5. 帰路の途中で
ユリシーズはセラの瞳をじっと見据えたまま、気になっていたことを口にした。
「セラはシュタートに出た竜のこと、何か知ってるだろ。言え」
セラは思わず仰け反った。秀麗な顔が口付けする時のように近づいてきて、顔にまた熱が集まってくる。
「言え」
「い、言います。私、竜と会ったの。お話もした。私にしか、声が聞こえなかったけど」
「すまん、ちょっと意味がわからない。竜って、亜生物だよな? バカでかい蜥蜴は、喋れないよな?」
ユリシーズはセラから身体を離して、敷き布に胡坐をかくとセラと見合った。セラも困ったような顔をして頷いた。それが普通の人の反応だ。亜生物は話せないし、意思の疎通もままならない。動物となんら変わりのない存在だからだ。
「竜は竜でも、心話っていう、精霊魔術が使える竜だったの。すごく立派な、黒い竜だった」
「黒い竜ね。それで?」
「私が呼んだら助けに行くって言ってた。名前も教えてもらったの。本名は言えないから”カーレジ”って呼んでって」
「カーレジって、本に出てくる”竜使い”の四英雄だろ。何でまた、竜が名乗ったんだよ」
「私に聞かれても困るわ。それに、名乗る前からセラフィナって呼びかけてきたのよ。私のこと、知ってるみたいだった」
ユリシーズは竜がセラを「知ってるみたい」なのが引っかかった。一瞬だけある人の顔が過ぎったが、憶測で口に出して、セラを不安にさせたくはなかった。
「……調べる必要がありそうだな、そのでかい黒い竜のこと。とりあえず、うちの連中に見かけても手を出さないように通達を出しておくよ」
「ありがと、ユーリ」
ホッとして肩の力を抜いたセラに、ユリシーズは少しだけ微笑んだ。そして、先ほどから聞こえる、騎士達の騒ぐ声に形のいい眉を顰めた。
「さっきから何か騒がしいな。また悪ふざけしてんのか、あいつら」
「何かあったんじゃない? 行ってみましょ」
セラとユリシーズは、連れ立って賑やかな声がする方へとやってきた。草原に点在する天幕から少し離れた場所に、弓を構えて立つファンニがいた。その射線上には、なぜか木にしがみついているリオンの姿があった。
「オルガ、一体、何がどうなってるの?」
「副官殿がリオンさんにお仕置きしてる」
周りから離れて立っていた精霊騎士達の輪から、オルガが穏やかな笑みを浮かべながらやってきて、周囲の好奇心全開の目線からセラを庇うように立った。
「おしおき……。リオン、あの人に何したんだ?」
「私もよくわからない。古い知り合いだって、副官殿は言ってたけど」
ユリシーズの問いかけに、オルガは少し困惑したような表情を浮かべて、ちらりとファンニを振り返った。
「あ、ユーリ! あのおねーさま、すげぇぞ! 矢が貫通した!」
何やら興奮状態のマルセル、仕方ないなぁという笑顔のエーリヒとアルノー。ちょうど通りかかったアキムとフレデリクが、苦笑しながらセラ達のほうへやってくると、少しだけ真面目な顔でユリシーズに進言した。
「ユリシーズ様。あの精霊騎士のレディ、すごいですよ。ちょっと本気で勧誘したいのですが。我が団は射手が不足気味ですから」
「フィニは、俺達と段違いの腕前ですよ。俺もリオンも、射的で勝ったことがありませんから」
アキムの言葉に少しだけ考え込むと、ユリシーズはトゥーリに真面目な顔で言い放った。
「トゥーリ。副官殿を、黒騎士に勧誘したいんだが」
「ファンニがいいって言ったらね。うちは去る者は追わず、さ」
「た、隊長ぉ?!」
「馬鹿なこと言わんでください! あの人がいなくなったら、誰が隊長を諌めてくれるんですか!」
ぎゅい! と弓弦が重く軋む音がして、全員がそちらを振り向いた。矢がゴンッという立てて、木々の葉を揺らし突き立った。ファンニの放った矢は、矢羽の根元まで木の幹にめり込んでいた。
「も、もう二度といたしません……」
情けない顔で謝るリオンの頭スレスレに、続けざまに矢が二本、ガシガシと突き立った。
