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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
北方大陸編
5/111

5. 精霊憑き

 落ち込みから浮上したセラは、お茶を飲みながら、これからのことを思案した。親切にも送ってくれると言ってくれているが、それにそのまま乗っかるつもりはなかった。さすがに知り合ってすぐの人に、騎士団領までの行程すべての旅費を出してもらうのは心苦しい。無理やり銅貨一枚で雇った傭兵とはいえ、経費は雇い主負担が一般的なのだ。雇用した傭兵に丸々全部乗っかる外道な雇い主など、聞いたことがない。


 とりあえず銀貨二枚でいけるところまでいって、騎士団が巡回する大き目の街まで行けば詰所があるので、そこで連絡を取る。ダラムに着いたら連絡をすると言ったきり行方不明になっているから、みんなきっと心配しているはずだ。まずは無事を知らせるのが先決だ。そして運よく幼馴染が近くにいてくれたら、カンカンに怒りつつも迎えに来てくれるはずだ。精霊騎士団の両替商に行けば、お金を引き出すこともできる。どこかの大きな町で、セラにかかった経費を清算すればいい。何とか目処がつきそうで、セラは三人に知られないように、そっと息をついた。


 一息ついたところで、セラ以外の三人は当初の予定、徹夜でルズベリーへ戻るかを話し合った。無事にパルヴィ姫をルズベリーの私兵たちに託したので、急いで帰らなくてもよくなったからだ。


「今から出れば夜明け前にはルズベリーだけど、どうする? ここで一晩休んでからにする?」


「明け方出て、昼頃に着けばいいさ。女の子に徹夜で乗馬は無茶すぎる」


「もう急ぐは必要なくなったし、俺も明け方出発でいいと思う。セラはそれでもいい?」


「う、うん」


「決まりだな。じゃ明け方ってことで」


 ユリシーズのきっぱりした声が、今後の予定を告げた。確認をとってくれたのは建前だろう。おそらく体力のないセラを気遣って、朝の出発にしてくれたに違いない。彼らにも予定があるだろうに、と申し訳ない気持ちになった。欝蒼とした森の中を真夜中に行くといわれたら生きた心地がしないので、本音を言えば助かった。たとえ腕の立つ彼らに守られていたとしても、カンテラの明かりだけでは恐ろしくて堪らない。


「ところでみんな、お腹すかない?」


 リオンがのんびりとした声を上げた。彼の心地よい優しげな声は場を和ませる。意識してか元からの性格なのかはわからないが、誰も口を開かない重苦しい状況が苦手なセラにしてみれば、非常にありがたい存在だ。本人は「怪しいお兄さん」だと自称しているけれど、結構まわりの空気を読む、気遣いの人なのだろう。


「言われてみれば、俺、昼に食ったきりだ」


「私も」


「でしょ。アキム、何かないの?」


「そう言うと思ってたから、用意してある」


 アキムは自分の鞄から水筒を三つ取り出してリオンに手渡すと、別にしていた布の袋から、いくつかの紙袋をひょいひょいと取り出していく。布袋から大判の白い布を広げると、その上で日持ちする固い皮の黒パン、塩漬けの薄切り燻製肉、角牛のチーズ(チーズ)を人数分にさっと切り分けていく。

 三つの水筒を器用に小脇に抱えたリオンと一緒に、ユリシーズも「荷物を取ってくる」とふらりと出て行ってしまったので、セラは手持ち無沙汰になった。あまりにもアキムの手際が良すぎて、手伝いを申し出るか迷うところなのだが、ただ横でボーっと眺めているというのも気詰まりだ。


「あの、何かお手伝いできることありますか?」


「助かりますね。それじゃ、お茶を淹れてもらえるかな?」


 にっこりと優しげに微笑まれて、顔に熱が集まった。その笑顔があまりにも眩しくて、目を瞑ったままセラはぶんぶんと頷いた。


「手を洗ってきます」


 目を瞑ったまま立ち上がって、入り口へと突進すると、ちょうど扉を開けて入ってきた誰かにぶつかった。慌てて目を開けると、きょとんとした顔のユリシーズが目の前にいた。


「ご、ごめんなさい」


「気をつけて」


 鼻を押さえてぴょこんと頭を下げると、ユリシーズは少し切れ上がった瞳を、柔らかく細めた。セラは恥ずかしさに追われる様に小屋から出て裏手に回ると、カンテラを片手に、かったるそうに水を汲んでいる小柄な背中が見えた。


