16. 火の巫女
翌朝、セラが目を覚ますと外がやけに騒がしかった。何かが起きたのかもしれない。急いで顔を洗って身支度を整えると部屋を飛び出した。早朝だったことを思い出し、足音をさせないように静かに廊下を走って、階段を駆け下りる。そっと玄関の扉を開けた時に「館から出るな」とユリシーズから言われていたことを思い出し、一瞬逡巡したがそのまま外に出た。ポーチの前で数人の侍女が、薄紫色のマントの人物と何やら問答している。こちらを振り向いた人を見て、セラは満面の笑みを浮かべて駆け寄った。
「オルガ!」
「セラ」
セラは疲れた顔をしたオルガに駆け寄ると、ぎゅうっと抱きしめた。
「セ、セラ様?! この方はいったいどなたですか?」
「ダメですダメですセラ様っ、離れて! ユリシーズ様がこんな所を見たら決闘になります!」
ささっと割り込んできた年かさの侍女に阻まれて、オルガはため息をついた。もういい加減男装するのをやめようかな、という気持ちになって来た。
「私は女です……もうこれ三回目……」
「お、女の方なんですか? 嘘ですよね、どうみても白皙の美少年にしか」
「私達、てっきりユリシーズ様の恋敵だと思って」
「皆で足止めをしてたの? ごめんねみんな、この子がいつも話している、私の大切な幼馴染の精霊騎士よ。本当に女の子だから!」
セラがニコニコ顔でそう言い放つと、何人かの侍女達は納得したようなしてないような微妙な顔をしたまま、それぞれの持ち場へ戻っていった。侍女の朝は何かと忙しいのだ。
「てっきり領館にいるんだと思って、あっちに行ったらこの館にいるって聞いて来たんだ。まぁ、艶々としちゃって。幸せそうで何より」
「えへへ。今日の昼前に着くんじゃなかったの? まだ朝の六時よ??」
「リオンが徹夜で私達を走らせたんだよ……眠いしお腹すいたしお風呂入りたい……あいつ許さない……」
「わかった、わかったから! お風呂入ってご飯食べてたっぷり寝て! オルガは私に急ぎの用があって来たんじゃないの?」
「そうだった。私怨に我を忘れるところだった。西の精霊殿、まだ『劫火』が留まってくれてたよ。セラに話したいことがあるから呼んでほしいって」
「奉じられてる高位精霊が、私に?」
「会えばわかる。すまないけれど、セラは借りていきます」
「は、はい……」
オルガの凛々しい声に居住まいを正した侍女達は、手を引かれて領館へ連れていかれるセラを見送った。大きく手を振って丁寧に言伝まで残しながら去っていく。その様子に皆笑いを禁じ得なかった。この館の雰囲気が明るくなったように思えるのは、あの朗らかな新しい女主人のおかげかもしれない。
「大丈夫、すぐ戻るから。おじい様おばあ様には、セラはちょっと領館にご用があって行っていますとお伝えしてもらえる?」
「かしこまりました」
「あー! セラ様! 部屋にいると思ったのに! 勝手に出ちゃダメです!」
「ハンナ、早く下へ」
セラの部屋のバルコニーから、賑やかなハンナの声とお淑やかなエマの声が聞こえてくる。オルガがぽかん、と口を開けて足を止めているのを見て、セラはふきだした。
「オルガ、お口を閉じて。花の顔が台無しよ」
「ハンナって子、エリナの親戚か何か?」
「違うわよ。ちょっと似てるよね。ちなみにエマはマルギットとマイラの夢見成分を引いてから足した感じよ。二つ上だけどしっとりした大人の感じがね」
「何を言ってるのか全然わからない……。とにかく行こう。皆待ってるから」
セラはオルガと手をつないだまま歩き出した。オルガが女の子だと知らない黒騎士達は、オルガと手を繋いでいるセラの姿を見ると目をむいて驚いていた。「決闘だなこりゃ」と物騒な呟きが聞こえてくる。
「オルガ、後で私の服を着てお散歩しましょ」
「明日にして。今は本気で寝たい。後で私に対する妙な勘違いはユリシーズが訂正してくれるでしょ……」
「本当にお疲れ様、オルガ。西の精霊殿はどうだったの?」
