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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
北方大陸編
22/111

22. 私の道はあなたへと続く

 一曲踊り終えたら、すぐに引っ込むつもりだった二人は、ガルデニア王が楽しそうな顔で「続けよ」と言っているような気がして、二曲目も続けて踊ることにした。軽快な曲調の円舞曲が始まると、招待客が次々と輪に加わっていった。


「私ね、こんなに大勢の人の前で踊ったの、初めて」


「楽しい?」


「うん、ユリシーズと一緒だから」


「……そっか」


「なぁに、照れてるの?」


 にまにま笑うセラに、形の良い眉を顰めて、ユリシーズは悔しそうに呟いた。


「くそ……手が塞がってなかったら、黙らせてやるのに」


「憎まれ口を叩くのは、照れ隠しなんでしょ?」


「覚えてろよ」


 傍目には睦言を囁きあう恋人同士に見えても、似た者同士の二人は、照れ隠しに憎まれ口を叩き合っていた。


「もう少ししたら、八の鐘が鳴るな。俺、仕事の話があるから、リオン達とケーキでも食べてろ」


「うん……」


「何しょげてんだ。すぐ戻るから」


 頬に軽く暖かい何かが触れて、セラは驚きに瞳をまん丸にした。人前で踊るのが苦手だという人が、人前で頬にキスをするのは大丈夫なのだろうか。

 案の定、遠くのほうでマイラ達の何やら騒ぐ声がした。セラ達のすぐそばで婚約者と踊っていたイーダが、気の強そうな瞳を半月の形にして笑っていた。


 二曲目の円舞曲が終わると、セラとユリシーズは、玉座のガルデニア王に深々と礼をして下がった。腕を組んで黒騎士達の集まる場へと戻ると、アルノー達が揃って待っていて「よぅ、ご両人」「やるねぇ」と口々に冷やかした。


「二人とも、えらく目立っていたね」


「トゥーリ様!」


「まさか、冷やかしに来たのか?」


 切れ長の瞳をスッと細めて、冷ややかにユリシーズを見ながら、トゥーリは鼻で笑った。


「バカじゃないの? 忙しい合間をぬって、わざわざ君を迎えにきたんだよ。感謝してくれる?」


 不穏な空気を漂わせる二人の間に挟まれて、オロオロうろたえるセラに、トゥーリはにっこりと優しく微笑んだ。


「セラ、ごめんね。ちょっとユーリを借りるよ」


「は、はい」


「何だ、このセラとの温度差。風邪ひきそうだ」


「つべこべ言わずに来てよ。僕は下がりたくて堪らないんだ。疲れてるんだ。休みたいんだ」


「わ、悪かったよ。色々やってもらって、感謝してるよ」


「わかってるならいい。いくよ」


「少し外す。セラを頼むぞ」


 ユリシーズは、セラの背をそっと押して離れた。すぐそばにあった温もりが消えていく。真っ直ぐに伸びた背を見送ると、何とも言えない寂しさが募った。


「セラちゃん、こちらにどうぞ」


 アキムが声をかけると、たよりない細い肩がぴくりと動いて、ゆっくりと振り返った。とことこと円卓のそばにやってくると、ぱぁっと翡翠の瞳が明るい色に染まった。


「チョコのケーキ! ありがとうアキムさん」


「お茶も入れましょうね」


 アルノー達四人は、さりげなくセラの周りを固めて、無粋なダンスの申し込みからの壁になっていた。上背があり、鍛えられた身体をした彼らは、妙な凄みがある。ワインを片手に談笑しているだけなのに、貴族の子弟はすごすごと撤退していった。人ごみを抜け、深い藍色の侍女服を着たマイラ達がやってくると、しゃんと背筋を伸ばし、我先にと彼女達を迎え出た。


「さっきの、見てたわよ。愛されてるわね」


「謁見で言ってた『一輪の花』ってセラのことでしょ? 陛下も粋なことをおっしゃるのね」


「一枚絵みたいで素敵だったわ。私、うっとりしちゃった」


 三人はもぐもぐとケーキを頬張るセラを見て、かわいそうな子を見るような目になった。


「せっかく綺麗に着付けてあげたのに。あなたって子は」


「食い意地が張ってるのは知ってたけど。今晩くらい控えなさいよ」


「髪が少し崩れてるわ。控え室に戻りましょ」


「んぐ、ま、まって。これだけは食べさせて」


「後にしなさい」


 引っ立てられるように腕を取られたセラを見て、黒騎士達は声を立てて笑いだした。女官用の控え室として用意された小部屋に連れて行かれると、そこには食事が用意されていた。晩餐会とほぼ同じ献立で、セラ達は大いに喜んだ。


