19. 乙女の決意
精霊騎士団領本館と呼ばれる城から、歩いても十数分もかからないところに城下町はあった。王都とルガランドの中継地点になるので、物流も人の量も多く、今は武術大会の前ということもあって、かなりの人出になっていた。
王都からは馬車で半時もかからない距離にあるので、王都滞在が難しい者達は、もっぱら騎士団領の城下町に逗留する。城下町は精霊騎士団が警備しているので、不埒な真似をすれば、叩き出されて、どんな理由があろうとも二度と城門を潜らせない。どこの大陸の者でも平等に受け入れ、排除する。完全中立を謳うだけあって、それは徹底していた。
セラはユリシーズに手を引かれたまま、城下町の中央通りを案内することにした。
「結構な人だな。なんでか知らねーが、傭兵ぽいのから、どこかの騎士っぽいのまでいるし」
「来週の武術大会に参加するんじゃないかしら。勝ち進むと、王国軍仕官の道が開けるのよ」
「いいな、それ。名を上げるのにもってこいだ」
「ユリシーズも出場するって、マルギット達から聞いたわよ。今年は噂の黒騎士と戦ったって、自慢する人が出そう」
「俺は準々決勝当たりから参戦するから、まずはそこまで勝ち進んでくれないとな」
ある店の前で足をとめて、ユリシーズはセラを見た。
「延び延びになってた約束の菓子、チョコレートでいいか?」
「ええっ!」
「嫌なら、別のにする?」
「チョ、チョコレートがいいです!」
西方人のユリシーズは知らない。北方大陸の若い男女にとって、好きな異性にチョコレートを贈ることが「好きです」という意思表示であることを。誕生日にチョコレートとカードを贈るのが正しい形だったが、この際、細かいことは言っていられない。ユリシーズから貰うことに意味がある。
「何か鼻息荒いぞ。俺の財布は菓子くらいじゃびくともしないから、好きなだけ選べよ」
「本当? 私、一度でいいから、このお店のチョコレート、全種類制覇してみたかったの」
「……そんなに好きか」
「うん、大好き!」
満面の笑みでそう答えると、ユリシーズはうっと言葉に詰まったように黙り込んだ。セラの手をそっと離すと、スタスタとお店のカウンターに行き、売り子の男性に「全種類を一個ずつ」と注文した。一口分とはいえ二十種類もあるので、結構な量だ。王室御用達の人気店だから、お値段も結構なものになるはず。トラウゼン領民の大切な血税を、セラのチョコレートなんかにしてよかったのかと、少々後ろめたくなった。
「ほら。鼻血がでるほど食えるぞ。よかったな」
「ありがとう、ユリシーズ!」
喜色を浮かべて綺麗な模様の紙の手提げを受け取ると、ユリシーズも瞳を細めて、照れくさそうに笑った。当たり前のように手を繋ぎなおして、ゆっくりと歩き出した。
「私も何かお礼がしたいな。ユリシーズは何がいい? お菓子? お肉?」
「何だよ、その選択肢。もっと他にないのかよ」
「手裏剣、城下町に売ってたかしら……」
「セラは鈍いと言われたことないか? あるだろ? あるんだろ?」
ユリシーズは手を引いて歩きながら、半目でセラをじーっと見続けた。昨日でだいぶセラのことがわかった気がしていたが、それは間違っていたのかもしれない。ここまで鈍いなら、態度じゃなく言葉ではっきり言わないと、一生気づいてもらえない気がする。
「もー、今考えているんだから邪魔しないで」
「セラが読んでる少女趣味な小説を参考にして、よーく考えてみろ」
「いたいいたい! 指が折れちゃう!」
繋いだ手が思い切り握りしめられて、指がみしみしと軋んだ。涙目でユリシーズを睨むと、少し拗ねた顔で睨み返された。
「お礼がしたいなら、セラが髪に結ってるリボンを寄越せ」
「お、お気に入りなのに」
「だから意味があるんだろ」
「お礼を要求するなんて、それでも騎士なの」
