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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
北方大陸編
6/111

6. セラと麗しの精霊騎士

 鳥の声がする。

 日なたのにおいがする。

 ぬくぬくと身体を包む、暖かな毛布から出たくない。


 でもそろそろ起きないと、朝のお勤めが……。



「!」


 目を開けると、見たことのない木の天井があった。それに木の燃えるような煤けた匂いと、パンの焼けるような香ばしい香りがする。ここは一体どこだろうと、セラはぼんやりとあたりを見回した。


「目が覚めましたか?」


 掠れたような低い美声がして、セラは一気に覚醒した。そうだった。昨日は親切な「怪しいお兄さん達」に助けてもらって、ここで一晩過ごしたのだ。普段の自分だったら、絶対にルズベリーの私兵に保護してもらっただろうに、なぜ彼らと一緒に行動しようと思ったのだろう。そんなことを考えながら身体を起こすと、砂色の頭が、背中をこちらに向けていた。その手元はせわしく動いている。朝食の用意をしているのだろう。本当によく気のつく人だと、セラは思った。


「今のうちに顔を洗っておいで。寝起きの顔を見られるの、イヤでしょう?」


「は、はい」


 セラはアキムの気遣いにちょっと感動した。わざわざ二人を外に出してくれたのかと思うと、何だか申し訳ないような気がしたが、寝顔や寝起きを見られるのはお年頃の乙女としては絶対に避けたかった。本当に感謝しきりだ。


 そっと木の扉を開けると、木々のしっとりとした香りが満ちていた。夜が明けてまだ間もないのか、日の光は届かず、あたりはまだ薄い水色に染まっている。さくさくと草を踏みながら裏の揚水機に行くと、そこには誰もいなかった。

 蛇口からは細く水が滴って地面でトトトと軽い音を立てている。セラはそれを手ですくって口を漱いだ。喉を甘く滑り落ちていく、ひやりとした感触が心地よかった。それから手で掬って顔を軽く漱ぐ。手巾でぽんぽんと抑えながら顔を上げると、森のほうから明るい亜麻色の髪の青年が歩いてくるのが見えた。


「おはよう」


「おはよう。よく眠れたか?」


 人懐っこく笑うと、切れ上がり気味の瞳が柔らかく細められて、どちらかというと可愛らしい印象になる。その深い蒼の瞳は、明けたばかりの今の空のようだ。


「自分でもびっくりするぐらいぐっすりね。外套、どうもありがとう」


「それはよかった」


 ユリシーズは滴り落ちる水で軽く手を濯ぐと、揚水機のポンプをグッと上に上げた。滴っていた水がぴたりと止まったのを見て、セラは初めて水がわざと垂れるようになっていたことに気がついた。よく見ると所々錆が浮いている。セラの力では、こんなに錆びついたポンプを漕ぐのは無理だ。さりげない優しさに胸がきゅんとした。セラは手巾を折って、乾いた面を上にしてユリシーズに差し出した。


「はい、どうぞ」


 自然乾燥とばかりに手をピラピラ振っていたユリシーズは、差し出された薄桃色の手巾とセラを見て、ニッと笑ってから手巾を受け取った。


「ありがとう」


 軽く畳まれて返された手巾を見て、あれ? とセラは思った。ただの傭兵ではないと思っていたが、少しだけ彼のことがわかったかもしれない。この折り方は、騎士が胸のポケットに折りたたんで入れるチーフと同じ折り方だ。


「ユリシーズって、どこかに所属している騎士なんじゃない?」


「え、何で」


「手巾をこういう風に折るのって、騎士だけよ」


 折りたたまれた薄桃色の手巾をぴらぴらと振ると、ユリシーズは困ったように笑った。否定しないところをみると当たりなのだろう。


「とぼけた顔してるわりに、セラってけっこう鋭いな」


「と、とぼけた顔ですって?!」


「習慣って怖いな。気をつけよう」


 しみじみと頷きながらユリシーズは歩き出した。そろそろ朝ごはんが出来る頃だ。


「とぼけた顔って何よ、説明しなさいよ」


「めんどくさいからイヤだ」


 うまく興味の矛先を逸らせることができて、ユリシーズは口元を緩めた。チラッと肩越しに振り返ると、憤然やるかたないといった顔をしたセラがついてくる。よく食べ、よく笑い、よくつっかかり、今みたいに鋭いところを突いてくる。化け物を見ても臆して動けなくなるどころか、とんでもない道具で助力する。見ていて飽きないから、しばらく楽しい旅になりそうだ。



