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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
西方大陸編
33/111

8. トラウゼン

 馬車に揺られること数時間。セラのお腹が自己主張を始めた頃、ようやく馬車が止まった。窓から様子を伺うと、ユリシーズとリオン、アキムが馬から降りるところだった。どうやら休憩らしい。よく見ると小さな湖があり、騎馬が数十騎でも止まれそうな拓けた場所だった。


「セラ、休憩するから降りて来いよ」


 ユリシーズの声がして、馬車のドアが数度叩かれた。


「わかったわ」


 セラの答えと同時ぐらいに扉が開かれて、悪戯そうな顔をしたユリシーズがスッと手を差し出した。


「お手をどうぞ、お嬢さん」


「ありがと」


 ユリシーズの手を借りて降り立つと、森林独特のスッとする木々の香りとひんやりとした風が頬に当たった。思わず深呼吸すると、すぐそばで苦笑する気配がした。


「疲れたろ」


「ちょっとね」


「一時間くらい昼飯がてら休憩だ。さすがに飛ばしすぎた」


「私は乗ってるだけだけど、騎士の皆は疲れているわよね」


「こんなんで疲れてるようじゃ鍛錬が足らねー証拠だ。上に乗っかってんのはともかく、馬は休ませてやらないと」


 自分の愛馬の鼻面を優しく叩く姿に、セラは頬が緩んだ。本当に馬が好きで、馬もまた主人が好きなのだろう。低く嘶きながら上着の袖をかぷかぷと噛んで「ほめて」と言わんばかりだ。


「本当に、馬にはマメなのね」


「何言ってんだ、俺はいつだってマメだろうが」


「そうだっけ?」


「お二人とも、手を洗って来てくださいね」


 アキムの声に、セラとユリシーズは振り返ると、木陰でテキパキと昼食の準備をしているアキムの姿があった。二人は顔を見合わせて湖の畔に来ると、並んで手を洗った。


「アキムさん、何だかトゥーリ様とかぶって見えるわ」


「顔が綺麗なとこがか」


「ううん。世話焼きなところ。何だかお母さんぽいなぁって。二人とも殿方なのに変よね」


「ぶはっ」


 思わずふき出したユリシーズに、セラは唇を尖らせて抗議した。


「だってそう思ったんだもん」


「やめろよ、前掛け姿の二人が頭から離れなくなるだろ」


「想像しちゃったわ。似合いすぎて怖いくらい。そっか、トゥーリ様、お小言の多いお兄さんだと思ってたけど、お母さんでもあったのね」


「セラの中で、奴はそういう位置づけだったのか。不憫な」


「何で?」


「妹みたいに可愛がってるセラに小言が多いとか思われててさ。あ、俺にも手巾貸してくれ」


「持ってないの? もう、仕方ない人ね」


 セラは手巾を折り返して、乾いた面でぽんぽんと叩くようにして拭いてやった。顔を上げると、ユリシーズは明後日の方向に向かって「へっ」と鼻で笑っていた。


「どうかしたの?」


「マルセル達のやっかみの視線が嬉しい」


「やっかみが? 変なの……」


 セラがそちらを見ると、マルセルがアルノーに小突かれていた。続々と到着する黒騎士達の姿が現れて、静かな森が途端に賑やかになった。くるる、とお腹が小さく悲鳴を上げ、空腹であることを思い出した。ユリシーズに促されて、並んで木陰まで戻りながら、こちらに来て思った食事事情をしみじみと呟いた。