「とりあえず、セラを直す前に、夕食にしましょ」


「お腹すいちゃった。お客様に取り分けるばかりで、食べられないんだもの」


「あ、待ってセラ。エプロンを膝にかけて」


「ありがとう、マイラ」


 マイラは自分の白いエプロンを外して、セラの膝にかけてやった。四人で母なる精霊に感謝の祈りを捧げていると、イーダとマルギットが連れ立ってやってきた。


「皆さん、ごきげんよう」


「やっぱりこちらでしたのね」


 イーダは柔らかな絹のチュールを重ねた艶やかな真珠色のドレスを、マルギットは幾層にも重ねられた繊細なレースが美しい、冬空のような透き通った水色のドレスを纏っていた。


「ちょっと、セラ。本物の貴族のお姫様と並んでも、負けてないわよ」


 薄桃色のドレスの裾をゆったりと流し、横椅子に掛けていたセラは、皆の視線を一身に浴び、照れくさそうに笑った。見習い女官が全員揃って夕食を取るのは久しぶりで、部屋中に娘達の明るい笑い声が満ちていた。


「……それにしても、本当に西方に行ってしまうのね」


「最終試験、やっぱり受けずに行くの?」


 ぽつん、とマイラが呟くと、カルロッテが言いづらそうな顔でセラに尋ねた。


「女官試験も大事だけど、好きな殿方と結ばれるのも大事よね。どっちも両立させるのが、今時の女官だけど」


 イーダが勝気そうな瞳を輝かせて笑うと、エリナも気合の入った様子で握りこぶしを作った。


「そうよ。私達も続くわよ。あ、でも私達、セラの結婚式には出られないのよね……」


「寂しいわ、そんなの。ユリシーズ様の故郷はとっても遠いって聞いたけれど、お祝いに行きたいわ」


「本当ね。私も同じ気持ちよ、マイラ」


 寂しそうに俯くマイラの背中を、優しく撫でるマルギットも、元気がなかった。セラは静かに皆の話を聞いていた。日程的には、最終試験は受けられる。誘拐騒ぎで一部の単位履修をしていないから、受けても不合格になるかもしれない。それでもいいから、今まで頑張ってきた自分のために、最後の締めくくりとして最終試験を受けて、卒業証を貰いたかった。


「私、受かるかどうかは別として、最後の試験は皆と受けたい。ちゃんと女官学校を卒業して、それから、それから……西方に行きたい」


「先生のことだから、最終試験を何にするか決めていると思う。私達次第で、試験を早めてもらうことができるかもしれないわ」


 イーダが冷静にそう発言すると、マルギットがお茶のカップを優雅に持ち上げて、にこやかに訊ねた。


「誰か、女官学校の卒業時期、何時か知っていて?」


 カルロッテが、ふんわりとしたクリームがかかったシフォンケーキをつつきながら答えた。


「前期は、今ぐらいの時期だったわよ。暑くなる前に、先輩方のお見送りをしたもの」


 エリナはチョコレートムースを丁寧にスプーンで掬いながら、皆の顔を見回した。


「明日の朝一番、先生にお願いにいきましょ。試験を今月にしてくださいって」


「決まりね」


 セラを除いた見習い女官達は、強い瞳で頷きあった。


「それにしても、私達の中で一番結婚から遠かったセラが、一番最初に結婚するとはね」


「しかも、あんな素敵な殿方と」


「すごく愛されてるわよね。皆、見た? ユリシーズ様の優しそうな瞳」


「セラがいないときは、わりと冷たい感じがするのにね」


 五人はニヤニヤしながら、セラを見た。


「も、もう、やめてよ」


 さんざん冷やかされながら、丁寧に口紅をひき直し、ほつれた髪も綺麗に直されたセラは、女官見習い達と一緒に大広間へと戻ってきた。

 マルギットとイーダは、貴族の子女としての務めがあるので、それぞれのエスコート役とともに皆と別れ、マイラ達も与えられた仕事のために、セラを黒騎士達のところに置いて慌しく戻っていった。