 二人が仲良く言いあいをしながら小屋へ入っていった後。反対側の小屋の裏から黒髪の頭がひょこ、と出た。


「ユーリも隅におけないねぇ」


 完全に出ていく機会を逸したリオンが、薪の束を片手にニヤニヤした顔で姿を現した。ユリシーズにも気取られないように完全に気配を立って、一部始終をそっと見守っていたのだ。見ていたことが知られたら「その緩みきったツラとイヤラシイ根性を矯正してやる」と、林檎を一瞬で粉砕するアキムに、顔を全力で鷲掴みされかねないので、リオンはこのことは自分だけの胸に秘めておこうと思った。弟分のためにも、自分のためにも。


「ルズベリーを北上して山沿いに進むと西北部に出るのか。通れる道があると思わなかった」


 焼きたての無発酵パンに柔らかく練られたバターを塗りながら、ユリシーズは自分の左側を見た。蜂蜜をたらしたパンを、ちまちまとちぎっては口に運ぶセラが頷いた。


「このあたりは住んでいる人以外はあまり通らないから、地図に載せてないんじゃないかしら。西北部方面は、西方大陸との玄関口になっているルガランド港があるから拓けてるの」


「そのルガランドを南下すると王国直轄地か。北回りで進むと、かなり早く着くんだな」


「他の大陸から来る人達は、みんな北回りから王都を目指すわよ。南部は山だらけだから迂回しなくちゃいけない場所ばっかりだし、王都まで行くなら『南大門みなみおおもん』を通って、スレア街道を行くしかないのよ。でも通行証がないと門を通れないから、通行証がなければ大回りして海沿いを進むしかないわね」


「そりゃ難儀だ。南部の人は王都に行くのも一苦労だね」


 珈琲のおかわりを自分で注ぎながら、リオンは地図を広げる。


「だから、このあたりは辺境って呼ばれてるの。住むにはいい所なのに」


「セラは何で、そんな面倒くさい行程を選んだんだよ。迂回しまくりなんだろ?」


 子どもの拳ほどの小さな赤い林檎をアキムから受け取ると、ユリシーズは「解せん」という顔で齧りついた。


「私はそのスレア街道から来たの。通行証があるから」


「ダラムまで行けたけど、そこで迷子になったんだな。普通にルガランドから出せばよかったのに」


 半目で唇を尖らせて「迷子はやめて」と抗議するセラに、三人は噴き出した。


「だって大港は通行税がものすごーく高いのよ。本一冊が銀貨三枚もするんだから。おまけに大陸一検閲が厳しくて、お手元に届くまでに三ヶ月くらいかかるし。こちらの事情で遅れるのは申し訳ないから、ダラムの交易所にしたの。あそこは先生の馴染みだから無理が利くし」


「検閲に三ヶ月? いったい何やってんだ?」


「検閲官が手分けして読むんじゃない? 北方大陸中から集めた本を全部順番に」


 遠い目になった二人は、ため息をついて食事を再開した。


「ルズベリーの北にある、ルトナークって街に精霊騎士団の詰め所があるね。それともダラムまで戻る?」


 胡坐をかいて床に広げた地図を眺めながらリオンが言うと、セラは目を丸くした。


「三人は西北部に用があるんでしょう? ダラムまで戻ってたら遠回りになっちゃう」


 浅く煎った豆の珈琲をユリシーズに渡しながら、アキムは困ったような顔でセラを見た。


「俺がルズベリーを出るとき、南部方面が封鎖されるって情報が入ってきていたよ。ダラム経由では帰れないかもしれない」


「えええええ!」


「どうした?」


「封鎖されちゃったら、通行証があっても通れない……」


 がっくりと項垂れてしまったセラを見て、三人は顔を見合わせた。女の子一人くらいなら何とかしてあげることは容易いが、王国軍が出張ってきているとすれば、少々骨の折れることになるかもしれない。北回りで騎士団領まで行くとしたら最低二週間はかかるだろう。


