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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
西方大陸編
52/111

27.  楔

 一路、トラウゼンへ。

 ユリシーズの号令で全員が騎乗し、第三師団の長ジェラルドを先頭に続々と出発していく。地を叩く蹄鉄の立てる音に驚いて、セラは握っていた手に思わず力が入った。


「セラも馬車に乗ってくれ。俺達が殿につくから」


「わかったわ」


 甲冑を着ているから、と笑って軽く腕だけで抱擁するとユリシーズはアルノー達の元へと駆けて行った。


「それでは参りましょうか。セラ様、こちらへ」


「そうね」


 エマと連れ立って馬車の所まで戻ってくると、マダム・アドリーヌ達と離宮にいた使用人が並んで待っていた。


「マダム・アドリーヌ! 皆さんも」


「いよいよお別れね、セラフィナ様。この二週間本当に楽しかったわ。わたくしが教えてきた令嬢のなかでも、貴女ほど短期間で目覚ましい進化をした人はいなくってよ。自信をお持ちなさい」


「はい、マダム・アドリーヌ。お身体に気を付けて。リンディアの皆さんにも短い間でしたがお世話になりました」


 ドレスを裾をつまんで、略式の淑女の礼で別れを言うと、侍女や侍従達も丁寧な礼を返してくれた。セラが顔を上げると、マダム・アドリーヌが呆れた顔でため息をついて、そして仕方なさそうに肩を竦めて笑った。


「下々に簡単に頭をさげるものではないと、何度教えても身に着かなかったわね。こればかりはご気性かしら。ジュスト様も皇帝一族らしからぬ気さくさでしたもの。最後は竜にお成りあそばされたんですって?」


「はい。さっきから頭上を行ったり来たりしてます。皆によろしく、と」


 セラの声に、その場にいた人々は頭上を仰いだ。くるうりと輪を描いて大きな翼の影が現れて、皆自然と笑みがこぼれた。元の姿を知る人々にしてみれば、自由すぎるその様子は変わりのないのだろう。マダム・アドリーヌは黒いレースの日傘をさし直しながら、セラへと手を伸ばした。


「あのお姿じゃ、セラフィナ様のお式は出れませんわね。招待客がみんな腰を抜かしあそばれるわ。さ、時間もないことだし、どうぞ馬車へ。次にお会いするのはお式の時ね。わたくしの教えを忘れずに、完璧な花嫁として励んでくださいませ」


「はい! またお会いしましょう、マダム・アドリーヌ。本当にありがとうございました」


「よくってよ」


 セラ達が世話になった人々に笑顔で別れを告げる様子に、ユリシーズ達は和みつつ出立の準備をしていた。馬で行くと聞かないリオンを「傷が開くから」と説得して、さらに女王陛下から頂いた高級葡萄酒を与えて何とか馬車に乗せた。


「セラちゃんって、周りとすぐ馴染むね。俺達とも何年も前からの友達みたいだし。子どもの頃から色んな所で奉公してたからかな」


「あんなに懐っこくて大丈夫なのかよ、ユーリ」


「ちょっと心配。知らない人に珍しいお菓子をあげるよ、って言ったらついて行ってしまいそうだ」


 アルノーとマルセルは思わずふき出した。容易に「えっ本当?」と喜色を浮かべる様子が脳裏に浮かぶ。さすがにそれはないだろう、と二人して否定した。


「誘拐はないにしてもさ、リオンさんのおかげで横恋慕する諸侯はだいぶ減ったよね。皆悔しそうにユーリが抜け駆けしたって文句たれてたしさ」


「あいつ、ああ見えて策士だからな。もう一本葡萄酒をあげてもよかったかな」


 ココンと馬車の窓を叩いてユリシーズは「いい仕事したな、リオン」と笑顔で側役を労った。いらんことをするなと怒ったことは、葡萄酒で水に流してもらおうと勝手に決めた。


「風聞屋、レーヴェ卿、旧エイル家の令嬢と婚約か?!って記事を出すみたいだぞ。セラちゃんの身元、母方の名前で流したんだな」


「もともと本人がそう名乗ってるしな。セラがジュスト様の娘ってことは公然の秘密ってやつで、約定を破ると闇に葬られるらしい。セラのことを最初に暴露した風聞屋、いなくなったからな」