「おかえりセラちゃん。ユーリ様を励ましてやってよ」


「休憩を欲している顔だったので、あそこのバルコニーに押し込んであります」


「励ますって? 何かあったんですか?」


「本人から聞いてくれる?」


 かぱかぱと年代物のワインを水のように飲みながら、リオンがしおれた顔で答えた。どうやら自棄酒をしているらしい。何を飲んでもほとんど酔わない体質なのに、自棄酒の意味があるのだろうか。

 セラは困惑気味に、まわりにいる黒騎士達を見回した。皆「お手上げ」というような顔をして、肩をすくめたり、首をそっと横に振った。


「俺達に話せなくても、セラちゃんになら話すかもしれませんし……しばらく人避けしますから」


 元気のないアキムに、バルコニーの前まで連れて行かれて、セラは途方にくれた。もしかしたら、セラにだって話せないことで悩んでいるかもしれないのに。期待されて何もできなかったら、どうすればいいのだろう。

 そっとバルコニーの扉を開けると、バルコニーの手摺に凭れかかっている後姿が目に入った。夜目にも明るい亜麻色の髪が、風に吹かれるままになって、いつもの無造作な感じに戻ってしまっている。セラの気配に気づいて、振り返ったユリシーズは、ほんの少しだけ憂い顔をしていた。


「セラか……エスコート、中途半端になってごめんな」


「何か、あったの?」


「何もないよ。俺達の都合を、セラに押し付けてるだけなんじゃないかって、考えてた」


「そ、そんな。それは違うわよ、ユリシーズ。私は私がそうしたいから、西方に行くって決めたの」


「自分の夢も、ここでの生活も、全部捨てて、か。セラは度胸があるな」


「そうよ。女は度胸なのよ。私からすれば、国とか、大陸間の情勢とか。そんなのね、乙女の恋の一大事に比べたら、へ、よ! 屁のカッパなのよ!」


 鼻息も荒く言い切ったセラを、ユリシーズは唖然とした顔でまじまじと見てから、口を押さえて噴き出した。肩を揺らして爆笑する様子は、いつもの笑い上戸な彼の姿で、何でも良いから気分が浮上してほしかったセラは、少しだけホッとした。


「お姫様の口から、そんなお下品な単語は聞きたくなかった。ところでカッパってのは、何なんだ」


「東方の沼に住んでるオバケ。沼にいるオバケがすること、ってことでお察ししてくださる? とにかく、何の問題にもならないんだから」


「国の存続よりも、自分の恋を選ぶ、か……」


「私の一大事は、ユリシーズと一緒にいることなの。好きな人と一緒にいられない世界で生きてても、幸せになんかなれないわ」


 ふわりと肩にユリシーズの上着が掛けられて、そっと引き寄せられた。冷えてきた身体が、寄り添う体温で少しずつ温かくなっていく。


「セラに出会って、好きになって、少しずつ俺の世界も変わったよ。我がままに、自分の思うままに、生きるのも悪くないんじゃないかって、思えるようになった」


「私、ユリシーズの助けになれた? 会ったこともない子のために、困っていたら助けたいって、友達として力になりたいって思ってくれてた子のために、私も力になりたいの」


「……知ってたのか。ガルデニアへの特使派遣の話を聞いて、これが北方に行ける最後の機会だと思ったから、リオンに勝手について来たんだ。帝国の連中が緑の目の女ばっかり攫うって噂を聞いて、落胤が確実に女だと当たりをつけて、手分けして南部地帯からしらみつぶしに探して」