「スレア街道がある南部を封鎖ってことは、俺でも躊躇うような、この険しい山脈を越えて行くのかな?」


 リオンが床に広げた地図は北方大陸全土が載っていた。リオンが指差す南部地帯は、わずかに拓けた部分を除けば岩の山脈に囲まれている。『南大門』周辺の山々は間の詰まった等高線が幾重にもかかれており、それはそのまま険しさを象徴していた。王都側の山々と南部側の谷間を細く縫うように、スレア街道が頼りない線で引かれている。比較的低い山々を切り崩し、数十年かけて作られたこの道だけが、王都と南部地帯を繋ぐ唯一の道だった。


「北方大陸の山脈って大熊がウヨウヨいるんだろ。確実に食われるな。セラは柔らかそうだから、真っ先に」


「俺達は見るからに筋張っててマズそうだしね」


 二人の軽口にも反応せずにしょんぼりと俯いていたセラは顔を上げると、気遣わしげな顔をしているアキムを見た。


「アキムさん、ルズベリー周辺も封鎖されそうでしたか?」


「王国軍の兵士らしき人が来ていたから、封鎖だろうね。でも抜け道はあると思う。領主に事情を話せば、きっと力添えをしてくれますよ」


「……とにかく、ルズベリーまで行こう。そこで情報を集めてからじゃないと判断できない」


 地図を見ながら考え込んでいたユリシーズが、ぽつりと言った。


「了解」


 声をそろえて応じた二人は、それぞれ後片付けと準備に取り掛かった。ユリシーズは持っていたカップをアキムに渡すと、小屋を出て行った。セラも何か手伝おうかとまわりを見回したが、セラのできることは掃除くらいだ。ふぅ、と小さくため息をついて俯くと、カップのなかの自分が、情けない顔をしてこちらを見上げていた。ごくごくとそれを飲み干すと、アキムを手伝うために立ち上がった。


「今度は後ろ?」


「そう。手を離すなよ」


 ユリシーズの馬の荷物をアキムが乗ってきた馬に移したおかげで、鞍にだいぶ余裕がある。今度はユリシーズが先に乗り、アキムが「失礼」と一言断ってセラの両腰を持ちあげて、小さな子どもを抱えあげるようにして鞍に乗せてくれた。アキムが身体が冷えるといけないからと外套を膝に掛けてくれたので、裾が捲れる心配もない。本当はこうして跨って乗ってみたかったので、密かに嬉しかった。


「ユーリは馬術の腕がハンパなく上手いから、安心してね」


「ちゃんと腕を回して掴まらないと、落ちますよ」


 アキムの心配そうな声に、セラはおずおずとユリシーズの腰に手を回した。こんなに殿方に密着するのは子どもの頃を除けば初めてで、非常に落ち着かない心持がした。


「今日はけっこう飛ばすから、頑張れよ」


 身体の前に回した手の上に、暖かい大きな手がポンポンと置かれた。親しい友達のようなその仕草に、セラは安心感を覚えた。昨日会ったばかりなのに、最初は不審者だと思っていたのに、いまやすっかり頼りになる友達のように思える。


「昨日より? わ、わかったわ」


「よし、行くぞ!」


 ユリシーズの合図で、やや前方にリオン、斜め後ろにアキムという配置で、三頭の馬は走り出した。木々の間からようやく見えるようになった日の光に照らされ、土がむき出しになった街道を軽快に駆けていく。


