4. 女は度胸
「おはようございます」
「おはようございます!」
忙しく動き回る給仕の娘と挨拶をかわし、セラはユリシーズに促されて昨日と同じ席に座った。数分も待たずに運ばれてきた朝食は、焼き立てのきつね色の丸パンと香茶、両面焼きの卵と茹でた腸詰に、滑らかな玉蜀黍のスープ。それと季節の果物がついていた。いつもの西方大陸風の朝ごはんだ。今日は黄色くて真ん丸の、ちょっと苦みのある柑橘が二つに切られて盛られていた。西方大陸に来て初めて食べたが、セラは結構この柑橘が気に入っている。お砂糖をかけてもいいし、そのまま食べてもさっぱりしていてとても美味しいのだ。
「母なる精霊様、今日も一日の糧をありがとうございます」
「いただきます」
真面目に食前の祈りを捧げるセラと、簡略化しすぎて「いただきます」のみになっているユリシーズ。忙しいから最後の言葉だけを言っていたのがすっかり癖になっているらしい。子どもの頃はきちんとお祈りしていたというし、これは今後のためにも矯正が必要かもしれない。子どもに悪い習慣が伝わるのは良くないことだ。
「ねぇユーリ。最近の食前のお祈り、ちょっと短すぎない?」
「ちゃんと母なる精霊に感謝はしてるよ」
「そうかもしれないけど。子どもの教育に良くないと思うの」
「ぶっ」
ユリシーズの蒼い瞳をじっと見ながらそういうと香茶を吹き出した。そして形の良い眉を寄せて考え込み始めた。気が早すぎるのかも知れないが、セラとしては大事なことなのだ。
「わ、悪かったよ。ちゃんとする」
「ふふっ」
「あらまぁ、何て初々しいのかしら。ずいぶんかわいらしいご夫婦ですこと。新婚さんなの?」
セラ達の会話をニコニコ笑顔で聞いていた初老の商人と、その奥様らしき二人が横から声をかけてきた。二人ともかなり仕立ての良い服を着ていて、上品な物腰で感じが良かった。
「実は、式はまだなんです。これから私の父の故郷を訪ねる所で」
「それはめでたい。お若い旦那さんは、その装備を見ると傭兵をされているのですかな?」
「廃業するところです。家業を継ぐので」
家業。本当に口の回る人だとセラはおかしくて口元が震えてしまう。商人はうんうん頷きながら奥様と笑いあった。
「それがいいと思いますよ。戦いのない世が一番ですからなぁ」
「本当ですね。俺も、そう思います」
心からの笑みを浮かべているユリシーズを見て、セラは今度は涙が出そうになった。両親を亡くし、子どもの頃から辛い思いばかりをして、黒騎士達を率いてずっと戦いの只中に身を置いてきたのだ。誰よりもそれを望んでいたのはユリシーズに他ならない。もう二度と命と引き換えに戦うようなことが起きないことを心から祈った。
「私達はトラウゼンへ布を売りに行くのだけど、どちらへ行かれるの?」
「フィア・シリス王国です」
ニコニコと笑顔がかわいらしい奥様の問いかけに、礼儀正しい好青年然とした様子でユリシーズが答える。この夫婦はどうやら布を扱っている商人で、入れ違いにトラウゼンに向かっているところらしい。
「ああ、いい時にいかれますな。セブラン殿下の立太子式があるから、今の王都は大変なお祭り騒ぎですよ」
「そうなんですか? 楽しみです!」
お祭り騒ぎと聞いてセラも満面の笑みを浮かべた。気の良い商人夫婦の世間話に付き合って、色々な情報を得ることができた。一部の風聞屋がセブラン王子の立太子式に出席する各諸侯を密着取材中であること。遷都の式典が年内にあると聞いて、西方大陸中で支配階級向けの布の価値が上がっているらしい。内心、セラは旅に出ていてよかったと胸をなで下ろした。こんな感じの良い商人の売り込みが来たら、買わずに帰すのが心苦しくなってしまいそうだ。
「そろそろ行こうか。夕方までにトラウゼンの関所まで行かないとな」
「ええ。だめねぇ私ったらついついおしゃべりがすぎて。お食事中だったのにごめんなさいね。お二人ともお幸せに。良い旅を」
「こちらこそ。とても素敵な朝食になりました。どうぞ道中、お気をつけて」
「良い旅を」
とても感じの良い商人夫婦を見送って、セラはすっかり冷めた香茶をこくりと飲んだ。ちゃんと周りからは「新婚さん」に見えているようで、思わずニンマリ笑みが浮かんだ。
「えへへ、かわいらしいお嫁さんですって」