「それで、私を見つけたの?」


「ああ。暗かったし、化け物に襲われたし、初めて会った時は気づかなかったけどな。好きになった女がジュスト様の娘だったから、俺はすごく葛藤したんだぞ」


「どうして?」


「そりゃ身分差とか色々だよ。もし帝国がちゃんとした国のままだったら、俺はトラウゼン辺境伯の嫡男で、セラは皇女だろ。どう足掻いても臣下の一員だ」


「もし私が本物のお姫様だったとしても。私は必ずユリシーズが好きになるから。どこで、どんな形で出会ったとしても、きっと恋するから」


「俺も、必ずセラが好きになる。セラがどこの誰だったとしても、俺はそばにいるよ」


 背に回っていたユリシーズの左手が、ゆっくりと顔に添えられた。


「……好きだ」


 最初は頬を掠めるようにして、そっと柔らかいものが触れた。その感触に思わず瞳を閉じると、ユリシーズが少しだけ笑う気配がしてから、唇が重なった。

 二度、三度、啄ばむように。

 そして、段々深くなっていくキスが、身体から力を奪っていく。すがる様に広い背中に腕を回すと、抱きしめる力がさらに強くなった。


「……泣くなよ」


「っい、一緒に、いたい……」


「俺もだ」


「さびしい……」


「約二ヶ月の辛抱だろ。あっという間だ、そんなもん」


「長いぃ……」


 はぁ、と仕方なそうにため息をついて、ユリシーズは上着の懐から懐中時計を取り出した。蓋を開け、時計塔をチラリと見て、螺子を回し始めた。


「これ、持ってろ。西方時間に合わせたから、俺が何してるか大体わかる。この時計で六十回、日付が変わる頃会えるから」


 手渡された懐中時計は、かなりの年代物に見えた。きちんと磨かれて、チクタクと規則正しく時を刻んでいる。ユリシーズが大切に使っていることが、一目瞭然だった。


「いいの? とっても大切なものなんじゃ」


「俺の、母方のじいちゃんの形見。指輪の代わりに、とりあえずそれを預かっててくれ」


「わかったわ。大切に預かる。私もユリシーズに渡すものがあるの。明日、渡すね」


「ユーリ、でいい。身内はみんな、そっちで呼ぶ」


「ねぇ、ユーリ、ちょっと私のほっぺをつねってくれない?」


「はぁ? 何で」


「これが全部夢だったりしたら、イヤだから。ぎゅっとやって、ぎゅっと」


 呆れた表情を浮かべつつも、ユリシーズはセラのお願いどおりに、ふにふにとした両方の頬を摘んでやった。


「ちょっ、いたいいたい!何で両方?!」


「夢じゃなくてよかったな。そろそろ戻ろうぜ」


 バルコニーに漏れる明かりに照らされたユリシーズの顔を見て、セラは大いに焦った。明らかに唇が赤い。セラの付けていた濃い桃色の口紅がうつったに違いない。


「待って、ユーリ! 手巾貸して!」


「ん」


「ちょっと、喋らないでね」


 セラはユリシーズから手巾を借りて、ユリシーズの口元を優しくぬぐった。ここでゴシゴシ擦ったりしたら余計赤くなるので、慎重に。


「何だよ、何かついてるのか?」


「ついてるわよ、しっかりと」


 渡された手巾を見て、ユリシーズは照れくさそうな顔になった。


「ありがとう、助かった。さすがにこれは恥ずかしい」


「頬はよくて、唇はどうして恥ずかしいの?」


「そ、そうくるか。何か俺、セラに勝てない気がしてきた……」



 室内は人いきれで、暑いくらいだった。二人がいたバルコニーの周囲には人影はなく、声が聞こえない距離の場所に、背の高い砂色の頭と、小柄な黒髪の後姿が見えた。気配に気づいた二人が同時に振り返って、お互いの右手を高いところで打ち合わせると、あさっての方向に親指を立てた。


「おい、今のは何の真似だ」


「ん? セラちゃんがユーリ様復活に成功、ってみんなに知らせをね」


「しなくていい。別に落ち込んじゃいない」


「そうですか? 甘いものに見向きもしないから、てっきり」


 適当に散らばっていたアルノー達が戻ってくると、ユリシーズは全員の顔を見回した。全員のつやつやと脂がまわったような顔を見て、眉間に皺が寄った。


「そろそろ引き上げよう。存分に飲み食いしただろ、俺以外は」


「え、ユーリ、ご飯本当に食べてないの? ちょっと待ってて」


「待て、その格好で配膳するつもりか。いいよ、あとで何か持ってきてもらうから」


「そ、そう?」


「ユーリ、セラちゃんを女官宿舎に送ったら、そのまま部屋に戻りなよ。後は俺に任せて」


「いいのか?」


「うん。貴族連中にしつこく話しかけられるの、もう嫌だろ? 皆も先に戻って。俺は皆の彼女がほしいってグチ、もう聞きたくないんだ」


「さり気なく酷い。まぁいいか。後は任せたぞ、アルノー」


 アルノーは気取った風に右手を胸に当てて、セラとユリシーズに一礼してから、クレヴァ達が囲む円卓へ歩いていった。セラとユリシーズは黒騎士達に見送られ、廊下へ続く扉から大広間を後にした。


