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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
西方大陸編
37/111

12. 思い出

 ユリシーズの祖父母が住む『森の館』の、二階にある一室でセラは目が覚めた。昨夜は館の玄関でユリシーズにお休みを言った後、軽く湯あみをして寝台に入った。何か夢を見た気がしたけれど、衣が脱げるようにその名残は去っていった。


「今日も天気がよさそうね。というか、西方大陸って雨期がないんだっけ……」


 からりと晴れ上がった青空を見て、伸びをすると用意された白磁の洗面盥で顔を洗い身支度を整えた。今日は『丘の上の館』の掃除をするから、と動きやすそうなワンピースにしてもらった。ミルクティーのような淡い色合いと、裾に白い小花が刺繍してあって、とても可愛らしい。


「セラ様、本当によろしいのですか?」


「お掃除は得意なの。私にもお手伝いさせて頂戴」


「それでは、掃除の邪魔にならないように軽く結っておきましょう」


 つるりとした白いリボンでセラの髪を耳の高さでさっと結い上げると、エマはため息をついた。


「セラ様が女官見習いで、十三歳の頃から侍女としてお勤め、と聞いていましたけど。お仕事が懐かしいのもわかりますが、じき若奥様になられるんですよ? 私達に仕事をさせるのも大切なお勤めです」


「う、そ、それを言われてしまうと……今日だけ、今日だけだから」


「本当に?」


「……うん」


「何ですか、今の間は」


「気分は、今日だけだから」


「何を言ってるんですか!」


 エマは朗らかな笑い声を上げながら、セラの肩を獣毛のブラシでさっと払った。


「おじい様とおばあ様は、もうお目覚め?」


「ええ。お館様は久しぶりにユーリ様と裏庭で鍛錬を。奥方様は花壇に水を上げてらっしゃいます。もうすぐ朝食ですから、皆さまそろそろ戻られますよ」


「エマ、私、もしかして寝坊してる?」


「いいえ。寝坊でも何でもなく、このお館の方々の朝がやたら早いだけです。大丈夫ですよ」


「そ、そう? でも明日からは、もう少し早く起きるわね」


「やっぱりそう思いますわよね。気になさらなくていいんですよ、セラ様。これからも私達、朝八の鐘が鳴る頃に来ますから」


「ありがとう。私、まだいろいろわかってないから、教えてもらえると助かるわ。鍛錬しているところ、見たいけど大丈夫かな?」


 セラは西方十二将の一人『剣聖』がユリシーズの祖父だと聞いてから、何としても一度その剣技を見てみたいと思っていた。遠く離れた北方にまでその勇名が聞こえてくる剣客。厳しそうな外見とは裏腹に、孫と同じ笑い上戸で飄々とした人だが、どんな剣術を使うのか。


「廊下側のテラスから裏庭が見れますよ。まだ剣戟の音がしてますし、ちょっと行ってみましょうか」


 エマはセラを手招いて、廊下の端へと誘った。テラスに続く扉は開け放たれていて、いい風が入ってきて気持ちが良かった。


「剣の音、私には聞こえないけど。もしかして、エマは護衛もできる侍女さんなの? 身のこなしに隙がないし、姿勢がすごくきれい」


「よく気づかれましたね。私達数人の侍女は護身術を修めておりますよ」


「やっぱり。今度手合せしてるところ見せてね。それにしても、あの見事な変装技術はすごいわ、情報局みたい」


「ふふ。とある元諜報員から教わったんです。北方大陸には女性だけの諜報機関があるんですよね。伝聞でしか知りませんけど」


「そうよ。女官だけで構成されてるの。私の友達が先生に誘われて行くみたい」


「本当にあったんですね。しかもセラ様のご友人がその諜報員って。本の中の世界ですね」


「私からしたら、黒き有翼獅子の騎士団(グライフ・オルデン)も、本の中の世界よ。『ソルヴェイ姫と白の騎士』って知ってる?」


「保存用と閲覧用に二冊持ってますわ。あの白の騎士シリルの『騎士の誓い』は乙女の夢ですわよね」


「そうよね、そうよね! やっぱり乙女の夢よね! 騎士なら、ここにはお煮しめにするほどいるじゃないの。よりどり見どりよ」


「うーん、いっくら将来有望で見目が良くても、アルノー達だけは勘弁ですわ。洟垂れ時分から知ってますもの。恋愛対象にはちょっとねぇ」


 二人そろってテラスから下を見下ろすと、ちょうどユリシーズが下段に構えた剣で祖父に打ちかかる所だった。


「甘いわ!」


 テオドールが腰だめに構えた短剣でユリシーズの鋭い斬撃を払うと、何かが朝陽を弾いて輝いた。キン! と甲高い音とともにユリシーズの手から剣が弾かれて落ち、地に垂直に突き立った。