「コワッ」


 仲良く震えあがる仲間達の肩をぽんぽんと叩いて、ユリシーズは馬上の人となった。



 セラが馬車に乗り込むと、松葉づえを両手で抱えたハンナがすでに乗り込んでいた。セラはエマに自分の横に並んで座る様に言うと、ハンナに愛用のクッションを手渡した。


「足を伸ばして、これにもたれてるといいわ。本当だったら病院の寝台の上で寝ててもらわないといけないんだから」


「い、いいんでしょうか……」


「セラ様のご厚意だから、そうさせていただきなさい」


「では遠慮なく。ありがとうございます、セラ様」


「よくってよ!」


「今日は北西部のルステルンという街で一泊の予定になるかと。解放軍の拠点の一つですわ」


 かくん、と軽い振動とともに馬車が動き出した。殿につくという言葉通り、ユリシーズとアキム、それにアルノーが率いる一番隊が馬車の前後左右についてくれた。空の上からかすかに鼻歌が聞こえてくるので、竜(父)も空から着いてきてくれているのだろう。彼らの存在がとても心強かった。


 一日目はルステルン、二日目はルンベルクと何事もなく進んで、ヴィルーズとトラウゼンへの街道が交差する辺りで遠征帰りのセルジュ達の一軍と行き会った。急遽自軍を率いてユリシーズの代わりに任務に就いてくれた彼ら友軍は、別の街道を通ってエーラースへ向かうという。途中まで道なりに進み、開けた草原に出るとそこで休憩を取ることになった。セラは馬車を降りて、談笑する両陣営の大将の所までトコトコと近づいた。すぐに気配に振り返ったユリシーズに手招きをされて、セルジュの前でドレスの端を摘まんで軽くお辞儀をした。


「お久しゅうございます、セルジュ様。この度はご迷惑をおかけしまして、大変申し訳なく思います。おかげさまで無事に戻ることができました」


「本当にご無事で何よりです、セラフィナ様。私達諸侯がその場にいたというのに危険な目に合わせてしまって……」


「二度目はないさ。セラに何かする前に奴を討ち取ればいいだけだしな」


「フッ、頼もしい言葉だ。クレヴァ様から伝令を受けたが、いよいよか」


「ああ。ようやく四年前の雪辱を果たせる」


「……あまり無茶をするなよ。お前は一人じゃないし、仲間がいる。何よりもお前のことを心底愛する人がいることを忘れるな」


「……わかってる」


「セラフィナ様、どうかこいつの楔になってください。一人で突っ走って行かないように」


「そうなれるよう、力を尽くします」


 ぎゅうっとユリシーズの手を握りしめながらそう伝えると、セルジュは鳶色の優しい瞳を和ませて頷いた。


「その分なら心配はいらないかな? では、また会おうユリシーズ。セラフィナ様もどうかお元気で。戦勝祝賀会でお会いしましょう」


「はい! セルジュ様もどうかお気をつけて。ご武運をお祈りしております」 


「道中気を付けて。セルジュ達が進軍する街道は帝国領が近いからな」


 わかっている、というように手を振りながら、セルジュは自軍の殿について行軍を開始した。彼らは帝国領がある東寄りの街道を通ってエーラース領へ向かうのだ。無事を祈りながらセラはヴィルーズ軍を見送った。それからの道中、セルジュのいっていた「楔」という意味についてセラは考えていた。今の自分は敵に攫われたり、体力がなくて行軍にもついていけない単なる足手まとい。ユリシーズにとって、本当に必要なのか。好きという気持ちだけで進んできて、実は迷惑ばかりかけているのでは。考えれば考えるほどわからなくなる。


「ね、眠れない……」


 セラはむくりと身体を起こすと、室内履きを履いてテラスへと近づいた。階下は深夜だというのに篝火が勢いよく焚かれ、不寝番の黒騎士達が何人も立っているのが見える。そこに亜麻色の髪が見えて、胸がトクリと音を立てた。