「あーセラちゃん、いいところに」


「何?」


「これ、一個持っていってくれる? アキムが使うから」


 リオンはざーざーと勢いよく吹き出す蛇口から水を汲みながら、揚水機のそばに置いてある水筒を指差した。


「はい! あの、手を洗ってもいい?」


「どうぞ」


 場所を譲ってもらい、思わずぶるりとくる冷たい水で手を漱いだ。


「晩御飯なんだった?」


 水筒を小脇に抱えて手巾で手を拭っていると、屈んで水汲みを再開したリオンがのんきな声で振り返った。


「パンで燻製肉と炙ったチーズを挟んだもの、でした」


「そっかそっか。前に美味かったって、ユーリが報告書に書いてたからな」


 したり顔で頷くリオンに、セラは吹き出した。それじゃまるで食い道楽の紀行文だ。


「じゃ、私は先に戻ってるね」


「うん。暗いから足元に気をつけて」


 小屋に戻ると、燻製肉とチーズを串に刺して囲炉裏で炙るアキムと、胡坐をかいて薄手の本を台にして、紙に何かを書きつけているユリシーズの姿があった。炙られた燻製肉からは、非常に食欲をそそるジュウジュウという音がして、滲み出す脂が炭に炙られて芳しい香りをたてていた。聴覚と嗅覚からの刺激で、セラの姦しいお腹の虫たちが一挙に騒ぎ出し始めた。


「アキムさん、お茶の葉っぱはどれですか?」


「これだよ」


 ちょこんとアキムの隣に座り、茶葉を受け取る。チラリとこちらを見たユリシーズが、俯いて笑いを堪えるように咳払いをしたのが少し気になった。今はご飯のほうが大事だ。


「火のそば、熱いから気をつけて」


 何だか三回くらい同じようなことを言われたなぁと思いつつ、セラは所々凹みのある年季のはいった錫のポットを受け取り、人数分の茶葉をいれて、炉の脇に置いてあった携帯用ケトルから湯を注いだ。ふわりと馥郁とした湯気が顔にかかり、一瞬、ここが野外であることを忘れる。横にいるアキムは、パンにとろけたチーズと焼けた燻製肉を乗せて、それを用意してあった綺麗な布巾の上に置くと、てきぱきと配膳していった。

 また手際に見とれていたセラは、慌てて皆のカップに半端に残ったケトルの湯を接いだ。焙煎された茶葉の正確な抽出時間は不明だが、旅先で嗜むものだからすぐに飲めるはず。炭に当たらないようにカップの湯を炉に捨て、均一な色になるように注いでいく。嗜好品にものすごくこだわりのあるセラの先生から「美味しいですね」と言われる程度に、淹れる腕はあるつもりだが、この分ならおおむね合格点だろう。先ほど飲んだのと同じく、綺麗な琥珀色だ。


「ありがとう」


 本と書付を脇に置いて、ユリシーズは目元を和ませてカップを受け取った。見てはいけないと思いつつも書き付けをちらりと見ると、年の割りに枯れた渋い筆致で書かれていた。リオンも綺麗な字を書いていたが、ユリシーズも相当美しい手跡だ。きっといい先生についていたのだろう。そう考えると、やっぱりただの傭兵ではない気がした。


「アキム、薪、こんなもんで足りる?」


「十分だ。ありがとう」


 お茶を汲み終えた頃に、小脇に水筒を抱え、右手で一抱え分の薪を持ったリオンが戻ってきた。部屋の隅に薪を置いて「やっぱ北方は寒いねぇ」と言いながら、火に当たる。中々戻ってこなかったから、馬の世話をしていたのかもしれない。服に飼い葉が一枚ついていた。アキムが無言でそれをつまみ、火にくべた。斜向かいから熱い茶を手渡すその仕草は、卒がない。美人で気立てもよく気が利いて、などという存在は物語の中だけだと思っていたけど、いまセラの目の前に実物がいた。傭兵で男の「美人で気立てもよくて気が利く」という実物が。


「精霊に感謝を。いただきます」


 ユリシーズが超簡略版の食前の祈りを捧げると、セラも胸の前で印を切ってからパンに手をつけた。


「ん!」


 セラは正直なところ、角牛のチーズの匂いが少し苦手だったのが、よく火を通したこのチーズは独特の獣臭が消えていて、口に入れると乳製品独特のまろやかさと乳の優しい味がした。軽く火で焼いてある黒パン独特の風味が、チーズの癖を消していて、素朴な甘みを感じる。それらすべてが、こんがりと炭火で炙られた燻製肉の脂と絡み合って、それはもう美味だった。無心ではぐはぐと咀嚼していく。


