17. 約束
朝食を終えるとセラは食器をまとめて盆に乗せ、客室を退出した。オルガは一休みするために隣の客室へ移り、ファンニはそのままナンナに付き添うために残った。奥にある籠車に盆を置いて、崩れないようにちょっと食器の位置を調整してから扉を閉めた。厨房への下ろし方がわからなかったので、一度厨房に戻って籠車のことを伝えるために階段を下り始めると、侍女達の声が聞こえてきた。
「あの黒髪の精霊騎士、ちょっと素敵よね。紫色の瞳なんて初めて見たわ」
「紫っていえば、アキムさんの目、見た? 橙の時も素敵だったけど更に神秘的な感じになったわよね。精霊に愛される人って見た目が綺麗なのかしらね」
「アキムさんの目、どうされたんですか、ってユリシーズ様に聞いたら”気にするな”って言ってたわよ」
「笑ってたけど目は笑ってなかった。”聞くな”ってことよ。私達も暗黙の了解で、いつも通りにね」
何となく隠れてしまったが、やはりアキムの目の色のことは噂になっているらしい。ユリシーズは聞かれても答えようがないから「気にするな」と言っているのだろう。本当は一番気にしているのはユリシーズなのに。そう言った時の彼の気持ちを思うとやり切れない。何となく沈んだ気持ちで厨房に行くと、エマが副料理長と何やら話し込んでいる姿が見えた。二人はこちらに気が付くと、話を止めてにこやかに会釈をしてくれた。
「副料理長、先ほどはどうもありがとうございました。とっても美味しかったです!」
「そりゃよかった。空いた食器は後で取りに行きますんで」
「簡単に拭って籠車に乗せちゃったんだけど、ダメでしたか?」
「ええっ、後片付けまで?! そりゃ申し訳ないことを」
「セラ様……手際が良すぎです。次はありませんからね」
「ごめんなさい。習慣って怖いよね」
めっ、と叱りつける顔のエマに手を合わせて謝ると、仕方ないわねと言いたげな優しい顔で微笑んだ。セラが男だったら思わず恋に落ちてしまいそうだ。綺麗で優しくて賢いエマに、どうして決まった人がいないのか本当に不思議だった。
「ところでセラ様、昼食はどうされますか? お館様がクレヴァ様からの学術指南があるだろうから、戻るのも大変だしこちらで食べたらどうか、と申されていましたが」
「逆に気を遣わせてしまったのね。でも仰る通りかも。そうさせていただきます、とお伝えしてもらってもいい?」
「はい、かしこまりました。お勉強頑張ってくださいませね」
セラは二人に話を中断させた詫びを言って、三階にある客室の並びへ戻ってきた。クレヴァからの学術指南を受けると決まっているものの、いつどこで始めるかはごたついていたせいで聞き忘れていた。とりあえず、クレヴァが使っているであろう客室の扉を軽く三度叩く。中から「どうぞ」というクレヴァの声がして、一拍おいてから扉を開いた。
「おはようございます、クレヴァ様」
「ちょうど良かった。いま誰かを呼ぼうと。殿下が昨日着ていた服がしわしわで嫌だと仰って困っていたのですよ」
「そ、そうでしたか。セブラン様、お召し物に火熨しを当てましょうか?」
「イヤダ! 昨日と同じ服など着たくない」
「仕方ないでしょう、着替えがないのは殿下御自身のせいですよ。私の馬車に勝手にもぐりこんでこられたのですから」
「うーん。セブラン様のお気に召すお洋服、あるかしら。とりあえずお召し物はお預かりしますね。洗濯係に預けて綺麗にしてもらいましょ」
「なんと! それを持っていくと申すか! 下着姿になってしまうではないか!」
「今の時期なら風邪など召されませんよ。セブラン様ぐらいの男の子の下着姿なんてかわいいものです」
「むぅ。セラは、私を子ども扱いするのだな」
「はい。セブラン様がここにいる間はお子様扱いさせていただきます。クレヴァ様、指南はいつ頃から始められるのですか?」
「それでは資料室に一時間後においでください。殿下はここで昨日と同じようにお待ちください。よろしいですか? 山ほど暇つぶしの課題を置いていきますからね。侍女達に我がままを言わないこと。食事は全部きちんと食べること。先ほどのように野菜をお残しするのも許しません。お約束できますか?」
「あいわかった。服もないことだし、ここでおとなしくしている」
「少々お待ちくださいませ。お預かりしたこちらを仕上げる間、別のお召し物をお探しして参りますね」
「頼むぞ、セラ。さすがにこの姿は恥ずかしい」
「まったく仕様のない方だ。セラ、申し訳ないのですが女騎士と侍女をこちらに寄越して頂けますか。私はテオドール様とお話ししたいことがありますのでね」