ただ守られているだけの自分。守りたいと思っているのに何もできないでいる自分。いつもそばにいてくれる最愛の人は、これから死と隣り合わせの戦場へ向かう。騎士だから。領主だから。そういった名分以外にも何か秘めている感じがして、セラは不安になる。セルジュの心配そうな表情、どこか思いつめたようなユリシーズの瞳。そして「雪辱を果たす」という、あの言葉。四年前の『大戦役』で何があったのか。初陣だった十六歳のユリシーズは戦場で何を見たのだろう。いつになく気になったが、触れてはいけない傷を抉るような真似はできなかった。



 翌朝になっても気分は晴れず、ぼーっとした顔で朝食の白パンにバターを塗っていると、向かいにオルガが座った。


「おはよう、セラ。あなた昨夜寝てないの? ひどい顔だけど」


「うーん。ちょっと色々思うところがあって。オルガ達ともうすぐお別れだし……」


「西方統一戦争に手出し無用とのお達しがあったけど、手助けはするなと言われてないからね。戦いの勝敗の行方がわかるまではいるよ。精霊殿側としてはさっさと火の巫女を連れて帰ってこい、っていうのが本音だと思うけど」


「ナンナ、元気かな」


「心配ないよ。ファンニはあれで面倒見がいいし、親衛隊の皆も気のいい人達だし。それにトラウゼンの人達が優しいからね」


「うん……」


「私達とはもうすぐお別れだけど、セラにはユリシーズもいるし、友達もできたでしょ。それに西方統一がなされたら、東部が解放される。船が出る様になったら皆で会いに来るから」


「うん。楽しみに待ってるね」


「あ、そうだ。これ読んだら元気出るかも」


「え、なにこれ。吟遊詩人の活版印刷……?」


「昨日、アルノーから貰ったんだ」


「名前が違うけど、これって、これって」


「素敵だよね。騎士と恋に落ちた迷子の侍女さんの話だって。これまだ続きがあるらしいから、アルノーに頼んで送ってもらう約束したんだ。あ、マイラ達へのお土産にするから返してね」


 オルガはわなわな震えるセラの手からするりと紙を抜き取ると、丁寧に折り畳んで上着の胸ポケットへとしまった。


「恥ずかしいぃぃぃ! ユーリは、ユーリは何て?」


「さぁ。知ってて何も言わないなら黙認してるんでしょ。話しの元はトラウゼンの領主様とその婚約者ですって、ここにちっちゃく書いてあるし」


「リオンの金貨はこの活版に使われたのね……西方大陸中に広まっちゃってるのかな」


「西方大陸中の夢見る乙女たちは素敵! って喜んでるよ。私、あんまりこういうの読まないけど面白かった」


 ニコニコしながら朝食に手を付け始めたオルガの前で、セラは頭を抱えて悶絶するしかなかった。



 夕方になり、ようやくトラウゼンへ到着した。道すがらトラウゼンの領民達の、黒騎士達の帰還を喜ぶ声がする。馬車が城下町に入ると一層声が高まった。領主のユリシーズが姿を現したからだろう。子どもたちの「ユリシーズ様、お帰りなさーい!」という大合唱を聞いて、セラは思わずふき出した。


「ユーリはすごく人気があるのね」


「若様だった時は、城下町で子どもたちに剣の稽古をつけていましたからね。きちんと視察をして領民達の様子を見るのも大事だからと。よく来ているから、遠征の度に皆大騒ぎですわ」


「城下町に来るの、半分はご自分の息抜きみたいですよ。酒場で若い衆と飲んでいる姿を兄がしょっちゅう見てましたから」


「息抜きは大事よ。根詰めすぎるのはよくないわ。視察、私も一緒に行った方がいいのよね?」


「もう少し情勢が落ち着いたら、きっとユリシーズ様があちこち連れて行ってくれますよ」


「城下の皆もセラ様に会いたがっていますよ。ちょっとだけ窓を開けて、手でも振ってみます?」


「うん!」


 少しだけ窓を開けると、塀の上に乗っかっていたやんちゃそうな男の子としっかり目が合った。


「あっ! セラ様だ!」


「噂の婚約者さんだよ! アンタ! 早く!」


「えっあの馬車にいるの? セラ様ー! お顔を見せてー!」


 面喰いながら手を振っている少女達に手を振り返す。何でこんな大歓迎? と思ったが、それもそのはず。噂だけが先行して、セラがなかなか姿を見せないから領民達は気になって仕方がなかったのだろう。黒騎士達の帰還に大騒ぎの城下町を抜けると、一気に静かになった。丘の上に建つ領館には明かりがいくつも灯っている。ここに来てまだそんなに経っていないのに「帰って来た」と思うのが不思議だった。