「とっても美味しいです!」


 セラの喜色一杯の声に、左隣でお茶の香りを楽しんでいたアキムが、綺麗なアーモンド型の瞳を細めて、優しげに微笑んだ。


「おかわり」


「俺もおかわり」


 一瞬で平らげた二人は、早くもおかわりを要求した。アキムは自分の分をユリシーズに渡して、リオンには材料一式を渡した。


「俺のも頼む」


「わかったよ」


 「こんチクショー」とでも言いたそうな顔をしたリオンが、ざくざくとパンを切っていく。適当なわりに均等な厚みで、切り口もすっきり綺麗だ。二人とも料理上手なのだろう。セラは少し焦りを感じた。これからの道程で、もしも料理をすることなったら、この二人のように手際よくできないような気がする。そしてそれを絶対にユリシーズがいじる気がする。「料理実習、もっと真剣にやっておけばよかった」と、しても仕方のない後悔を今頃するセラであった。


「もう一個ちょうだい」


「もう食べたの!?」


 三個目のおかわり要求に驚いて振り返ると、右隣はのんびりと熱いお茶を啜っていた。その手には、三分の一になったパンの姿があった。


「食べ終わる前におかわりしとくと、間があかない」


 ユリシーズは良いこと言った! という凛々しい表情でセラを見た。この分ではさっきの書き付けに「どこそこの、何が美味かった」とか、そんな内容が本当に書かれている可能性大だ。

 セラは、それをちょっとだけ読んでみたかった。諸国を傭兵として渡り歩く彼の味覚は、確かなはず。きっとセラの知らない美味しいものを、色々食べたことがあるに違いない。いま食べているこのパンも、セラは初めて食べた。北方大陸の乳製品は単品でも濃厚な味わいなので、燻製肉と合わせたらくどくなる。こんな組み合わせは、他大陸の人ならではだ。めったに騎士団領から出ることのないセラは、あちこちへ自由に行ける彼らのことが、少しだけ羨ましかった。


「はいはい。ユーリもおかわりね。セラちゃんは?」


「私は一個で十分」


「遠慮すんなよ、いっぱいあるし」


「寝る前に腹いっぱい食べたら、太っちゃうもんね」


 ユリシーズは燻製肉の串を炉に刺しながら、斜向かいのリオンを真剣な顔で見た。


「リオン、何でそんなに女の気持ちがわかるんだ? やっぱり」


「いい加減そこから離れようね、ユーリ」


「また女装したのか」


 呆れた顔をして、アキムは小さくため息をついた。ユリシーズは「また」がツボに入ったのか、とうとう声を立てて笑い始めた。


「バカ野郎、数年ぶりだっつの! サラッといつもしてるみたいに言うな! セラちゃんの俺を見る目が、厳しくなるだろうが!」


 リオンは手元を手際よく動かしながら、猛然と反論した。セラとしては、別に厳しい目で見たつもりはなく、特殊な趣味のある人なのかなと思って、失礼にもじっと見てしまっただけなのだが、それをどう伝えたらいいものか。どっちにしろ彼を一瞬でもオカマだと思ったのは事実なので、何とも答えようがなかった。


「取り繕う意味があるのか? なぁ、セラ」


「私に振らないで」


 やっと笑いをおさめたユリシーズから話の矛先を向けられて、セラは唇を尖らせて反論した。侍女たるもの余計なことは言うものではない。沈黙は善。何も言わないほうがいいときもある。


「俺が変態だと思われたら、アキム、お前のせいだからな」


 恨みがましい目で出来上がったパンを二人に渡すと、リオンは自分の分にかぶりついた。三個目に手を付けながら「そんな心配は無用だよ、リオン」と爽やかに微笑むユリシーズと、「今更だろ」と慈しむような優しい瞳でリオンを見るアキムに、とうとうセラは吹き出した。