「かしこまりました!」
暇を告げ、セラはセブラン王子の服を持ったまま二階へ戻って来た。まずは要人二人の護衛の手配だ。行く道がてらすれ違う騎士や事務方達と挨拶をかわしながら階段を降りていると、途中でマルセルと行きあった。
「おはよう、マルセル」
「おはようございます、セラ様。っていうかホント早いね。まだ朝八時だし始業前だよ」
「みんな私に敬称付けたり付けなかったり忙しいわね。何か落ち着かないから公以外ならユーリと同じにしてよ」
「それだとアルノーにエールを奢ってもらえなくなっちゃう」
「公の場で呼んだら、に変更したらいいじゃない。ところで、女性騎士ってどこに行けば会える? セブラン殿下の護衛をお願いしたいんだけど」
「第一師団長の部屋に行けば会えるよ。第一師団は今みたいに要人が来た時の護衛もやってるから」
「そうだったのね。教えてくれてありがとう」
「ところで、その手に持ってる子ども服は何?」
「あ、これ? セブラン様のお召し物。しわしわで着たくないっておっしゃるから、火熨しを当ててもらおうと思って」
「セラちゃんを使うとは、遠慮を知らないクソガ……お子様だ。火熨しやってもらうなら騎士宿舎一階に行くといいよ。領館の隣にあるから」
「わかったわ。言いかけたことは私の胸にしまっておくね」
「話のわかるデイムで助かるよ」
話しながら第一師団長の執務室までやってくると、マルセルは扉を叩いて入室許可を求めた。
「ゲオルクさん、入ります」
「そっと入れ」
「へ?」
「ユーリが仮眠中なのよ」
「あ、そういうことね」
言われた通りに静かに入ると、中には第一師団長ゲオルクと肩できっちり切りそろえられた明るい栗色の髪の女騎士がいた。年の頃は三十半ばほど。女性にしては上背があって、敏捷な大猫のような印象だ。
「おはようございます」
セラとマルセルが姿勢を正し、声を揃えて挨拶すると、ゲオルクと女騎士は同時にふき出した。
「何してるんですかセラ様。あなたは”気をつけ”はしなくってもいいんですよ」
女騎士は笑いを堪えた声音で「おはようございます」と軽く敬礼をして答えた。
「ま、まあ、朝の挨拶は基本だから。おはようございます、セラ様」
ゲオルクも笑いながら立ち上がった。大柄な体格はオルガの父と同じぐらいありそうだ。ちろり、と横に立つマルセルを見て、セラも悪戯っぽく笑って肩をすくめた。
「マルセルにつられちゃったんです」
「俺ぇ?」
「しー、静かに。仮眠室でユーリ様がお休み中ですから。どうしました?」
「セブラン殿下の護衛をクレヴァ様から言付かりました。護衛の女性騎士と、お世話をする侍女の手配をお願いしたくて」
「私が参りましょう。殿下がどんなお方か大体把握しましたし」
「よし! アイラは一日殿下の護衛を頼む。今日の警備担当は俺が代わりに割り振っておく」
「了解」
きりりとした目元は笑うと柔和な雰囲気になる。アイラと呼ばれた女騎士はセラに一礼して颯爽と出ていった。凛々しい女騎士の姿に見とれていた様子に、マルセルが可笑しそうに笑った。
「アイラさんはゲオルクさんの奥さんなんだよ。娘のエーファちゃん、むちゃくちゃかわいいんだ」
「そうなの?! ぜひ一度お会いしてみたいわ」
「え、そ、そうですか? 最近、絵本のお姫様に憧れちゃって、本物がいるぞって言ったら娘もセラ様に会いたいと聞かなくて。もう毎朝私もお姫様と会うって大騒ぎですよ」
「ゲオルクさん、娘さんの話はまた今度頼みます。デイムはご多忙の様子ですから」
「はっ、す、すまん。つい。娘の話になると熱くなってしまうな」
「厳格な第一師団長は優しいお父さんでもあるんですね。それじゃ私はこれで失礼しますね」
「はっ」
びしっと敬礼する二人に見送られてセラは一階まで戻ると、そのまま表玄関から外に出た。目の前にある騎士宿舎なら一人でも構わないだろう。そこらじゅうに屈強な黒騎士達の姿もあるし、滅多なことがない限り安心だ。洗濯場は大体裏手にある。そこを目指してトコトコ歩いていくと裏口に立つ侍女を見つけた。
「おはようございます。こちらのお召し物に火熨しを当ててもらいたいんですけど」
「火熨しですか? ってセラ様?! 何してるんですか、こんなところで」
「わ、ティアナ! ティアナこそ何してるの」
振り向いた侍女はティアナだった。皆と同じお仕着せだからわからなかった。一番見つかってはいけない人に見つかってしまって、考えていた言い訳が綺麗に頭からすっ飛んで行った。
「私は新しく仕入れた洗濯石鹸の売り込みです」