「全壊してた。攻城機で徹底的にやったんだろうね。跡形もなかった。地下回廊は無事だったから探索隊が中に入ったんだけど、見たこともない亜生物がいたんだって。色んな動物を縫い合わせたような、気持ち悪いのがうじゃうじゃね。持ってきた魔具の効きが今一つでなかなか倒せないし、だからといって火薬をしかけるわけにもいかないし。で、一番近くにいた私達を呼び寄せたってわけ」
「倒したの?」
「主にトゥーリ様がね。地下回廊の奥に『劫火』がいたよ。自分の巫女と一緒に」
「え、どういうこと? 誰も奉じていないのに巫女がいたの?」
「巫女本人が『劫火』が迎えに来たって言ってた。戦災孤児で行き倒れて、死にかけた時に」
「そんな……」
「四年前の『大戦役』の後から解放軍が戦災孤児や難民を積極的に救済に回ってたのに、あの子はわざとそこから離れた。自分が人と違うってわかってたから。ましてや精霊信仰が薄れた西方じゃ生き辛かったろうね」
「守護精霊がついてても大変だったろうね……」
巫女の身の上を思うと気分が塞がる。何となく黙り込んだまま、セラとオルガは領館に着いた。入り口の前で待っていたアルノーが出迎えてくれたが、目の下に隈がある疲れた顔をしていた。朝の挨拶もそこそこに二階へと通される。
「とりあえずユーリの執務室にどうぞ。朝早くからごめんね」
「アルノー、大丈夫? とっても疲れた顔だけど」
「そう……? 自分じゃわからないけど疲れた顔なの、俺?」
「目の下に隈がくっきりよ。二人とも、これ終わったら休んだ方がいいわ。ちゃんと休まなくちゃ、いざってとき動けないわよ」
「それ、ユーリに言ってやって。あいつ集中しすぎると周りが見えなくなっちゃうんだ」
困ったように笑うアルノーにセラは頷いて「よく言って聞かせるわ」と鼻息も荒く応じた。昨夜「ちゃんと休む」と言ったのに、結局あのまま徹夜で仕事をしたのだ。セラがスヤスヤと眠っている間も、休まずに。
「ユーリ、失礼するわね」
軽くノックをして扉を開けると、腰の下まである蒲公英色の髪をした子どもが一番に目に入った。セラの声に振り返ったあどけない顔は、八歳くらいの小さな女の子だ。透き通る紫水晶のような、感情のない瞳がじっとこちらを見つめている。女の子の手を握って寄り添うように跪くトゥーリと、少し離れた窓のそばに腕を組んだユリシーズが立っていた。
「あなたがセラフィナ?」
「はい」
「私は『劫火』とよばれるもの。この子どもの身体を借りているけれど、そう長くは話せない。心して聞いて」
「はい、火の精霊様」
「あなた、父親に会いたい?」
「会いたいです」
「魂だけでも、会いたい?」
「会いたいです。どんな姿でもいいから、私は会いたい。聞きたいことがたくさんあるんです」
「わかった。伝えておく。この大陸を救いたいのなら、四英雄の末を探して力を借りて。輪から外れた”あれ”を止めるには、あの子達が使っていた武器がいる。それから、守護精霊が具現化できる安定した場を作って。そうすれば”あれ”を封じこめることができる」
「わかりました」
「お願い。ごめんなさい、力になれなくて。こうして話すのも、この子の霊力をわけてもらって、やっとのありさま。眠りにつかねば自分が消えてしまうなんて思いもしなかった」
「火の精霊様、小さき魂へのお導き、ありがとうございます。あとは私達にまかせて、お休みくださいませ」
「ありがとう……。私の巫女をお願い。ひとりぼっちで、ずっと寂しがっていたから……」
女の子ががくりと糸が切れたように倒れ込み、トゥーリがそれを支えながら座り込んだ。
「……っふう、きつい。さすがの僕も限界……オルガ、この子を休ませてやって」
「無茶しすぎです、トゥーリ様……。守護精霊を二柱も支えられるわけないのに」
「こうなるからファンニは止めたんだな。トゥーリ、そこに仮眠室があるから寝とけよ。顔が真っ青だ」
「今日ばかりは、お言葉に甘えるとするかな……」
