1. 奥方様(仮)のおつかい
『四英雄編』を始めます。
帝都での二度目の『大戦役』が解放軍の勝利で終わり、あれからふた月半が過ぎた。
四年もの間、生死がわからないままだった黒騎士達がようやく帰還し、彼らへの手向けに領館は半旗を掲げた。
セラもクレヴァの厚意で、エーラース領にひっそりと佇む父の墓所に持ち帰った遺灰を納めた。トラウゼンはしばらく喪に伏していたが、少しずつ日常を取り戻していた。
「おつかい?」
「左様。ユーリとセラは、セブラン殿下の立太子式に呼ばれておるだろう。帰りに王都の菓子店で、エステルに菓子を頼む。これが店の名前だ」
「俺、西部を回ってから行くつもりなんだけど」
「それなら帰りを西回りにすれば良い。リオン達もフィア・シリスで合流すると言っておるし」
横でやいのやいの言い合う爺孫をよそに、セラはしげしげと渡された綺麗なお店のカードを眺めた。どうやら王都では老舗の素敵な焼き菓子屋さんのようだ。もしかしたら、思い出のお菓子なのかもしれない。達筆な手蹟で「杏、葡萄、胡桃、それぞれの焼き菓子。お駄賃で好きなものを買いなさい」と記してあった。渡された透かし紙の封筒には、どう考えても金貨としか思えない色が透けて見える。金貨一枚でどれだけの菓子を買えばいいのやら。思わずセラは遠い目になった。ハッと気を取り直すと、大事なことを確認するために義理の祖父とユリシーズを交互に見た。
「ユーリと私とで、二人だけで行くの?」
「うむ。セブラン殿下がお忍びでここに来た道から行くといい。子どもが一人歩きできるほど安全だからな」
医師が「復帰して良し」と判断してからユリシーズは再び領館に詰め通しで、この一週間はほとんど顔も合わせていないし、ろくに話もしていない。手伝いにいっても追い返されるし、本当に愛されてるのかと疑問を感じていたところだ。
二人だけ。ゆっくり顔を見て話せるどころか、朝起きて夜寝るまで一緒にいられる。大好きな人を独り占めできる。そう考えると飛び跳ねて喜びたくなった。
「でも俺『銘なし』の鑑定をサディクに頼みたいし」
「だ・ま・れ。お前、この一週間、セラの顔を見に来てもおらんだろうが。また以前のように領館に住みおってからに。あんなに喜んでいるのに、お前は無碍に却下するつもりか」
「嬉しいなぁ。何着て行こう」
「立太子式だったら、きっと舞踏会とかありますね」
「もちろんあるわよ。さっそく準備しなくてはね」
キャッキャと明るい声で騒ぐ婚約者殿とその侍女達の姿に、ユリシーズは唸った。ここで別々で行こうなどと言おうものなら集中砲火を浴びそうだ。休養していたせいで戦の事後処理や諸々の仕事が溜まりにたまっていて、それの目途がようやくついたと思ったら今度は立太子式だ。まったく休む暇がないと考え込んでいると、老いても力強い祖父の手が肩に置かれた。
「少し気分転換をしてこい。お前は本当に良くやっている。少しばかり休んだとて、誰も文句は言うまいよ」
「……わかったよ。休暇だと思って楽しんでくる」
「うむ。まだ本調子じゃないんだから静養だと思え」
「ユーリ、ユーリ、出発はいつ?」
「来週が立太子式だろ。どうせなら明日にして、観光がてらのんびり行こう」
「いいの?! わーい!」
「よかったですね、セラ様!」
「私とハンナは、ご衣裳もろもろを積んだ馬車で追いかけますね。あちらで合流しましょう」
「うん!」
お館様にかいぐりかいぐりと頭を撫でられる主人を微笑ましく眺めつつ、エマは横に立つ主君をチラリと見た。三回も手伝いに出向いたセラを追い返したあげく、顔すら見に来ない薄情さに呆れたが、彼なりに悩んでいたとアルノー達に聞いたので勘弁してさしあげるとして。問題は主君が大切な自分達の主人をどうやってフィア・シリス王国まで連れていくか、だ。
「ところでユーリ様、馬車を使われるんですか?」
「いや、馬で行くけど。アルタイルで」