「そうなの、大変ね。ところでティアナ、七歳ぐらいの男の子のお洋服ないかしら? お洋服が綺麗になるまで、セブラン様にお召いただきたいんだけど」
「フィア・シリスのセブラン殿下がいらしているんでしたね。確か、奥方様がユーリ様のお洋服を保管されていたと思いますから、そちらをお持ちしましょう。形は古いかも知れませんが布地も仕立ても良いものですし」
「ありがとう。それじゃお願いするわね。私は領館に戻ってクレヴァ様のご指南をうけて来るから」
「頑張ってくださいませ」
「はい!」
これ以上怒られないように、セラは真っ直ぐ領館へと戻ることにした。ナンナのことも気になるが、ワガママ王子セブラン殿下のことも気になる。どちらも子どもなのに、重たい責任を負わされているのだ。ここにいる間だけでも、その重圧から解放されたらいいのに、と思わずにはいられなかった。
クレヴァと約束した時間よりも早かったが、セラは資料室にやってきた。特に施錠されているわけでもない共用の部屋だ。中に入って、まず空気の入れ換えと簡単に掃除することにした。この状態では埃っぽくて勉強どころではない。よく見ると閲覧用の机にまで資料が山積みだ。床に置かれた箱には一応年度が書かれた紙が貼られている。誰も整理する人がいないと言ってたから、とりあえずいつのものなのかわかるようにはしてあるのだろう。
「ここで何をするのかなぁ」
「過去の諸侯達の、人となりを知るためにお呼びしたんですよ」
「クレヴァ様、おじい様も?!」
「生き字引がおったほうがいいだろう? 何でも聞いてくれ」
「ありがとうございます、おじい様」
「うむ。うむ。おじい様に任せなさい。セラに何を仕込むつもりだ、クレヴァよ。西方諸侯ならユーリの頭に全部入っておるだろう」
「セラには元帝国諸侯を覚えて頂きます。彼らの中に内通者がいるはずですから、危険を避けるためにもね。疑心暗鬼にかられた彼らの間に間隙が生じていたおかげで、七年前の皇女の拉致は失敗に終わったのでしょうね」
「完全に封鎖されておるから、今のウィグリドがどうなっているのかは誰も把握しておらん。隠密を放って内部潜入させるには危険すぎる。とりあえず動向を見守るしかないのだよ。最近は随分派手にやらかしているようだがな、色々と」
「若い女性の失踪事件ですね。あれは初代皇帝と同じ因子を持つ者を探しているのですよ。因子を持つ者は翡翠色の瞳が多い。ウィグリド皇統でも稀にしか発現しないので、市井に紛れる因子持ちを求めたのかもしれません。ガルデニアの反王国派を利用して北方大陸にまで手を伸ばし……その過程で死んだはずのジュストの子どもが生きていることに気付いたのでしょうね。ユリシーズがセラを先に見つけることができたのは本当に僥倖でしたよ」
「私が狙われていたのは、初代皇帝の因子を持っていたからだったんだ……。お父さんも同じ色だったということは、遺伝する可能性があるのですね。ということは、私がこれから産む赤ちゃんの瞳が翡翠色だったら。ユーリと私の子どもも狙われるということですか?」
自分で言っておきながら、その事実に目の前が暗くなっていく気がした。愛する人と結ばれて、子どもを授かって、これから生きている限りずっと幸せが続くものだと思っていた。それだけに絶望がずしんと重たく肩に圧し掛かった。
「そうならないように私達がいるんですよ。すでに時は来ました。ガルデニア王国の影からの支援と、精霊騎士団の助力を得られた今が勝機なのです」
「……わしらは多くの犠牲を出して来た。ジュスト様。セドリック。エリウ。大切な者達を大勢な。この老いぼれよりも若い命が失われていくのを見るのは、もうたくさんだ。クレヴァよ、お前のことだ。もうすでに一斉蜂起の手筈を整えておるのだろう。引退したジジイどもの情報網をなめるなよ」
「得意げになさらないでください。お腰が悪いと伺いましたよ。おとなしく館にいて頂きたいものですね。セラには、三十年前からの帝国諸侯達について今日中に覚えていただきますよ? 覚悟はよろしいですか?」
「はい。よろしくお願いいたします」
西方大陸全土に帝国軍が派兵を開始した時から、すでに解放軍の覚悟は決まっていたのだ。次の会合は節目になる重要なものになるに違いない。その大切な場で内通者達に足元をすくわれないためにも、セラは必死に元帝国派に属している諸侯達の名前を頭に叩き込んだ。誰と誰がつながっていて、反りが合わないのか、帝国時代はどういうつながりを持っていたのか。当時を知るテオドールから、中央大貴族の一人だったクレヴァからたくさんのことを教わり、気がつけば昼をとうに過ぎていた。