「皆さん、おやすみなさいませ」


「うん、お疲れさま、セラちゃん」


 リオンが笑顔で手を振ってから、そっと扉を閉めた。何となく寂しい気持ちになって、隣にいるユリシーズを仰ぎ見ると、当たり前のように手が差し伸べられた。その手を取ると、ゆるく指と指が絡みあわされて、しっかりと繋がれた。少しでも距離開けたくない、と主張されているようで、何だかくすぐったかった。


「疲れたろ」


「ちょっとだけ。夜会って初めてだったから」


「頑張って慣れてくれ。近い将来、新しい領主の奥方として、出る機会があると思うから」


「え、う、はい。そ、そうだよね。私、奥方になるんでした。礼儀作法、おさらいしておかなきゃ」


「セラなら大丈夫だろ。コンスタンス様も感心してたし」


「そうだ、女王陛下が来ているって、どうして教えてくれなかったの。私、お会いして心臓が止まるかと思ったわ。偉い人ばっかりなんだもの」


「あれ、言ってなかったっけ?」


「言ってない!」


「そうだ。セラ、これ。こっちもなくすなよ。レーレを呼ぶ鷹笛だ」


「今吹いてもいい?」


「鳥目なんだからやめてやれよ。用もないのに呼ぶと、胡桃をよこせとつつかれるぞ」


「う、やめとく。使い方は?」


「一回吹くと『行け』の合図で、二回続けて吹くと『戻れ』だ。どんぐり並みの脳みそだから、それが限界」


「一回、二回ね。覚えたわ」


「セラはどんぐり何個分だろうな……」


「やめてよ、レーレと一緒にしないで」


 夜露でしっとりと湿る薔薇の小道。涼しげになく虫の声。さやさやと木々が立てる音。雰囲気は恋人同士が語らうにはお誂え向きだというのに、喧々囂々と言い合う残念な二人は、衛兵達の失笑をかった。




 翌朝。セラ達はしっかりと侍女服に身を包み、ウィスタリアの居室へとやってきた。相手は百戦錬磨の『口だけで魔女を従える魔女』だ。直談判は、最後のダメ押しにセラが進言する手はずになっている。


「マルギット、あなたが情報部へ行きます、っていったら、きっと先生は試験日明日にするって言うわよ」


「やめてくださらない。ならイーダ、あなたが言って。私とイーダ、どっちかが情報部に行けば先生はご満悦でしてよ」


「私は来年結婚するのよ。情報部なんか面倒くさいわ」


「二人とも、声が大きいわよ。いい、行くわよ」


 エリナが扉をノックすると「どうぞ」という応えがして、セラがそっと扉を開いた。


「おはよう、皆さん。試験日のことで来たのでしょう?」


 ゆったりと朝のお茶を楽しむウィスタリアは、柔和な顔で教え子達を見回した。


「で、イーダ、マルギット。どちらが私の下についてくださるのかしら?」


 にこにこ笑う魔女に、全員がぐっと押し黙った。セラはあれよあれよと背中を押され、恩師の目の前に立った。いくら親代わりとはいえ、真っ向対決して勝てると思えない。確かに皆に比べたら、セラは気安く接することができる。でもそれだけだ。


「先生、それは試験の後で決めたらいいと思います。あの、単刀直入に聞きます。最終試験の日と、卒業日を教えてくださいませ」


「私もそれは考えていたところです。今月は色々合って、きちんとした授業もしていませんから、補講を行い、課題を出そうと思っていました。ならば、こうしましょう。私と女官長が考えていた課題を、一週間かけて完了させなさい。その課題に基づいて、私との口頭論述を行い、最終試験とします」


「課題の期限は一週間後。そして最終試験ですね」


「ええ。その間に、イーダもマルギットも己の進路を見極めて頂戴。何なら二人とも来てもいいのよ。有能な部下は、何人でもいてほしいわ」


 穏やかな貴婦人とは程遠い、その冷徹に教え子を見通す瞳は、有事の際に戦場で采配を振るう軍師のものだった。

お茶を振舞われて半時が過ぎる頃、セラ達を受け持ってくれていた女官監督官から試験問題がそれぞれに割り振られた。各自が苦手としている分野が試験問題となり、全員が「うへぇ」という、可憐な乙女の出す声とは思えない、うめきをもらした。


