2. 翼あるもの
セラ達を乗せた乗合馬車は、昼二時の鐘がなる頃にトーバックを出発した。途中、停留所に二回止まり、夜六の鐘の鳴る頃に着く予定になっている。馬車の前後にトゥーリとスヴェン達がついているので、他の乗客も安心したようにのんびりと過ごしている。セラとオルガも、窓から流れていく景色を眺めながら、とりとめもない話をしていた。
「ねぇ、セラ。レーレを呼んでみたら? ユリシーズのところに、先代領主からセラが来てるって伝わってるはずだよ」
「あ、そっか」
「どっさり書いてた手紙、あれはどうしたの?」
「まだ持ってる。先週、何通かは船便で出したけど」
「手紙と同着かもね。あの人、セラをいじることに全力出すから、きっと目の前で音読してくれるよ」
「い、いやあ、そんなの! 恥ずかしすぎる」
「レーレに託す伝言は、読まれてもいい内容にしたら?」
「言われなくてもそうするわよ。とりあえず……っと」
『やっと西方に着きました』
セラは手帳の端を切って、それだけを書いた。用心してあえて名前は書かずにおいたが、たぶん手跡でセラとわかるはずだ。このちまっとした、丸っこい字。ユリシーズに散々「ちんまい字だな」と笑われたので、何とかクセを直そうと頑張っては見たものの、あまり改善は見られなかった。
胸元にしまっておいた鷹笛を出すと、二回だけ噴いた。セラは鞄から小さな肩掛けの鞄を取り出すと、別の袋に入れていた胡桃をそれにしまった。いつ来てもレーレにあげられるように、準備しておくに越したことはない。モタモタしてレーレに「はやくしろ」と突かれるのはごめんだった。
「音がしないんだね。猛禽類にだけ聞こえる音が出てるのかな」
「たぶん。西方大陸って鷹で狩りをしたりするんでしょう? 本で読んだわ」
「辺境も辺境、『深淵の森』に住んでる土着の一族だけだよ。昔はそうやって、兎とか小さな鳥とか獲ってたんだって」
「今もいるのかな?」
「さぁ……何年も前に帝国軍の焼き討ちにあったみたいだから、もういないんじゃないかな」
「そう……帝国って昔から、酷いことしてるのね」
父の祖国は、とんでもない国だ。父が賛同する者達と反旗を翻してからは、そちらにばかり兵を向けるようになり、何の罪もない民達を虐げることはなくなったという。父のしたことは、きっと西方大陸の人々にとって救いになっているのだろう。それはセラにとっても救いだった。会ったこともない唯一の伯父が皇帝として君臨し、得体の知れない力を利用して、西方大陸に住む人達を、セラの大切な人を虐げていると思うと気分が塞がる。
「ま、それを何とかするために、セラの旦那様が頑張ってるわけだ」
「ま、まだ、旦那様じゃないよ……婚約だってしてないし」
「あっちは一族郎党諸手をあげて、完全にそのつもりみたいだけど。まさか……」
「ち、違う。ちゃんと心の準備は出来てるの。もうちょっと、あの、その」
「恋人同士でいちゃいちゃしたい?」
「そう。それそれ。私、さびしんぼう期間が長かったから憧れてたの。みんなみたいに逢引したりとか」
「……今のユリシーズに、そんな暇、あると思う?」
「ううん……ないと思う……」
「それなら結婚してから、いちゃいちゃすればいいんじゃない?」
「うーん。それも何か違う気がするんだよねぇ」
オルガは話の振り方を間違えた、と思った。セラから惚気話が聞ける日が来るとは思わなかった。次の町に着くまで、セラの妄想に近い逢引計画を腹いっぱい聞かされ、途中から適当に相槌を打つ人形のように、うんうんと頷くだけになった。
リンベルクに着く一つ前の停留所で、セラは皆から離れて”花摘み”に行った後、上空で旋回する鳥の影を見つけた。慌てて胸元の鷹笛を二度吹くと、旋回していた鳥が急降下してきた。
「レーレ!」
セラの差し出した腕に、薄い灰色をした小型の鷹が舞い降りた。くるんとした金色の瞳が、じっとセラを見ていた。
「う、動かないでね」