「西方大陸って、お肉の料理がとっても美味しいわよね。ユーリがお肉好きなの、ちょっとわかった気がする」


「狩猟民族ばっかりだし、肉類だけは豊富なんだ。北方大陸も飯が美味かったな。特に乳製品が。酪農が盛んなのっていいよな、やっぱり」


「ユーリ、農地改革もするの?」


「開墾から始めないといけないから、地方豪族と周辺諸侯とで協力して、って何で知ってるんだよ」


「天幕に本があったから。もしかして、寝る間も惜しんで勉強してるの?」


「手があいた時にな。さすがに寝ないと身体が持たないよ」


 二人が戻ると、アキムの手によって昼食の準備が整っていた。まわりにいる黒騎士達も、同じような包みを手に思い思いの場所に座り込み、寛いでいる。


「町長からの差し入れですよ。今日最後のまともな食事なんですから、しっかり食べてくださいね」


「おいおいアキム。今日最後とか言うなよ。俺泣きそうだよー」


「さ、最後なの?」


 情けない顔になったセラとリオンに、アキムは大真面目に答える。


「夜は糧食よりちょっとマシなだけです。我々はトリアムを経由しない最短行程ですからね。今晩は手持ちの食糧で腹を満たす予定です」


「最短行程? 昨日言ってたのと、違う道を通ってるの?」


「そうだよ。本隊と後続部隊にわけて、ちょっと身軽になったから別の道を通ってる。大人数だとどうしても時間がかかるからな」


「後続部隊は予定通り、トリアムに一泊してから来るよ。結局、ジェラルドさんは一回もセラちゃんにお目通りしてないままだったから、寂しそうだったね」


 ケラケラと笑うリオンを「こら」と一言だけ窘めて、アキムは柔らかい紙で包まれた昼食を手渡した。


「本隊って、どういう構成の部隊なの?」


「俺が直接指揮してる一番隊と、フーゴが率いてる遊撃隊の一部。みんな気心知れてる仲間だから、いざって時にすぐ対応できる」


「一番隊は、慣習的に団長の”盾の仲間”で構成されるんだ。俺達四人がそれだよ。フーゴとエーリヒはもう少し修業してからがいいって、まだそれぞれの部隊にいるけどね」


「盾の仲間って、同じ日に叙任を受けた永遠の友人のことでしょ? すごいわ、物語みたい。精霊騎士団は色んな人達が集まってできた集団だったから、そういうものなかったの。もしかして、団の誓いの言葉もあるの?」


「あるよ。黒き有翼獅子の騎士団(グライフ・オルデン)は”我等はひとつ、剣のもとに”だよ。セラちゃんも覚えといたほうがいいよ、デイムなんだし。ユーリが不在で号令かける人がいなかったら、言ってもらわなくちゃいけないから」


「はい、エール一丁入りやした!」


 マルセルの威勢のいい声に、フーゴとエーリヒが声を揃えて「ごっつあんです!」と答えたので、セラは声を立てて笑った。お笑いの舞台を見ているように、息ぴったりの掛け合いだ。


「うあ、しまった! 俺また言ってた!」


 思わず頭を抱えるアルノーに、まわりからも笑いがもれる。敷物の端っこにちょこんと座ったカインも下を向いて肩を震わせていた。


「何なの? エール一丁って?」


「セラを愛称呼びしたら、呼んだ奴がエールをおごるんだと。アルノーは何杯おごるんだっけ」


「今ので八杯目だよ……。三かける八で幾らだっけ……」


「私、別に何て呼ばれても構わないんだけど、そういうわけにもいかないのよね?」


「一応、臣下として弁えるところは弁えないといけないからな。公の場で言わなきゃいいと思うけど」


 鷹揚な主君とその細君(予定)は、ぎゃあぎゃあと賑やかな側近たちを眺めつつ昼食を取り始めた。しっかりと下味のついた鳥肉をからりと揚げたものと、卵をたっぷりと使った酸味のあるソースで和えられた野菜をやや硬めの大麦パンに挟んだものと、旬の果物が献立だった。西方料理はややこってりとした味付けが多かったが、思いのほかセラの口に合った。


「君たち、どうして俺に声をかけないのかね?」


「隊長達を混ぜても意味ないからだよ。必要なら普通に呼び分けるでしょ」


「俺達に言わせるように仕向けるのもわけないもんな。絶対に混ぜてやんねー」


「子供かお前は。でも確かにそれは一理ある」


「えー俺も混ぜてよ、のけ者はイヤだよ」


 自分より頭二つ分背の高いエーリヒの肩をポンポンと叩きながら、リオンはニコニコしながら輪に無理やり加わった。空気を読まないのではなく、あえて読んだ上での行動だけに、まわりの笑い声が大きくなり「リオン隊長って、本当に空気を読んでるよな」といった、騎士達の笑い交じりの揶揄がとんだ。