「すごい。二矢同時に放って、あの精度か」
フレデリクが心底感心したように呟くのを聞いて、ユリシーズは居ても立ってもいられなくなった。
「ファンニ! 俺にもその弓、引かせてくれ!」
「俺も俺も!」
好奇心に目を輝かせながら、マルセルと一緒になって駆け寄っていく。その背中に、アキムが苦笑交じりに声をかけた。
「ユーリ様、無茶しないでくださいね」
「危ないの?」
「さっき、弓弦の立てる音を聞いたでしょう? 張度が高すぎるから、変な引き方をすると肩を痛めてしまうかも」
ファンニはやんちゃそうな表情を浮かべたユリシーズに、愛用の強弓を手渡した。引く力、引かれる力を考え、強度が必要な箇所を革と特殊金属で補強してある。弓自体は軽くて子どもでも持てる重さだが、動物の腱で作った弦は高張度で、貫通力がずば抜けている。人を殺傷するためだけに作られた強弩だった。
「どうぞ。きちんとタブをつけてお引きください。指が切れますよ」
「わかった。マルセル、貸してくれ!」
「おう。あ、あのファンニさん、ユーリの次に、俺にも引かせてくれませんか!」
「どうぞ」
マルセルから弓弦を引く指を保護する革のタブを借りて装着すると、ユリシーズは矢が刺さっている木に対して直角に立ち、弓を構えた。弦に指をかけ、肱を大きく回りこませるように、ゆっくり引いていく。
「な、なんだ、これ。重い……!」
ぎち、ぎち、と軋むような音を立てながら、何とか矢を放つ体勢まで持っていくと、たまらずに指を離した。カン!と高い音を立てて、矢が木に突き立った。
「すごい! ファンニさんとまったく同じところに当たったわ! ユーリは弓も上手なのね」
無邪気に喜ぶセラの声が聞こえてきて、ユリシーズはそちらに手を振ってやった。騎士が馬上で扱う武具なら何でも扱えるのだが、ああやって喜んでもらえると実は密かに嬉しいので、当分黙っておくことに決めた。
放った矢を見ると、しっかり引き分けられなかったのに、矢束が半ばまで突き刺さっていた。張度が高く重たい弦ということもあるだろうが、この弓は貫通力が異常なほど高い。危なくて実戦どころか、稽古でも扱うには難しい。ファンニの腕に内心恐々としながら、ユリシーズは両手で弓を持ち、マルセルへ手渡した。
「この弓、どのくらいの重さなんだ?」
「大体五十ぐらい、でしょうか」
「ゲッ」
ユリシーズとマルセルは、同時に呻いた。
「よし、マルセル。団で一番のお前ならいける!」
「変な精神的重圧をかけるのはやめろよ。引けなかったら恥ずかしいだろ」
先ほどのユリシーズと同じように立ち、マルセルは矢をつがえた。精神を集中させながら、マルセルは異常に重たい弓を、少しずつ引いていった。
「マルセル、弓兵隊に恥かかせんなよ!」
「せめて当てろ! リオンに!」
「ば、バカヤロー! 殺す気か!」
そーっと木から離れて移動していたリオンは、野次る黒騎士達に向かって思わず怒鳴り返した。マルセルのほうを見ると、完全に射る直前の体勢に入っていたので、リオンは慌てて駆け出した。ほどなくガァン! と、およそ矢が立てる音とは思えない衝突音とともに、マルセルの矢がすべて幹にめり込んだ。
「おしかったですね。もう少し弓を引き分けていたら、貫通できました」
「ありがとうございました。あの、よろしければ俺に稽古をつけてもらえませんか」
「構いませんよ」
いつもの軽い調子を消して、マルセルは真摯な瞳でファンニを見返した。親友であり、主君でもあるユリシーズのために、役に立ちたい。この四年間、その思いだけでやってきたのだ。自分の糧になることは、どんなことでもやるつもりだった。
「トゥーリ、精霊騎士って何なんだ? 君達なら、精霊魔術なくてもいけるんじゃないか?」
「まぁね。霊力切れしないように、心身鍛錬は怠らないようにはしてるけど」