 セラは本気で苦手な、紙盤上での模擬戦術論だった。方向音痴で地図を読むのが苦手という、軍師適性ゼロのセラにとって、苦行でしかない。おまけに、セラには通常の補講のほかに、ウィスタリアの居室で抜けた単位を取得するための補講が待っている。食事と寝る時間以外は、ひたすら机に向かうのだ。二日後に西方大陸へ帰ってしまうユリシーズと会う時間など、どこにもなかった。

 渡されたのは北方大陸最北部の古地図で、すべての地名が古語で記されていて、まったく意味がわからなかった。セラは皆と別れ、離宮にある資料室で、古語の辞書を片手に翻訳に勤しんだ。

 机に突っ伏して「ううううう」と頭を抱えていると、向かいに誰かが座る気配がした。入り口にいた顔見知りの衛兵に、誰も入れないように頼んだのに。顔を上げて、セラは固まった。


「よう」


「ユーリ!」


 ニヤリと不敵に笑うユリシーズがそこにいた。


「何をそんなに唸ってんだよ。聞いたぞ、来週、女官学校の最終試験なんだって?」


「誰にそれを?」


「リオン。あいつ元隠密だから、こういう情報収集は得意なんだ」


「ただの困ったお兄さんじゃなかったのね……。私も最終試験を受けて、卒業できるかもしれないの」


「よかったな。中途半端だと悔いが残るし。これ、古語の翻訳か? 俺、得意だぞ」


「ユーリって、博識よね。古語は古語でも大神官が使う文字よ、これ」


「クレヴァ様に習っただけだ。あの人、賢者かってぐらい、物知りだから。ほら、俺が読んでやるから、地図に書いてけよ」


「て、手伝ってもらうの、ありなの?」


「マルギットが裏庭でユアンって神官兵に何か手伝わせてたのなら見た。マイラ達も三人で何かやってたし、俺が手伝っても平気だろ。俺もヒマじゃないんだ、さっさとやるぞ」


 得意と言うだけあって、セラが躓いていた地名表記がどんどん現代語に訳されていく。つづりがわからない箇所は、帳面のはじに書いてもらった。


「そこ、つづりが違う」


「ユーリの字が達筆すぎて読めない」


「文句を言うんじゃない。つぎ間違えたら、暗がりに連れ込むからな」


「おあいにく様。私、夜は外出禁止だもんね、先生の補習があるんだもんね、残念でした」


「……夜這いって、知ってるか?」


「イヤー! 助平!」


「うるせ。貞操の危機より課題の期限を気にしろよ。ほら次。読み上げるぞ」


 紙盤のすべての地名に現代訳を付け、ついでに本職の立場からの戦術を教わった。ユリシーズは「俺に聞くんじゃない」と文句を言いつつも、士官学校で得た広い知識と、実地で得た経験をもとに、セラにもよくわかるように説明してくれた。


「この地図の海岸線は、この感じだと天然の要塞にみたいに切り立った崖だ。だから、拠点を置くならここだ。まだ自陣営に地の利があるから、ここと、ここにも兵を配置する」


 ユリシーズの長い指が、海側の高台、盆地、大きな河川の上流を次々と指していった。どこもセラだったら絶対に拠点に選ばないし、兵を配置したりしない。逃げ場を失って全滅の恐れがあると思ったからだ。


「そんなところに兵を置いたら、危なくない? 守りきれないわ」


「逆だ。敵陣に攻めこむ。何だって、こんな意地の悪い紙盤を使うのかわからねーが、とにかく討って出るしかない。兵数にものすごく差があるから、策がないとあっという間に全滅だ。この拠点を守ってるのが俺だと思え。死なすなよ」


「や、やめてよ縁起でもない。それなら、ここの拠点を守る兵を分割して、と。ここと、ここに置いて……」


「挟撃か。いい手だ。ついでに河川の上流にいる兵を夜のうちに動かして、奇襲に使え。敵兵を盆地に囲い込めれば、それで詰み、だ。セラの軍の勝ち」


 大将の王の駒は、拠点にした海の要塞から一歩も動いていない。指でそっと王の駒を摘むと、盤の外に置いた。


「……こんなふうに、ユーリが戦わずに済む方法、あるといいのに」


「セラがそう思ってくれてるだけで、俺は救われるよ。とりあえず一休みしようぜ。昼飯食べに行こう」


 差し伸べられた手。この人を守りたいと思うのに、セラには何の力もなくて、それが少しだけ胸をちくりと刺した。できることを探すこと。ユリシーズが戦わずに済む方法。道は遠いけど、けしてないわけじゃない。ぎゅっと握り締めると、優しい力が握り返してくれるのが嬉しかった。


