン、と閉まった。



「大丈夫かな」


「一晩休めば大丈夫」


「アキムさんもだけど、ユリシーズも。何だか、とっても落ち込んでいるみたい」


「……そっとしておいてあげなよ」


「うん……オルガは大丈夫? 気持ち悪くない?」


 床に膝をついたまま、ソファに両ひじをついてオルガの顔を覗き込んだ。頬に影を落とす銀糸のような睫毛が震えて、透けるような淡い緑の瞳が、セラを真っ直ぐ見た。


「大丈夫。エアリエルが来てくれて助かった」


「あの風、やっぱりエアリエルだったのね」


「勝手に地精霊を降ろしたから、しばらく口聞いてくれないかも」


 クスクスとおかしそうに笑うオルガの顔に血色が戻ってきたので、セラもようやく肩の力を抜いた。


「オルガ、アキムさんの守護精霊って、誰だったの?」


「地属性なのは確かなんだけど、私の知らない術法で、名前が封じられていてわからなかった。アキムさんにも何か術がかけられているから、お互いの小さな声しか聞こえないみたいね。でも、そのおかげで、普通の人として生きられている」


「そうなんだ……」


「その話、詳しく教えてくれないか」


 ユリシーズの低い声に、セラが慌てて振り返ると、いつの間にか寝室から戻ってきた二人がいた。気配がまったくしなかったので、驚いて思わず「きゃっ」と小さく悲鳴がもれる。


「オルガちゃん、アキムに術がかかっているってのは、どういうこと?」


「誰かが、故意に精霊使いの能力を使えなくした、ということです。普通の人として暮らしていく分には、何も支障ないと思う」


「昨日の石の件は、一体何だ?」


「精霊の干渉。何か伝えたいことがあったみたいだけど」


「オルガは聞いていないのか?」


「そこまで力がもたなかったから、聞けなかった」


「そうか……」


「これまでどおりでいいなら、本人にそう伝えとく。ありがとう、オルガちゃん」


「礼を言う必要はないですよ。私は、このことを上に報告しなければならない。必ずしも良い方向にいくとは……」


「それでもだよ。原因がはっきりすれば、対策が練れるからね。ユーリもこれで安心したでしょ。ずっと『精霊憑き』じゃないかって、気にしてたから」


「まぁな……。アキム、明日から単独行動なのに大丈夫なのかな」


 どことなく元気のない顔で、ユリシーズは一人掛けのソファにどかっと腰を下ろした。


「平気だって言ってるでしょうが。俺達は、そんなやわな鍛え方してないよ」


 ユリシーズの頭に優しくポンと手を置いて、リオンは寝室へと戻っていった。ますます渋い顔になるユリシーズに、セラは思い切って話しかけた。


「アキムさん、どこかに行くの?」


「呼び戻されたんだ。アキムは俺達と別行動でやることがあるから」


「そうなんだ……」


「そうだ。セラの本を預かっていいか? 俺達の”雇い主”はクレヴァ様だから、アキムが本人に届けてくれるよ」


「えー」


 訝しげな顔をしてユリシーズを見るセラに、オルガは仕方なさそうに笑って言った。


「セラ、彼の言っていることは本当だから大丈夫。もうダラムには行けないから、預けたほうがいいよ」


「どうして、オルガがそんなこと知ってるの?」


 髪を手で梳きながら「秘匿情報だからいえない」と笑うオルガに、セラは半目になってにじり寄った。


「受け取りのサインはどうするのよぉ」


「もらってる。はい」


 ユリシーズから渡されたものを見ると、流麗な文字で『お願いしていた本、どうもありがとう。感謝をこめて。クレヴァ・エーラース』と高級そうな飾り紙に書かれていた。印影までちゃんと押してある。どういうことなのだろう。セラの頭の中には「偽造サイン」という言葉が浮かんだ。


