21. あなたとワルツを
マルギットと別れ、マイラとともに王宮滞在用の女官宿舎に戻る途中、侍女からの伝言でウィスタリアの居室に呼び出された。一体なんだろう、と思いながら、扉をノックすると「お入りなさい」という楽しげな声がした。
「お疲れさま、セラ。みんなとおしゃべりしながら、ここで今晩の仕度をなさい」
「えっ」
バタン! と隣室の続き部屋が開いて、女官見習い達が飛び出してきた。
「待ってたわよーセラ」
手をわきわきさせながら、エリナが素早くセラの背後に回りこみ。
「私達にまかせたら間違いないわ。髪結いの道具も全部揃ってるわよ」
にんまりと笑うカルロッテが、セラの右腕をがっちり掴み。
「まああ素敵。腕がなりますわ」
ほんわか笑いながら、マイラがセラの左腕をしっかり掴んだ。
「イーダは支度してからこっちに来るそうよ。エスコート役のユリシーズ様を先導してね」
「ええっ」
「何よ、知らなかったの? 先生、教えてあげなかったんですか?」
カルロッテがきょとんとした顔をして、優雅にソファにかけるウィスタリアを振り返った。ティーカップを傾けながら、ウィスタリアは優しく笑った。
「急遽決まったことですもの、教える暇がなかったのですよ。あなた方にも急に参加を強制して、申し訳なかったわね」
「いいえ。良い経験になります。さ、セラ来るのよ。あなたには正装の前に、湯浴みしてもらわなくちゃ」
「お風呂なら、き、昨日も入ったわよ」
「何よ、仕事したあとの埃っぽい髪をマイラに結わせる気? いいからくるのよ。私達が洗ってあげるわ」
「いい、いいよ、自分で洗えるからー」
ズルズルとエリナとカルロッテに引き摺られていくセラを見て、ウィスタリアは心底楽しそうに笑い始めた。
「ホホホ。見まして、マイラ。あのお顔。面白いったらないわ」
朗らかな高笑いが止まらないウィスタリアを見ながら、マイラは「ご愁傷様、セラ」と心の中で呟いた。セラの湯浴みを待っている間、マルギットの実家に伝言するために、マイラはそっと居室を後にした。
必死に交渉した結果、王宮女官が使う湯殿で、カルロッテに髪だけを洗ってもらった。湯上りに捕獲されて、花の香りがする化粧油で全身をもまれ「く、くすぐったい」と大笑いする羽目になった。
しっとり艶々のお肌になったところで、今度は何枚もの起毛布で髪を拭って乾かし、化粧油を毛先に揉みこみ櫛で丁寧に梳る。セラの艶やかな紅茶色の髪が、背中一杯に溢れるように広がった。
「まるでお花のようね、セラの髪。綺麗な赤茶で、とっても素敵よ」
「ありがとう。マイラみたいに、あったかい感じの金髪がよかったなぁ」
「ふふふ。ありがとう。髪に油が馴染むまで、今日着るドレスを見ましょうよ。どんな風にしようかしら?」
エリナが衣装掛けで丁寧にブラシをかけていたドレスは、セラの大好きな淡い薄桃色だった。
あまり見ない型のドレスは、胸元で切り替えがあり、そこから裾にかけて、美しいドレープが波を作っていた。袖は上腕部で切り替えのある細身の長袖で、胸元は大きく開き、内側から繊細なレースがのぞいている。
ドレス全体の表面を良く見ると、細かい薔薇の刺繍が施されていて、職人の手仕事によるそれは相当な手間隙がかけられているに違いなかった。
「セラの成人のお祝いのドレスですよ。フェリシアが下縫いをして、私に預けていったの。三年前に仕立てたのに、あなたときたら、成人のお祝いはしないって頑固に言うから」
「セーラー、おいでー。コルセットしよう」
「やだやだ、エリナが嬉しそうな顔してるときって、ろくなことが」
「いいから来るのよ! こういう型のドレスは体型を整えておかないと、太って見えるんだから!」
むんずとローブの襟をつかまれ、セラはエリナに再び捕獲された。コルセットといっても、少し固めのステイズのような型で、ぎゅうぎゅうと体を締め付けることはなかった。
「こ、このドレス、胸元開きすぎじゃない?」
母が用意してくれていたドレスを実際に着てみると、セラは何だか気恥ずかしくなってきた。普段着るどの服よりも、胸元が大きくがばっと開いている。