戻ってきたユリシーズにトゥーリは肩をすくめて答えると、後ろに控える親衛隊の面々を振り返って、穏やかに笑った。親衛隊に関して言えば、精霊魔術なしでも亜生物や術者に十分対抗できる。精霊騎士団の精鋭の中から選別された、複雑な霊場でもある『精霊殿』の奥深くに座する女神官長のために存在する部隊だから、精霊魔術なしで戦う技術に長けているのだ。
「その結果があれかよ。古史以来、完全中立を保てている理由が、よくわかった」
「理解できた? それはよかった」
「俺もやらせてもらおうかなぁ……」
ファンニから教わって自分の弓を引くマルセルの背を見ながら、アルノーがぽつりと呟いた。
「アルノーなら引けるけど、当たらねーんじゃなぁ……」
少しだけ目線を泳がせて、ユリシーズは隣に立つアルノーから顔をそらした。
「やめときなよ。アルノーは大剣とか斧とか、打撃系向きだよ」
頭から木屑を払い落としながら、リオンは半笑いで答えた。
「そうですね。アルノーは、剣だけならユーリ様と互角だけど……少なくとも技巧派ではないし」
アキムもため息混じりにそういうと、アルノーから目をそらした。弟のように可愛がっている彼が凹むのをみるのは辛い。
「怪我人が出たら大変ですよ。やめときなさい、アルノー」
フレデリクも上官として苦言を呈した。アルノーの投げた手槍が、戦闘中にほかの黒騎士を掠めたのは、一昨日のことだ。遠征中で限られた兵員でやりくりしなくてはいけないのに、怪我人は増やしたくない。
「みんなひどい。俺のこと、そんな風に思ってたのか」
「や、やってみなくっちゃわからないじゃないっ」
落ち込むアルノーを見かねて、セラは思わずユリシーズの服の袖を引いた。
「そうだな。セラの言うとおりだ。やってこい。そして現実を知れ」
ユリシーズは爽やかな笑顔を浮かべて、乳兄弟の両肩をぽんぽんと叩いた。
「あっさり意見を覆したね」
セラの苦言で、手のひらを返したように態度の変わったユリシーズを見て、トゥーリは可笑しそうに噴きだした。すでにセラの尻に敷かれ始めている。
「セラフィナ様が、トラウゼンを掌握する日も近いですね」
ユリシーズの腹心フレデリクも、苦笑しながらそんなことをのたまった。
結局、アルノーは余裕で弓を引くことはできた。だが、三回やって三回とも、あさっての方向に矢が飛んでいった。ファンニは困ったように眉を下げた。
「体勢も構えもおかしいところがないのに、どうしてあちらへ飛ぶんでしょうね」
「ホント、どうしてなんでしょうね……」
「アルノーさん、元気だして。もっと練習したら、きっと当たるようになるわよ」
「ありがとう、セラちゃん。でもね。俺、自分に弓の才能がないことはわかってるんだ……」
しょんぼりと俯きながら、アルノーは礼を言って、ファンニに弓を手渡した。そんなアルノーを見かねて、リオンは明るい声で励ました。アルノーには誰にも真似できない特技があるのだ。
「その馬鹿力で、敵兵を戦斧で真っ二つとかできるじゃない。そっちのがすごいよ。そんなこと、ユーリ様にだってできないよ」
ひく、と口元を引きつらせながら、セラも硬い声で賞賛の声をあげた。
「わ、わぁ、すごいのね」
「ま、真っ二つって、縦に? 横に?」
オルガは完全に引いた目をして、アルノーを伺い見た。こんな人畜無害そうな顔をしているのに、戦い方は凶悪そのものだ。真っ黒い甲冑の騎士が、大きな戦斧をあの黒馬から振り下ろす姿を想像した。まるで怪談の『首なし騎士』だ。恐ろしい。
「二人して、そんな怯えた目で、俺を見ないでください。ちなみに横です」
「セラ、おいで。そんな血なまぐさい話、聞いても楽しくないだろ」
「うん……想像しちゃった……」
差し出された手を取り、セラはユリシーズとゆっくりと歩き始めた。二人のまわりをさり気なく固めながら、アルノー達もあとに続いた。
「僕たちも行こうか。黒騎士達の撤収準備の邪魔になる」
「そうですね」
ぴた、と足を止めて、ファンニはすぐ後ろに居たリオンをじっと見てから、少し離れた場所の、矢が刺さった木を見た。