「報告書で、セラの本のことを知らせたら寄越したんだ。代金は支払い済みだからアキムが持ってこいって」


「わかったわ。後で持ってく。あ、ねぇ、報告書に各地の名物料理を書いてるって本当? 私にも教えてよ」


「か、書いてねぇよ! 誰だそんなこと言ったの」


 何言ってんだコイツという顔のユリシーズに、セラはにこやかに尋ねた。


「ユリシーズ、貴方、北方に何しに来たの?」


「仕事で来た」


 怪訝な顔をしてつっけんどんに答えるユリシーズに、今度は小首を傾げてかわいらしく尋ねた。


「ご当地名物を食べるお仕事?」


「違う! 食い物から離れてくれ」


 ユリシーズはセラの発想の馬鹿馬鹿しさに、思わず頭を抱えた。この世の中のどこに、ご当地名物を食べて貴族に報告する簡単なお仕事があるというのだ。


「でも、報告書に晩御飯のことを書いてるって、リオンさんが」


「リオン! テメーこの野郎! 出て来い!」


 ぷはっと何かを吹くような音がして、セラとユリシーズがその音が聞こえたほうを振り返ると、そこにはお腹を抱えて、声を出さずに笑い転げるオルガの姿があった。


「うるさいよユーリ。ご近所迷惑だから、やめなさい」


 ちょっとだけ開いた寝室の扉からリオンの声がして、すぐにパタンと閉まった。


 両手で口を押さえて笑いをこらえるセラと、ますます笑いが止まらないオルガを見て、ユリシーズは長めの前髪をくしゃりと掻き揚げて苦笑した。セラとのしょうもない掛け合いのおかげで、落ち込んでいるのがバカらしくなってきた。


 連れの体調が優れないからと部屋に食事を持ってきてもらい、セラは明日に備えて早々に床についた。隣の寝台では、すでにオルガが寝息を立てている。長い睫毛を伏せて眠るその姿は健やかそうだ。穏やかな夜に安堵したように微笑んで、瞳を閉じた。






『ミツケタ……ミツケタ……』


 かすかす、と空気が漏れるようなしゃがれ声とともに、むうっと革が腐ったようなひどい臭いが近づいてきて、セラは一気に意識が覚醒した。瞳を開けると、顔を覗き込むようにしている濁った白い目と、ぐずぐずに崩れた顔を茶色く汚れた布で巻き、黒い布をすっぽり被った何者かが立っていた。にいい、とそれが笑うと、大きく裂けた喉元からかすかす、と音が漏れた。


「いやあああああ!」


 セラの悲鳴に隣の寝台で眠っていたオルガは飛び起きて、中指にはめている指輪に精神を集中させた。黄緑がかった淡い光が貴石に点る。スッと黒ずくめを指差し、集まってきた風の精霊達に『古き言葉』で命じた。


「吹き飛ばせ!」


 圧縮された空気の塊が、黒づくめの身体を壁へと叩きつけた。追撃をかけようと立ち上がろうとしたところで、足から力が抜ける。こんなときに霊力切れとは。簡単な精霊魔術しか使っていないのに、と歯噛みしたそのとき、扉を数度叩く音がして押し殺したユリシーズの声がした。


「悲鳴が聞こえたけど、何かあったのか?」


「ユリシーズ! セラが!」


 オルガの切羽詰った声に、肩で扉にぶつかるようにしてユリシーズが部屋に飛び込んできた。目の前の光景に一瞬驚いたものの、再び寝台の上のセラに覆いかぶさろうとしている黒づくめに駆け寄ると、横っ腹を思い切り蹴り飛ばした。もんどりうって転がった黒づくめは身軽に起き上がると、開け放っていた窓から飛び降りていった。続いて部屋に駆け込んできたリオンがそれを追いかけ、ヒラリと窓から飛び出していった。


「セラ、セラ! 大丈夫?!」


 半身を起こしたまま胸を押さえて、真っ青な顔でひく、と引きつるように息をする様子にオルガは取り乱した。そっとオルガの肩を押しやると、ユリシーズは寝台に手をついて、セラのなよやかな背をゆっくりと押すように擦った。


「セラ、ゆっくり息をしろ。もう大丈夫だから」


 耳に心地よい響きを残す低い声と、背中を優しく擦る大きな手の温もりのおかげで、セラは詰まっていた息がゆるゆると緩んでいくのを感じた。ゆっくりと深呼吸を何度か繰り返す。


「こ、わ、かった……」


「部屋を移るか? 俺の部屋を使えばいいから」


 気遣うような優しい声に、こくん、と頷くと、掛けていた掛け布ごと包まれて、壊れ物のようにそっと横抱きに抱えあげられた。セラの重みにびくともしない力強い腕と、頬に当たるシャツ越しの体温に胸がドキドキとして落ち着かない。さっきは恐ろしくて震えたけど、今度は別の意味で震えてしまいそうだった。大切なもののように扱われたおかげで、何だか恥ずかしくて、伏せた顔を上げることができなかった。


 ユリシーズは、腕のなかのセラの震えがおさまってきたのを、布越しに感じた。俯いているから顔色まではわからないが、この様子ならもう大丈夫そうだと、ホッと詰めていた息を吐いた。それにしても、さっきのあれは何だったのだろう。部屋で感じたあの嫌な臭いは、戦場で何度も嗅いだことのある死臭だった。

 つま先を合金で強化したブーツで、急所の肝臓を思い切り蹴り上げたのに、あんなに機敏に動けるのも何か変だ。普通の人間なら、激痛で動くことすらできないはず。

 モヤモヤと考え事をしながら突き当たりの部屋まで来ると、扉があちら側から開かれ、よろりと出てくる砂色の頭が見えた。だるそうに扉に寄りかかるようにしているアキムに、ユリシーズはきゅっと眉根を寄せた。