「そんなもんでしょ。私が何度か仕事で参加した夜会、お胸が半分見えてる貴婦人もいたわよ」
エリナがドレスの裾を綺麗に流しながら笑うと、カルロッテが開いたデコルテの部分をピシャリと軽く叩いた。
「その開きで殿方を悩殺するんでしょうが。裾も裄もぴったりだわ。このドレス、直線的な感じが素敵だから、いじりたくなかったのよね」
「髪、後ろを半分だけあげて、あとは背中に流しましょ。衣装が古典的な型だから、今風に結わないほうがいいと思うの」
「いいわね、古い物語に出てくるお姫様ぽくしましょうよ」
お姫様。まさか、本当にお姫様だったみたいなの、なんて友達に言えるはずもない。
侍女として働く母に育てられ、色々な人に見守られて何不自由なく過ごして。今は必死に頑張って、侍女として働きながら女官見習いとして勉強もして。
これからもずっとそうやって生きていくのだと思っていた。ユリシーズとの出会い、突然知らされた自分の出生。そして今度の西方行き。
たった一週間で、何もかもが変わってしまった。それを、まだ皆に何も伝えていないことが、心苦しかった。
「完成だわ。完っ璧だわ。先生、見てください、私達の力作を!」
エリナの声が聞こえたのか、隣室にいたウィスタリアが、そっと扉を開けて入ってきた。
「まぁ……本当に、良く似合っていてよ、セラ。この晴れ姿を、フェリシアに見せてあげたいわ。さぞかし悔しがるでしょうねぇ」
髪の上半分だけを丁寧に結い上げ、星屑のような小さな宝石のついた髪飾りで留め、緩く波打つ残り髪は背に流れ落ちていた。真珠を砕いて作られた白粉と薄桃の頬紅、濃い桃色の口紅で薄く化粧をされたセラは、まるで古い絵画の姫君そのままの姿だった。
「西方の古い絵本に出てくる、慈悲深いお姫様のお話を参考にしてみましたの」
「ドレスも古式だもの、完璧よ。さぁ、晩餐会が始まるまであと一時間ね。私達も着替えましょう」
「といっても、侍女の礼装だけど」
「でも嬉しいわ、まだ正式な女官じゃないのに、晩餐会に出られるなんて」
「あ、セラ。ユリシーズ様との馴れ初め、結局聞けてなかったから、今晩は寝ないで語ってね」
姦しく着替え始めた女官見習い達を邪魔しないよう、ウィスタリアに連れられて、居室へと戻ると、そこにはウルリーカが来ていた。栗色の長い髪は組み紐できりりと結ばれ、精霊騎士団の礼装と相俟って、年若い乙女達が好きな、男装麗人歌劇団の花形役者のようだった。
「まぁ、セラ! 綺麗にしてもらったのね。まるで花の精霊みたいよ」
「ほ、ほめすぎです。ウルリーカ様」
「私も似合いすぎていて、一瞬言葉が出なかったわ。それよりもウルリーカ、早く首飾りを貸して頂戴」
「はいはい。セラ、これ、フェリシアからの預かりものよ」
「お母さんの?」
「昔、あなたのお父様に贈られたものですって。今している首飾りは、私が預かるから、こちらをつけなさい」
「お母さんの瞳の色みたい……綺麗な青ですね」
手のひらにころんと転がる、セラの小指の爪ほどの小さな輝石。父から母へと送られた宝物は、どんな由縁があるのだろう。ウィスタリアの含み笑いがして、顔をそちらに向けると、何やら企てているお顔で、セラを見ていた。
「セラは社交界に出たことがないから知らないでしょうけど、恋人の瞳と同じ色のものをつける意味はね、求婚を受けました、って意味があるのよ。これをつけていったら、みーんなに冷やかされるわね」
「先生ひどい」
「ひどくないでしょう。『騎士の誓い』の重さ、あなた全然わかってないんですもの。ユリシーズ様がお気の毒だわ」
「し、知ってます」
「まあ。北方騎士のぬるい誓いとはわけがちがうのよ。西方騎士の誓いは、成されなければ死あるのみ。西方大陸は騎士文化が根強い土地柄だから、相当な覚悟がないとできないのよ?」
そういえば腹を切るとか何とか、物騒なことを言っていた気がする。本当は物凄く深く重たい、命がけの誓いなのだ。ユリシーズはどんな思いで、皆の前で誓ってくれたのだろう。会いたくて、たまらなくなった。