「リオン、矢を回収しておいて」
「俺がかよ!」
セラは『黒き有翼獅子の騎士団』の天幕周囲にたむろす黒騎士達からの敬礼に、笑顔で会釈をして応えた。見た目は厳ついが、皆気さくな感じだ。天幕の上座に座ろうとしていたユリシーズが突然足を止めたので、セラは目の前の背中に顔面からぶつかった。
「ファンニって、もしかしてあの時、俺にものすごく苦い薬をくれて、助けてくれた人?」
「覚えておいででしたか」
無表情のファンニが、一瞬目を大きくして、少しだけ微笑んだ。
「うん。ずいぶん遅くなったけど、助けてくれて、本当にありがとう」
「もったいないお言葉です」
鼻を押さえて不思議そうな顔をしているセラに、ユリシーズはフッと目を細めて笑った。
「俺は十四年前に、リオン達に命を助けてもらったんだ。偶然リオン達が通りかからなかったら、今ここに、俺はいなかった」
「ユーリ……」
「六歳の俺には、助けてくれたリオンが英雄に見えたよ」
「そうだったの。三人はユーリの命の恩人なのね。それがご縁で、仕官することになったの?」
セラのきらきらとした尊敬の眼差しに、アキムはふわりと微笑んだ。面と向かって命の恩人と言われると、何だかくすぐったかった。
「はい。リオンと俺が願い出たら、セドリック様は快く受けてくださって」
「俺が二人の後をちょろちょろついて回るから、父上が俺の側役にしたんだ」
想像すると顔が緩む。妖精の取替えっ子のように愛らしいユリシーズが、まだ少年だった二人にまとわりつく。それはそれは心和む、かわいい光景だったに違いない。
「俺達もユーリと一緒になってまとわりついてたよね。アキムさんは優しくておやつも作ってくれたし。リオンさんは馬鹿で楽しいし」
「馬鹿で楽しいのは今でもだろ。あの人、ホント昔からあんなだから」
「変わるのって髪形ぐらいじゃない? 一時期つるつるだったよね」
「ぶはっ」
アルノーがニコニコしながら言った言葉に、ファンニが突然噴きだして、ごほごほと咽た。
「無茶した罰に丸めてやったんだ。俺も剃りながら腹筋が攣るかと思った」
「俺を丸刈りにした後、地面にひっくり返って笑い転げてたよね。バカでしょアキム」
いつの間にか戻ってきていたリオンが、数本の矢をファンニに渡しながら、相棒の端正な顔を恨みがましそうに見た。セラはとことことリオンのそばまで行って、ぺこりと頭を下げた。
「私もリオンさんに助けてもらったのに、ちゃんとお礼を言ってなかったわ。助けてくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして。俺には、その言葉だけで十分だよ」
のほほんと笑うリオンに、セラも満面の笑みで頷いた。
「それじゃ、さっきの軍議で決まった明日からの予定を話すぞ。明日、俺達と友軍はここから撤収。友軍はこのまま北上して、西方諸侯連合の国境沿いに駐留。俺達はここから真西に進んでトラウゼンへ帰還。兵数が多いから三日ぐらいかかるかな。フレデリク、地図を」
傍らにいたフレデリクは、机の上に持っていた地図を広げた。それはこの地方一帯の地図で、十数か所に日付と×印がついていた。×印は帝国領とフィア・シリス領のあたりに集中していて、つい最近まで戦闘が行われていたことが一目瞭然だった。
「ここがシュタートの町で、ここがハーファー平野よね。今は、この川の上流辺り?」
地図を覗き込んだセラはすんなりした指で、ちょんちょん、と川の上流を指した。頷いたユリシーズは、長い指でセラの指した地点から、太く引かれた街道らしき線を辿り、一点をトントンと指した。
「ここがトラウゼンだよ」
「いつ出る?」
トゥーリは地図を眺めながら、出発時間を問うた。自分達親衛隊は、長く精霊殿を空けられない。速やかに任務を遂行しなければならなかった。
「明日の早朝だ。そうすれば夕方にはヘルネに着く。で、その翌朝にトリアムへ出発。明々後日の今頃にトラウゼンに到着だ。何か質問はあるか?」