ふらりと立ち上がるとトゥーリは仮眠室へと消え、オルガもまた女の子を休ませるために続いて出て行った。残されたセラ達三人は顔を見合わせた。女の子は年端もいかない子どもだったのに、しゃべる声音は大人の女性だった。ユリシーズもアルノーも、人知を超えた存在を目の前にして言葉もないようだ。セラは『火の巫女』が一人ぼっちでいたことを思うと胸が痛かった。本来であれば精霊殿で大勢の巫女や女神官に傅かれる存在なのに、誰もいない崩れた精霊殿でどんな風に過ごしてきたのだろう。
「あの火の精霊、劫火、だっけ。気になることを言いまくってたな」
「俺、精霊とか巫女とか初めて見た……。四英雄の末裔を探せって言ってたね。やっぱり本当にいるんだ」
「北方大陸で会っただろ。四英雄『精霊騎士』の直系血族だって、ガルデニア王本人から聞いただろうが」
「でも、陛下を西方大陸に呼びつけるわけには」
「いかないよねぇ。戦争中の西方大陸にお呼び立てして、万が一があったら目も当てられないよ。切腹じゃすまないよ」
セラの言葉を引き取って、アルノーが重々しいため息をついた。腕を組んで考え込んでいたユリシーズは顔を上げて、頭を抱える二人を見て苦笑した。
「なら、他の四英雄の末裔を探すか。クレヴァ様がシーグバーン女史から借りた本に、おおまかな出身地と姓名が載ってたし」
「それだけで何百年も前にいた人達を探せるの? 魔剣士も剣聖も竜使いも、四英雄戦争が終わってから行方不明なのに……」
「二人とも待ってよ。精霊が言ってた”あれ”って、そもそも何?」
「四十年前から帝国で好き勝手してる錬金術師どもだろ。じいちゃんが若い頃はもうちょっとマシだったし、皇帝は為政者としては失格だが悪政は敷かなかった。おかしくなったのは奴らが表に出てきてからだ」
「……なるほどね。サディクさんのとこに使いを出すよ。あの人なら伝手を辿って有益な情報を絶対掴むはずだし。とにかく情報がないと何も始まらないもんね」
「頼む。それと昨日の地震だけど。閉じた空間とやらを破壊したのが原因だったよ。トゥーリ達が地下回廊にあった変な仕掛けをぶっ壊したら、ああなったんだと。セラの兄貴分は大雑把にもほどがあるよな。もうちょっとよく考えて行動するべきだと思うぞ、俺は」
「それ、再三私も言ってる。何でも勝手に省略しちゃってひどいんだから」
「かなり神経質そうに見えるのに……。意外と適当な人なんだね、守護騎士って」
「適当な守護騎士の見立てじゃ、地下回廊にあったのと同じものが西方大陸中に仕掛けられてるんじゃないか、だってさ。仕掛けを壊してから、オルガも自分の精霊が呼べるようになったって言ってた。と、言うことは、だ」
「その仕掛けを全部壊せば、劫火が言っていた『場』が作れるかもしれないのね!」
「西の精霊殿って帝国軍がぶっ壊したんだよね。過去に帝国軍が焼き討ちにした場所に置かれてるかもしれないから、探ってみるよ」
「その件もサディクにも頼んでおけよ。俺はしばらく表だって動けないから支援にまわる」
「私は四英雄の末裔のことを調べるお手伝いをするね。四英雄の伝承なら結構読み込んでるから少しは役に立てると思うの」
「アルノー、セラは発禁本まで読む危ない女だ。気を付けてやってくれ」
「……わが騎士団のデイムは並みならぬ知識量で助かりますね。偏りがなければ完璧」
「セラの活字中毒が良い方に働いたな。俺も嬉しいよ」
「微妙に落とされてる気がするんだけど。気のせいかしら?」
何となく腑に落ちないが、セラが四英雄のことを調べることに反対はされなかった。西方諸侯連合の会合の準備の合間に調べることにして、セラはオルガ達の様子を見に行くことにした。三人揃って、ユリシーズの執務室を出ると、アルノーはすぐ隣にある自分の執務室へ仮眠を取りに戻っていった。幹部の執務室は仮眠をとるための小部屋がある。そこをトゥーリに提供したユリシーズは、どこで一休みするのだろうか。
「ユーリもすごく眠そうよ。どこか空いているお部屋で休む? 館に戻ってちょっと寝てきたら?」