「これは、ユリシーズ様に着けていただきなさい」
コンコンコン、と軽いノックの音がして「どうぞ」とウィスタリアが応えた。
「失礼いたします、先生。ユリシーズ様をお連れ致しました」
「ありがとうイーダ。まぁ、今日も素敵なドレスですのね」
「ふふ、ありがとうございます。さ、ユリシーズ様、どうぞ」
「案内ありがとう。失礼します」
入り口側から低い艶やかな声がして、セラは口から心臓が飛び出しそうになった。そーっと振り返ると、礼装に身を包んだユリシーズが立っていた。
黒騎士団の礼服だろうか、金糸の縁取りのある漆黒の上着が、均整の取れた長身によく似合っていた。普段は無造作な金髪もきちんと梳られ、ざっと後ろに撫で付けられている。数束の前髪がぱらりと額に掛かり、違う髪形のせいか別人に見えた。ユリシーズはセラと目が合うと、パッと破顔した。
「よく似合ってる」
「あ、ありがと」
「それだけ?」
「ウルリーカ、期待してはダメよ」
はぁ、とウィスタリアとウルリーカは揃ってため息をついた。徹底した合理主義者のクレヴァの愛弟子に、女性を褒める詩的表現を求めても、むなしいだけだ。
「な、何なんですか二人とも。ほかにどう言えと」
「先生達は黙っていてくださいまし。あ、あのねユリシーズ、これをつけてもらいたいんだけど」
「いいよ」
ユリシーズの大きな手のひらに、青い輝石の首飾りを乗せた。石を見て、何やら考え込んでいるユリシーズを見ていられなくて、セラはくるりと背をむけて、後ろ髪をそっと手に持った。後ろから、首飾りがするりと首元に落ちてくる。ユリシーズの指先がうなじに一瞬だけ当たって、胸がどきどきと音を立て始めた。
「あら、いいじゃない。ユリシーズ様の瞳と同じ色味だから、二人並ぶと調和がとれて、いい感じよ」
大貴族の姫として色々な子女を見ているイーダのお墨付きなら、その通りなのだろう。
「ところでセラ。あなた、この色の首飾りをしてるってことは、ユリシーズ様に求婚でもされたの?」
「わあ!」
「したよ。だから、セラは俺が西方に連れて行く」
バン! と勢いよく隣室の扉が開いて、侍女の礼装に着替えた三人娘が飛び出してきた。
「なぁんですってえええええ!」
「まああ、セラ! あなた、また物語みたいなことになってるのに、教えなかったのね!」
「い、いつ! いつしたの!」
「わー! ユリシーズ! どうしてくれるのよ!」
イーダ達に四方を囲まれ、逃げ場を失ったセラは、真っ赤な顔でユリシーズを睨んだ。ちょいちょい、とセラを手招きをするユリシーズに遠慮して、イーダを含めた女官見習い達はウィスタリアに殺到した。この男、どうしてくれようと思いながら近寄ると、そっと耳打ちされた。
「そういうことにしておけ。セラの出生が知れたら、ややこしいことになる」
「で、でも、それじゃユリシーズが」
「俺のことはいい。っていうか、そのことについて話したい。でもここじゃ、ちょっとな」
「うん……」
女官見習い達は、キャアキャアとウィスタリアとウルリーカに掴みかかっていた。
「先生、知ってたならどうして黙ってたんです!」
「ウルリーカ様、知ってたんですか! ズルイ!」
「うるさいよ、あなた達! こら、マントを掴むな! 髪が崩れる!」
「ひどいわ。セラは私の一番のお友達なのに」
「ああ、ごめんなさいねマイラ、泣かないで。黙ってたわけじゃなくって、言う機会がね」
さすがのウィスタリアも、教え子の怒涛の口撃には手が回らないようだった。ユリシーズは悪戯っ子のような顔になって、セラに耳打ちした。
「ちょうどいいから、今のうちに逃げよう」
手をしっかり掴まれて、扉の方に向かうところで、エリナに見つかった。
「こらー! どこへ行く!」
「また後でな!」
ユリシーズは可笑しそうに笑いながら、さっとセラを横抱きにすると、するりと扉から出て駆け出した。
「ちょっと、おろしてよ」