 数刻が過ぎると湖が見えてきた。朝の光に照らされ、キラキラと水面が反射して綺麗だった。耳元で風がびゅうびゅうと音を立て、ぐいぐいと土を蹴る馬の躍動が伝わってくる。背中に当たる荷物のおかげで、思っていたほど揺れず、目の前にある深緑の広い背中のおかげで恐怖感もない。「怖いからおろして!」と昨日騒いだから、色々考えてくれたのかもしれない。その気遣いが嬉しかった。


「ユーリ! アキム! あの湖で休憩しよう!」


「わかった!」


「少し速度を落とせ、リオン! 馬が疲れてきてる!」


 ユリシーズの馬がときどき首を振って「休みたい」という仕草をしていたので、セラはちょっと心苦しかった。リオンとアキムの馬より、余分な人一人分の荷物を積んで、長い間駆け続けるのはきつそうだ。やや駆ける速度が落ちると、馬が嬉しげに大きく鼻息を立てた。ユリシーズが首を優しく叩いて宥めながら馬を進め、半時ほどで湖のほとりに着くと、三頭の馬は足を止めた。


 身軽に飛び降りたユリシーズは、アキムが鞍に乗せたときと同じように、セラの両腰をひょいと抱えてゆっくりと地面におろした。すぐ横にいたリオンは、何が嬉しいのかニヤニヤと笑っている。笑うリオンのその後ろから、褐色の大きな手が伸びてきて黒髪の頭をがしっと掴んだ。


「どうした? 顔がまた緩くなったか?」


「いやいやいや、なんでもない、なんでもないから!」


 呆れたような半目でこちらを見るユリシーズと、きょとんとした顔をしたセラに気づいて、アキムは掴んだリオンの頭を前後に数度振ってから手を離した。この程度で勘弁してやっている寛大さに、感謝してもらいたいくらいだ。フラフラと馬にすがりついて「俺にだけアキムがキツイ」と泣き言を言うリオンをすっぱり無視して、自分の馬に括りつけた布袋を外すと、アキムは笑顔で振り返った。


「二人とも、疲れたでしょう? 甘いものがありますよ」


 布袋から出てきたのは、北方大陸ではめったに手に入らないチョコレートだった。北方大陸は原料豆が育ち難い冷涼な気候なので、もっぱら西方大陸からの現物輸入に頼っている。王族ですら口にするのは月に数度という、贅沢な嗜好品なのだ。セラはキラキラと輝く瞳で、手の中のチョコレートを見て、アキムを見た。「どうぞ」と目元を和ませてくれたので、ぱき、と小気味良い音を立てて齧りつく。口の中に濃厚でとろけるような甘みと、ふわりとナッツの香りが広がった。カリっとした飴に包まれた木の実を、細かく砕いたものが混ぜられていて、風味も歯ごたえも軽妙でとても美味だった。こんなに美味しい高級品を気前良く分けてくれるなんて、なんて優しい人なんだろう。セラは心がほっこりと暖かくなった。

 セラの笑顔に一瞬だけ顔を見合わせて、三人は口元を緩めた。疲れた顔をしていたけど、甘いもので多少なりとも回復したようでホッとした。あっという間に食べ終わったユリシーズは、馬の手綱をひいて湖のほうに歩いていった。


「思ったより早く進めているから、あと二時間くらいで着くよ」


「本当?」


「うん。予定通り、昼にはルズベリーだよ」


 馬を手近な木に繋いで戻ってきたリオンが、笑顔で応じた。あと少しで到着なら頑張れそうだ。


「今のうちにレーレを呼んでおこう」


 アキムは思い出したように呟いた。合流したら報告しろと言われていたことを失念していた。これでは相棒と大して変わらんと、文句を言われてしまう。 


「ユーリがいるから、その辺にいるでしょ」


 リオンは胸元から小さな鳥笛を取り出して、軽く吹いた。


「レーレって、綺麗な灰色の小さい鷹でしょう? 伝書用の鷹って初めて見た」


「鷹ってあんまり人に慣れないもんね。レーレは森で落っこちてたのをユーリが拾って、親代わりに育てたんだ。伝書ゴッコで遊んでたら、本当にできるようになっちゃってさ」


「あの種類の鷹は行動範囲が広くて、帰巣本能が強いから、けっこう便利なんですよ」

 