「戻るのが面倒。後で昼寝するからいいよ」
「心配して言ってるのに」
むっと唇を尖らせるセラに、ユリシーズは馬を休めるように「どうどう」と頭を優しく叩いた。一番心配して欲しい人に心配してもらえるのは、何とも面映ゆくて嬉しいものだ。
「今日はちゃんと館に戻って寝るから勘弁してくれ」
「お二人ともこちらでしたか」
階段を上がって来たアキムが、真っ直ぐやってくる。昨日のぐったり加減が嘘のように元気そうで、セラもユリシーズもホッと胸をなで下ろした。
「アキム! 身体は大丈夫?」
「はい。すっかり良くなりました」
「よかった。とっても具合悪そうだったから心配してたの」
「まだ休んでりゃいいのに。リオンは?」
「客室で精霊騎士達と雑魚寝しています。部屋まで戻る気力がないそうで」
肩を竦めてそう答えると、笑いを堪えているユリシーズに釣られるように、アキムも頬を緩めた。
「相変わらず無茶だよな。あまり怒ってやるなよ、アキムが倒れて奴なりに必死だったみたいだし」
「血相変えて出て行ったもんね。アキムもリオンが倒れたら同じことするでしょ?」
「そうですけど。周りを巻き込むのはどうかと思いますよ。精霊騎士達にもご迷惑をかけたそうで……」
「皆も心配だったからよ。仲間のことを迷惑に思ったりしないわ。私、火の巫女様のお見舞いにいくんだけど、二人ともついてくるつもりなの? 女の子の寝室なのに」
「これは失礼を。さ、戻りますよユーリ様。あなたちゃんと休んでいないでしょう」
「はっ、離せ!」
「よろしくね、アキム。子守唄でも歌って寝かしつけてあげて」
勝った!と言わんばかりの顔でセラが言い放つと、思わず見惚れる笑顔を浮かべたアキムが恭しくお辞儀をする。
「承知しました」
「セラ、覚えてろよ」
アキムに片腕で羽交い絞めされたまま、ユリシーズはズルズルと第一師団長の執務室へと引き摺られていった。アキムは第一師団の副師団長だから、そちらの仮眠室を使って休ませるつもりなのかもしれない。一人うんうんと頷いて、セラは足取りも軽く三階の階段を上がって「滞在中」の札が扉の取っ手に掛けられている客室を探した。さっと見て回ると、クレヴァとセブラン王子が滞在する右側の一室と左側の手前の部屋、そして一番奥の部屋にだけ札がかかっている。数度軽く扉を叩くと、すぐにファンニの静かな声がかえってきて、セラはそうっと扉を開けた。
「失礼します。皆さん、お加減はいかが?」
「セラさん。元気そうで安心しました」
「私はすこぶる元気よ。大変だったわね」
「ふふ、それなりにですが。隊長が無茶をしたでしょう。契約外の守護精霊に直接自分の霊力を渡すなんて、私は聞いたことがありません」
「昏倒しないのはさすがだけどね。巫女様はまだ眠ってるよ。子どもだから体がついていかないみたい」
「オルガも子どものころ、霊力切れでたまに倒れたもんね。巫女様のお名前は何というの?」
「ナンナ。年は八歳だって。小さいのにすごくしっかりした子だよ。読み書きもできるし、公用語も綺麗に話せる」
「地下回廊で劫火に教わったのかな。精霊って古い言葉しかわからない、って印象があるけど」
「竜のおじちゃんに良くしてもらってた、って言ってたよ。何のことだかよくわからないけど、その人から教わって町で難民への配給とか受けてたんじゃないかな」
「そうなんだ。ちゃんとごはんは食べれてたのね」
「そのまま町にいられれば孤児院に入れたんだけどね。人と違う力を持ってるとわかると石で打たれたり、帝国兵に追い回されたり。ひどい目にあうから……」
「北方大陸だったら、そんな悲しい思いしなくてすむのに。巫女様を精霊殿にお連れするの? ここにいるよりはもっと心安く過ごせるし、同じような精霊使いの子達がたくさんいるし」
「もちろんお連れするよ。『劫火』は眠りについちゃったけど守護精霊もちには変わりないからね」
「よかった。それが、本当に良いのかはわからないけど……」