腕に止まったレーレをおっかなびっくり抱えて、金属の筒から小さく折りたたまれた紙を取り出した。手紙を取りだす時にユリシーズを甘噛みしていたから、てっきり突かれまくると思ったのだが、レーレは大人しかった。再度腕に戻そうとすると、自分から上手に肩のほうへと移動する。本当に、よく人に慣れていた。
「その子がレーレか。さっき鳥が見えたから、もしかしてって思った」
少し先に戻っていたオルガが駆け寄ってきて、セラの腕に止まった小さな鷹を見て微笑んだ。
「うん、本当に来たの!」
取り出した紙をそっと広げると、何度も見た達筆な文字が目に入った。ユリシーズの手跡だ。
「今どこだ? だって。こ、これだけ?」
「下に、古語で何か書いてあるみたいだけど」
「あ、本当だ。小辞書、持ってきててよかった」
「頑張って読んで。ちなみに次の目的地はシュテートだから」
「うん。もしかして、迎えに来てくれるのかな」
「まだ帰還中なら、意外と近くにいるのかもね。レーレを笛で呼んで、結構すぐ来たでしょう」
「うん、二時間ぐらいで来た。約束どおり、レーレを飛ばしてくれてたんだ……」
『セラが西方に着く頃、レーレを飛ばすよ』
離れ離れになる直前、ユリシーズはそう言っていた。今どこにいるのかわからないが、この青空の下、同じ大陸にいると思うと寂しさが霧散していった。セラは満面の笑みを浮かべて、殻から出しておいた胡桃を一粒、レーレの口元に持っていってやった。「キュルル」と甘えたように鳴いて、美味しそうに頬張った。
「レーレ、お願いね」
セラは”今日はリンベルクで一泊して明日シュテートに向かいます”と書き足して、小さく紙を折りたたむと、レーレの足についた金属の筒に入れて、しっかり蓋をした。オルガに両手でしっかり抱っこされたレーレは、再度セラの腕に止まると、期待に満ちた金色の瞳で見つめ返してきた。
「わ、わかったわよ。あなたのご主人からあげ過ぎるなって言われてるけど、もう一粒だけあげるわよ。だから、しっかり運んで頂戴」
セラは小さな肩掛け鞄から、もう一粒だけ胡桃を出すと、レーレに差し出した。キュルルと嬉しそうに鳴いて、美味しそうに啄ばむ姿を見て、オルガが笑い出した。
「な、何か、セラに似てない? 食い意地の張ったところが」
「う、うるさいわね。私はここまでじゃないわよ」
セラは鷹笛を咥えると、一度だけ強く吹いた。明らかに何かが聞こえた様子で、レーレが大きな翼を広げて、数度空を打った。顔に風が当たり、思わず目を閉じる。再びセラが目を開けると、力強く羽ばたきながらレーレが上昇していくところだった。セラ達の視界から見えなくなるまで見送ると、オルガと顔を見合わせて笑いあった。
「そろそろ戻ろう。どこまで花摘みに行ってたんだって、スヴェンが怒る」
「スヴェン様って、そういう嗜みのないこと、平気で言うよね」
「おじさんだから、しょうがないよ」
「そうね、おじさんだもんね」
本人が聞いたら肩を落としかねないことを言いながら、二人の娘は仲良く停留所まで戻っていった。
時間通りにリンベルクに着いて、皆で食事を取った後。セラは宿の部屋に篭って、ユリシーズからの伝言を訳すことにした。二行だけが古語。セラ宛てだとわかるように、あえて古代文字で書いてあるのだろう。
「んっと、これは”会う”の、進行形だから、会いたい、ってことかしら」
最初の行は、わりと簡単に訳せた。というか、訳しやすいように、単語が並べられているだけだった。
会いたい。
離さない。
そばにいて。
たった三つの単語に、ユリシーズのセラへの想いがつまっている気がした。切なくて、会いたくて、堪らなくなった。
「本当に、古語辞書持ってきててよかった。私も古語で返事が書けるもの」
続けて、次の行の翻訳に取り掛かった。こちらは、あの帳面の悪戯書きのように、古い詩の一節になっているようだ。
「意外と乙女なのね、あの人」
セラが寝落ちしそうになりながら、頑張って訳した一文は、相変わらず難解だった。古い歌劇に出てくる台詞に、こんな言い回しがあったような気がするが、正しく訳せているのかいまいち自信が持てない。