 アキムの言うように、帰巣本能が強いから遠くに行っても戻ってこられるし、笛で呼ぶ訓練をすれば、伝書鳩よろしく行き来も出来る。人に育てられて、人によく慣れているから可能なのだろう。

 ものの数分で甲高い「ピィー!」という鷹の鳴く声が響いた。全員で空を仰ぐと、小さな黒い点がみるみる近づいてくる。ばさばさと翼が数度空を打ち、小さな鷹が湖のほとりに立つユリシーズの差し出した腕に舞い降りた。笛を吹いた人は「呼んだの、俺なのに」と、ぽつりと小さな声で呟いた。


「レーレ」


 ユリシーズの肩口に頭を擦り付けるようにして甘える姿は、猛禽類には見えない。昨日捕えられていた小屋で見たときも、リオンに良く慣れた様子だったが、今日はまるで別の鳥のように懐っこい。育てた人を親のように思っているに違いなかった。


「ちょうどよかった。これを持っていってもらおう」


 肩に止まらせて三人の所に戻ると、鞄から昨夜書き付けていた紙を取り出し、小さく折りたたんでレーレの足にある金属の筒に入れた。レーレは蓋を閉めようとするユリシーズの手を、何度も甘噛みして邪魔をした。


「こら、おとなしくしろ」


 ユリシーズはレーレを小脇に抱え直してから、筒の蓋を閉めた。


「蓋を閉めたら、ユリシーズとしばらくお別れって、わかってるのね」


「セラちゃん、これ、あげてみな」


 リオンから胡桃をもらって、ユリシーズの腕に止まっているレーレに差し出した。くるんとした金色の目でセラを見て、差し出された胡桃を見て、首をかしげて「クァ」と甘えた声を立てると、鋭い嘴で摘んだ。前足で掴んでがじがじと嬉しそうに齧る。


「あーあ。セラを好物をくれる人と認識したぞ、こいつ」


「ダメなの?」


「あげるまで甘噛みされる」


「かわいいじゃない。私も鷹に懐かれたい」


「そう言ってられるのも、今のうちだ」


 腕に止まっているレーレをセラの肩に乗せると、ユリシーズはアキムに「さっきのやつ、もう一個くれ」とチョコレートをねだりに行ってしまった。鋭い爪の感触とともに、ずっしりとした重みが肩にかかる。見た目よりもけっこう重たいレーレが「クァ」とまた甘えた声をたてて、金色の目でセラをじっと見た。


「あんなに熱く見つめあっちゃって」


 リオンの笑い含みの声に、ユリシーズはニッと笑って「妬けるよな」と軽口を叩いた。アキムは困った子どもをみるような瞳でユリシーズとリオンを見てから、そーっと鷹の背中を触っているセラを見た。意外と柔らかな羽毛をしている猛禽と戯れて、多少は気が紛れてくれるといいのだが。


 くいくい、と編んだおさげをレーレが引いた。「何?」と鷹の小さな頭を撫でると、また「クァ」と鳴く。これはもしかして「もう一個くれ」と言いたいのではないのだろうか。さっき胡桃をあげた右手を、何度も何度も甘噛みする仕草はかわいらしいが、加わる力は全然かわいくない。だんだん痛みを感じるようになってきたので、どうにかしてほしくなってユリシーズのほうを見れば、チョコレートを頬張りながら「だから言ったろ」というような顔で笑っていた。


「レーレ、来い!」


 ユリシーズの声に、レーレがセラの肩から飛び立った。頬に風圧を感じて、とっさに目を瞑る。レーレは主の所へ嬉しげに羽ばたいて、再度右腕に止まった。ユリシーズは上着の内ポケットから、セラの小指の第一関節ほどの小さな金の笛を取り出し、軽く咥えてフッと息を吹き込んだ。何かが聞こえたような仕草をして、レーレは素早く飛び立つと、力強い羽ばたきでぐんぐんと上昇していった。