「ドレスじゃ走れないだろ。すぐそこの庭園までだから」
王宮の裏庭園まで来ると、セラの白いサテンの靴が汚れないように、石畳におろしてくれた。裏庭園には小さな黄色い薔薇のアーチと、さらさらと流れる噴水以外に、何もなかった。ほとんど人がこない割りに、よく手入れがされていた。
「俺の伴侶について話す前に、俺はセラに言わなきゃいけない、大事なことがある。ずっと言わずに帰ろうと思ってたし、告げるべきか迷ってた。『騎士の誓い』をしておきながら、自分でも今更だろと思うけど」
「うん……」
ユリシーズは深呼吸をすると、セラの瞳を真剣な眼差しで見据えて、一息に言った。
「俺は、セラが好きだ。離れたくない。ずっと傍で、俺が守りたい」
「わ、たしも、ユリシーズのことが、好きです。ずっと、傍にいたい」
ずっと想っていた言葉が勝手に口をついて出た。すべて言い終わる前に、腕を引き寄せられて、気がつくとユリシーズの腕の中にいた。壊れ物を抱くように、柔く囲う腕の中は心地よくて、抗いがたい温もりがした。好きな人に「好きだ」と告げられた幸福感は、涙が出そうな切なさを伴っていた。恋をして、人を想う痛みと愛しさを知り、今もまた、想われる喜びを知った。
「三日後に、俺は西方大陸に帰らなきゃならない。当分、離れ離れだな……」
ぽつんと、少し掠れ気味の声が呟いた。帰還が三日後。思っていたよりも、ずっと早い。ユリシーズに当分会えなくなる。声が聞けなくなる。そう思うと、鼻の奥がつんとしてきた。必死に瞬きをして、瞳に浮かんだ涙を散らした。
「すぐに、会えるよ。遠征軍と一緒に来なさいって、クレヴァ様もおっしゃっていたし」
「遠征軍は来月、北方を発つんだろ。ここから俺の故郷まで約一ヶ月かかるから、最低でも一ヶ月半は会えないぞ?」
「えー! トラウゼンまで、そんなにかかるの?!」
「帝国領を迂回する必要があるからな。北回りの海路で西方大陸東部に行って、そこから陸路で約一週間てとこだ」
セラは思わず座り込みたくなったが、しっかりと背中に回った腕がそうはさせてくれなかった。すり、と甘えるように、ユリシーズの胸に頭を寄せた。
「会えないなら、手紙、書いてもいい?」
「好きなだけ書け。セラが西方につく頃、レーレを飛ばすよ」
「胡桃、いっぱい用意しておくね」
「やりすぎると図に乗るから、ほどほどにな」
王宮の時告げの鐘が、一度だけ鳴った。あと半時で夜六時。もうすぐ晩餐会の始まる時刻になる。裏庭園は静かなものだったが、大広間はきっと大勢の招待客でごった返しているに違いない。
「そろそろ行くか」
「一番手で本当に踊るの? みんなの前で?」
「何だよ泣きそうな顔して。心配なら、ちょっとだけ練習しとくか?」
こっくりと頷くと、まわされていた腕が腰に移動して、すっと右手を取られた。抱きしめられていた時よりも、ぐっと密着度が増して、セラは胸が早鐘を打った。至近距離で見る蒼い瞳は、やっぱり綺麗だった。
「最初は右足な。おい、聞いてるのか」
「き、聞いてるわよ、右足からね」
いち、に、と拍子をとる低い声が、すぐ耳元で聞こえる。お互いの吐息すら感じる距離と、腰に回された腕の温もりのせいで、セラは足よりも先に心臓が踊りだした。
「ちゃんとできるじゃないか。足元は見るなよ、かっこ悪いから」
「そんなこと言われても、見ちゃうわよ、間違えそうだもの」
「俺だけ見てりゃいいよ。見惚れてても、ちゃんとリードするから」
「自惚れ屋」
「言ってろ。練習はもういいな?」
ユリシーズは内ポケットに入れていた真っ白な手袋をはめると、セラに「お手をどうぞ、レディ」と笑いながら差し出した。
「ありがとう、素敵な騎士様」
初めて会った時も、ユリシーズは手を差し出してくれた。今も、この先も、こうして手を差し伸べてくれるのなら。セラの手を取ってくれるのなら、何も怖くない。そんな気がした。
裏庭園から回廊を通り抜け、大広間までやってきた二人は、揃って目を丸くした。想像していたよりも人が多い。漆黒の礼装は色とりどりの華やかな招待客の中でも、よく目立った。そして、入り口に立つ侍従がユリシーズに気づいて、にこやかに到着を告げた。