「あの、私はまた、ユーリと相乗りなの?」
「そこかよ。資材運搬用だけど、馬車があるよ」
「馬車にしてくれる? できるだけこの子を人目に晒すのは避けろと、女史から言われてるんだ」
「俺もクレヴァ様から同じことを言われた。じゃ、セラは荷物と一緒に積み込むか」
「積み込む……荷物と一緒……」
呆然と呟くセラを見かねて、フレデリクは地図を畳みながら笑いかけた。
「セラフィナ様、ちゃんとした馬車ですから。ご安心ください」
「はい。フレデリクさん」
「セラフィナ様、臣下は呼び捨てにしていいんですよ」
フレデリクの言葉に、まわりにいたアルノー達もうんうんと頷いた。
「そうだね。何となくそのままにしてたけど、俺達にもさん付けとかしないでいいよ」
「俺達も何となくセラちゃんとか呼んでたけど、改めないとな」
「何て呼べばいいんだ? 若の嫁だから若奥様とか?」
「姫様、はまずいんだっけ。でも、姫君に仕える騎士って、何かカッコいいよな」
「難しい……」
「好きに呼べばいいんじゃないの? セラちゃんでもセラ様でも若奥様でも」
ユリシーズのすぐそばに控えているリオンは、セラの呼称問題に悩める側近達に噴き出しそうになった。そのやりとりを横目に、オルガはセラの肩をちょいちょい、と突いた。
「セラは何て呼ばれたいの?」
「わ、若奥様だって。何だか素敵な響きよね」
その完全に緩みきった顔を見て、オルガは呆れた目をしながら、皆のほうを振り返った。
「お嬢様でお願いします」
黒騎士達を苦笑交じりで眺めていたトゥーリは、パンパン、と手を打った。天幕にいた全員がその音にハッとなって、動きを止めた。
「さて。今後の予定もわかったことだし、そろそろ失礼させてもらいたいんだけど。僕達はどこで休めばいい?」
「俺がご案内します。皆さん、こちらへ」
トゥーリ達がアキムに先導されて出て行くと、側近達も仕事が残っているから、などと言いながら出て行ってしまった。再び二人だけになってから、セラはユリシーズをちらりと見た。腕を組んで、地図を見ながら難しい顔をしている。話しかけづらいが、大事なことなので確認しなければならない。
「ユーリ、私はどの天幕で休めばいいの?」
「俺のを使え」
「えっ」
「何か問題でも?」
「あるに決まってるじゃない! い、一緒って……あの中で?!」
涼しい顔をしたユリシーズの黒い長衣の胸倉をしっかと握って、思いっきり揺す振った。びくともしないのが悔しい。
「ぷっ」
横を向いて、口を押さえて噴出すユリシーズに、セラは食って掛かった。今は笑うところではないはずだ。
「何笑ってるのよっ」
「一緒なわけないだろ。セラはオルガとファンニと三人で、俺の天幕を使ってくれ。それに俺は順番は守る派だ」
「順番? 何の?」
「いや、こっちの話。それにしても傑作だな、さっきのセラの顔。期待させて申し訳ない」
悪戯小僧の顔でニッと笑うユリシーズを見て、ようやくセラは担がれたことに気がついた。
「か、からかったのね」
「セラが勝手に勘違いしたんだろ」
「何でこの人いっつもこうなの! それじゃ、ユーリはどこで寝るのよ」
「リオンとアキムの天幕に行くけど?」
「でも、殿方三人じゃ狭いんじゃないの?」
「リオンがちっさ、オホン! どっちかが不寝番でいないから大丈夫」
「不寝番?」
「セラの護衛をするんだってさ。好きにさせてやって」
「寝ないで護衛するの? 私、かえって迷惑かけてるのね」
しゅん、とするセラを抱き寄せると、しなやかな腕が遠慮がちにすがり付いてきた。雛鳥のように暖かく、柔らかなセラの身体を抱きしめると、胸を締め付けるような愛しさがこみ上げる。誰にも渡さない。渡したくない。本能のままに愛しい女を奪いたい自分と、それを抑えようとする冷静な自分とがせめぎ合った。
「迷惑なわけないだろ」
「そう、なの?」