「もうこんな時間か。もうそろそろ切り上げたらどうだ」
「ひとまず主だった諸侯達はこれで全員です。後で復習してくださいね。それと、来週からは作法のおさらいもいたしましょう」
「承知しました。すべてを万全に、ですね」
「大変結構。素直で飲み込みの早い子は好きですよ。子どもを持たなかった私にとって、教え子達は私の子どものようなものですからね」
「すごい子だくさんなのではありませんか、クレヴァ様。何人ぐらいいるのですか?」
「末っ子のセラを加えたら二十名ぐらいでしょうか。私が直接教鞭を取る機会は意外と少ないのですよ」
「本当に意外です。ちなみに一番のお兄さんは誰なんですか?」
「ユリシーズですよ。あの子とは、生まれた時からの付き合いですから」
「一度おしめも替えさせられておったな。這い這いで逃げられて、おしめを片手に往生していた時は、皆で笑ったものだ」
「さすがのクレヴァ様も、赤ちゃんのユーリには勝てなかったんですね」
「まさかあんな速さで逃げるとは思ってもみなくて」
「しかも尻丸出しでな」
「やめろよじいちゃん。何か恥ずかしいから」
小さく消え入るようなユリシーズの声が割って入って、セラは背後を振り返った。いつもより無造作な感じになった髪を撫でつけながらセラの座る椅子までやって来ると、ユリシーズはしかめっ面で祖父をにらんだ。
「おったのか。リオンに怖い話を聞かされて、一人で厠に行けなかったことはまだ言ってないぞ」
「い、ま! 言ったよ。絶対わざとだ。ちくしょう、セラには知られたくなかったのに」
「小さい頃の話でしょ? リオンさんの怖い話って何だったの?」
「あいつ、夜中の手洗いについてきてくれたのはいいけど、待ってる間に便器から手が出てくる話とかするんだ。俺は聞きたくないから半べそで歌いながら用足ししたんだぞ。あんなこと毎回されてたら一人で行けなくなるに決まってる」
「……ふぐっ」
「笑いたきゃ笑えよ」
資料室はユリシーズ以外の声で笑いに包まれた。笑いの波がおさまると、テオドールは時計を見て慌てて自分の館に帰って行き、クレヴァはセブラン王子の様子を見てきます、と三階へと上がっていった。食堂はとうに終わってしまっていたので、セラとユリシーズは昼食をとるために『森の館』へ向かうことにした。
「ねぇユーリ。次の会合はやっぱり出られないの?」
「ああ。俺達はセラの護衛なのに離されるのは解せないけど、遠征に出ろと言われたら仕方ない。西方大陸の民を守るのも俺達の役目だし」
「言われてみれば、確かにちょっと変よね。ユーリはクレヴァ様の腹心なのに参加できないって。おじい様が一斉蜂起がどうとかおっしゃってたから、結構重要な集まりになるんでしょ?」
「まぁな。遠征軍が来てくれて士気も上がってるし、軍主がここで一発演説を打って、全軍が最後の決戦へ向かって一丸となるには絶好の機会だ」
「最後の決戦……もうすぐ、この戦いは終わる?」
「終わらせるさ。俺達は西方大陸の解放を願って、ずっと頑張って来たんだ。死んでいった皆のためにも、俺は負けない」
「うん。頑張ろうね」
しばらく『森の館』に続く小道を無言で歩く。歩幅が全然違うはずなのに、こうしてセラの歩調に合わせてくれる。手をつなぐのが好きなのか、二人で歩くときは必ずと言っていいほど手を引いてくれる。さりげない優しさと、セラを想う気持ちが嬉しくてつい顔が綻んだ。と、突然ユリシーズの足が止まり、セラは何事かとすぐ前にいた背中をじっと見つめた。
「……半年後」
「ん?」
「俺と、結婚してくれますか」
振り向いたユリシーズはセラを真っ直ぐに見つめた。その射抜くようなひたむきな瞳に、息苦しいほどに胸がいっぱいになった。やっぱりこの人がどうしようもないくらいに好きだと思った。握られた手をぎゅうっと握り返して、セラも蒼い瞳を真っ直ぐに見つめて、ゆっくりと頷いた。
「はい……」
「また少しだけ離れるけど、心はいつも一緒だから」
「もちろんよ! ずっとそばにいるって約束、忘れないでね。そうだ、指切りしよ指切り」
「うん。約束な」
白くしなやかな小指を長く形のいい小指に絡めて、セラは子どもがするように『約束の誓い』の指切りをした。ずっとそばにいる約束の誓いを。するりと指を解くと、そのままユリシーズの首っ玉に抱き着いた。きっと、これからもあの蒼い瞳を思い出すたびに、好きでたまらない気持ちが溢れるだろう。抱き返してくれる腕の強さが嬉しかった。