『恋というものは、おいそれと胸の砦を出ていくものでありますまい』
ようするに、好きになってしまうと、簡単にその想いは胸から消えることはない、ということだろうか。セラのことを好きでいてくれるのなら、何も言いますまい。頑張って返事を書き終えると、よろけながら寝台に倒れこみ、セラは夢の世界へと旅立っていった。
翌日も、非常にいい天気だった。宿の食堂で、セラとオルガが朝食を摂っていると、渋い顔をしたトゥーリが戻ってきた。
「トゥーリ様、どうされたんですか?」
「とっても渋いお顔」
セラの言葉に、ますます渋い顔になったトゥーリが、ため息をつきながらオルガの向かいに座った。
「セラ、うるさい。あんまり嬉しくない知らせだよ。この先で亜生物が出たらしい。それも竜型の」
「え、竜は北方にしかいないんじゃ」
「そうなんだけどね。このあたりでは山奥でたまに影を見かけてたらしい。でも、昨日は人里の近くに現れたって」
「怖い……大型亜生物なんて、西方大陸の人からしたら脅威ですよね」
「まぁスヴェンがいるから、心配はいらないと思うけど。二人も注意してね。いざというときは、馬で行くから」
「わかりました」
「はい、トゥーリ様」
セラとオルガの良い返事を聞くと、トゥーリは薄紫色の瞳を細めて微笑んだ。
「ところで、オルガ。エアリエルと話は出来た?」
「いいえ。声は聞こえるのですが、一方通行で会話になりませんし、召喚にも応じてくれません」
「そっか。僕もジャン達の声は聞こえるんだけど、力を顕現させるのに骨が折れる。他の連中も同じかな」
「スヴェン様も隊の皆も、同じことを言っていました。声しかしない、と」
「女神官長の言ったとおり、やはり西方大陸は霊的に閉じられているようだね。アキムが北方に来て精霊の姿を初めて見た、というのもこれで理由がつく」
「トゥーリ様は、誰がそうしたか、予想はついているんですか?」
「うん。ここでは言えない、やんごとなき方の仕業だろ」
「じゃ、その閉じた空間がなくなれば、西方大陸にも精霊使いが現れるのかしら」
「それは……」
言いよどんだオルガに代わり、トゥーリが周りをさっと見回してから言った。
「現れない、だろうね。少なくとも、閉じている間に生まれた者達は精霊使いにはなれないよ。術者の自我が芽生える前に、精霊憑きになってしまうから」
「トゥーリ様のように、守護精霊の守護がないと、ですか?」
「そういうこと。ほら、二人とも、ちゃんと食べて。今日は迂回して別の道からシュテートに行くけど、途中でお昼を取るために休憩しないよ」
「えー、お昼抜き?」
「セラは、竜型のお昼ご飯になりたいの?」
「ユーリにも会えず、あわれセラは竜型のお昼ご飯か」
毒舌家の二人から淡々と言い返され、セラはむうっと頬を膨らませて、フラグルのジャムをたっぷりつけた白パンにかぶりついた。
乗合馬車はセラとオルガ以外、誰も乗っていなかった。竜型亜生物の話と、つい最近までこの辺りであった戦いの名残が、人々の足を海路へと向かわせたのだろう。少し料金は嵩むが、海側の町から船でシュテート方面に向かったほうが、早くて安全だ。
「スヴェン様が朝から絶好調なのは、竜と戦えるかも知れないから、なのね」
「ああなると、ほとんど病気だと思う。隊の皆も生き生きしてたし」
「おい、聞こえてるぞ嬢ちゃんたち。俺を病気扱いするんじゃねえ」
窓の外に、馬車と並走するスヴェンがいた。窓を開け放しておいたから、声が聞こえていたのだろう。半目でセラとオルガを睨みつけると、さっさと馬車の前へと駆けて行った。
「聞こえてたみたい」
「そうみたいだね」
セラとオルガは顔を見合わせると、二人同時に噴き出した。トラウゼンへの旅路は、傾斜のない穏やかな草原を行くので、竜型が身を潜めるような場所はどこにも見えない。きっと、このまま何事もなく進むはずだ。全員がそう思っていた矢先、予想もしない事態が起きた。
「竜だ!」