「そうなの。俺はまだやることがあるから、セラは休んでろよ。長旅で疲れてるだろ?」
セラが顔を上げると、蒼い瞳が柔らかく細められ、どこか甘い色をしていた。胸をきゅうきゅうと愛しさが締め付けて、黒衣を掴む手にきゅっと力が篭った。
「オルガ、つかぬことを聞きたいんだが」
オルガは自分の割り当てられた天幕に移動中、エーリヒに呼び止められた。立ち止まって振り返ると、ユリシーズの側近四人が立っていた。赤毛の彼はずっと姿が見えなかったが、旅装姿を見るに、ついさっき戻ってきたのだろう。
「何?」
「お嬢の、好きな男のタイプ知らない?」
「……何で、そんなことを聞く? 知ってるといえば知ってるけど」
「教えてください」
「俺達のことは犬とおよびください」
「いや、犬はマルセルだけでね」
「ユーリの、ひいてはお嬢のためだと思って」
大の男四人に囲まれて、オルガは冷めた目で周りを見回した。ユリシーズの四人の側近達は、何を思ってそんなことを言い出したのかわからないが、遠くのほうからこちらを見ている、背の高い黒髪の男が原因かもしれない。
「渋い人」
「はぁ!?」
「筆頭宰相が好みだと、前に言っていた。渋くて落ち着いてて素敵な方だわって」
「い、いくつの人?」
「私の父と同期だから、四十は過ぎてたと思うよ」
オルガの言葉に、マルセルは頭を抱えた。フーゴがその隣でしたり顔で呟く。
「何てこった、ジジ専かよー」
「だからかわいいのに男がいなかったのか。納得」
「お嬢はユーリを選んで正解だと思う。お館様はお年を召してもすごく渋くてカッコいい。ユーリの父上も苦みばしった大人の男だったから、あと十年、いや二十年待ってもらえたら、限りなく理想に近づく」
腕を組み、黙って仲間達の事を見ていたエーリヒは、至極真面目な顔で淡々と言った。オルガは四人の様子に呆気にとられた顔になりながらも、渋いおじさんが好きだという本当の理由を告げた。
「お嬢って、セラのこと? まぁ好きに呼べばいいけど。ジジ専とかじゃなくて、セラは父親を知らずに育ったから、大人の男に憧れみたいなものがあるだけだと思うよ」
オルガはやれやれ、といった風情で、割り当てられた天幕へ歩き出した。リオンに四バカと呼ばれている理由が、ちょっとわかった気がする。愛すべきバカ達は、主君に似て真っ直ぐで優しい。自分が北方に帰っても、彼らになら大切なセラを任せても大丈夫。まだ頭を寄せ合って何事かを相談しあう彼らを肩越しに見て、オルガは口元を緩めた。
「そっか。ならアーネストは論外だな。女が好きそうな甘ったるい顔だし」
「ユーリも冷たい感じの男前だろ。男にもてる感じの」
「男にもてる?! フーゴ、それ本人に言うなよ」
目をむいてマルセルはフーゴに釘を刺した。とばっちりを食うのはごめんだ。
「言うか。絶対蹴飛ばされる」
「セラちゃん、ユーリにぞっこんだし、俺達があれこれしなくっても」
困り顔のアルノーに、マルセルは真剣な顔で迫った。
「わかってないな、アルノー。すべてを万全に。クレヴァ様の教えを忘れたか」
「”ちゃん付けしたら全員にエール一杯ずつ”の約束を忘れるなよ。これで三回目。ごっつあんです」
フーゴの真面目な声に、アルノーはさっき全員で決めた約束事を思い出した。三回も言っていたとは、まったく気づかなかった。
「うそ、俺また言ってた?」
「言ってた言ってた。俺達、当分酒場でエールに困ることなさそうだな」
「助かるなぁ」
「あ、お前ら、こんなところにいたのか。明日の隊列で、ちょっと変更点があるから来てくれ」
良く通る低い声がして、四人は一瞬だけ固まった。振り返るとこっちへ来い、と手招きをする、主君の姿があった。
「変更ね」
「それって婚約者殿のため?」
「それもあるが、問題が出た。いいからさっさと来い」
「イライラするなら菓子を食えよー」
「してない。さっさと来い。こうしている間にも、お前らの休み時間が減るぞ」
「了解」