「セラも試験で忙しいだろうから、明日も一緒に昼飯食べよう。話す時間が全然ないのは、俺が耐えられない。相当我慢してるんだぞ、これでも。四六時中いてほしいぐらいなのに」


 机の下でセラの左手を右手でしっかり握ったまま、ユリシーズは器用に昼食をとり始めた。右利きだったはず、と思って聞いてみると、両利きだという答えが返ってきて、セラは笑うしかなかった。


「わかった、わかったわよ。手を離して。食べづらいわ」


 確かにセラも話す時間がないのは耐えられない。課題をしっかりやって、時間を捻出して会いに行こうと思っていたので、会いにきてくれて嬉しかった。だけど、これはちょっと違う気がした。


「俺が帰る時、泣くなよ。俺も泣きそうになるから」


「努力はするわ。でもユーリの泣き顔って貴重よね。泣いてる姿とか想像できないもの」


「想像するな。約束だからな。笑って見送ってくれないと、帰りづらい」


 こっくりと頷いてから、セラはハッとなった。一番大事なことを忘れていた。


「すっかり忘れてたわ! ユーリ、これ、昨日言ってた渡すものなの」


 セラは侍女服の中から、首飾りを取り出して外すと、ユリシーズに手渡した。


「この石、あの首飾りの中身か? 色がセラの瞳と一緒だな」


 雫形の小さな輝石は、セラの瞳によく似た色をしていた。手の平の上で、いぶした銀のような細い鎖がさらりと音を立てた。


「そうよ。私が生まれた時の守り石なの。護符になるから持ってて。鎖がお父さんの形見で申し訳ないけど、男物がそれしかなくて」


「俺もつけてやったんだから、つけてくれよ」


「もちろん」


 ユリシーズの首に正面から腕を回して、鎖の金具を外していると、ぎゅうっと抱きすくめられた。


「わ! びっくりした」


「ありがとう、セラ。石も鎖も、どっちもすごく大事にしてたものだろ」


「そうよ。私だと思って大事にして頂戴」


「うん。すげー嬉しい」


 照れて笑う顔が少年のようで、セラも思わずユリシーズを抱きしめた。どうか、私の大切な人をお守りくださいと呟く。母なる精霊に心からそう願った。





 とうとう、ユリシーズ達が西方大陸へと帰還する日になった。

 ガルデニア軍港まで西方の艦船を着岸させる許可がおりたので、ユリシーズ達が先行して道中の警備に当たることになった。師団長二人を護衛につけ、西方諸侯一行は馬車で向かうため、別の城門から出発する手はずになっている。


 セラは朝から何度も泣きそうになりながら、ユリシーズの旅仕度を手伝った。「泣かない」と約束した手前、笑顔で見送りたいのに気を抜くとすぐに瞳が潤んでしまう。厩舎についていくと、ユリシーズ達との旅で何度か乗せてもらった馬がいた。ガルデニア軍港までこの馬に乗っていくらしい。


「お前とも、もうすぐお別れだな。次の主人にもかわいがってもらえよ」


 パンパンと逞しい馬体を叩くと、低く嘶いた。馬も寂しそうだ。馬を引いていたユリシーズがぴたりと止まって、しかめっ面で振り返った。


「さっきから半泣きの顔しやがって。帰りづらくなるだろうが」


「な、泣いてなんかないもん」


「何が、泣いてなんかないもん、だ。鼻が真っ赤だぞ」


「うそっ」


「うん、ウソ」


 二人が門を潜って街道沿いに出ると、すでに黒騎士全員が待機していた。その傍らにはトゥーリ、ローネ卿。そしてウィスタリアと、見習い女官達が揃って立っていた。大げさに見送られたくない、という黒騎士一同の意向を汲んで、本当に少ない見送りだった。セラが見習い女官の列に加わると、ユリシーズは蒼い瞳を細めて、軽く頷いた。馬を引いて街道の中ほどまで進み出ると、背中側で腕を組み、整列していた黒騎士達が、精霊騎士団の面々のほうへ、ザッと音を立てて向き直った。