「だ、ダメですよぅ、騎士団長でございますと言わんばかりじゃないですか。風聞屋に追いかけられますよ!」
ハンナが慌てて首を振る。エマも同意見だ。彼らはおめでたい話題に飢えている。長いこと戦乱の暗い話題ばかりを提供させられてきたこともあって、どこかの領主に子どもが産まれたと聞けば出向き、今年の麦の出来が最高だと聞けばこぞって書き立てる。まして『大戦役』で活躍したトラウゼン領主の婚約と挙式とくれば、書かないわけがない。
「あいつら今は旧帝都に集結してるぞ。クレヴァ様が大々的に都を移すと発表したからな」
「そうですか。それならいいんですけど。くれぐれもお気をつけて」
「わかってるって」
後発隊の選抜をするために領館に戻るユリシーズを見送って、セラは早速荷づくりを始めることにした。馬で行くようだから、荷物は必要最低限に絞らなければならない。見習い女官時代の「おつかい」を思い出して、少しだけ心が浮き立った。クローゼットの前で腕組をして皺になりにくく、かつ可愛く着易い服を選ぶ。最近はだいぶ風が涼しくなってきたから、あまり薄手だと寒い思いをするかもしれない。
「これと、あとこれ。ケープはどっちがいいと思う?」
「秋だし、こちらの深緑か、胡桃色がいいのでは?」
「それじゃ、胡桃色にするわ」
「ケープが胡桃色だから、お洋服はこちらの淡い花色にしませんか?」
「エマさんがそれなら、私はこちらのかわいい杏色のコルセを推します!」
二人が手にした洋服は、どちらもセラの好みの意匠だった。淡い花色は襟の細かい刺繍が素敵で、すとんと落ちる布の感じと、踝まである丈が大人っぽい。ぽわっと暖かみのある杏色のコルセはゆったりした七分袖と脛の半ばまである型で、これはブーツと合わせるときっとかわいいはずだ。
「見たことないお洋服ね。私こういうの持ってたっけ?」
「ティアナさんからのお餞別ですよ。明後日こちらを発たれるそうで」
「えー! 急すぎる!」
「特需で旦那様のお仕事が立て込んできていて、ティアナさんに泣きついたそうですよ。戻ってきてくれって」
「それなら仕方ないか……」
「そんなにしょげないでくださいな。レーヴェ家はお得意様だからまた来られるそうですよ」
「やり手の女商人と化したティアナさんは、容赦なく騎士団幹部にも事務頭にも商売してましたもんね」
「かっこいい。そっか、西方大陸の女性の気風の良さは商売方面にいきてるのね」
「官吏はいないけど、職業婦人はすごく多いですね。大人しく家庭におさまっているのは上流階級の一部の奥様だけだし」
うんうんと頷くハンナに、エマも笑いながら肩を竦めた。西方大陸では女性も働くのが当たり前で、それが普通なのだと思っていた。
「言われてみないと気づきませんわね。当たり前だと思っていました」
三人で楽しく衣裳を選び、持っていく装身具を選び、気が付くとお茶の時間になっていた。頑なに「主とお茶を飲むだなんて」と遠慮をしまくる二人を座らせて、今度はおしゃべりに花を咲かせる。何だかんだ言ってもお年頃なので、自然と話は恋愛方面へ傾いていった。
「そういえばー、この間、アルノーさん宛てに、セラ様と同じ封筒のお手紙が来てましたよ」
「どれ? 卵色のはマイラからで、エリナのは桃色で、カルロッテのは薄い緑だけど? マルギットとイーダが独身の殿方にお手紙を出すのはありえないし。ちなみに二人のは萌黄色と赤ね」
「あ、マイラさんからのです。何だと思います?」
「文通でもしてるのかしら。北方大陸にいた時に何度かお話してたのは見たけど」
「お礼状じゃないですか? 噂の恋物語をお送りして差し上げたから」
「それかも。あの子、泣いて喜んだみたいよ。このお手紙に、お話について熱く語った便箋が十枚も入ってた」
「それはそれは」
「東部地帯の港が再開されたら、皆で一度こちらに来たいって書いてあったわ」
「わぁ! 良かったですね、セラ様!」