「そこだけ抜き出すか。ま、否定はしないけど」
「否定しない? 私のこと、かわいいって思ってる? 全然言ってくれないけど」
「……早くそのパンを口に入れてもらえるかな?」
「黙れってことね。わかったわ」
あと一口分残っていたパンをぱくりと口に入れると、ユリシーズは通りかかった給仕の娘を呼んで香茶のおかわりを頼んでくれた。うまく誤魔化された気もするが、そういえばセラもユリシーズに「素敵」とか「かっこいい」とかあまり伝えていなかった。これはこちらから言えば自ずと口にするのでは。だけど機を見て言わないと「何が望みだ」などと怪しまれる。折に触れ言うようにしようと心に決めた。
「もういいな? ごちそう様だな?」
「んっ」
「よし」
セラが香茶を飲みほすのを見計らってから、ユリシーズが席を立って二人の荷物を持って歩き出した。裏の馬房に行くようで、セラもあわあわしながらその後について行く。宿の清算は昨夜の内に終わっていたのか、給仕していた娘が「ありがとうございました、良い旅を!」とセラ達を笑顔で見送ってくれた。それに笑いながら手を振って応えている間に、ユリシーズはとっとと裏口から外に出てしまったらしい。姿が見えなくなって本気で慌てて裏口を潜ると、馬番の青年に駄賃を渡しているところだった。
「置いてくなんてひどいわ」
「ゆっくりでいいのに」
屈んでルクバトの蹄鉄の調子を見ていたユリシーズが、顔を上げて瞳を和らげた。手早く荷物を括りつけ、馬体をパンと一つ叩いて「今日も頼むぞ」と声をかけるとルクバトが応じるように嘶いた。そのまま馬房を出て、人通りが少ない道を選びながら街中を進む。朝が早いせいか歩いている人は疎らで、大きな荷物を積んだ隊商が中部地帯へ続く方面に移動していく姿があった。
トラウゼンがある中部地帯を抜けると、大規模な港を有するフェアバンクス公爵領がある北西部、遷都予定地の東南部地帯がある。あの辺りは今、最も物資と人手が必要な所だ。あちこちから色々な人達が集まりつつあるというし、西方大陸平定は着々と進んでいる。父が、ユリシーズ達が切望していた平和がすぐそこにあると思うと純粋に嬉しかった。
気持ちのいい秋風に吹かれながら街の出口まで来ると、ユリシーズが腕を組みながらセラを見た。
「さて。どっちに乗る?」
「前にするわ」
「飛ばし過ぎないように頑張るよ」
セラの両腰を掴んで鞍に乗せると、後ろに軽々と跨った。背中に感じる気配が心強い。とんと寄りかかるとすぐ耳元で笑う声がした。
「俺を背もたれにするのはセラぐらいなもんだ」
「だって、すごく安心するんだもん」
「ったく……掴まってろよ」
腕の中に閉じ込める様に後ろから手が回された。セラも腕を伸ばして頼もしい腰回りに抱き着いた。余分なお肉の気配など微塵もないうえに、しっかり鍛えているせいか非常に固い感じがする。
「固いお腹ですこと」
「よく引き締まった立派な腹筋だろ。行くぞ」
「ひゃぁ!」
ぐん、と前に引っ張られる感じに驚いてしがみつくと、頭の上で含み笑いをする声がした。
「柔らかいお腹ですこと」
「失礼ね!」
「舌噛むぞ!」
笑いながら腹に拍車を当てる気配がして、一気に速度が上がった。蹄鉄の調子を見ていたのは初めから飛ばすつもりだったに違いない。セラは苦情を言う代わりに、ぎゅうっと抱き着く腕に力を込めた。
昼十二時を回った頃、いくつもの隊商や傭兵団の一団が休憩している広場に到着した。ここの休憩場も例にもれず休憩客を当て込んだ屋台がたくさん並んでいて、香ばしい匂いが漂ってくる。北方大陸ではこんなに屋台がたくさん出ている所には行ったことがなかったので、思わずキョロキョロとあたりを見回した。
「うわぁ、すごいね。あ、あれ美味しそう」
「はいはい。買ってやるから。フードをちゃんと被れよ」
「暑いわよぅ」
「いーから」
顔は笑っていたが声は真面目そのもので、セラは渋々ケープのフードを被った。確かに屋根のある東屋と木陰以外は日差しがきつそうだ。日焼けをさせたらブッ飛ばされると言っていたし、ちゃんと日よけしておくに越したことはない。馬番に馬を預けてから、ちょっとした市のようになっている休憩場を歩くことにした。珍しい屋台料理ばかりで目移りしてしまう。物販の類は一切なく、純粋に屋台飯村の体をなしていた。