「『黒き有翼獅子の騎士団』団長、ユリシーズ・レーヴェ卿、お着きにございます!」
内側から大扉がゆっくりと開いていき、中からは弦楽器の演奏が響いてきた。セラは緊張のあまり、手足が少しだけ震え始めた。
「き、緊張しちゃう。ユリシーズは平気なの?」
「わりと。場数の問題だろ」
ユリシーズは苦笑して、セラの白く柔い腕を、自分の左腕に添えるように置いた。ドレスのセラに合わせて、ゆっくりと歩みを進めるユリシーズは、周りからの視線をものともせず堂々としている。壇上の玉座へ続く、夜闇のような紫の絨毯を挟み、右側に西方諸侯達が、左側に北方諸侯達がいた。
右手の一角には、ユリシーズと同じ漆黒の礼装に身を包んだ黒騎士達がいた。砂色の髪を後ろでゆるく括ったアキムと、きちんと礼装を着込んだリオンもいる。二人とも本当に嬉しそうに笑っていて、セラも思わず笑顔になった。
玉座の前まで進むと、ユリシーズはそっと組んでいた腕をはずした。セラは玉座に掛けるガルデニア王に深く一礼して、通路の右手側へ退がった。それを見届けてから、スッと左膝を立てて跪いた。
「陛下、今宵はお招きいただきありがとうございます」
ユリシーズの朗々とした低い声が響くと、歓談していた周りの諸侯や貴族たちは一斉にそちらを見た。武術大会を見なかった者、議会に参加できなかった貴族や諸侯達は、西方最強の騎士団を率いる騎士団長が、弱冠二十歳くらいの青年だったことに、驚いた様子を隠せずにいた。
「よい、楽にしてくれ。今日は素晴らしい剣技を見せてくれた、卿の労いもかねているのだ。わが国に仕官してくれたらと思わずにいられん」
「陛下のお言葉、大変嬉しゅうございます。私が、もし一介の騎士であったのなら、そういう道があったやもしれません。ですが、私は若輩ながら『有翼獅子の騎士』でございます。一度決めた道を違うことは、やはり致しかねます」
携えているサーベルの黒地の鞘には、こっくりとした金色で精緻な「翼を休める有翼獅子」が彫られていた。ガルデニア王はそれに目を留めると、親しみをこめた笑顔で鷹揚に頷いた。
「あいわかった。言うだけ言ってみようと思ったのだ。戯言は控えよと皆に言われているのだが、ついな。卿の真っ直ぐな気性。覇気のある若者の姿勢は、私は好きだ。また、このような機会があれば、是非語らおう」
「有り難きお言葉、痛み入ります」
「今宵は楽しんでいってくれ。卿が摘んだ一輪の花とともに」
「ありがたき幸せ。では、御前失礼致します」
跪いたまま一礼して、ユリシーズは謁見を終えた。それを合図に楽団の演奏が再開されると、再びさわさわと歓談が始まり、また和やかな雰囲気が戻ってきた。広間の柱に隠れるようにしていたセラを伴って、ユリシーズが『黒き有翼獅子の騎士団』の面々が集う一角にやってくると、全員が笑顔で迎えた。
「これでひと段落だな」
ユリシーズは全員を見渡して、ニッと片頬を上げて笑った。それに応えるように、騎士達全員が胸に手を当て一礼する。
「ご立派なお姿を、亡きご両親にお見せしたかったです」
「俺、なんか涙でそうになった」
何やら感動したような側役二人を、騎士達はニヤニヤ笑いながら「鬼達が泣いてる」とからかった。相変わらずの賑やかさに、セラもニコニコ笑いながら見守った。
「フレデリク、ジェラルド。こっちに来てくれ。セラを紹介したい」
ゆるく波打つ金髪で華やかな印象の三十代半ばくらいの男性と、黒褐色の髪の落ち着いた感じの三十代後半くらいの男性が進み出てくると、セラに向かって一礼した。ユリシーズの腕からそっと手を離して、両手でドレスを摘んで膝を軽く曲げる、略式の『淑女の礼』をして名乗った。
「初めまして。セラフィナ・エイル、と申します」
「かわいらしいお嬢さんですね。若もすみに置けないな。私は第二師団の長、フレデリクと申します」
「私は……第三師団の長、ジェラルドと申します」