「おう。泣く子も黙る黒騎士様だ」
「わかったわよ……」
髪に手をやろうとして、繋いだ手を緩めようとすると、逆に握りこまれた。
「せっかく綺麗に結ってるのに、いま解いたら台無しだろ。後でいい」
「は、はい」
複雑な後ろ編みこみは、髪結いが得意なマイラに手伝ってもらった力作だ。セラが髪を「綺麗に結ってる」ことに気がついてないと思っていたけど、ちゃんと気づいてくれていた。そんな些細なことで一々喜ぶ自分が、可笑しくて堪らなかった。
「あれが時計塔か。でけーな。上に登れたりするのか?」
「残念ながら『時告げの神官』しか登れないの。上からの景色が見たいなら、本館の物見櫓があるわよ」
「そこなら、一昨日、第二師団の団長に案内してもらったよ。いい眺めだった」
「よかった、気に入ってもらえて」
「俺さ、ここまで精霊騎士団からよくしてもらえると、正直思ってなかった。急にやってきて、セラを連れて行くとか、亜生物との戦い方を教えろとか、勝手なことばかり言ってるのに。俺だったら、ふざけんな、とっとと帰れって怒鳴りつけてるよ」
「うん……」
「表向きは完全中立だけど、救いを求める者には何とかして助けてやろうって、手を差し伸べてくれる。母なる精霊を奉じるだけあって、懐が深いな」
「私のお母さんも、伝手を辿って、ここに来たって言ってたわ。誰も何も言わずに受け入れてくれたって、本当に感謝してた」
「……セラ。ここに残りたければ、西方の特使達から何を言われても、頷くな。絶対に断れ。諸侯達は『皇女のご意志を尊重する』という点では、全員一致してる」
「私、そのこと、ずっと考えたくなくて……」
「考えなくていいよ。セラの先生達が頑張ってるから、説得材料がなくて今は話が止まってるし。来週から、セラも王都に行くだろ。その時に精霊騎士団幹部同席で、セラとクレヴァ様が直接話す機会が設けられている。今日は、それを伝えたかったんだ」
「そう、だったの。教えてくれて、ありがとう、ユリシーズ」
「今の俺ができるのは、助言くらいだからな。それに、セラは女官になりたいんだろ? もうすぐ夢が叶うところまで来てるんだから、頑張れ」
「うん、頑張る」
力なく笑って、繋いだ手をぎゅっと握ると、優しい力で握り返された。ユリシーズ達、西方諸侯達が帰還するまで、あと数日。王都に行ったら、皆の前で結論を出さねばならない。遠く離れた西方大陸で、リオンやアキム、あの気のいい黒騎士達を率いて、ユリシーズが命がけで戦っている。それを想像するだけで心配と不安で、心が疼くように痛む。ユリシーズは「断れ」というけれど、ユリシーズ達が戦わなくて済むように、何かできることがあるなら、西方に行くべきではないか。そうとなれば、答えは一つ。いよいよ、覚悟を決めねばならない時がきていた。
セラが普段行く茶屋に寄って休憩すると、馴染みの女将さんが「セラちゃん、随分とまぁ、いい男連れてきて。アンタにもようやく春が来たねぇ」と呵呵と笑って、茶菓子をおまけしてくれた。
「セラって、あちこちに顔見知りがいるな。それでもって、みんな同じことを言う。そうか、俺はいい男なのか」
冷えたフルクト水を飲みながら、しみじみとユリシーズが呟いた。セラもフルクト水に口をつけつつ、こそっと呟いた。
「自惚れ屋」
「事実を言ったまでだ。セラに長らく春が来てなかったことは収穫だったな」
「ほ、ほっといてよ! 私、お嫁に行くつもりなかったんだから」
「……本気で? 今も? 理由は?」
いやに真剣な顔つきで、畳み掛けるように食い下がってくるユリシーズに、セラは引き気味になった。
「何で、そんな食いついてくるのよー」
「いいから教えてくれ。知りたい」
「知ってどうするのよ」