「本当に。一度皆様にお会いしてみたいと思っていましたわ」
「楽しみにしてて!」
「そういえば、エマさんこそマルセルとどうなったんですか? 帰還した時何かもらってたみたいですけど」
「ハンナ」
セラは内心慌ててハンナを止めた。エマが将来を誓ったマルセルの兄ヴィルヘルムは、帝都で死人兵として現れてマルセル自身が討った、とアルノーから聞いている。対峙した時にマルセルは肩を射抜かれて、その矢にエマがお守りにあげた、はしばみ色の守り石のネックレスが絡まっていたらしい。
「あれは、ヴィルからの伝言、よ。私が彼にあげたものを返してもらっただけ。四年越しで振られてしまったわね」
「ごめんなさい。私達てっきり……。侍女仲間達みんな心配してます。いきなり髪を切っちゃうから修道院に行くのかって思ったし」
「ヴィルへの気持ちを整理するための決意表明だったんだけど、心配かけてしまってたのね。ごめんね、ハンナ」
セラは俯いたエマの黒髪にそっと触れて撫でた。泣いてもいいんだよ、という気持ちを込めて。すっかり沈み込んだ雰囲気をどうにかしたくて口を開いた。
「……エマは短いのも似合うわよね。美人さんだから」
「当て擦りですか、セラ様?! 私も同じような髪型なんですけど!」
ハンナもセラの意図をくみ取って、わざとおどけた調子で肩を越しそうになっている髪を掴んで答えた。こういう呼吸はすっかり長年の友人同然にできるようになった。三か月朝から晩まで一緒にいれば当然と言えば当然だろう。
「やーね、そんなこと言ってないでしょ。ハンナだって似合ってるわよ。元気者なハンナにぴったりでかわいい感じ」
クスクスと笑いながら、エマもハンナの柔らかい茶髪を指で梳いた。新しい奥方の侍女として館に上がるまで結わける長さだったのに、勿体ないことをしたものだ。
「伸ばせばいいのに。格闘術の邪魔だからって、ばっさり切ることないと思うわ。だからリオンにいじられるのよ」
「そうよ。女装した時のリオンと同じ髪型にすることないわ」
頷くセラにハンナは思わず立ち上がった。聞き捨てならないことを、たった今、大切な主人が言った。
「げげっ、そんなことまで! っていうか見たんですか、おししょーの女装姿を」
「うん、北方大陸で。最初会った時完全に女の子だと思ったわ」
「やだー、私絶対髪を伸ばします! おそろいだなんてごめんですぅ」
「アハハハハ!」
エマは涙を流し、かわいらしい丸机を叩いて爆笑している。泣いたり笑ったり、こうして発散するのも大切なことだ。溜めこんでしまうと気を病む。それに大事な友人でもある彼女には何とか乗り越えて、幸せになってほしい。きっと亡くなったエマの恋人も、幸せになってほしいと祈っているに違いないから。
夕食の時間になって、セラはダメもとで領館へと足を向けた。明後日帰ってしまうティアナとその夫デュランを迎えて夕食会をすることになったのだ。門衛に「お疲れさま」と声をかけ、トコトコと慣れた足取りで二階に向かった。ユリシーズの執務室の扉を軽くノックして、中からの応えを待つ。明かりがついているのに返事がない。扉に「入室不可」の札もないし、とりあえず「開けるね」と声をかけて、取っ手を引いた。
「なぁに、いるなら返事ぐらいしてくれてもいいじゃない」
こちらに背を向けたユリシーズが窓辺に立っていた。どうしてこちらを向いてくれないのか不思議だったが、とりあえず傍まで近づく。何となく雰囲気が違う気がする。確かに背格好も髪型もユリシーズなのに。
「何だかいつもと感じが違うけど、怒ってるの? 私、何か気に障る事しちゃった……?」
「ご、ごめん、セラちゃん……。お願い泣かないで俺ユーリにぶっとばされるから」
「え、その声、アルノー?」
「すごい。いつもと違うって、よくわかったね」
「アキムさんの変装技術、完璧なのに。さすがだ」
「あ、おい、ユーリはどうした? ま、まさか、備品室に閉じ込めたままか?!」