物語に出てきそうな華やかな騎士のフレデリクと、見るからに忠臣の鑑のようなジェラルドは、セラの顔を見ると、懐かしそうでいて痛みを堪えるような、何とも言えない表情を浮かべた。もしかしたら、彼らは父の生前の姿を知っていて、その面影をセラに見たのかもしれない。初めて会った時のクレヴァも、似たような表情を浮かべていた。
「セラちゃん、すごく緊張してたでしょ? お辞儀ガチガチだったよ」
微妙な空気になってしまったところで、ユリシーズが口を開こうとした瞬間。リオンの気の抜けきった、のほほんとした声が、気まずい沈黙を破った。
「リオン……」
ユリシーズは苦笑して、リオンの右肩を軽く二回叩いた。「助かった」という手信号に、リオンはヘラリと主君に笑いかけた。
「リオン、君は空気をあえて読まない男なんだな」
笑いを堪えたようなクレヴァの声がして、セラ達はそちらを振り返った。銀鼠色の礼装をまとったクレヴァが、側近を伴って苦笑しながらやってくるところだった。
「クレヴァ様、そんな立派なものではございませんよ」
「リオンさんは普段からこんな感じです、クレヴァ様」
フレデリクとアルノーがため息をつきながら、クレヴァに一礼して、ユリシーズの後ろに控えた。
「お前はこっちでご馳走を食べててくれ。できれば口に物を入れたままでいてくれ」
「何だよ、離せアキム」
リオンはずるずると相棒に引き摺られて、ご馳走の山に連れて行かれた。離れたところで様子を見ていた女官達が、一斉にそちらに殺到する。皆アキムがお目当てなのだろう。リオンはこれ幸いと隙を見て、その場から逃げ出した。女官達のけっこうな勢いに、アキムが押されているのが見て取れる。
「ぷっ」
その様子を見ていたユリシーズが、口元を押さえて噴出した。マルセル達は笑いを堪えるあまり、頬や肩がプルプル震えていた。
「あんなに女慣れしてそうな風貌なのに、完全に腰が引けているな」
「クレヴァ様、彼はああ見えて、とても純情なんです」
「そうですよクレヴァ様、とても繊細な人なんですよ。女慣れしてるって言われたら、アキムさんは泣いてしまいます」
フレデリクとアルノーは苦笑交じりでアキムを援護した。見た目は本当に華やかだが、中身は古風で地味そのものなのだ。女官の輪から逃れたリオンが、なぜか皿を片手に戻ってきた。
「あー助かった。女官ちゃん達のおかげだなぁ」
「リオンさん、ちゃっかりケーキ持ってきてる」
「昔から甘いものに目がないからな」
リオンは幸せそうな顔で、白くてふわふわの生クリームがたっぷりかかった、どっしりしたチョコレートケーキを頬張った。セラとユリシーズは「いいなぁ」と言いたげな顔で、じっとその様子を見守った。円舞曲がいつ始まるかわからないから、ものを食べたりできない。二人して切ない目でリオンを見ていると、ほうほうの体で女官から逃げてきたアキムが戻ってきた。射殺しそうな目でリオンを見て、皿とフォークを取り上げた。
「どうしてこっちで食べてるんだ。ユーリ様もセラちゃんも、円舞が終わるまで食べられないのに。もっと主君に気を使え!」
怒りに燃えた目のアキムに、ユリシーズは「アキム、俺とセラの分、取っといて」と、ぼそっと呟いた。じっとひたむきに見てくる小犬のような二組の目に負けたアキムは、力なく頷いた。
「セラフィナ様、彼らの紹介は済みましたか」
「はい。クレヴァ様」
「フレデリクとジェラルドは、ジュスト様の元側近です。少しはセラフィナ様にお話できることもあるかと」
「ぜひ、お話を聞かせてくださいませ。父がどんな人だったのか、知りたいのです」
フレデリクは真剣な顔でお願いするセラに「もちろんです」と微笑んだ。元より女性には優しく、をモットーにしているのでお安い御用だ。
「皆、セラに言いたいことがあるんだろ」
ユリシーズの言葉に、柔和な笑みを浮かべたフレデリク、穏やかな目をしたジェラルド。アルノー達。そしてリオンとアキム。黒騎士達が笑顔でセラに向き直った。