「あーお茶が美味い」


「かわいい女の子が、手ずから淹れてくれたからね」


「やっぱり侍女さんは違いますね」


 食後にもう一度お茶を淹れたら、三人から口々にほめられて、セラは思わず顔が緩んだ。やっぱり美味しいといってもらえると嬉しい。


「ありがとうございます。私、焙じた香茶ってはじめて見ました」


「北方にはないのか?」


 ユリシーズは不思議そうな顔でセラを見た。髪色と顔立ちだけ見ると、北方でも通りそうな色彩だが、言葉の感じからして西方の出身だろう。訥々と話す北方人とはまったく違う、快活な印象を受ける。仲間の二人は見た目だけでいえば、リオンは東方系だし、アキムは南方人だ。人種の坩堝といわれる広大なあの大陸には、色々なものがある。孤立している北方大陸に、この珍しいお茶がないことを知らないのも頷ける。


「ないわ。蒸して作るのが一般的だし。東方大陸で、こういう保存方法があるってきいたことがあるけど」


「物知りだねぇ」


 リオンが感心したように唸った。アキムも優しく笑って、ポットを手にするとセラのカップにお茶を注ぎ足してくれた。

 

「よく知っていますね。東方人の友人からやり方を聞いて作ったんですよ、このお茶」


「へー珍しいのか。じゃ、これあげる」


 ユリシーズは自分の鞄を漁って、手の平におさまる紙包みをいくつか取り出すと、セラに手渡した。


「今飲んでるのと、同じ茶葉だよ」


「い、いいの?」


「うん」


 もしかして、さっきの古書の件のお詫びのつもりなのだろうか。だとしたら断るのも申し訳ないし、せっかくくれるというのだから、ありがたくセラは受け取ることにした。騎士団領に帰って、先生に存分に怒られたあと、心配をかけたお詫びにこの珍しいお茶を淹れてさしあげるのもいいかもしれない。


「どうもありがとう」


 セラがはにかんだ笑顔で受け取ると、ユリシーズはそれに満面の笑みで応えた。どことなくぎくしゃくとしていた二人は、ようやく気まずさから解放されたかのような、すっきりとした顔になった。


「若いっていいよね、アキム」


「そうだな」


「ちょ、いでででで」


「顔が緩いぞリオン。直してやろう」


 アキムはリオンが何を考えているか、手に取るようにわかったので、長い腕を伸ばして、大きな手でリオンの顔をがっちり掴み、じょじょに力を籠めていった。

 みしみしと骨の軋むような音と「いたたたたたたた、直った、直った、直った」という情けない悲鳴が突然聞こえてきて、驚いた顔をして二人は声と音のしたほうを振り返った。そこには頬に指のあとをつけた涙目のリオンと、何事もなかったように穏やかな顔のアキムがいた。


「どうした?」


「どこか痛くしたの?」


「な、何でもないよ……俺、ちょっと外の空気吸ってくる」


 よろりと立ち上がったリオンを見送って、セラとユリシーズは何が何だかわからない、という顔をしてアキムを見た。


「二人が心配することは何もないですよ? そうだ。林檎でも剥きましょうか」


 食料の入っていた布袋から黄緑がかった林檎が出てくると、小さな小屋の中に林檎の甘い香りがふっと広がる。見事なナイフ捌きで、あっという間に剥かれた林檎が小さな串に刺されて、セラの目の前に差し出された。びっくりしつつも笑顔で受け取り「いただきます」と言ってから一口ぱりっと齧ると、汁気のある甘酸っぱい味と、青い品種独特の強い香りが口中に広がった。


「すごくいい香りがするな、この林檎」


 感心したように手の中の林檎を見ながら、ユリシーズが呟いた。


「ちゃんと果物も食べないとダメですよ、ユーリ」


「うん」


 シャリシャリと小気味の良い音を立てながら、アキムのお小言を聞くユリシーズに、セラは笑いを懸命に堪えた。どう考えても、二十歳の青年へ言う内容ではない気がしたし、お小言を言う人が、売れっ子吟遊詩人も裸足で逃げ出す美貌の持ち主とくれば、何かの寸劇としか思えなかった。


 食べ終わったセラは、ポットから冷めてしまったお湯を少しだけ注いで手を漱ぐと、スカートのポケットから手巾を取り出した。手巾と一緒に守り袋が落ちて、中に入っていた精霊の貴石が、ころころとアキムのほうへ転がった。


「何か落ちましたよ?」


 アキムが黒いその石に触れた瞬間、白い火花が散り、石が一気に暖かな橙色に染まった。小屋全体を照らし出すその光は、けして目を射るようなものではなかったのだが、夜の闇に慣れた目が眩んだ。