「……いいんです、私が、そうお願いしたんです」
小さな幼い声が応えて、三人は天蓋付きの寝台をのぞき込んだ。大きな薄紫色の瞳がぽっかりと開かれている。
「あ、気が付いた?」
「私の精霊さんが……『劫火』が、私のなかで眠ったのが、わかりましたから。もう気配も感じない……」
「エアリアル、おいで」
「なーにオルガ」
「巫女様についててさしあげて。あなた霊力の塊でしょ」
「いいよ」
「い、いいんですか? 自分の精霊なのに……」
「エアリアルは人が好きでたまらない子だから。ね?」
「ボクはね。セラ元気だった?」
「元気よ」
セラは肩に飛び乗って来た風の精霊を両手でそっと摑まえると、寝台に横たわったままのナンナのところまで連れて行った。相変わらず体温は感じないが、ふわりとした毛の感触は本物の鼬と同じだ。
「こわく、ないんですか?」
「私は北方大陸生まれだから、精霊が身近な存在なの。幼馴染が精霊使いだから余計にそう思うのかも」
「セラは変な子だから、ボクをこうしてもふもふーってつかむの。変でしょ」
「もふもふじゃない、しっぽもどこもかしこもふわふわのもふもふで、鼬そのまんまじゃない」
右手で胴体をもったままエアリアルの尻尾を左手で持って、エアリアルの顔を筆でくすぐる様に撫でた。のけぞって嫌がるエアリアルの様子は、精霊ではなく鼬にしか見えなかった。
「ぃやーめーて」
「ぷっ」
可笑しくて堪えきれずに笑うと、セラから涼やかな風の気配をまとう精霊を渡された。
「はい、ナンナ。エアリアルはもふもふしてて襟巻に最適よ。おなかはすいてない?」
ナンナは見上げてくる薄緑色をした円らな瞳に、にっこりと年相応のかわいい笑顔を浮かべた。横でみていても緊張していた様子がゆっくり解けていくのがわかる。
「少し……」
「それじゃ、暖かいスープを持って来ましょうか。オルガもファンニも朝ごはんまだでしょ? 持ってくるから、ここで一緒に食べよう! ちょっと待っててね」
セラは張り切って客室を飛び出すと、まっすぐ厨房へやってきた。館の厨房と違い、大人数の料理を仕上げることができるいくつもの竈と、水場が用意されている。今はちょうど黒騎士達の朝食が終わった頃なのだろう。慌ただしさはなく、料理人達がまかないを食べているところだった。柔らかそうな焼き立てのパンと、朝食の材料の余りらしき鶏肉と野菜を細かく刻んでクリームで煮込んだものだ。思わず喉がなる美味しそうな匂いにつられて、お腹がきゅうと鳴った。
「おはようございます」
「えっ、デイム?! どうしてこんなところへ」
「あの、三人分の朝食と、胃に優しいスープをお願いしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「か、構いませんが。俺達が食べているまかないっぽいものしか出せませんよ」
「十分です。あ、でもカートじゃ持っていけないんだった」
「どこまで持っていくんですか?」
「三階の客室なんです。客室で食事をしたらダメですか?」
「たまに客人がそうなさってましたから大丈夫でしょう。あそこにある籠車を使うんで、上で受け取ってもらえますか。廊下の奥にベルの付いた小さな扉がありますんで、ベルが鳴ったら開けてください」
「わかりました。どうもありがとうございます」
「で、でもなんでデイムがご自分で? 侍女に言えばいいでしょうに」
「いいんです。ちょっとわけありの子がいて、知らない人がいると緊張しちゃうみたいだから」
「なるほど。事情はわかりました。おーい、クリーム煮、ちょっと暖めてくれや」
副料理長の威勢のいい声が厨房に響くと、見習いらしき少年が立ち上がって竈に向かった。洗い場からは食器を洗うカチャカチャという音が響き、セラの立っている入り口まで、ふんわりと温かなパンの焼ける匂いが漂ってくる。