「我ら『黒き有翼獅子の騎士団』、長とともに、貴女様に永久不変の忠誠を誓います。我らの剣は折れることなく。我らの盾は割れることなく。貴女様をお守りいたします」
フレデリクを筆頭に、全員が右手を心臓に当てる、騎士の略式礼を取った。びっくりして傍らのユリシーズを見上げると、蒼い瞳を細めて笑っていた。
「応えてやってくれ。喜ぶから」
セラが略式の『淑女の礼』で返礼すると、黒騎士達は胸に手を当てたまま、軽く一礼した。なかなか顔を上げないジェラルドに、ユリシーズは「どうした?」と声をかけた。ジェラルドの隣にいたリオンが、チラリと俯いた顔を見て肩をすくめた。
「セラちゃんに会えて感極まっちゃったみたい。しばらく、そっとしておいてあげてください」
「私もジェラルドと同じ気持ちですよ、若。あのお方のご息女に会えただけでも嬉しいのに、またお仕えすることができるのか思うと、本当に……本当に感無量です」
「フレデリクさん、すごく言いづらいんだけど、セラちゃん、西方にくるのはまだ先だってよ」
「想定の範囲だよ、リオン。それよりもその呼称をやめなさい。せめて様をつけなさい」
「えー」
「い、いいんです。呼びやすいようにしていただければ」
「……では、そのように。皆でセラフィナ様がお越しくださること。楽しみにお待ちしております」
弦楽器の調子が変わり、円舞曲が始まった。招待者の謁見がすべて終わったのだろう。晩餐会の始まりだ。
「若、そろそろ出番ではありませんか?」
「うん。行こうか、セラ」
「はい!」
仲睦まじく腕を組み、人々の間をするすると抜けていく二人を見送って、騎士団の面々は知らず笑みが浮かんだ。幼い頃から辛いことばかりだった主君が、ようやく掴んだ幸せを、誰もが守りたいと思った。
「お似合いだよね。俺は最初っからうまくいくと思ってたよ」
「でたよ、リオンさんの俺はわかってた発言」
「二人と一緒にいた俺だからわかるんだよ。フーゴ、君、短剣一本だけ持たせて『深淵の森』に捨ててあげようか?」
「いいえ、隊長!」
ちょっぴり殺気を放つ部下の後ろ頭を小突いてから、フレデリクはクレヴァに躊躇いがちに尋ねた。
「本当に、お連れせずともよろしいのですか? 我らが命に代えましても、姫をお守りいたしますのに」
「ユリシーズ様がセラフィナ様を伴侶に、と望まれたのだ。磐石の構えでことに当たると、私も決めた。まずは余計なものを片付けておかねばな」
「俺さ、ユーリ様が黙って西方に帰るって言い出したら、セラちゃんの先生に言おうと思ってたんだよね。『セラちゃんをユーリ様のお嫁さんにください』って」
スッと笑みを消し、リオンは傍らに立つアキムに話しかけた。
「俺はセラちゃんに直接『ユーリ様のお嫁さんになってください』って言うつもりだったよ」
真顔でそう言い放つアキムにリオンが「だよな相棒」とへらりと笑う。
「はぁ?!」
その場にいた全員は、側役達の言葉に目をむいた。冷静沈着が服を着ているかのようなクレヴァも、さすがに唖然となった。そして誰よりも先に気を取り直して、リオンに続きを促した。
「それでその後、どうする気だったんだ? 小賢しい君のことだ。断られることを、考えなかったわけじゃないだろう」
「へへへ」
「リオンさん、また縛って連れて行く気だったんでしょ。それじゃ人攫いだよ」
「また……とは、どういうことだ?」
アルノーの「人攫い」発言に、クレヴァは笑いたいのを必死に堪えて尋ねた。本当にユリシーズの周りには、優秀かつ愉快な連中がそろっている。この場で噴出さずにいられた自分を、ほめてやりたいぐらいだ。
「あの、若と会ってもらうために、セラフィナ様を捕まえて、縄で縛りました」
気まずそうに俯きながらアルノーは事の顛末を話した。
「だって仕方ないでしょ、逃げちゃうんだから」
再び皿のケーキをぱくぱく食べながらリオンが口を挟む。
「そうか。セラフィナ様に、くれぐれも失礼のないようにな。君達もゆっくりしていきたまえ」
少し肩を震わせながら、クレヴァは貴族や諸侯達の集まる席へと戻っていった。