「俺達も行こう」


 四人は上空を一度旋回して、北の方角に向かった鳥の影を見送り、再びルズベリーへと出発した。





 太陽が真上にかかる頃。ようやく煉瓦造りの壁と、薄い緑の屋根をした屋敷が見えてきた。あれがルズベリーの城館だろう。門前に昨日見かけた軍服の姿が、数人見えた。


「開門! おつきになったぞ!」


 跳ね橋が降ろされて、その上を三頭が駆け抜けていく。門の前で馬を止めると、館から数人の男達が出てくるのが見えた。その中に、日の光を眩くはじく銀髪の人影があったので、セラは思わず叫んだ。


「オルガ!」


「セラ!!」


 人影も叫んで駆け寄ってきた。馬から降りようとジタバタしていると、素早く駆け寄ってきてくれたアキムが降ろしてくれた。礼もそこそこに、セラは駆け出した。


「本当にもう! こんなに心配させて!」


 しっかりと抱きしめる腕と少し震えるような優しい声に、涙が浮かんだ。セラがいなくなってから、ずっと心配してくれていたのだろう。こんなに切羽詰った姿は、八歳の頃にセラが裏山の洞窟で迷子になって以来だ。


「ごめんなさい、ごめん、ごめんねオルガ……!」


 幼馴染が本当に近くにいたとは思わなかった。セラは嬉しさと申し訳なさがない交ぜになりながら、オルガにぎゅうっとしがみついた。ふんわりとした緑の香りがして、ようやく心の底から安堵することができた。


「どうしたの?」


「ユーリ?」


 リオンとアキムはチラッとユリシーズを見た。甘いと思って口に入れたものに味がなかった、というような微妙な顔をしていた。でもそれはほんの一瞬のことで、近寄ってきたルズベリーの私兵に馬を預けると、抱き合う二人のもとに歩いていった。リオンとアキムは、顔を見合わせて「気づいてるよね?」「たぶん」と口の動きだけで話しながら、ユリシーズの後に続いた。


 セラを大切なもののようにギュッと抱きしめている人物は、繊細そうな目鼻立ちの端正な顔に、すらりとした背。サラサラと肩のあたりで流れる銀髪。黒にも見える紫紺の軍服に、銀糸の刺繍の詰襟は『北方精霊騎士団』だ。つまり、セラを迎えに来た、麗しの騎士というわけだ。ユリシーズは初めて出会った精霊騎士が、セラの身内でよかったのか悪かったのか、よくわからなかった。


「よかったな、お迎えが来てて」


「ユリシーズ!」


 背後からかけられた声に、セラは振り返った。蒼い瞳を細めたユリシーズがいつものようにニッと笑っていた。セラもつられて笑顔になると、オルガを振り返った。


「オルガ、この方達に助けてもらったの」


「早く言いなさい、そういう大事な事は。この子が本当にお世話になりました。私からも礼を言います。本当にありがとうございました」


 ユリシーズの目の前で、深々と銀色の頭が下げられた。肩から一房はらりと銀糸が滑っていく。気位の高い騎士なら、見ず知らずの傭兵に頭を下げることなど絶対にしない。大切な者のために潔く頭を下げられる奴は、嫌いじゃなかった。


「どういたしまして。セラ、無事に会えてよかったな」


「本当にありがとう、ユリシーズ」


 無事を喜んでいると、私兵たちを従えた三十代後半くらいの男性がやってきて、深々と一礼した。品の良い身なりをしているので、彼がルズベリー領主だろう。


「オルガ様、よかったですね」


「はい。世話を掛けました」


 おそらく私兵を手配したり、付近を捜索してくれていたのだろう。世話をかけどおしで、セラも深々とルズベリー領主に頭を下げた。


「とんでもないことでございます。娘を助けてくださって、感謝するのは私のほうです。皆様お疲れでしょう、どうぞ館にいらしてください」


 ルズベリー領主の勧めにしたがい、全員で館へと歩き出した。領主の後をセラとオルガが、その後ろをユリシーズがリオンとアキムを従者のように従えて歩いていく。視界に嫌でも入ってくる仲睦まじい二人の姿に、すぐ目の前を歩く深緑の背が何を考えているのかと思うと、リオンは何ともいえない気持ちになった。あれはいろんな意味で目の毒だ。