セラは厨房の賑やかな慌ただしさが好きだった。料理長達の手で魔法のように美味しい食事が出来上がるのを見るのも楽しかったし、洗い場のおかみさん達が歌う声も底抜けに明るくて。郷愁のようなものにとらわれたが、籠車のことを思い出し急いで三階へと舞い戻った。
「あ、これね籠車って」
言われた通り廊下の奥に行くと、確かにベルのついた小さな扉があった。ちょうど、セラの腰当たりの高さだ。さっきは気づかなかったが、領館にはいろいろ仕掛けがあるのかもしれない。
ぼんやりと鈍く光る真鍮のベルを眺めていると、ちりりんとかわいらしい音が鳴った。扉をあけると、ほっかりと湯気を立てる鳥と野菜のクリーム煮が乗った盆と、焼きあがったばかりの小さな丸パンが籠に盛られてあった。籠にはバスケットのように持ち手がついていて、セラ一人でも運べるように配慮されている。厨房の人達の心遣いが嬉しくて思わず笑顔になった。
「んしょ、っと」
慣れたしぐさでワンピースの袖をまくると、セラは腕に籠の取っ手をひっかけて、両手で盆を持ち上げた。久しぶりのお運びだが、六年間の奉公でひっくり返さない力の入れ方は心得ている。部屋の前まで運んで、はたと気づいた。
「し、しまった。扉が叩けない……」
キョロキョロと周りを見回して誰もいないことを確認すると、つま先で扉をトントンと叩いた。さっと内側から開いて、オルガがあきれ返った顔を出した。
「まったくもう。あなたもうすぐ若奥様になるんでしょ。精霊騎士団領の時みたいに侍女の仕事をしたら、まわりが困るんじゃないの」
「実はもうユーリに叱られたの。館の人の仕事を取ったらダメだって」
「正論。これから先が思いやられるね」
「オルガ様、そんなことはありませんよ。セラさんも反省されているし」
「どこが。さっき足で扉をノックしたよ、この子。侍女長様が見たら目をむいて怒る」
「何でわかるのよ!」
「音。下の方からしたし手よりも体重が乗ってた。あ、コンソメのスープ。ナンナ用だね。起きられる?」
「はい、大丈夫です……」
「霊力は気力を殺ぎます。そのもふもふを抱っこするのもいいですが、お腹にものを入れると少しは力がわきますよ。食べられるなら、パンもどうぞ」
ファンニが優しく声をかけると、オルガも微笑んで頷いた。
「私達しかいないし、そんな畏まった話しかたをしなくてもいいよ。さっきの怖い黒騎士達もいないしね」
セラは思わず給仕の手を止めてオルガを見た。そういえば、あの場にはユリシーズとアルノー、トゥーリしかいなかった。
「何か言ったの?」
「ううん。でかいのが何人もいたら威圧感があって怖いでしょ。さっきは見た目が怖くない人と、霊力を渡すトゥーリ様にだけ残ってもらった」
「青い目のお兄さんは優しかった、です」
「ユーリのこと? そうなの、とても優しい人なのよ」
「その青い目のお兄さんね、セラの旦那様になる人なんだよ」
「!」
「ナンナ、ちょっとショック受けてない……?」
ガーン、と効果音まで聞こえてきそうな顔に、セラはポツリと呟いた。
確かに見た目だけは物語に出てきそうな金髪碧眼の王子様だが、中身は口が悪くて悪態ばかりですぐ足が出る悪戯小僧だ。
騎士としては志も精神も気高く模範的なのだが、それをどうやって彼に憧れている少女に伝えるべきか。セラには上手い言葉が見つからなかった。
「セラが女の勘を発揮する日が来るとは思わなかったよ」
「まぁまぁ。お二人とも早く朝食を食べてくださいね。冷めてしまうと煮込みが固まりますよ」
ファンニの苦笑まじりの忠言に二人は顔を見合わせて、食事に取りかかった。
セラは朝からあちこち走り回ってお腹が空いていたので、あっという間に自分の分を平らげてしまった。お茶を入れるために席を立つと、窓から黒騎士達が続々と戻ってくる姿が見えた。西方大陸解放に向けて少しだけ前進できた今日は、いい日になる予感がする。
だが、ちくりと気になる棘が心に刺さっている。『劫火』の口ぶりからすると、セラの父がまるでセラに会いたがっているかのようではなかったか。ひどくそれが気にかかった。