「セラ!」


 ユリシーズがとっさに腕を引っ張って、アキムから距離を取った。目がチカチカとして何も見えないが、ユリシーズの腕がセラを引っ張って立たせて、その背中に庇ってくれたことはわかった。


「どうした!」


 扉を蹴破るように開けて、リオンが飛び込んできた。貴石を持ったまま微動だにしないアキムを見ると、ドカドカと足音も荒く近寄り、その手から貴石を摘んで取り上げた。バチン! と大きな音とともに白い火花が上がったが、表情を一切変えずに、リオンはそのままグッと石を握りこんだ。

 眩んだ目が見えるようになって、セラは自分の時と貴石の色が違っていることに気がついた。光り方も、セラのときは仄かなランタンのようだったのに、リオンが握りこんだ左の拳から漏れる橙の暖かな光は、いまだ小屋の中を明るく照らしている。貴石自体が、まるで太陽のように光を放ち続けているようだ。


『フフフ』


 女性のような微かな笑い声が響いて、セラは驚いて小屋の中を見回した。自分達四人以外の人の姿は見えない。気配もしない。セラは目の前にあるユリシーズの暗い緑の上着をぎゅっと握りしめ、ユリシーズとリオンは手にした剣をいつでも抜けるように身構えた。


「……っ?!」


 意識が飛んでいたアキムが、突然弾かれたように顔を上げ、背後を素早く振り返った。そこには貴石から発する光に透ける、妙齢の美女の姿があった。見る見る間に足元からぼやけて、瓜実顔を彩る紅を引いた美しい唇が笑みの形になって、かき消すように見えなくなった。同時に小屋を照らしていた光も収束していく。


「せ、精霊さんだわ……」


「あれが? 普通に人の形だったぞ?」


「アキムが昔泣かせた女じゃなくて?」


「お前の爛れた恋愛事情と、一緒にするんじゃない……」


 綺麗な褐色の手の平で目元を覆うと、アキムは肩で大きく息をついた。まるで深い水の中に潜っていたように、息が切れて仕方ない。何か大事なことを聞いたような気がするのに、その記憶の端を掴もうとすると霧散するように消えていく。気分は最悪だった。


「あの声が、こんなにはっきり聞こえたのは初めてだ。姿が見えたのも……」


 セラは夜の闇でもわかるアキムの蒼白な顔と、ユリシーズとリオンの心配そうな顔をそっと見て、意を決して口を開いた。


「違っていたらごめんなさい。アキムさん、精霊使いなんですか?」


「いや……事情があって西方育ちだから、それはないと思う」


「セラちゃん、こいつ、子どもの頃からよく『誰もいないのに声がする』って言ってたんだけど。それって、さっきの女がずっと一緒にいたってことになるの?」


「たぶん……」


「それ、精霊憑きじゃないのか? どうして言ってくれなかったんだよ」


「うーん、ユーリには話さなくていいと思ってたからな」


「昔からお化けの類が苦手だったから……」


「誤魔化そうとするなよ。ちゃんと説明してくれ」


 ユリシーズの厳しい声に、二人は言いづらそうに口ごもった。彼には言えないような事情があるのだろう。セラは自分の不用意な発言が招いた事態に、大いに焦った。


「ユリシーズ、心配しなくても大丈夫よ。小さい頃からずっと一緒だったなら、たぶん守護精霊だと思うから」


 セラがユリシーズの上着を引っ張って一生懸命にそう説明すると、形のいい眉を怪訝そうに寄せて振り返った。


「しゅごせいれい?」


「代償なしで人を加護する精霊が時々いるの。そういう精霊のことを守護精霊って呼ぶんだけど……。守護精霊は加護する人のことが大好きで、何よりも大切だから、絶対に酷い目には合わせないと思う。だから安心して」


「代償なしの加護、か。アキムの不思議なカンで何度も命拾いしたことがあるけど、あれは精霊が助けてくれてたのか」


 ユリシーズの静かな声に、気まずそうに俯いていたアキムは、顔をあげてホッとしたように微笑んだ。リオンは二人の様子に満足そうにへらりと笑って、手の中の石を、セラに手渡した。