「てめーらああああ!」
ダカダカダカダカと荒い足音と、遠くからよく通る低音が近づいてくる。廊下にいたエーリヒとフーゴは、音の元が姿を現すと慌ててアルノーの執務室へ逃げ込んだ。
「よくも俺を閉じこめたな! どういう了見だコラァ!」
「影武者を立てるってお前が言い出したんだろぉ!」
「え、影武者? それでアルノーがユーリそっくりなの?」
びっくりした顔のセラの隣には、毎日鏡で見る姿が立っていた。確かに、風聞屋の目を誤魔化すために影武者を立てろと言った。正直ここまで似るとは思ってなかった。だが。
「セラで見分したのか! 許さん!」
「愛の力はすごいね! デイムってばすぐ見抜いたよ!」
逃げ回るマルセルをとっつかまえて、ユリシーズはがっちりと頭を掴んで思い切り頭突きをかます。ガツンと痛そうな音が執務室に響いた。
「ユーリ、それよりセラちゃんを慰めてあげてよ。君を怒らせたのかと思って、さっきまで泣きそうに」
慌ててユリシーズはセラの元に駆け寄った。確かにちょっと瞳が潤んでいる。抱き寄せてよしよしと頭を撫でてやる。ふと顔を上げると、亜麻色の髪に水色の垂れ目の青年が申し訳なさそうにこちらを見ていた。アルノーだとわかっていても怖いぐらい似ていた。
「うわ、鏡見てるみたいだな。俺、こんな目ぇ垂れてたっけ?」
「たれ目で悪かったな。これならユーリと直接会ったことない風聞屋は、あっさり騙されるだろ」
「二か所に団長がいたらおかしいもの、目くらましね。でも本当によく似てるわ」
「背丈は同じぐらいだけど、ユーリの方ががっちりしてるだろ。だから下に防具をつけてるんだ」
「お、ホントだ。防刃着を着こんでるんだな」
ユリシーズが拳でアルノーの胴を小突くと、ゴンゴンと硬質な音がした。鋼線を織り込んだ防刃着は丈夫で、薄刃の剣ぐらいなら簡単に防ぐらしい。セラは兄弟のようにそっくりな二人を交互に眺めた。さっきは暗かったから良く見えなかったが、こうして二人が並ぶと別人だとすぐにわかる。世界で一番大好きな人を一瞬でも「あれ?」と思うなんて、恋する乙女の名折れだ。
「はー。俺が言いだしっぺじゃないのにえらい目にあったぜ。言っとくけど、ユーリを備品室に閉じこめろっていったの、アキムさんだから!」
涙目のマルセルが執務室から飛び出して行く。その背に全然悪びれた様子もなく「ごめん」とおざなりに謝るユリシーズに、セラは思わず苦笑した。閉じ込められたわりには服は綺麗だし、廊下の奥から破壊音もしなかった。それが不思議だ。
「どうやって出て来たの?」
「備品室にあった道具で、錠前破りした」
「器用だね……」
「壊したら事務頭に怒られるだろうが。団長と言えども備品を壊したら給金からガッツリ引かれるんだよ。お前、俺よりベキベキ剣折ってるんだから良く知ってるだろ」
「ほ、ほっといてくれよ、俺だって好きで折ってるわけじゃないよ! 剣が勝手に折れるんだ」
「んなわけあるか」
「大変。もうこんな時間。さっきデュランさんが着いたから、お爺様が夕食会をするっておっしゃってるの。もちろん、アルノーも来てね」
「え、いいのかな」
「俺の乳兄弟なんだから当然だろ。今日の晩飯何かな」
「私も知らないの。楽しみね」
三人は仲良く家路へついた。アルノーは変装したままで。
「いやーびっくりしたわー。しばらく会わんうちに、ユリシーズ様が分裂したんかと思たわ」
「んなわけないだろ。影武者だよ」
「義兄さん面白いね」
「ハッハッハ!」
笑いすぎて葡萄酒で咽はじめた祖父を呆れたように見やって、ユリシーズも杯を空ける。デュランの持ってくる土産はいつも気が利いていて、今日の葡萄酒は南方大陸産、今年の初物だ。
「それにしても、ようやくセラフィナ様にも会えましたし。これで僕の面目も保たれます」
「ふふっ、デュランさんが贈ってくださったお菓子、美味しくいただきましたよ。父も喜んでいました」