四人は声を揃えて敬礼すると、ユリシーズの後について歩き出した。
セラはユリシーズの天幕で、ふわふわの敷き布にちょこなんと座って、本を読んでいた。机代わりの木箱の上に置いてあった『西方大陸における近年産業史と経済発展について』という論文だ。ユリシーズは勉強家なのか、農地改革についての本や、治水と土木建築の本なども持参してきていた。
「さっぱりわからないうえに、読んでいると勝手に目蓋が閉じていくわ。睡眠導入にぴったりね」
「おバカなこと言ってないで、ちゃんとしおりを元の場所に戻しておきなよ。怒られるよ」
「……うん」
「なんですか、今の間は。わからなくなっちゃったんですか?」
「だ、大丈夫、大丈夫。……だと思うんだけど」
「私、何も聞かなかった。何も知らない。ね、ファンニ」
「はい、オルガ様。私も何も存じません」
「お、怒るよね、怒られるよね。ユーリの本、悪戯しなきゃよかった」
亜生物と帝国軍の来襲に備えるための駐留地にありながら、何とものんびりとした三人は、意外と居心地のいい天幕で寛いでいた。分厚い織物でもしっかり風を通すので、中は快適な温度に保たれている。地面に敷かれた布の上に敷かれた毛織物は、ふかふかとして座り心地もなかなかだった。
「正直に言って謝れば、許してくださるのでは」
「もちろん、誠心誠意、謝るわ」
「おい、ユリシーズ、いるのか?」
ばさりと入り口の垂れ幕が突然めくられて、一人の青年が顔を出した。すらりと背の高い、黒髪にとび色の瞳の、意志の強そうな青年だった。
「どなたですか? ユリシーズ様は、こちらにはいらっしゃいませんよ?」
「っ、失礼した! 私は、アーネスト。アーネスト・ダズリングという」
いつもの習慣で侍女然とした受け答えをすると、相手はセラと目が合って、焦ったように垂れ幕から手を離した。
「私はセラと申します。そ、そのぅ」
「ユリシーズが言っていた婚約者殿とは、あなたか?」
「まだ正式にお披露目はしていませんが、一応、そういうことになっております」
「そ、そうか、それは失礼した。出直してくるので、取次ぎは不要だ」
「かしこまりました。おいでになったこと、ユリシーズ様にお伝えいたします」
「すまない」
青年は謝罪の言葉を残して、慌しく駆け去っていった。足音がしなくなってから、セラ達は顔を見合わせて、ほっと息を吐いた。
「びっくりしたぁ」
「オルガ様、私、少し外します。側役のどちらかをつけてもらわないと」
「お願い」
「側役って、リオンさんかアキムさんを呼ぶの? 悪いわよ、二人とも忙しいのに」
「いいから。あの人、セラがここに来た時から食い入るように見てたから、ちょっと気にはなってた。単なる横恋慕ならいいんだけど」
「え、さっきの見目麗しい騎士様が? それはないんじゃない?」
「セラって、かわいらしい顔してるし、気立てもいいし、品の良さもあるからね。おまけに女官候補だったでしょ? お嫁さんにしたいって人は多かったんだよ。お見合い話がうちに来て、お父様が額に青筋浮かべながら送り返してたもの」
「は、初耳なんですが! そういえば、先生もよくお庭で”いらない本を燃やしてるのよ”って紙の束燃やしてたけど、まさかあれも?」
「活字中毒者が焚書するわけないでしょ。後見人の先生のところに来た話は、結構本気度高かったよ。第二師団のえーと、名前なんていったかなぁ」
「オルガが、いちいち芋の形を覚えてるわけないよね……」
「名前は忘れちゃったけど、わりと男前が二人、本気で頑張ってたのは知ってる」
「良くしてくれる騎士様は確かに居たけど。恋愛対象にされてたなんて、全然気がつかなかったわ」
ユリシーズは努力の甲斐あって、セラの心を掴んだ。面と向かって直球勝負を仕掛けたのが功を奏したに違いない。セラのほうも出会ったときから心安かったと言っていたから、これも縁なのだろう。本人の知らない所で想いを寄せられる法則が、発動しないことを祈るばかりだった。