じと目で睨むと、ユリシーズは一瞬目を泳がせて「……ナイショ」と笑って誤魔化した。
「じゃ、私も教えない」
「俺が武術大会で優勝したら、教えてくれる? 俺もそのとき教えるから」
「いいわよ。トゥーリ様が毎年優勝してるから、頑張ってね」
「おう。おまけに賞金が金貨五十枚だろ。俺の個人資産のためにも、絶対優勝を狙うぞ」
真剣な眼差しのユリシーズは、思わず見入ってしまうほど凛々しかった。発言内容に目を瞑れば、茶屋の女将さんや茶問屋のおじさん、髪飾り屋のおねえさん達が言うように、確かにいい男だった。
「名誉とかじゃないの? 本当に、ユリシーズは騎士なの?」
「騎士だよ? 襟に騎士勲章つけてたろ。セラとの賭けもあるし、全力で頑張るよ」
「……私も、応援に行けたら行くわね」
「決勝は絶対に来いよ。セラがいないと勝つ意味がない」
「わかったわ」
時計塔から、鐘が五回鳴る音がした。あと半時もすれば、城門が閉まる時間になる。
「もうそんな時間か。門限があるんだっけ」
「そうよ。城門は夜の六で完全に閉まるの。締め出されたら反省文を書かされちゃうわ」
「俺は正座でアキムの説教だ。しかも団員の前で。屈辱だ」
笑いながら席を立つと、さり気なく手を繋がれた。面映さと、切なさと、どうしようもない喜びが、頬を染め上げていく。何とも思わない女の子と逢引して、丸一日手を繋げる人ではないから「もしかして」と、期待ばかりが膨らんでいく。セラはユリシーズにどう思われているのか、知りたくて知りたくて堪らなかった。
リボンの件にしても『戦場へ赴く騎士に、恋人の女性が“私のかわりにそばにおいて”とリボンや名前を刺繍した手巾を渡す』という古くからのしきたりにしか思えないし、これで盛大なセラの勘違いだったりしたら、一生引き摺りそうだ。
二人して何となく黙ったまま、日の傾き始めた煉瓦の道を歩く。町を赤く染めていく夕陽を見て、ふとセラは思い立って、ユリシーズの手を引いた。
「何だ?」
「あのね、こっち」
ほんの少しだけ道からそれると、ユリシーズが怪訝そうな顔になったので、セラは「大丈夫、近道だから!」と笑いながら答えた。ぐいぐいと手を引いて、小高い丘の端までやってくると、湖に佇むように建つ白亜の精霊殿を、夕陽が赤く染めあげていくところだった。ここから見える夕陽がすごく綺麗だと知ったのは、セラが母と別れ、巫女として精霊殿に行ったオルガとも別れ、一人ぼっちになった十二の頃だった。
「ここから見える夕陽が、とってもすごいの」
「綺麗だな……」
そう呟くユリシーズの亜麻色の髪も、夕日に染まって綺麗だった。
「私ね、ユリシーズに会えて、良かった。どうしてお母さんが追われる様に北方に来たのか、どうして私が産まれる前にお父さんが亡くなったのか。ずっと本当のことが知りたかったけど、怖くて誰にも聞けなかったの。でも、ユリシーズが、そのきっかけをくれたから」
大切なあなたを、好きになる喜びをくれたから。
「だから、だからね。来週、私が話し合いの場で何を言っても、怒らないでね」
「……怒らないよ。セラが悩みまくって選んだ結論に、俺が文句を言うわけないだろ」
スッと繋いだ手が離れて、ユリシーズの両手が顔の横に伸びてきて、セラは思わずぎゅっと目を閉じた。俯いた頭の上で、ユリシーズが不思議そうな声をあげた。しゅるりと絹の擦れる音がして、髪に結んだリボンが解かれていく。
「おお、リボンを解いても崩れない。一体どうなってんだ、その髪型は」
「ピンで留めてるからよ……」
キスされるのかと思って、一瞬身構えた自分が恥ずかしかった。本当に思わせぶりな所だらけで、心臓に悪すぎる。
「それ、どうするの? まさか髪に結ぶの?」
「結ぶか! 腕に巻くんだよ」
「貸して、結んであげるから」