「お疲れさま、エマ、ハンナ。疲れたでしょ? 今日はここまででいいから、早く休んでね」


「セラもだろ。二人ともご苦労だった。ハンナはとりあえず医務室に行っとけ。まだ骨がくっついてないから、お前当分休みな」


「えええっ」


「心配しなくても給金はちゃんと出すから。ちゃんと治せよ」


「そういうことではなくっ」


 出迎えた事務方の長達と話しながらスタスタと歩いていくユリシーズを見送ると、セラはハンナの肩を「どうどう」と叩きながら、車いすを引いてきた白衣の医務官を手招きした。


「ユーリの言う通りよ。せめて骨がくっつくまできちんと休んで。お見舞いにいくね」


「セラ様、参りましょう。ハンナ、お大事にね」


「そんなぁ、私だけ除け者なんてイヤですぅ!」


 カラカラと車輪の回る音と「ハンナ殿。領館内はお静かに」と医務官の淡々とした声とともに、ハンナの「イヤですぅ」が、領館の廊下に木霊する。医務室に入ったのを見届けて、セラとエマは連れ立って『丘の館』へと戻ることにした。普段通り玄関のポーチは季節の花々が飾られていて心が和む。隣にいるエマも肩の力が抜けてホッとしているように見える。帰って来たという安心感は一緒なのだ。


「ただいま戻りました、おじい様、おばあ様」


「おかえり、セラ! 心配したのですよ。本当によかったわ……!」


 居間に行くと、待ち構えていた義理の祖母にぎゅっと抱きしめられて、セラは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。あの時はどうしようもなかったとはいえ、皆に心配をかけたのは事実。厳めしい顔の義理の祖父の前に行くと、深々と頭を下げた。


「おじい様、皆様にご心配をおかけして、本当に申し訳ございませんでした」


「うむ。皆を守るためにしたことだ。誰も責めまいよ。しかしだ。ユーリやわしらのように心を痛める者がいる、ということだけは忘れるな。ただでさえ短い寿命が縮まったからのぅ」


「ごめんなさい……」


「はい、この話はおしまいね。セラや、会合はどうだった?」


「うまくできました。ちゃんと私の思いを皆様に伝えられたと思います」


「会合でセラを見初めた諸侯達からわし宛に手紙が来たぞ。ユリシーズと本当に婚約してるのか、とな。後見人のわしとクレヴァ様の許しがあったら求婚したいとか」


「ええっ、断ってください。私はユーリのものですって」


「そう言うだろうと思って、丁寧なお断りをしておきましたよ。そろそろ正式にお知らせしましょうか。ユーリが出陣する前にでも」


「うむ。早い方がよかろう。もしかしたらセラを妻にできるんじゃないかと、変に期待をもたせるのもかわいそうだしな」


「こちらでの婚約ってどういう形でお披露目されるのですか?」


「北方大陸と同じだ。精霊殿に当人達の『結婚します』という宣誓文を書いておさめる。大昔わしとエステルもおさめにいったな。今は帝国の監視があるから、付き合いのある諸侯達に連名の手紙を出すだけだが」


「だまし討ちでしたけどね。花の綺麗な庭園があるからと行ってみたら、廃れた精霊殿で」


「そこでお二人だけで宣誓文をおさめたのですか? 素敵!」


「廃れてたのは見た目だけで、隠れて多くの人たちが訪れる精霊殿だったのよ。すぐにコンスタンス様のお耳にも入って、私は王宮女官を辞して、この人の所にお嫁に来たのですよ。花嫁にしては若くはなかったけれど、領民達から大歓迎されたわねぇ。今のセラよりも十は上だったかしら。三十路ではなかったと思うのだけど」