いい加減お腹が空いたので、さっき見かけた「お米」と呼ばれている白い穀物を蒸したものの上に茹でた鶏肉がのった屋台飯と、おかずが足りないと文句を言うユリシーズのために串焼きの肉を買い、どこかに休める場所はないかとあたりを見回した。どの東屋も人がいっぱいで立って食べている人の姿ばかりだ。どうしようかと傍らを見上げると「こっちだ」と笑って歩き出した。
どこに行くんだろうと首を傾げながらついて行くと、混雑した広場から少し離れた所に小さな丸テーブルと丸太を切っただけの簡易な椅子が置いてあった。茂みと木陰のおかげで目立たないから、ここに休める場所があることに誰も気づいていないのだろう。
「ユーリってすごいね。座るところ、よく見つけたね」
「まぁな。冷めないうちに食おうぜ」
セラはお弁当を包んでいた紙のナプキンをサッとテーブルに広げて、手早く買ってきた料理を並べた。串焼きの肉からはふわっと香辛料の香りが漂い、鶏肉のごはんのお弁当を開けると、ほっかり炊けたお米の匂いとたっぷりの香味野菜が効いた蒸し鶏の食欲をそそる匂いが広がった。
「わー、美味しそう!」
「こういうのが好きなのか?」
「うん! お米の料理って珍しいじゃない?」
「そういやあんまり食べたことないや。東方風の料理は流行るべきだと思うぞ、俺は」
「豆醤使ってるからね」
「へへっ」
二人で食前の祈りを簡単に捧げてから昼食に手を付けた。鶏肉の茹で汁で炊かれたお米はびっくりするほどふっくらとしていて、とても良い出汁がしみていて美味しかった。刻んだ木の実入りの甘辛いタレが上にかかっている鶏肉も、匙で簡単に切れるほど柔らかい。散らしてある爽やかな風味の香草も良く合って、セラはほぼ無言で半分ほどを平らげた。
「私、このお料理すっごく気に入ったわ!」
「黙々と食ってたもんな」
「あ、串焼きのお肉、一個ちょうだい」
「一本食えばいいのに」
「食べきれないよ。この鶏肉のごはん大盛りだし。だけど残すという選択肢はないわ」
「仕方ないな」
皿の上で串を外して、わざわざ取りやすい様にしてくれたのを見て笑みが浮かぶ。細々と世話を焼かれるのは悪くない気分だ。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
「美味しい。このお肉、変わった香辛料の味がするね」
「シナモンに似てるやつな。何って言ったっけな。アキムがよくこの香辛料使うんだよな」
「ということは、この串焼きは南方風かぁ。ここの屋台って西方料理っぽいのが一つもなくて楽しいね」
「別の大陸から来た商人を当て込んでんだろ。今まではウィグリド帝国がおかしなことになってたから、商売ができる場が限られてたし」
「そっかぁ……。自由に交易ができるようになってよかった。そういえば帝国が閉鎖してた港って、いまどうなってるの? 誰も詳しく教えてくれないから気になってるんだけど」
「海賊とかのならず者を綺麗に片付けて整備中。年内には仮開港ってところだな。航路の点検もしないとだし」
「航路って、もう何十年も使ってなかったのよね。早く開港できるといいね。北方大陸との行き来がもっと楽にできるようになるし」
「うん。セラの友達も式に呼べるもんな。女官って休み取れるのか? 官吏って年中働いてる感じだけど」
「マルギットとイーダは情報部だから、先生と一緒に来れると思う。でも、マイラ達の都合がまだわからないの。あの子達は王宮勤めだし」
「俺からガルデニア王に言ってみようか? 話のわかる方だから休ませてくれるんじゃねーか?」
「えぇ?! 何て言うの?!」
「結婚式に出てほしいから休ませてあげてって」
「主張が真っ直ぐすぎるわ。こんな個人的なことに外交特権を行使したらダメでしょ」
「使えるものは全部使うのが俺の主義だ。セラの親友マイラさんの所属はどこだ?」
「典雅部。巫女様方のお衣裳を管理するところよ。エリナは民衆議会の秘書官で、カルロッテは財務院の下級官吏なの」
「へー。ちなみにセラはどこを希望してたんだ?」
「私ね、王宮図書館の司書官になりたかったんだ。本が好きだし、細かいお仕事得意だから」