「セラちゃん、その石、ただのお守りなんかじゃないね。持ち主の力に作用する増幅装置みたいなものだろう」


 滑らかな石の感触がするのに、まるで氷を握っているような感じがする。不思議に思って手のひらを広げると、渡された貴石は淡い水色に輝いていた。セラは赤、アキムは橙、そしてリオンは水色。持った人に応じて色が変わっていることに、リオンの指摘で初めて気がついた。精霊魔術のことは詳しくないが、人は皆生まれつき、大なり小なり霊力を持っていると聞いたことがある。この世に生きる存在は、地水火風の四精霊しせいれい属性に応じた精霊の加護を持っているのだと。だとすれば赤く輝いたセラは火。淡い水色に輝いたリオンは水。アキムは温かみのある橙色からして、何となく地属性ではないかという気がした。そこまで考えてから、貴石の効果を打ち消してしまうユリシーズはどうなのだろう、とふと思った。


「鞄にしまっておいたほうがいいな」


 すぐそばでユリシーズ本人の声が聞こえて、セラは我に返った。考えていたことは外にもれていないのに、何だか後ろめたい気持ちがした。確かにユリシーズの言うとおり、鞄の隠しにでもしまっておいたほうがよさそうだ。うっかり霊力の高い人が触ってしまったら、さっきみたいなことが起きるとも限らない。大きく首肯して、守り袋にいれて口をきゅっと結ぶと、鞄の隠しの底にしまった。


「それにしても、セラは色々ものを知ってるな。本当に下っ端侍女なのか?」


 興味津々といった瞳で、ユリシーズが傍らのセラを振り返った。騎士団領の侍女、というのは本当だし、下っ端というのも本当だ。嘘はついていない。


「先生の受け売りよ。色々なことをご存知だし、とっても素晴らしい先生なの」


「へぇ。一度会ってみたいもんだ」


 二人は仲良く喋りながら踏み荒らしてしまった炉のまわりを綺麗に整理して、使ったものを片付け始めた。リオンはアキムに目配せすると、にまーっと怪しい笑顔を浮かべた。口の動きだけで「おにあいじゃない?」と言って、アキムに半目で睨まれて、肩をすくめてから再び外に出て行った。さっきの騒ぎで裂けた手のひらを手当てしにいったのだろう。相変わらず無茶ばかりする奴だとアキムは苦笑した。昔から、何だかんだで一番頼ってしまうのが、少しだけ心苦しかった。


「アキムさん、大丈夫ですか? 横になってたほうがいいわ」


「さっき真っ青だったぞ。火の番は俺とリオンでするから、休んでてよ」


 セラはアキムの外套を入り口まで持っていって、パタパタと叩いて埃を落として、だるそうに座っているアキムの肩にかけた。ユリシーズはアキムの鞄から大判の布を取り出して、くるくると丸めて簡易枕を作るとアキムに手渡した。かいがいしく世話を焼いてくれる二人に、アキムは心底嬉しそうに微笑んだ。


「では、お言葉に甘えて」


 肩にかけてもらった外套を身体に巻きつけて、アキムは窓側で横になった。気配に敏感な自分がここを守り、入り口をリオンが固めれば、そう危ないこともないだろう。とにかくこの虚脱感をどうにかしないと、使いものにならない。眼を閉じると、沼に沈み込んでいくように眠りに落ちていった。


「アキムさん、大丈夫かな?」


「病気じゃないみたいだから、寝とけば治るだろ」


 ユリシーズは部屋の隅から薪を数本持ってくると、アキムの鉈を拝借して太いものを割ってから火にくべた。夜も更けてくると森は冷える。


「火の番って、ユリシーズとリオンさんでするの? 疲れてるのに大丈夫?」


「任せとけ。セラも、もう休めよ。自分じゃ気づいてないだろうけど、相当疲れてるはずだから」


「そ、そうかな」


「寝ろ」


 ユリシーズは自分の外套をセラに渡してから、自分の鞄から厚手の布を出して適当に広げると床に敷いた。


「外套まで借りてるのに悪いわよ。こっちはユリシーズが使って」


「それ羽織って、俺が添い寝しようか」


「おやすみなさい」


 外套に包まって、敷いてくれた布の上に横たわった。すぐ隣で笑いを堪える気配がするので、気になってしょうがない。しょっちゅう笑ってるけど、笑い上戸なんだろうか。

 寝顔を見られたくなくて、もそもそと潜りこむ。何だか落ち着かないのは、日なたのような、いい匂いがするせいだろうか。お腹側は火が当たって、ぽかぽかと暖かい。瞳をとじていると、今日あったことが次々浮かんだ。


 セラが今日一番最後に思い出したのは、目を細めて「どういたしまして」と言った、ユリシーズの笑顔だった。

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