「断る! 際限なく飲むくせに!」


「いっつもおごってあげてるでしょうが」


「それはそれ、これはこれ」


「ひどいよ。こーんなちっちゃい頃から君達の面倒を見てきたお兄さんに向かって、みんな冷たいよ」


 何だかんだで楽しそうな皆を見ていると、北方大陸にいる大切な人達を思い出した。今頃、マルギット達は何をしているだろう。少しは女官の仕事に慣れた頃だろうか。先生はお気に入りの窓辺で、のんびりお茶を楽しんでいるのだろうか。


「カイン、遠慮せず食えよ。ちゃんと食わないと背が伸びないぞ」


「は、はい!」


 ぼんやりと郷愁に浸っていたセラは、ユリシーズの声に引き戻された。まだ半分も食べていないパンに、慌てて取り掛かる。ちゃんと食べないと身体がついていかない、ということは、北方大陸での旅で学んだことだ。さっさと自分の分を食べ終えたユリシーズは、アキムの布袋から何かを取り出して、少し離れた所に繋いでいる愛馬のほうへと歩いて行った。カインもそれに倣って慌てて立ち上がり、ユリシーズの後を追いかけていった。


「アルタイルのおやつかしら」


「ユーリ様は動物がお好きですからね」


「森に落っこちてたレーレを拾ったり?」


「はい。巣から捨てられた弱い雛ですから、俺達はみんな助からないと思っていたんですよ。だけど、成鳥にしたあげくすっかり馴らしてしまわれて。おまけに訓練方法をお教えしたら、あっという間に伝書鷹になったので、俺は大笑いしましたよ」


「訓練……。西方大陸の、深淵の森って所に鷹を使う一族がいたって聞いたことがあるわ」


「鷹以外の動物も訓練して、仕事に連れて行ったりもしていましたよ」


「していましたよ、って。もしかして、アキムさん達の里って、その深淵の森なの?」


「……今はもう、何もなくなってしまいましたけどね。あそこは特殊技術を持つ者たちの隠里で、色々なことを生業にしていて……。質の良い鉱物が取れたので、精鉄が盛んだったんですよ」


「焼き討ちで、大切な技術が全部失われてしまったのね。リオンさんの短剣と、アキムさんの鉈って、そこで作られたもの? 刀身に見たことのない紋様があるから、珍しいなって思ってたの」


「本当に、セラちゃんは良く見ていますね。これは里にいた”おんじ”が、俺達に打ってくれた遺作です」


 傍らに置かれた、刃先を布でぐるりと巻かれた鉈をそっと撫でる様子に、セラは何と声をかけたらいいのかわからなかった。この優しい麗人に気を遣わせるのも、と思い、できるだけ明るい声で答えた。


「私、その一族の人に会ってみたかったの。小さいけど夢がひとつ叶っちゃった」


「そうですか? それはよかった」


 ふわりと花が綻ぶように笑ってくれたので、セラもつられたように微笑んだ。



 休憩が終わり、セラは再び車中の人となった。本隊はおよそ三十人の騎兵で、どの黒騎士もユリシーズと同年代かいくつか上、といった若者ばかりだ。直接聞いたわけじゃないから定かでないが、四年前の『大戦役』で黒き有翼獅子の騎士団(グライフ・オルデン)の主力は先代団長だったユリシーズの父、セドリックとともに討死した。主力を失った黒騎士団は解体寸前まで追い込まれたという。ちょうど親世代に当たる壮年層がごっそりぬけているのはそのせいだろう。それをここまで立て直したのはユリシーズと祖父である先代の黒獅子公だ。馬車の窓から見えるピンと真っ直ぐ伸びた背は、気負いなく黒騎士達に指示を出している。


「私、ちゃんとできるかな」


 今更ながら、すごい人から求婚されたのだな、とセラは改めて思った。『騎士の誓い』が求婚と同義とはいえ、きちんと「結婚してください」と申し込まれたわけじゃないので、あまり実感がないが、順当にいけば、半年ほど婚約期間を経てから結婚することになる。領主として、騎士団長として日々政務に追われるであろう夫を支えることができるのだろうか。その前に、この解放戦争がどうなるか、まだわからないのだ。不安と期待の間で揺れ動く気持ちが、セラの胸を重たくした。