「大丈夫ですか……」


「お前が大丈夫か、だよ。休んどけって言ったろ」


「でも、悲鳴が……」


「いまリオンが賊を追ってる。あいつに任せとけ。ホラ、入った入った」


 ふらつくアキムに代わってオルガが扉を押さえて、セラを抱きかかえたユリシーズを通した。オルガは足元の覚束ないアキムを支えて、とりあえず二人掛けのソファに座らせた。ユリシーズはそのまま真っ直ぐ主寝室に向かい、セラを片腕で抱えなおして扉を開けると、大人が三人は眠れそうな寝台にそっとセラを降ろした。


「オルガを呼んでくる。二人は今晩ここで休め」


「で、でも、それじゃ。ユリシーズはどこで寝るの?」


 シーツに巻かれたまままだ青い顔でこちらを見上げるセラに、ユリシーズは困ったように笑うと、屈んで目線を合わせた。


「俺はどこでも寝れるから、心配いらない。明日も朝早いんだから、ちゃんと寝ろよ。目を瞑るだけでも、だいぶ違うから」


 そう言ってスッと離れていくその気配に、何だか寂しい気がして、セラは思わずその真っ直ぐ伸びた背に声を掛けた。


「あの、ユリシーズ」


「ん?」


「ありがとう」


「うん。おやすみ、セラ」


 力なく笑うセラに、目を細めて笑いかけてからユリシーズは静かに扉を閉めた。ソファにぐったりともたれるアキムを心配そうに覗き込んでいたオルガが、こちらの気配に振り向いて顔をあげた。


「オルガ、今日はセラとこっちの寝室で休め。不安がってるから、一緒にいてやれよ」


「わかった……どうもありがとう。感謝する」


 物憂げな表情を浮かべていたオルガは、ユリシーズの心遣いに少しだけ口元を緩めた。純粋にこちらを気遣ってくれる、その気持ちが嬉しかった。


呟くように「おやすみなさい」を言って、オルガが寝室に消えると、アキムがだるそうに顔を上げた。


「ユーリ、貴方も休まないと。昨日も一昨日も、ちゃんと寝台で眠っていないでしょう」


「アキムがちゃんと寝てくれたら、俺も寝るよ」


 ふくれっ面でアキムを無理やり立たせると、ズルズルと引き摺るようにして副寝室のほうへと連れて行く。「俺のことはいいんです」とか何とか呟いていたが、何も聞こえなかったように扉を開け、アキムを寝かせていた寝台に押しやった。


「朝飯食べたらすぐ出るんだろ。ちゃんと寝なきゃいけないのは、アキムのほうだ」


 悪戯っ子のような顔をして笑うユリシーズに、アキムは仕方なさそうに微笑んだ。一度こうと決めたら、余程のことがない限り折れないので、おとなしく横になる。ユリシーズはその様子に満足そうに笑うと、扉をそっと閉めた。


 数分もしないうちに、わけがわからないといった表情を浮かべたリオンが戻ってきた。


「早かったな。捕まえたのか?」


「撒かれた」


 リオンは悔しそうに顔を歪めて、椅子に放っていたタオルで、頭をがしがしと拭く。セラの悲鳴を聞いて、風呂の途中で飛び出していったので、髪からまだ水が滴り落ちてきて不快だった。


「リオンが? ウソだろ?」


「気配が追えなかった。騒ぎに気づいた夜警中の私兵も付近を探してくれてるけど、あれは見つからないだろうね」


「さっき、死臭がしたよな」


「したね……こっちにきて早々におかしな噂を聞いたけど、奴がそれかもな」


死人兵しびとへいか」


「気配がないのも当然だよ。だって、死んでるんだから」


 苦々しく言い捨てるとククリをテーブルの上に置いた。ごとりと重たい音を立てる黒光りする柄が、ランプの光をぬるりと弾いた。


「嫌な感じがする。早いところセラ達を精霊騎士団領に送り届けて、俺達もルガランドに急ごう」


 腕を組みながら主寝室のほうを見て、ユリシーズも険しい顔になった。当初とかなり事情が変わってきてしまったので、なかなか予測どおりにことが運ばない。亜生物に死人兵。どちらも二人だけじゃ荷が重い。早いところ仲間と合流する必要があった。