「何が起きたの、今」


「お館様のマンゴーシュがユーリ様の斬撃をいなして、後ろ手に持ったレイピアが剣を弾いたんですよ」


「どうしてエマには見えるの」


「慣れ、でしょうか。館にいた子ども達はお館様の剣筋を日常的に見てましたし、アキムのように強い人に鍛錬してもらううちに腕が上がっていったんですよ。女騎士にはなれなかったけど、冒険者になっても食べていけるくらいにはなれました」


「すごい。エマはとっても頑張り屋さんなのね」


「ふふ、ありがとうございます」


 階下ではユリシーズが「じいちゃん、もう一回だ!」と悔しそうな声を上げている。それに対してアキムの「もうじき朝食ですよ」と諌める声が聞こえてくる。昨夜は姿が見えなかったが、この館の警護に残っていたのかもしれない。悔しがるユリシーズの背を押して戻っていくアキムが、テラスにいるセラとエマを仰ぎ見て、ふっと笑った。今の話が聞こえていたかのようなタイミングで、セラ達二人は一階へと急いだ。


「おはようございます、おじい様、おばあ様」


「おはよう」


「おはようセラ。いい朝ね」


 セラがエマと一階の食堂につくと、ちょうどユリシーズの祖父母が席についたところだった。下座側に座ると、ディルクがすかさず良い香りの紅茶を注いでくれた。今日は花のように甘い香りのするお茶で、馥郁とした風味が堪らなかった。


「ユーリ様はまた遅刻ですか」


「いるよ! 時間通りだろ」


 ディルクがあきれたようにため息をつくと、慌ただしくユリシーズがやってきた。白い丸首の綾織のシャツに薄茶のズボンという簡素な服装が、何だかセラと似通っている。



「おはよう、ユーリ」


「おはよ。さっき上から見てたろ」


「気づいてたの? 結構離れてたのに」


「気づくよ。セラの声は結構通るからな」


「お前は右側が疎かになる癖をどうにかしろ」


 やれやれとため息まじりのテオドールのぼやきに、慣れた手つきでお茶を注いでいたアキムが苦笑した。側役というよりも変わった襟のシャツを着た執事、といった感じだ。


「ユーリ様、両利きとはいえ厳密には左利きですからね」


「とっさだと、つい左で受けちゃうんだよな」


 アキムと稽古について話すユリシーズの袖をくいくいと引きながら、セラは諦めきれない思いを伝えようと口を開いた。


「あの、私も」


「剣はダメ」


「ダメです」


 主従そろって首を振る。セラはむうっと唇尖らせて抗議した。


「剣術のけの字も言ってないのに、どうしてわかるの?」


「わかりやすいんだよ、顔に出てるし。前にも言ったけど、セラは武術のたぐいは向いてないって。俺が保証する」


「そ、そんなぁ。そんなに私ってどんくさい感じ?」


「どんくさいというわけでは……。セラ様ってお人形さんみたいに愛らしい見た目だし、似合わないかなぁってエマは思います」


「そうね。できれば危ないことはしないでほしいわ。私達とお部屋で刺繍でもしましょ。それにむさくるしいのはユーリ達だけで結構」


「はっはっは! そうだな、セラはわしとチェスでも打とうな。昨日、新たな手を思いついたのだ。今度は負けんぞ」


「はい、おじい様。あとで一局お手合わせをお願いいたします。そのあとで、おばあ様と刺繍でもよろしいでしょうか?」


「もちろんよ。当家の紋様を教えないとね。それにしても、あなたときたら。本当に負けず嫌いですこと。どうせ孫ともども瞬殺でしょうに」


「瞬殺じゃない、二分だ」


「まああああ、二分! それじゃ分殺ね」


 笑い転げる祖母の姿を見て、ユリシーズは苦々しい顔で珈琲に口をつけた。隣に座る婚約者は嬉々とした顔でフラグルのジャムをパンに塗ったくっている。どうやら当家のジャムが大層お気に召したらしい。少し前、北方の武器屋でセラの腕の様子を見たが、女の子らしく華奢なつくりで柔々としていて、剣を扱う筋肉などどこにもなかった。それに性格的な面からいっても、人に剣を向けるなど心理的抵抗が強くて無理だろう。