「おばあ様が晩婚だったなんて意外です。だっておじい様とお年を召しても睦まじいから、子どもの頃から仲良しなのかと」


「ほほほほほ」


「やめんかエステル」


 セラは朗らかに笑う二人を見ていると温かく幸せな気持ちになった。愛する人と花咲く精霊殿で二人だけで宣誓文を書く。素敵すぎて涙が出そうだ。同じようにはできないのが少し寂しい気がしたが、とうとう正式に婚約発表。内外ともに伴侶として認められることが純粋に嬉しかった。





「なぁに、これ?」


「婚約宣誓文。書けたら俺に渡してくれ」


「こ、こんなにいっぱいあるの?」


「百枚もないから頑張ってくれ。俺が出陣する前に出すそうだから、明後日までに」


「ユーリはもう書いたのね」


 セラは受け取った『婚約宣誓文』を書きかけの日記を閉じてその上に置いた。レーヴェ家の紋章が透かし彫りにされた美しい梳き紙は、よく見ると紋章は金粉で縁取られていて、思わず目を瞠った。どんな美辞麗句が、と思っていたがごくごく簡素に「下の両名、母なる精霊の名のもとに婚姻せしめる者なり。婚約期間は十一の月の末、吉日まで」と記してある。夫の欄には流麗な文字でユリシーズの名がすでに書かれていた。


「執務の合間に書き溜めてた。俺としては[『大戦役』から帰って来てからでいいかと思ってたけど」


「頑張るわ。疲れた顔してるけど、大丈夫? こんな遅くまでお仕事だったの?」


 つり目がちな目元がいつもより下がっていて、思わず綺麗なカーブを描く頬に手が伸びた。少しざらつく感触がくすぐったかった。


「遠征中のこととか、これからのこととか話し合ってた。山のような書類の決裁もあったし。俺の執務室、セラにせっかく片づけてもらったのに、だいぶ汚くなってた……」


「片づけに行くから、そんなしょんぼりした声出さないで」


「来週には出陣だから、できるだけ片づけておきたいんだ。悪いけどいない間、頼むな」


「こんなに早く『大戦役』が始まると思ってなかったから、火の精霊様の言ってたこと、全然できてないけど。大丈夫なのかな……」


「とりあえず神官兵が仕掛けは全部壊してくれたらしい。四英雄の武器っつってもな……簡単に持ってこれない宝剣じゃどうしようもないよ」


「私、何だか不安なの……」


 頬に置いた手を、そっとユリシーズの胸の上に添えた。シャツ越しの温もりが手の平に確かに伝わる。そうしていると目の前にいる恋人が失われてしまうような、言い様のない不安が薄れていく気がした。


「精霊騎士団の援軍が来てから、近く攻勢をかけるのは元々決まってたことだ。たまたま俺達だけが精霊の助言を受けれたんだ。無駄にはしないよ。そんな顔するな」


「クレヴァ様はご存じじゃないの?」


「お伝えしてない。戦局に影響するなら聞いてくださるかもしれないが、あの話は無理だ。聞いた俺達も荒唐無稽な話にしか思えなかったしな」


「そう……」


 俯くと温かな腕にそっと抱き竦められて、頬に大きな手がかかった。唇に息がかかる気配がしたので、そっと瞼を閉じる。少しかさついた唇の感触と、少し伸びた髭がこそばゆかった。


「何笑ってんだ……」


「だって。ユーリに髭があるなんて思ってなかったの。お肌が綺麗なんだもの」


「男なんだから肌が綺麗だろうが髭は生える」


「ん」


 両頬をしっかり包み込まれて、もう一度唇が合わさった。優しいキスが何度も落とされる。とん、と背中が机に当たる音がして、名残惜しそうに唇が離れていった。


「セラとキスするといつも甘い」


「み、蜜蝋。荒れ防止にいつもつけてるから……」


「それでか。んじゃ俺帰る。さすがに疲れた」


「気を付けてね。また明日」


「ん。おやすみ」


 燭台のあかりに照らされる蒼い瞳が甘やかに細められて、また胸がトクリと音を立てた。おやすみのキスを額に一つ落として去っていく広い背中を見送って、セラはお気に入りの机に寄りかかった。胸をきゅうきゅうと締め付ける愛しさが、セラの息を詰まらせる。ぽろりと涙が一つ零れていく。愛しい人をどうかお守りくださいと、セラはただ祈るしかなかった。

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