「了解。とりあえずユーリは寝なさい。俺は最短距離の行程を考えるお仕事があるから」


 穏やかに笑い、リオンはランプを持って立ち上がった。


「わかった。途中で交替だからな、ちゃんと起こせよ?」


「はいはい。おやすみー」


 二人掛けのソファに長い足を投げ出すようにして、ユリシーズは横になった。神経が昂ぶっていて眠れそうにないが、とりあえず瞳を閉じた。窓際に移動したリオンが、ランプの光源で地図に何かを書き込む音がする。さらさらというその音を子守唄代わりに、徐々に眠りの淵へと落ちていった。



 翌朝。

 

 セラはオルガに手を繋いでもらって眠ったおかげで、穏やかな朝を迎えた。優しく揺り起こされて「部屋に戻ろう」というオルガに従って、包まれてきたシーツを外套のように身体に巻きつけ、そぉっと主寝室から出た。扉のすぐそばにある窓のところで、壁にもたれるようにして眠る黒髪の頭が目に入った。傍らには数枚の地図と、芯の丸まった鉛筆が転がっている。

 部屋の中ほどに置かれていた二人掛けのソファから、黒革の長靴を履いた足がはみ出していた。そこでは黒い外套を上に掛けたユリシーズが眠っていた。規則正しい寝息が聞こえてくる。瞳を閉じると険が消えて、意外とあどけない寝顔をしていた。セラは「あらまぁかわいい」と思いながら、起こさないように静かに歩いて、そっと扉を閉じた。


 紅茶色の髪をきっちりと編んで、すっかり身支度を整えると、セラは鞄から古書を取り出した。薄灰色のマントをばさりと羽織ったオルガは、セラがじっと古書を見て、何事か考えていることに気がついた。


「どうかした?」


「ううん、オルガはこの本の表紙、読める?」


「大神官が使う古語じゃない。読めないよ。私達精霊使いが使う『古き言葉』とは、別系統だし」


「あのね、ユリシーズはこの文字読めるみたいよ。目で追ってたもの」


「そうなんだ。そういうことも、あるかもね」


 スタスタと歩いて部屋を出て行くオルガに「朝食に遅れるよ」と言われて、慌ててセラも部屋を飛び出した。


「セラ」


 ユリシーズの声に振り返ると、朽ち葉色のズボンと白いシャツの上から深緑の上着を羽織ったユリシーズと、膝丈の濃紺の上着と細身の黒いズボンを身に着けた眠そうな顔のリオンと、黒い外套を纏い肩掛け鞄をかけた旅装姿のアキムが立っていた。


「本を持ってくるの忘れたろ」


「すっかり忘れてたの。ごめんなさい」


 恥ずかしそうに笑って、布で包まれた本をアキムに手渡した。


「確かに、お預かりしました」


 花が綻ぶようにふわりと優しく笑うアキムに、セラはちょっとくすぐったいような顔をして笑った。


「よろしくお願いします」


 ユリシーズとリオンは顔を見合わせて、ほのぼのとした安心感から笑みを浮かべる。


「じゃ、またあとでな」


 笑って階段のほうへと歩いていくユリシーズ達に、セラはオルガの手を引きながら慌てて駆け寄った。


「待って、私達もお見送りする。ね、オルガ」


「うん」


 皆で抑えた声で談笑しながら玄関を開くと、ルズベリーの私兵が荷物を乗せた白い馬を引いて待っていた。どうやらアキムがここまで乗ってきた馬らしい。煌びやかな外見が、白い馬が必要以上によく似合っていた。身軽に鞍に跨ると、アキムは外套の頭巾を被った。


「先にルガランドで待っていますね。忘れずに報告書を送ってください。それから……」


「わかってる。生存報告だと思って、忘れずに送るよ」


 ユリシーズは決まりの悪そうな顔をして、馬上のアキムを見上げた。横に立つリオンも気まずげな顔をしてそっぽを向いた。


「リオン。合流したら皆が話があると言っていたから、今から言い訳を考えておくんだな」


 ざまあみろとでも言いたそうな口調で話すアキムに、リオンは諦めのような境地だったが、黙っているのも癪だったので言い返した。


「俺に話なんかないよ。道中で大熊に食われないよう気をつけてね」


 アキムを乗せた馬は、かぽかぽと蹄の音をさせて、玄関前で立ってこちらを見ているセラ達のところに移動した。


「セラちゃん、オルガさん、お二人も道中、お気をつけて」


 アキムの穏やかな声に、セラも笑顔で応えた。もうこの声を聞くのも最後かと思うと寂しくなる。


「はい。アキムさんも、どうかお気をつけて」


「貴方に、母なる精霊の加護がありますように」


 セラとオルガに目元を優しく和ませて微笑むと、ユリシーズとリオンを見て頷き、アキムは馬の腹を軽く蹴った。嘶きとともに駆け出していく馬影を見送る。あっという間にその影は小さくなり、やがて見えなくなった。水平線の向こうまで見通せるほどの快晴は、何も阻むものがないように思えた。

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