「でかい!」
外からスヴェンとスヴェンの部下が叫ぶ声が聞こえて、馬車が急停車した。そのはずみで、セラは向かいに座っていたオルガのところに吹き飛ばされた。
「い、いたた……膝打ったぁ」
「大丈夫?! セラ!」
「二人とも、馬車から降りて。森の中に走れ!」
抜き身の剣を提げたトゥーリが、馬車の扉を開いてセラ達を促した。
「はい!」
オルガに手をひかれて、セラは馬車から降りた。そして、前方を見て足が竦んだ。本当に竜がいた。小さな小屋ほどもある大きな体躯。黒々と光る鱗。小型の短剣ほどもある鋭い牙。蝙蝠のように薄く巨大な翼。爛々と輝く紫色の瞳。どこからどうみても、北方大陸の辺境に住まう、大型亜生物の竜だった。
その竜と、セラはばっちり目が合ってしまった。恐ろしさで、身体が固まったように動かなくなった。
「ちょっと、セラ! 早く!」
『セラフィナ』
セラの耳に自分の名を呼ぶ、懐かしい声のようなものが聞こえた気がして、思わず竜を振り返った。便宜上、亜生物と呼ばれてはいるが、竜は他の亜生物とは一線を画する。古くから存在する竜には、精霊を従える力を持ち、人語を解するものがいるという。
「私の名を、どうして知っているの?」
『知っている? 知っているとも。俺に戦うつもりはないから、皆に剣を下ろすように言ってくれないか』
「……トゥーリ様、スヴェン様。この竜に、戦う意志はないようです。剣をおろしてほしい、と言っています。なぜかわからないけど、声が聞こえるの」
「ただの竜型じゃない、ってことか。心話が使えるなら精霊化した獣だ」
「瞳が紫だな。誰か憑いてるのか。おい、嬢ちゃん、名前を聞いてみろ。精霊みたいに使役できるかも知れんぞ」
剣を下ろしたスヴェンが、笑いながら言うので、セラはおっかなびっくり竜の名前を尋ねた。
「あ、あのぅ。お名前は?」
『……カーレジ』
優しく響いた声に、セラは目をまん丸にして皆を振り返った。
「よ、よんえいゆうの名前を言ってます……。あなたは、四英雄なの?」
『違うよ。本名は言えないから、そう呼んでくれ』
「わ、わかったわ」
『呼んでくれたら、助けに行くから。それをどうしても言いたくて、来た』
「私を? なぜ?」
『それも言えない。もう行くよ。人前に姿を現すと皆が怖がるから。何かあったら、俺を呼ぶんだよ』
それだけをセラに言うと、竜は音もなく翼を羽ばたかせて、一気に上空へと飛び立った。打ち下ろすような風がセラ達を押さえ込んだ。砂埃に咽ながら、セラが目を開けると、どこにも真っ黒な竜の姿はなかった。
「何だったんだろう。あの竜、明らかに誰かが憑いてた」
「おーい嬢ちゃん、どうだ、言質は取れたか」
「は、はい。呼んでくれたら助けに行くって」
「それ、ホント? 竜が人をわざわざ助けるなんて、聞いたことがない」
「マジすか、それ。まるで四英雄の”竜使い”じゃないすか」
「俺達には、グルグルいう凶悪な唸り声にしか聞こえなかったのに」
「すげー味方がついたな、嬢ちゃん」
興奮した皆が言うように、セラにしかあの竜の声は聞こえなかった。何故だかそれを人に知られてはいけない気がして、助けを求めるようにトゥーリとオルガを見た。
「皆、すごいもの見れて嬉しそうだけど、このことは僕達だけの胸に収めてくれないか。あの竜が何にしろ、セラと話をした事実は知られたくない」
「確かにな。おいお前ら。わかってるな」
全員が沈黙の誓いをしてみたのを見て取り、スヴェンも同じように口を手で隠してその手を胸に置いた。沈黙の誓いをした後に、セラを見てニヤリと笑った。
「セラも、誰にも話さないほうがいいと思う。ユリシーズには事情を話したほうが、後々いい気がするけど」
「うん。折を見て、伝えてみるね」
セラはあの竜に会って、名を呼ばれてから恐れがなくなったのが不思議で仕方なかった。若い男性のようにも聞こえるその声は、どこか懐かしいような気がしたのだ。名前を知っていた理由を教えてもらえなかったのが、ひどく心残りだった。