白いシャツの袖を軽く捲くって、セラはユリシーズの引き締まった腕に、真珠色のリボンをするすると巻いて、蝶結びにしてやった。日に焼けた腕に、妙に合っている気がして、セラは笑いがこみ上げてきた。
「あ、何だよ、このかわいい結び方。普通に巻けよ」
「へ、変なの」
「自分がやったんだろ。ったく。そろそろ帰らないと本当に締め出されるぞ」
「ごめん、ごめん。こっちよ。茂みを突っ切ると、城門の真横に出るの」
セラはユリシーズの大きな手をぎゅっと掴むと、先に立って歩き出した。夕陽が照らす橙色の道には、寄り添うような二人の影が、長く伸びていた。
ドタバタと黒騎士達のお世話をして、何事もなく三日が過ぎ、とうとう王都へ出発する日になった。セラ達、女官見習いは、朝からバタバタと本館と迎賓館を行ったりきたりしていた。
「セラ、メイド長への引継ぎは終わりまして?!」
「終わったわ! 今から管理帳と報告書を本館に提出してくる!」
「早くね、もうすぐ出発だから!」
「はーい!」
ぱたぱたと本館へと走っていくセラの後姿を眺めて、リオンはぼそっと「忙しそうだねぇ」と呟いた。
「声かけたりして、邪魔するなよ、リオン」
側役の二人は、腕を組んだ姿勢でぼーっと馬車の前に立っていた。二人とも騎士服の上に普段着ない開襟のコートを羽織り、正騎士然とした姿で、ユリシーズの到着を待っていた。
「うちの若様は何してんの?」
「迎賓館で世話になった人達に、挨拶して回ってる」
「さすがユーリ様。四バカはどうした? 姿が見えないけど」
「馬を連れにいったよ。隙あらばマイラさんを口説こうとするから、追っ払った」
「セラちゃんを口説いたりしたら、ユーリ様の本気蹴りが飛んでくるもんね。マルギットちゃんは彼氏いるから、奴らの興味がマイラちゃんに集中するわけだ」
「……セラちゃん、覚悟を決めたみたいだな。瞳に迷いがなくなった」
「ああ……やっぱ、アキムもそう思う?」
アキムは少しだけ目元を緩ませて、浮かない顔の相棒を見下ろした。
「俺達はユーリ様を守り、セラちゃんを守る。やることはこれまでと、何も変わらないだろ」
「だね。ユーリ様は、まだ決めかねてるみたいだけど。あ、来た来た」
漆黒の騎士服に身を包んだユリシーズが、迎賓館の玄関から姿を現した。正面玄関につけてある馬車を見て、その前に立つ自分の側役達を見て、怪訝そうな顔になった。
「あれ、帰りも馬車なのか?」
「馬車だけど? 自分が暗殺対象ってこと、忘れてない?」
「覚えてるけど……。もうずいぶん、アルタイルに乗ってないから」
「西方に戻ったら好きなだけ乗ってください。はい、早く馬車に乗って」
馬車の扉に手を掛けて、往生際悪く踏ん張りながら、ユリシーズは側役達を振り返った。
「セラは?」
「セラちゃんはお仕事があるから、違う馬車ですよ。まさか、一緒に乗るつもりですか?」
アーモンド形の瞳を見開いて、アキムは思わずユリシーズの背から手を離した。
「面倒くさいこと言わずに、さっさと乗りなさい」
代わってリオンが、ユリシーズを思い切り馬車の中へと押し込めた。その時、ちょうどセラが通りかかった。
「あ、セラちゃーん、そろそろ出発だけど、うちの馬車に乗ってく?」
「ううん、先生と同じ馬車だから。お誘いありがとう、リオンさん」
セラはニコッと笑って、ぱたぱたと駆けて行った。
「はい残念」
リオンは楽しそうにケラケラ笑って、馬車の扉をコンコココンコンと調子よく叩いた。
「シーグバーン女史を説得するのが先じゃないですか、ユーリ様」
アキムが馬車の扉をコンコン叩きながらそう言うと、中からどかっと蹴る音が返ってきた。
「う、うるせ!」
一ヶ月ぶりの王都は、たくさんの人でごった返していた。城下町以上の賑わいで、王国関係者専用の通用路にも、その喧騒が聞こえていた。