「お館様。明日の午後にもクレヴァ様が一度お見えになるそうです。今朝、鳥が戻りました」


「うむ、そうか。セラの様子見だろう。あれもずいぶん気にしておったからな」


「それでは迎えを手配しておきます」


「頼んだ。ユーリもクレヴァに提出する遠征の報告書をまとめておけよ、今日中にだ」


 アキムが食堂を後にすると、マリー達が朝食のワゴンを押して入れ違いにやってきた。セラは見たことのない野菜に興味をひかれたのか、一緒にやってきた料理長を質問攻めにしている。昨日の菓子の件で厨房の人達とも打ち解けている様子で、ユリシーズは楽しげに頬を緩めた。


「ねぇユーリ。今日はおうちのお掃除でしょ? 私もお手伝いするからね」


「父上の部屋だけな。っていうか、今日だけだからな。セラは屋敷の人達の仕事を取るんじゃない。彼らはそれで食ってるんだから」


「はい」


 しょぼんと俯くセラをチラリと見たテオドールは、葉野菜のサラダに手を付けたユリシーズを見て、頬を皮肉気にゆがめて笑った。


「ほぉ。ずいぶん手厳しいではないか。セラにデレデレというのは、リオンの勘違いだったか」


 口にものが入っているのを見越した祖父のからかいに、ユリシーズはグッと詰まった。横からは喜色満面のセラが食事の手を止めてじっと見てくるので、顔に血が集まってくる。


「だ、誰がデレデレしてるって」


「ほほほほ、見てごらんなさい、セラ。耳まで赤いわ」


「ホント、真っ赤」


「〜〜〜っ」


 祖父母によるユリシーズいじりは、当分終わりそうにもなかった。



 朝食を終え、セラはユリシーズと『丘の館』に向かった。途中で通りかかった領館からは、黒騎士達がひっきりなしに出入りをしている。午後には隣を歩くユリシーズも、あそこに戻るのだ。掃除をするよりも休んでおいたほうがいいような気がした。


「ユーリ、お昼までゆっくりしたら? お掃除なら私に任せて」


「本とか棚とか重たいものがあるだろ。俺も手伝うよ」


「疲れちゃうでしょ、午後からお仕事なのに」


「報告書書くだけだぞ。明日からセラはクレヴァ様に色々教えてもらうんだろ。じいちゃんばあちゃんの相手が終わったら、時間作って予習しといた方がいいよ」


「え、何、予習って。立たされて暗誦とかさせられるの?」


「暗誦はないけど、質問に答えられないと課題が増えるんだ。西方大陸史の本、後で貸すから目を通しとけよ」


「お、覚えられないよ。質問に答えるのって自分の帳面みてもいいの?」


「見ないと答えられないんですか?って、嫌味ったらしく言われても良ければな。ま、頑張れ」


「他人事だと思って。クレヴァ様って、お優しそうに見えても、やっぱりすごく厳しい方なのね」


「厳しい方だけど、理不尽なことは仰らないよ。だから人がついていく」




 二人は亡き先代の部屋を手分けして片づけ始めた。セラは大きな筆机の整理と本棚の整理をすることにした。空いた木箱を用意してもらって、保管庫に移すもの、処分するもの、引き続きユリシーズが使うもの。ざっくりとした分類で仕分けを始めると、小さな画帳のような冊子が出てきた。ぱらりと表紙を開いて、セラは驚いたように目を瞠った。