 馬車に揺られること数時間。セラは馬車でぼんやりと考え事をして過ごした。アキムの言った通り、干し肉と豆のスープ、堅パンなどの糧食を温めなおした簡素な夕食のおかげで、腹がくちくなって眠くなることもなかったので、いくつかの計画が立てられた。セラのやりたいことをどうやって皆に伝えるか。ユリシーズを始めとする、西方諸侯達の協力を仰ぐにはどうすればよいのか。まずはクレヴァにお願いして、セラの考えに賛成してくれそうな諸侯を紹介してもらうことからだ。


「セラフィナ様、トラウゼン領館が見えてきました。もうすぐ到着します!」


 御者台の窓が開いて、カインのあどけない笑顔がのぞいた。セラはぱっと身を起こすと、窓を開けて顔を出した。


「本当? どれがそうなの?」


「あの丘の上です。明かりが幾つかついているのが領館です」


 上弦の月に照らされた丘の上に、三階建てらしき館の黒い影が見えた。確かに、数か所に明かりが点っている。まわりに並び立つ館はかがり火に照らされる影のみしか見えない。深夜だけあって、人気はあまりなかった。


「こら、顔を出すと落ちるぞ」


 馬車に併走していたユリシーズが、馬を寄せてきた。鞍につけられたランタンに照らされた顔は、どこかほっとしたような表情をしている。何事もなく無事着けたことが嬉しそうだ。セラもまったく同じ気持ちだった。


「ユーリ、あれがおうちなの? すーごく大きいのね……」


「領館だから、あそこに住んでるわけじゃないぞ。一応来客が泊まれるようにはなってるけど。俺達が住んでるのは、領館のそばにある別館だよ」


「別館って、あのちょっと離れた場所にある館のこと?」


「うん。別館は二つある。森側にある館には祖父母が住んでて、いま見えてる館は俺と両親が住んでたんだ。で、今は俺が譲り受けた」


「え、一人で住んでるの?」


「いいや。あんまり帰ってないんだ。遠征に出てるか、領館につめてることが多いからな」


「そうなんだ……。私、ユーリの館に住むの?」


「そうしてほしいけど、当分はじいちゃん達といてくれ。そっちのが人が詰めてるし警備しやすい。老いたりとはいえ、剣聖が一緒だしな」


「わかったわ」


「今日は領館で休もう。こんな夜中に別館でドタバタやると近所迷惑になる」


「そうね。静かにしましょ。それじゃ、ご挨拶は明日に改めてするのね?」


「うん。領館で朝飯食べてから、一緒に行こう」


 後方から呼ばれて、馬首を返してユリシーズは戻っていった。本当に一所にじっとしている間もなく、忙しそうだ。馬車はゆったりと坂道をあがり始めた。セラは顔を出して後方を見たが、いくつかのランタンの明かりと、黒騎士達の影しか見えなかった。ランタンを掲げた二十騎ほどが、並んでいる館の方へと移動している様子が見える。似たようなこれらの館は、騎士達の宿舎なのかもしれない。暗くてまったく周囲の様子がわからないので、明日の朝、ユリシーズに案内してもらったほうがよさそうだ。セラはおとなしく座りなおして、馬車の窓を閉めた。


 ほどなく、領館に到着した。入り口には数人の使用人らしき姿と、大柄な黒騎士の姿があった。石造りの重厚な建物は領館というよりも、堅牢な砦のようにも見えた。馬車の扉が開いて、ランタンを手にしたユリシーズがニッと笑って手を差し出した。セラは、その手に縋って地面に降り立った。


「ようこそおいでくださいました、セラフィナ様」


 柔らかく温かみのある女性の声がして、そちらを見ると五十代くらいの優しそうな婦人と、興味津々といった楽しそうな顔をした若い侍女二人が立っていた。


「お疲れでございましょう、湯あみの用意ができておりますので、どうぞこちらへ」


「侍女長のマリー。俺の乳母で、アルノーのお母さん」


「初めまして、セラフィナ・エイルです。セラ、とお呼びいただけると嬉しいです」


 スカートの端をつまみ軽く屈んで略式の礼をすると、侍女達も倣って軽くお辞儀した。顔を上げた若い侍女と目が合うと、お互いに笑顔になった。気安い雰囲気がセラの心を少しだけ軽くした。