「毎年のことながら、すごい人出ですわね」
「今年の闘技場の観覧席、ものすごい競争率で取れなかったって、私の兄が言ってたわ」
ウィスタリアはびっくりしている教え子二人に笑いかけた。
「ふふふ、今年は飛び入り参加がすごくて、噂の黒騎士と一手試合たいって腕自慢が殺到したそうですよ」
「ユリシーズ、準々決勝まで出ないみたいですけど」
セラが不思議そうな顔で答えると、マルギットが苦笑しながら教えてやった。
「アルノー様達や、王都にいらした黒騎士団の師団長様達も出るのよ」
「そうなの? 今年は本当にすごい面々が揃っているのね」
「今年は精霊騎士団と黒騎士団、どちらを応援したらいいか、迷ってしまうわね」
ウィスタリアの言葉に、娘達は朗らかに笑った。
セラ達は会議に出るウィスタリアと王宮の入り口で別れて、王都に配属されている「王都組」の女官見習い達と、久々に再会した。今月は西方大陸からの特使団の来訪があったり、武術大会があったりで、王都にある女官学校では講義が順延されていたから、およそ二ヶ月ぶりだ。女官専用の控え室の扉を開けると、見慣れた少女が座って待っていた。
「すっかり元気そうね、セラ」
「イーダ!」
セラはイーダが本館に来ていたことを知らなかったので、嬉しそうにイーダに駆け寄った。マルギットとマイラが部屋に入ると同時に、金茶の髪にリーフグリーンの瞳のエリナと、褐色の髪に群青色の瞳のカルロッテが、扉を閉めると同時に駆け込んできて、セラを取り囲んだ。
「イーダから聞いたわよ。あなた、想う方ができたんですって?」
エリナがぐいぐいと迫ってくる。額がごちんと当たった。
「誰なのか言いなさいよ。じゃなきゃ、ずっとあなたのこと、ミンプスって呼ぶわよ」
すっと近寄ったカルロッテが、耳元で低い声で呟いた。
「何、何々、何、何なの、みんな」
「一昨日、背の高い金髪の殿方と、手を繋いで城下町を歩いてたって聞いたわよ」
「なななな、なぜそれを」
「出かけたのは知ってたけど、そんな素敵なことになってたって、どうして教えてくれなかったの、ひどいわ!」
マイラはセラの背中をぽかぽかと殴った。セラは頭のなかが大混乱で、何も言い返せなかった。
「情報収集ならマルギットに負けないわ。王都にいたってわかるのよ」
イーダがつんと顎を上げて、セラの目の前に腕を組んで立ち塞がった。貴族の子女だけあって、その姿は妙にはまっていた。
「な、何て無駄な労力を使ってるのよ! みんなどうかしてるわ」
「で、マイラ、誰なの?」
エリナの問いかけに、マイラはあっさりと答えた。
「黒騎士のユリシーズ様よ」
「マイラ、あなたペロっと言うのね……情報部は絶っ対、無理ね」
マルギットは額に手を当てて、ふるふると首を横に振った。
「西方諸侯の護衛騎士ね。怜悧な感じの怖そうな方に見えたけど、こんなとろくさい子を選ぶなんて意外だわ」
エリナはうーんと唸りながら腕を組み、部屋をうろうろと歩き出した。
「何時の間に手を繋いで逢引する仲になったの? ユリシーズ様って、どんな方なの?」
カルロッテは目を好奇心に輝かせながら、セラに詰め寄った。背中にマイラがしがみついたままなので、身動きが取れない。
「色々わけがあるの。今は、言えないけど。お使いに行った先で、厄介ごとに巻き込まれたときに、偶然居合わせて助けてくれたの」
「やだわ、物語じゃないの! どうして教えてくれなかったの、セラ!」
「マイラ、落ち着いて。セラの立て襟から手を離して、息が詰まるわ」
マルギットがマイラを羽交い絞めにして遠ざけると、エリナとカルロッテはセラを見て、ニヤリと笑った。
「武術大会が終わったら、じっくり聞かせてもらうわよ、その馴れ初めを」
「南部地帯閉鎖のどさくさで、ちゃっかり彼氏を見つけるとは……やるじゃないの」