「ときどき私は君が怖いよ、リオン……」
両手で顔を覆ってフレデリクは疲れたように呟いた。部下として優秀すぎるくらいなのに、主君ユリシーズのことになると、暴走しがちなのが玉に瑕だ。「うちの猿が迷惑かけてすみません」と、北方諸侯達に頭を下げて回る羽目にならなくてよかった。
「お前は、馬に蹴られたほうがいい。死ぬほどな」
「ジェラルドさんのフォルテシモちゃんに、しこたま蹴られてください。衝撃で頭の回線が繋がるかもしれません」
戦場でも見ないような厳しい顔のジェラルドと、石像のように無表情なアルノーに詰め寄られて、リオンはじりじりと後退した。
「何で! ユーリ様は助かったって言ってくれたよ?」
「主君に気を使わせるんじゃないと、貴様は何度言ったらわかるんだ」
もめる三人を尻目に、マルセルはアキムの紫がかった橙色の瞳をじっと見た。いつも誰よりも優しいのに、ユリシーズがからむと人が変わる。過保護ともいえるその有り様は、もれなくセラも含まれるようになるのだろうか。
「アキムさん、その、セラちゃんに『ユーリのお嫁さんになってください』って頼むのはいいけどさ。勝手なことしたら、ユーリ、絶対むちゃくちゃ怒るよね?」
「口では何だかんだ言っても、好きな女の子を傍に置きたいはずです。セラちゃんも吝かでないなら問題ないでしょう」
フーゴとエーリヒは、顔を見合わせて「ダメだこりゃ」と無言のまま頷きあった。幼い頃からユリシーズの側役として仕えてきた二人は、本当にユリシーズのことしか考えていない。任務で領館を離れることすら渋るので「行き過ぎた主従愛」は領内外にも知られている。
フレデリクは疲れたような足取りで、ワイングラスを捧げ持つ給仕のもとに歩いていった。飲まなきゃやっていられない、と背中に書いてあった。
マルセル、フーゴ、エーリヒは口々に「腹減ったから行こうぜ」「立食だと食った気にならないな」「エーリヒすげぇ食うくせに」などと話しながら、ご馳走を食べるために移動を開始した。
大広間の中心に向かって歩きながら、ユリシーズは後ろを振り返った。何やら家臣団がもめているように見える。セラもそっと振り返って様子を見ると、リオンがジェラルドとアルノーに、何やら問い詰められているところだった。
「何やってんだ、あいつら」
「何かあったのかな?」
二人が大広間にやってくると、玉座からガルデニア王が立ち上がり、両手を掲げた。また曲調が変わり、軽やかな円舞曲が始まった。輪の中心に移動して玉座に一礼すると、二人はしっかりと手を取り合った。最初のステップは右、とそればかり考えてしまって、セラはつい目線が下になった。
「セラ」
「え?」
「俺だけ見てろって言ったろ」
顔を上げると、思っていたよりも近くに、ユリシーズの蒼い瞳があった。
「何だか照れちゃうんだけど」
「そうか?」
自然と足が右から出て、ふわりと身体が回転する。さっき練習したときも思ったがユリシーズはとてもリードが上手い。みんなから「どんくさい」とよく言われるセラが、ちゃんと踊れている。背中にまるで羽が生えているように軽くて、初めてワルツが楽しいと思った。
「上手い上手い、その調子」
「ユリシーズのリードが上手だからよ」
「さすが俺」
「もう!笑わせないで」
「肩の力が抜けたろ」
「ま、まぁね。たくさん練習したんでしょ?」
「士官学校でやったよ、男同士で。あれは吐きそうだった」
「笑わせないでったら!」
大広間の中央で軽やかに円舞を舞う二人は注目の的だった。セラがくるくるとターンするたびに、春の陽だまりに咲きこぼれる薄桃色のプルヌスのようなドレスが、ふわりと舞う。
「あんな楽しそうなユーリ様、初めて見たかも」
「ユーリ様の想いが通じて、本当によかった」
年相応の明るい笑顔を浮かべるユリシーズと、大輪の日輪花のように笑うセラの笑顔を、側役達はずっと見ていたいと思った。この笑顔を守るためなら何でもしてやりたい。強くそう思った。
次で『北方大陸編』が終わりです。
まだまだ続くんじゃ。