「かしこまりました、セラ様」


 おっとりと微笑むマリーに、セラもはにかんだように笑ってうなづいた。ぬっと大きな影がユリシーズの隣に立ちふさがった。ランタンの明かりが下からあおる様に照らし、何とも恐ろしげな大男がセラに向かって深々と騎士の礼をとった。


「我らもお待ちしておりました、セラフィナ様」


「第一師団長のゲオルク。うちに代々仕えてくれてる武人だよ。見た目がすげー厳ついけど、優しいおじさんだから」


「若、ひどい! もうちょっと、こう、セラフィナ様にいい印象をですね」


「また若って言った。今度俺を若って呼んだら、銀貨一枚徴収するからな」


「が、がめついですよ、ユーリ様ぁ」


「ユーリ様、金貨じゃなくていいの?」


 アキムとリオンが、宿直の騎士達に馬を預けて、丘を登ってきた。その後ろにはアルノー達の姿が見える。今日は側近達も全員、領館に泊まるのだろう。


「さすがにそれはかわいそうだろ。ま、呼ばなきゃいいだけの話だ」


「エールにしとこうぜー」


「俺達の俸給、そんな高くないんだから」


「俺だってそんな貰ってない」


「皆様! セラ様はお疲れなんですよ。無駄話は明日になさってくださいまし!」


「はい!」


 ユリシーズまで良い返事をして、黒騎士達はどやどやと領館へと入っていった。マリー達に先導されて中に入ると、居並ぶ使用人らしき人達が、一斉に「お帰りなさいませ」とお辞儀とともに出迎えた。少し先を歩くユリシーズは彼らに「ただいま」とゆるく返事をしながら、階段を上がっていく。


「あのぅ。いつもこんな風にお出迎えを? こんな遅くに着いてしまって、申し訳ないことを……」


「いいえ。私は別館に住み込みですが、この子達や、ほかの者達は皆通いでございますよ。ユーリ様が婚約者殿をお連れになっている、とお館様からお聞きしまして、皆でお待ちしておりました。本当に、こんなお可愛らしい方がいらしてくださってねぇ」


「ユリシーズ様、半年くらい前まで結婚したくないとか申されてたんですよ。ご嫡男なのに」


「えっ、そうなの?」


「セラ様とお会いして、百八十度お考えがひっくり返ったんですね。ホント、人生ってわからないものですね」


「先月、ユリシーズ様がとある姫君に騎士の誓いをした、とお館様が大喜びで領館中を駆け回られて。どんな方だろうって、私達すっごく楽しみにお待ちしていました」


「お館様、文字通り踊りださんばかりにお喜びだったわよね。お孫様がようやく考えを改めたから」


 忍び笑いが止まらない二人の侍女に、ユリシーズは足を止めて「聞こえてるぞ、お前ら」と胡乱な目で振り返った。


「あら、本当のことじゃありませんか」


「あんま余計なことをセラに教えるなよ」


「まぁ、そんな些細なことで揺らぐような間柄なのですか? セラ様、そこのところは?」


「うーん」


「え、そこ悩むところなの、セラちゃん。ユーリも微妙に凹んでないで何か言いなよ」


「こら、いい加減になさい。さ、セラ様。今晩はこちらでお休みください。お着替えは中にご用意してございます」


「ありがとう、マリーさん」


「私のことは、呼び捨てでよろしいのですよ」


「は、はい。慣れるよう頑張ります」


「セラは姫君だけど、わけありで最近まで女官見習いだったんだ。皆、よろしく頼む」


「かしこまりました」


「それじゃユーリ、俺戻るね。後は任せて、今日はもう休んでなよ」


「ありがとう。それじゃ、また明日な」


「おやすみなさい、アルノー」


 アルノーはニコッと人好きのする笑顔を浮かべ、胸に右手を当て略式の騎士の礼をすると、廊下を戻っていった。


「俺は隣だから、何かあったらすぐ呼べよ」


「うん。ありがとう、ユーリ」


「おやすみ」


 パタン、と扉が閉まって、セラは何とも言えず寂しい気持ちがこみ上げた。いつの間にか、居て当たり前のような存在になっている。どことなくしょげたセラを見て、侍女達はにんまりと笑った。