「……それは何よりです。僕も、一度だけジュスト様にお会いしたことあるんですよ。本当に気さくな方で、僕みたいな子どもにも優しくしてくれはって」
「目に浮かぶようです」
妙な訛りのあるティアナの夫、デュラン・ベラルディは西方大陸どころか世界中をまたにかける大商人だ。豪商ベラルディ家の嫡男として自分の商会を一から立ち上げて、西方大陸を中心に手広く商いをしている。聞けばガルデニア王家とも付き合いがあると言うし、とんでもない人と縁ができたものだ。見た目はアキムのように褐色の肌で、心地よい低い声に、涼やかな目元とスッと通った鼻梁。何処からどう見ても美形だった。南方人は皆綺麗な人が多いのだろうか。
「ティアナもまた来てくれるんだろ? 事務方からいっぱい請求書が回って来たよ」
「あら、ホホホ。決済が早いのですね」
「ね、姉さん……」
「如才ないわね。頼もしいこと」
心底楽しそうに笑う義理の祖母を見て、セラも口元が緩んだ。四年前に亡くなった黒騎士達の死を心から悼み、ふさぎ込みがちだった祖母が笑っている姿を見ると嬉しくなる。
「ティアナも久しぶりの侍女仕事楽しかってんな。ごめんなあ、僕の力が足らへんばかりに早々に引き揚げさせてしもて」
「姉さん、侍女の仕事よりも販路拡大に精を出して……痛い!」
「お黙り」
向かいに座る姉に脛を蹴飛ばされて、アルノーは黙り込んだ。その様子を仕方ないなぁ、という顔でデュランは窘めた。
「弟をいじめたらあかんよ。そうや、アルノーは好きな子はおらへんの? 乳兄弟のユリシーズ様が結婚間近やし、君にもええ話ないの?」
「えっ……」
「うわー顔真っ赤。いるなこれは。誰だよアルノー、俺に隠し事はなしだぞ。ガンガン飲んで口を軽くしろ。あいつらには黙っててやるから」
「アルノーだってお年頃だもの。いて当然よ。もう、ユーリ、葡萄酒をそんな目いっぱい注いだらダメよ。グラスを持ったら零れちゃう」
「ど、どうするんだよこれ。ユーリのバカ野郎」
「そーっと持ち上げて、ぐいっといけよ」
「置いたまま口をつけたらよかろう」
「んま、お行儀が悪い!」
「アルノー、ちゃんと手で持ちなさい」
昔から頭が上がらない祖母同然の存在と、この世の誰よりも恐れる姉の物言いに、アルノーは苦肉の策でグラスを少しだけ持ち上げて、素早く口をつけることで切り抜けた。かつての悪戯小僧達のすることに食卓は明るい笑いに包まれる。セラはアルノーの好きな人について心当たりがあったが、ユリシーズの悪戯に便乗して素知らぬ顔を通した。今はまだ、そっと見守るべきだと思った。
楽しい夕食を終えると、アルノーは姉夫妻を連れて自分の屋敷へ帰って行った。三人の姿が見えなくなるまで見送ると、ユリシーズがセラを後ろからギュッと抱きしめてきた。肩に顎を乗せて不敵な笑い声が耳元のすぐそばで聞こえる。息が耳にこそばゆかった。
「セラさ、本当は知ってるんだろ。奴の好きな子のこと」
「知らないわよ?」
「俺の目を見て言ってみろ」
「言わないもんね」
「何だとー」
「私の盛大な勘違いだったら大変だもの。今は黙秘します」
「黙秘かよ。尋問していいか?」
「んもー、耳元で喋らないでよ。こそばゆいったらないわ」
「ほう。良いことを聞いた気がするな」
「うひゃ、耳を噛んだ!」
「色気のない奴だなぁ。明日寝坊すんなよ」
「しないわよ。ユーリこそ忘れ物しないでよね」
「するかよ。必要なら現地調達すりゃいいしな。おやすみ!」
「!」
素早くセラに口づけて、ユリシーズは領館の方へ戻っていく。執務室で見たアルノーの変装を見た後だから余計そう思うのかもしれないが、やっぱり全然違う。真っ直ぐに伸びた背も。ちょっと癖のある亜麻色の髪も。何よりもあの悪戯そうな蒼い瞳は間違えようがない。
かぷりと噛まれた耳を抑えながら、二度と最愛の人を見間違わないことをぽっかり浮かぶ月に誓った。