「セラ!」


 水色のふわっとしたワンピースを着て、両手首に真っ白な包帯を巻いたパルヴィが、玄関正面の階段から駆け下りてきた。


「パルヴィ姫、本当にご無事でよかったですね」


「姫だなんてやめてちょうだい。私、セラのことお友達のように思っているのに」


「もったいないお言葉です」


 オルガにふわりと微笑まれて、パルヴィは鼻血を噴きそうなほど顔を赤くして俯いた。オルガにエスコートされて階段を登るその顔は、幸せそうに卒倒する寸前で、そのまま茹だってしまうのではないかと思われた。そんな二人の後から、セラがニコニコ笑いながらついていく。さらにその後ろを傭兵三人組が続いた。「何だろう、この微妙な気持ち」と、三者三様に思いながら。


「この家、断絶しちゃうんじゃない?」


「思ってても口に出すな」


 前を歩くユリシーズが、リオンの小さな呟きに間髪いれずに小声で突っ込んだ。アキムは何も言うまいというように首を振る。


「だって女の子が好きって、そんな不毛なこと」


「不毛なことばっかり考えてるお前が言うな」


 アキムの呆れた声に、リオンはヘラヘラと笑って流す。


「女の子?」


 ぴた、とユリシーズの足が止まった。


「誰が?」


 振り返ったその顔は「冗談も大概にしろ」とでも言いたげだった。


「オルガちゃん」


「歩き方が女性でしたよ」


「は?」


 ユリシーズは眉を寄せて、二人の言うことを反芻した。オルガの歩き方が女性だった? 武道をやっている者独特の、腰が据わった歩き方をしていたが、そういわれて見れば、足の運びが左右揃っていたような気がする。


「軍服だから身体の線がよくわかんないけど、女の子だよ」


「お前はどこを見ているんだ」


 アキムは射殺しそうな瞳で傍らの黒髪頭を睨みつけてから、モヤモヤした顔をしているユリシーズを見た。またリオンの冗談ではないかと、完全に疑ってかかっている顔をしている。非常に正しい認識方法なので、あえて否定はしないでおいた。


「綺麗な顔の男にしか見えなかったぞ……」


 ユリシーズは信じられない、といった風情で呟いた。サラサラの銀髪と、硝子のような薄い緑の瞳に硬質な印象を受けたせいだろうか。セラとの間に漂う雰囲気は長く一緒にいる者同士の仲睦まじさが、まるで恋人同士に見えたせいだろうか。

 オルガが女性と知って、何となく安心感を覚えるのはなぜだろう、とユリシーズは不思議に思った。


「軍服だからじゃないの?」


「また、そういう適当なことを言うんじゃない」


 ふわりふわりと毛足の長い絨毯を踏む気配とともに、胸までの赤茶のおさげ髪を揺らしながら、渦中の人がやってきた。階段の途中で微妙な顔をして立っている三人を見て、不思議そうな顔をした。


「皆、何してるの? お茶が入りましたよ」


「いま行く」


 セラの声に、ユリシーズは瞳を細めた。小屋を出てから、何だか浮かない顔をしていたので密かに心配していたのだが、今のセラは身内と会えたおかげか、穏やかな明るい顔をしていた。セラは笑っていたほうがいい。


 どうやらこの子のことがかなり気に入ったらしい。オルガを恋人かと思って、多少なりとも動揺するくらいには。セラとの旅がここまでかもしれないと、寂しく思う程に。先導するように廊下を歩くしなやかな背中と、その背で楽しげに揺れる赤茶のおさげを見ながら、ユリシーズは心の中で一人ごちた。

銀貨1枚=銅貨30枚


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