「すっごく上手な絵が出てきた。かわいい赤ちゃん」


「父上が描いた俺の絵だな」


「これユーリ? 髪がふわっふわだけど、ホントにユーリ?」


「俺だっつってんだろ。子どもの頃は結構なくせ毛だったんだよ。今もちょっとだけクセが残ってるし」


「ホント、よく見ると毛先が少しだけくるんってしてる。ユーリの髪の毛、思ってたより柔らかい……」


 ユリシーズの亜麻色の髪を少しだけ摘まんでいた指を離して、よしよしと小さな子にするように撫でた。ツンツンと少しだけはねた髪は、見た目よりも柔らかくて絹を撫でているような心地がした。香油で手入れをしている様子もない、素から綺麗な髪をくしゃくしゃにしたくなる衝動を、辛うじて堪えた。


「何で辛気臭い顔してるんだよ……。言っとくけど、うちは禿げない家系だから」


「ユーリがたとえ禿げてしまっても愛せるわ。たぶん」


「たぶんはいらないと思う」


「お父様は絵心のある方だったのねぇ。こっちは綺麗な女の人。ユーリのお母様ね」


「そうだよ。俺が言うのもなんだけど、上手いな父上」


「次の頁はちょっとユーリが育ったわね。あらら、顔がすごいしかめっ面。何があったのかしら」


「ほら、いい加減その画帳を寄越せ。セラのせいで全然作業が捗らねーだろ」


「やだーまだ見てるのに! 待って待って、何か挟まって……って、これ、ちっちゃい頃のユーリが描いた絵じゃない?」


「あ」


「か、かわいい! お父様を描いてあげたのね、裏に”ちちうえ、だいすき”って書いてある〜! 可愛すぎて胸が無茶苦茶きゅうぅんってしたわ今」


「返せっ」


「元の場所に大事に挟んでおきましょ。これはユーリのお父様のものだし」


 セラは絵を取り返そうとする手を躱して、元のところに幼いユリシーズが描いた絵を丁寧に挟んでから、保管庫に移す木箱へそっと置いた。大切な思い出は何もの変えられない宝物。それが亡き人のものであれば尚更だ。木箱をじっと見ていたユリシーズが、ぽつんと呟いた。


「……俺は、自分の子どもに同じことをしてやれるかな。絵心なんてないぞ」


「手記にしたら? 父の諸国漫遊記、北方名物料理編」


「本気で言ってるのか? その広いおでこに、思いっきり指弾されたいみたいだな」


「やめてよ、ユーリのそれ、ほんっとに痛いんだから。諸国漫遊記は冗談だけど、博識を活かしていろいろ教えたらいいんじゃない?」


「ふん。うまく逃げたな。机の中、全部どけておいてくれ。後で俺の荷物もこっちに移すから」


「まかせて!」


 やっと本来の「掃除」に戻った二人は、手分けをして部屋を清めていった。高い棚はユリシーズに任せて、セラは低い棚やこまごまとした飾り棚を拭いていった。棚に残されていたユリシーズの父の遺品はそのまま使うことにして、もう使わない書物や書類などを木箱にまとめて、部屋の隅に置いた。すっかり綺麗になった部屋を満足げに見渡して、セラは開け放った窓を閉めている背中に声をかけた。


「ユーリ、私のお部屋ってどこなの?」


「階段上がって一番奥だよ。見に行っとくか? そうだ。これ、セラが持ってて」


「何の鍵?」


「この館の親鍵。女主人が持つのが本来の慣わしだから渡しとく。それ一本で館中の鍵が開けられるけど、主寝室の俺側の部屋は開けるなよ」


 階段を上がると、奥から二つ手前の扉でユリシーズが足を止め、無造作に扉を開けて入っていった。セラの部屋との間に一部屋挟んだ部屋がユリシーズの私室のようだ。


「そ、それって。一昨日言ってた正式なお披露目が済むまではいたしません、ってこと?」


「いたしたいけどいたしません。間違っても俺の理性を試そうとか思うなよ。わりとあっさり失われると一昨日知ったばかりだからな」


「ワカリマシタ」


 片言でしゃべる真っ赤な顔のセラに苦笑すると、ユリシーズは本棚から数冊の本を取り出してセラの手の上に乗せた。どれも士官学校で使った教科書だが、クレヴァを含めた著名な学者達が編纂しただけあって、解かり易く実践的な内容になっている。軍師課程に進んだ友人達は、もっと分厚くて字がみっしり詰め込まれたものを使っていたが、入門編としては適していると思われた。