「さ、セラ様! 湯あみなさって、もう今日はお休みください。自己紹介が遅れましたが、私はエマと申します」


 セラよりも少し上くらいの、艶やかな黒髪とくるくるとよく動くはしばみ色の瞳の侍女が名乗ると、一緒にいたセラと同じくらいの侍女が進み出た。肩のあたりで切りそろえた薄茶の髪を揺らして、勢いよくお辞儀する。どことなくエリナを彷彿とさせる元気者だ。


「私はハンナと申します。どうぞよろしくお願いいたしますね、セラ様! すぐ奥様ってお呼びすることになるから、この呼び方、期間限定ですね」


「はいはい、二人とも。あなた達も遅くまでお疲れさま。もう今日はいいから、あなた方も領館に泊まってお行きなさい」


「はい、侍女長様!」


 おやすみなさいませ! と声を揃えて言うと、二人は下がっていった。


「さ、セラ様。湯あみのお手伝いをいたしましょうか」


「あの、一人でも大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」


「ふふっ。そうでございますか。では、簡単に浴室の使い方をお伝えいたしましょうね」


 優しいお母さんのようなマリーを、セラはとても好ましく思った。部屋の明かりで見ると、ふわふわとした巻き毛と柔らかな水色の瞳がアルノーにそっくりだった。驚いたことに、領館の客室はそれぞれの部屋に浴室が備え付けられており、蛇口を捻ると近くから引いている源泉が出てくるという。お湯が好きな時に使えるとは、なんと贅沢なのだろう。びっくりするやら感心するやらのセラに、明日の朝八時に起こしにまいります、と笑ってマリーは退室していった。


「はー」


 ほわほわとした甘いミルクのような石鹸の香りと、湯に浮かべられた花々の香りが浴室いっぱいに広がって、何とも言えない幸せな気分だった。ちゃぷ、と乳白色の湯から指先を出して、自分の腕をそっと撫でると指先がすべやかに動いた。この源泉には美肌効果でもあるのだろうか。ちゃぷちゃぷ、と顔も湯で撫でる。散々湯を愛でた後、着替えて髪を起毛布で拭ったが、まったく体の熱が引いていかなかった。暑すぎて寝付けない気がしたので、不用心かも、と思いつつテラスの扉を開けて少しだけ風を入れた。


「寝付けないのか?」


「ひゃっ!」


「何びっくりしてんだよ。隣にいるって言ったろうが」


 振り返ると、隣の部屋のテラスに起毛布を裸の肩にかけたユリシーズがいた。セラと同じく、湯上りに涼みに出てきたのだろう。亜麻色の髪の水滴が、室内の明かりを映してきらきらと輝いていた。


「ふ、服を着てよ」


 引き締まった上半身と、綺麗に割れた腹筋をばっちり見てしまって、セラは顔を赤くして俯いた。殿方の裸に縁のない生活をしてきたので、気恥ずかしくてユリシーズの方が見れなかった。部屋着のズボンを穿いていなかったら、こんな真夜中に絶叫していたかもしれない。