「本当に世話になった。西方諸侯を代表して礼を言う。ありがとう。皆も息災で。母なる精霊の加護がありますように」


 一言ずつ噛み締めるように礼を言うと、ユリシーズは右手を胸に置いて、深々と頭を下げた。ウィスタリアとセラ達見習い女官達は、完璧な『淑女の礼』で返礼した。セラは涙が引っ込むまで、頭が上げられなかった。


「道中、気をつけて。僕が行くまでくたばるなよ、ユーリ」


「誰に言ってるんだ。貴君らの助力、本当に感謝する」


 ユリシーズは振り返ると、良く通る声で号令をかけた。


「全員、騎乗!」


 行ってしまう。笑って見送りたいのに、涙が止まらない。そっとマルギットの手が背中を撫でた。


「セラ、顔を上げて、行ってしまわれるわよ」


 必死に頷いて、何とか涙を堪えて顔を上げると、騎乗したユリシーズが、軽く挙げた左腕を下ろしながら、再び号令をかけるところだった。


「出立!」


 きっぱりと響いた号令と同時に、先頭にいたアルノーとマルセルが、馬の腹を蹴って駆け出した。エーリヒとフーゴ。リオンとアキムが続く。殿についたユリシーズが駆け出す寸前、セラと一瞬だけ目が合った。どんどん遠くなっていく背中を見ていられなくて、顔を両手で覆って俯いた。見習い女官達が口々に「セラ、泣かないで」と、必死に宥める声が余計に涙を誘った。


「あれ、戻ってきた」


「忘れ物かしら」


 カツカツと蹄が地面を蹴る音、馬の激しく嘶く声がして、セラは驚いて顔を上げた。


「泣くなって、いったろうが」


「ユーリ……」


 少し息を切らしながら馬から飛び降りると、セラを思い切り抱きしめた。


「先生、トゥーリ様、ローネ卿! 回れー右!」


 イーダの号令に三人は思わず回れ右をした。


「あれ?」


「しまった、僕としたことが」


「ほほほ、お二人につられてしまいましたわ」


 見習い女官達もくるりと優雅に回れ右をすると、楽しそうにお互いをつつきあった。


「待ってるから。すぐ会えるよ」


「うん、うん……」


 大きな手が顎にかかって、唇に触れるだけのキスが落とされた。涙で潤む視界には、見たことのない切なげな瞳をしたユリシーズがいて、辛いのは同じなのだと気がついた。もう一度強く抱きしめられてから、名残惜しそうに、暖かな腕が離れていった。


「またな!」


 ユリシーズは晴れやかに笑うと、馬に再び飛び乗った。見習い女官達の賑やかな声に見送られ、勢いよく駆け去っていく後姿を、今度こそセラは泣き笑いで見送った。亜麻色の髪の黒騎士の背中が、どんどん小さくなっていく。緩やかな弧を描く街道の先に差し掛かると、完全に姿が見えなくなった。


「すごいわ、最後の最後まで物語だったわ!」


「素敵! 私も素敵な恋人がほしい!」


「私、もらい泣きしちゃった……!」


 マイラとエリナ、半泣きのカルロッテは手を取り合ってきゃあきゃあと騒ぎ、マルギットとイーダは気遣わしげな瞳をしてセラに寄り添った。


「セラ、大丈夫?」


「うん、大丈夫」


「無茶な約束をするからですわ。恋をしているセラ、すっかり泣き虫さんなのに」


 ぱんぱんと手を打ち鳴らし、ウィスタリアは教え子達を見て、含み笑いをした。ローネ卿は怯えたように振り返り、そそくさと退却していった。トゥーリも肩をすくめて、セラを見て少しだけ口の端を緩めると、颯爽と立ち去っていった。


「さぁ皆さん。はりきって課題を進めてくださいね? 皆さんが言い出したことなんですから、期限厳守ですよ」


「はい!」


 声を揃えて答えると、見習い女官達は歩き出した。三年間、同じ道を歩んできたけれど、違う道を歩む時が、ついにやって来た。セラは一人だけ、遥か遠くへ続く道へ。最愛の人が待つ先へと歩んでいく。


 ユリシーズが去っていった街道を振り返り、綺麗に澄んだ翡翠の瞳を少しだけ切なく揺らして、誰にも聞こえないように小さく呟いた。


「私、頑張るから。待っててね、ユーリ」


 ユリシーズへの恋慕をしっかり胸に抱きしめて、セラは歩き出した。

北方大陸編は、これで終わりです。

西方大陸編に続きます。

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