「これが西方大陸史。こっちがウィグリド帝国建国記。カサリア戦記と、戦略概論も持ってけ。余白に俺の書き込みが結構あるけど気にするな」


「ありがとう。こ、これが結構? 余白が見えないんだけど」


「さすがに帳面はないか……後輩にあげちゃったかな」


 セラは受け取った本をパラパラとめくり、努力の跡を見て舌を巻いた。どの頁にも必ず走り書きがあるし、何度もめくられて本の小口が黒ずんでいる。ここまで使い込まれていれば、本としても本望だろう。


「賢い人の帳面って要点が解かり易く書かれてるから、後輩達にさぞかし重宝されてるんでしょうねぇ」


「だといいけどな。解からないところがあったら言ってくれ。じいちゃんはそこらの学者より詳しいけど、話が長いから気を付けろ」


「ふふっ。頑張って勉強しなくちゃ。私、西方大陸のこと、ほとんど知らないから」


「北方生まれだからだろ。知らないなら学べばいい。知らないことを知ってるだけで、一歩前進してるんだから。真の知への探求は無知から始まる、ってな」


「ユーリ、哲学者みたい」


「へへっ」


 得意げに笑う顔は、画帳の子どもの面影が残っていた。




 かちゃり、と軽い音を立てて鍵が開いた。ユリシーズが開けてくれた扉を潜ると、セラは思わず歓喜の声を上げた。


「きゃー! かわいい!」


 セラは嬉しくて部屋の中をぴょんぴょんと跳ねまわった。白で統一された家具類も、ふわりとしたレースのカーテンも、白に近い薄桃色の調度も、すべてがセラの好みに揃えられていた。


「どうして私の好きなもの知ってるの? ありがとう、ユーリ! 大好き!」


「!」


 首っ玉に思いっきりかじりつかれて、ユリシーズは照れた顔を隠せなかった。身を翻してセラは衣装箪笥に駆け寄って、取っ手に手をかけてゆっくりと開いた。中には淡い色合いの十数着のドレスやワンピースが掛けられていた。北方から持ってきた大切な思い出のドレスも、きちんと衣装掛けに掛けられ、綺麗に皺も伸ばされて、そこにあった。


「衣裳箪笥すごい! こんなにいっぱい着られないわ」


「でもこれ、全部ばあちゃん達の好みが入ってるだろ。セラはセラで仕立てを頼めば?」


「そ、そんな贅沢できないわよ。領民の血税でそんなこと」


「ん? 何言ってんだ? 領主の衣食住は領主の私費だぞ」


「え?」


「資産管理は追々話すけど。セラの衣食住は俺が出してるから、変な心配はしなくていいよ」


「おれがだしてる?」


「そうだよ。チョコレートも服も全部俺の財布からだ。納得したか?」


「しました……」


 セラは「すごい人のところに嫁にきてしまった」という事実に再び面喰いながら旅行鞄を開けて、持って来ていたお気に入りの本と筆記具、大切な蔓薔薇の徽章が入った飾り箱を取り出して小さな筆机に置いた。飾り箱は仲間たちからの餞別だ。その箱を手に取ったユリシーズは、形の良い眉をほんの少し物憂げに曇らせた。


「これ、女官見習いの徽章だろ。セラが侍女服の襟につけてたやつ」


「本当は返さないといけないものなんだけど、特別に譲ってもらったの」


「セラが女官試験に受かってたのに、採用試験には落ちたって聞いた。俺、何て言おうかってずっと考えてたんだけど……」


「王宮に残れない人は不採用って、昔からそう決まってるの。でも私はひとつも後悔なんてしてない。三年間、マルギット達と頑張って、ちゃんと結果を残せたもの。だから、頑張ったなって、言って」 


「セラ……」


「私、頑張ったよ」


「……頑張ったな。本当にセラはよくやったよ」


 蒼い瞳を細めて笑うユリシーズに、セラは陽だまりのような明るい顔で笑い返して抱き着いた。優しく抱き返してくる腕は暖かく、ほっと安心したように笑う気配がする。ユリシーズが慰めの言葉が思い浮かばなくて悩んでいたのかと思うと、切ないような愛しさで胸がいっぱいになった。セラを想ってくれる気持ちが、ただただ嬉しかった。

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