「……それでうちの資料室の管理をすることになったのか。俺専属の秘書にしようと思ってたのに」
「ユーリが私に甘えるからそれはいけませんって、フレデリクと事務長が言ってたわ」
「ちっ。余計なことを」
「でも確かに皆の言う通りよ。公私混同は良くないわ。先月はユーリが安静にしてないとダメだったから、つきっきりでお手伝いしてたけど。お仕事では甘やかさないからね」
「俺の手伝い、もうしてくれないの?」
捨てられた子犬のような目でこちらを見るユリシーズに、セラはうっと言葉に詰まった。普段強気な人がこんな顔をすると放っておけない気になってしまう。
「資料室は団長のお部屋の斜向かいだし。どうしてもな時だけ、内緒でね」
「やった!」
してやられた感がしないでもないが、屈託のない少年のように笑う顔を見ると「ま、いっか」と思ってしまう。ずっと大人のような気がする時もあれば、年下のように感じる時もある。まだまだ知らない面があるような気がして、それをこれから知っていくのが楽しみのような少し怖いような、何とも言えない不思議な気持ちが胸のなかに浮き上がった。
「んん!」
せっかく恋する乙女の揺れる気持ちを味わっていたというのに、世話の焼ける恋人が串焼きのタレをズボンに零したおかげで、複雑な女心は霧散していった。
「仕方のない人ね。ごしごししたらダメよ、今拭いてあげるから」
「やべぇ。べたべたになるー」
「黒いズボンでよかったね、汚れが目立たなくて」
手巾を取り出して水筒の水を少し含ませると、セラはユリシーズのすぐそばに屈んで右太もも辺りを丁寧にポンポン叩いて汚れを吸い取らせた。すぐに薄緑の手巾に香ばしい感じの色が染み出てきて、うまく汚れが移し取れてセラはにっこりほほ笑んだ。
「ごめん」
「いいのよ。今日のお宿に着いたら洗濯しましょうね」
「手巾。それ自分で刺繍したやつだろ」
「これ? 平気よ。しみ抜きすればぁぁ?!」
突然ぎゅうっと抱き寄せられて、セラは思わず声が裏返った。人前で抱き着いたりするような人じゃないので、何が彼の琴線にふれたのかわからない。思わず周りを見回したが、目立たない場所だから誰も気に留めていないようだ。何となく腕の中にいる亜麻色の頭をよしよしと撫でてみる。こうしているとセラと年の変わらない青年なのだと改めて思う。十八歳で騎士団長になって、二十歳で領主になって。重責を担って騎士団を率いて戦い、領民を導いてきた。セラが友達と将来のことを夢見て楽しく過ごしている間も、恋に恋して大騒ぎしていた時も。ユリシーズが歩んできた厳しい道の辛さは彼自身にしかわからない。だけど寄り添うことはできる。それがセラのできることで、彼を『守ること』なのだ。すとんとそれが腑に落ちて、こんな簡単なことに今まで気がつかなかったのが可笑しかった。
「セラは俺を甘やかす天才だな。図に乗るからほどほどにしてくれ」
「ほどほどになんかしないわよ? 私はユーリの奥さんなんだから、甘えてもらわなくっちゃ困るわ」
「いいのかよ。世の奥さんって亭主の尻を叩くもんなんだろ? 既婚の連中がよくぼやいてる」
ため息をつきながら顔を起こして、笑っているセラと目が合うとバツが悪そうな顔でそっぽを向いた。耳が赤いのでこれは単に照れているだけだ。こういうところが「かわいい」のに、知らぬは本人ばかりなり、だ。
「私は叩かないわよ? その長い足に縋りついて、お願いだから休んでって言うことになりそうだもん」
「目に浮かぶぜ……」
「でしょ? さ、早く食べちゃいましょ。串焼きは串から外して食べてね」
「わかった」
素直に串焼きをばらして食べ始める姿が何だか可愛らしくてつい笑ってしまう。一緒にいればいるほどユリシーズのことが好きになっていく自分がいて、そんな自分のことが好きで仕方なかった。
明日は三日目。フィア・シリスの王都に入る手前の街で後続の皆と合流して、ギルドの支部で鍛冶師と会う手筈になっている。その後は王都に皆で移動して、ユリシーズと一緒に女王陛下と謁見して、公式行事の参加の打ち合わせをして、西方諸侯達と改めて顔合わせだ。やることは山積みで気は抜けないけれど、大好きな人のためになら頑張れる。物語は『恋が実ってめでたしめでたし』で終わるけれど、現実は実ってからが勝負。女は度胸なのだ。