「暑いからイヤだ」


「風邪ひくわよ。あ、そういえば。肩の傷は良くなったの?」


「あの時のだろ。もう塞がったよ」


「よかった。すごい血だったから、心配してたのよ」


「動かしても、もう何ともない。心配かけてごめんな」


 ちら、と動かしている右腕を見ると、黒き有翼獅子の騎士団(グライフ・オルデン)の紋章が二の腕に彫られていた。


「ユーリ、その腕の刺青って、団員は皆してるの?」


「俺達だけだよ。すっげー痛いから勧めない」


「何か文字が書いてるみたいだけど、何て書いてあるの?」


「誓いの言葉」


「団の”我らは一つ、剣のもとに”って彫ってあるの?」


「いや……俺達”盾の仲間”だけの言葉だ」


「教えてよ。気になって眠れないから」


「ったく。ちょっと下がってろ」


「え?」


「よっ、と」


 ひょい、とテラスの手すりに長い足をかけて、セラの部屋のテラスへと飛び移ってきた。危なげない様子だったが、セラは一瞬胸がぎゅうっと引き絞られるような心地がした。


「ここ、三階よ! 危ないことしないで、心臓が止まるかと思ったわ」


 小声で怒りながら、べちん、と裸の背中を思い切り平手で打った。


「いてっ。二階から人抱えて飛び降りる俺だぞ。三階から落ちてもせいぜい打ち身程度だ」


「帰りは扉から帰ってよね」


「セラの部屋の前、不寝番がいるんだけど。この格好の俺が出て行ったらセラの貞操が疑われるけど、いいのか?」


「う」


「一応、俺だってそこはちゃんとしたい。正式なお披露目が済むまでは、絶対そういうことはしないから」


「紳士でいるってこと? とてもそうは見えないけど。は、裸だし」


「うるせ。ほれ、さっさと見ろ」


「読めばいいでしょ、何でわざわざこっちに来るの」


「……そばにいたいから」


 部屋から漏れる明かりに、目元を赤くしたユリシーズの顔が浮かぶ。たまに素直になると、こういう不意打ちでセラの胸をきゅんと締め付けるのだ。いつもながらずるいと思った。


「なぁ、さっき何で唸ってたんだよ。俺はセラが好きな気持ちは絶対揺るがないけど、セラは違うのか?」


「ち、近いわよ。離れて」


「答えてくれたら離れる」


 腕で囲われるように壁際に追い詰められた。すっと清涼感のある石鹸の香りがして、胸がばくばくと音を立てだした。頬にユリシーズが肩からかけている起毛布のふわふわした感触が当たる。お互いに薄着で、とんでもなく近い距離にいるという事実が、たまらなく恥ずかしかった。


「ち、違わない」


「本当に? 証明してくれよ」


「どうやって?」


「セラからキスしてくれたら、信じる」


「……っ、ちょっと、屈んで」


 セラは思い切って、ユリシーズの腕に手を置いて、少し背伸びをした。顔を傾けて、ユリシーズがいつもしてくれるように、そっと唇を重ねた。離れそうになった唇を逃さないように、セラの腰に、首筋に、力強い腕が回される。熱い唇がぴったりと重なって、頭の芯がふわりと浮きあがるような陶酔感が背中を駆け上っていく。いつもより深い口づけは、セラからのキスに強く応えるようなものだった。暖かく柔らかな舌がセラの唇を割り、何度も優しく舌を絡めとった。


「んん……っ」


 セラの鼻に抜けるような切ない息継ぎで、ユリシーズは我にかえった。鼻先を掠める甘い香りに酔ったように、頭の奥が痺れている。柔らかな身体を抱きすくめていた腕をゆっくりとほどいて、セラの肩をそっと掴んで回れ右をさせた。


「今のは、ちょっとやばかった……。もう、部屋に入っとけよ。俺の理性がもたないから」


 こくこく、と一生懸命にうなづく様子は小動物のようで、ユリシーズは少しずつ戻ってきた理性のおかげで笑う余裕を取り戻した。


「鍵、ちゃんとかけとけ。俺に夜這いされたくなかったらな」


 ココン、とテラスのガラス扉をたたいて、施錠を促す。セラは真っ赤な顔で、何度か失敗しながらしっかりと鍵をかけた。


「また明日な」


「おやすみ、ユーリ」


 ユリシーズの姿が、夜の闇へと溶け込むように見えなくなった。ガラス扉越しに、とすっと着地する軽い音、パタンとガラス扉の閉まる音を聞いて、セラはその場にヘナヘナと座り込んだ。恥ずかしさと照れの極地で走り出したい衝動に駆られたが、足が思うように動かない。艶を帯びた深い色をした蒼い瞳が、目に焼き付いて離れない。本当は、あんなに情熱的な一面があるのだ。


「ね、眠れなくなっちゃいそう……」


 何とか寝台によじ登ると、そっと身体を横たえた。掛け布のさらりとした感触と、たっぷりとお日様を浴びた暖かな匂い。そういえば、ユリシーズもこんな感じの暖かい匂いがしていて。


「〜〜〜っ、ユーリの、バカ〜」


 枕に突っ伏して、セラはジタバタと身もだえするしかなかった。


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