コンコン、とノックが響いて、女官長補佐が顔を出した。「皆さん、お時間ですから、いらして」と、丸々とした優しい顔が微笑むと、セラ達はしゃんと背を伸ばして「畏まりました」と声を揃えて一礼した。
全員にそれぞれ役割が与えられ、セラは一人だけ、闘技場の受付票回収を任された。用紙を回収して運営本部に持っていくだけで、すぐに終わってしまう仕事だ。闘技場から、わぁっと歓声が響いた。誰もいない通路から、ぼんやりとそちらのほうを見ていると、背後から声が掛けられた。
「セラフィナ様、ですね?」
「……どなたですか?」
振り返ると、灰褐色の髪に薄い青の瞳をした、柔和な笑みを浮かべた四十代位の男性が立っていた。膝丈の渋い茶の上着を身につけ、銀縁の眼鏡をかけている。セラは何となく、この男性をどこかで見た気がした。
「私は、クレヴァ・エーラースと申します」
「あ……」
てっきり貴賓室あたりに呼び出されるものだと思っていたのに、まさかのご当人自らのお越しだった。セラは言葉に詰まった。ここにはいない姿を、思わず目で探した。
「初めまして、ですね。そんなに緊張されずとも大丈夫ですよ。ユリシーズ様なら、闘技場です」
「は、はい」
誰を探していたのか、どうしてわかったんだろう、とセラは内心怖くなった。嘘をついてもすべて見抜かれる。そんな気がした。
「行きましょう」
「はい……」
セラは大人しく、クレヴァについて歩き出した。ユリシーズの肖像画で見た姿は、神経質で厳しそうな人のように見えたので、優しく笑う姿に少しだけ安心した。
「……貴女様のその、翡翠の瞳。お父様によく似ておられる。一瞬、ジュスト様の顔が重なりました」
「あの、エーラース卿、私、父に似ていますか?」
「ええ。よく似ておいでだ。クレヴァで構いませんよ。ユリシーズ様に持たせた、この『写真』をご覧になったでしょう」
クレヴァが懐から出した、飴色の手帳を見て、セラは目を見張った。
「これには色がついていませんが、貴女様とまったく同じ色の瞳をしていました。翡翠の瞳は、ウィグリド皇系が持つ独特の色です。私とセドリック……亡くなったユリシーズ様の父は、ジュスト様の臣下であり、友でもありました」
セラはぽつんと「そうだったのですか」と呟いた。何となく、そんな気はしていた。父が二人の肩を抱くようにして、明るく笑っていたから。
「西方の動乱がおさまってから、ずっとお二人のことを、お探し申し上げておりました。七年前、ジュスト様のお子が帝国の『狩人』に襲われて亡くなられ、フェリシア様が南方に逃れたと聞いて、捜索の手を止めたのです。私達がしつこくお探ししたせいで、亡くなられたのだと。私達の過ちだと、セドリックとそう申し合わせて」
「そんな、ことが。私、何も知りませんでした……」
七年前。一時期、セラだけが王都にあるオルガの家に預けられていた。セラと母が住んでいた宿舎が火事で住めなくなったからだと聞いていたが、事実は違っていたらしい。火事ではなく、おそらく襲撃で燃やされたのだろう。
「知る必要がなかったからですよ。私も同じ立場だったら、絶対にお知らせいたしません。私達の柵を、因果を貴女様が背負う必要はない」
「だけど、そうもいかなくなったんでしょう? 知る必要のない私に、知らせなくてはいけないことができて」
「聡い方だ。そう。セラフィナ様が生きていることを、なぜか帝国側が掴んでいました。頻発する若い女性の失踪も、もしかしたら関連があるのではと思い、リオンを先行させたのですが……ユリシーズ様も一緒についてくとは、思っても見ませんでしたよ」
眼鏡の奥の瞳が、困ったように笑った。
「ご自分と似たような境遇のジュスト様のお子に会いたいと。困っていたら、友人として助けてやりたいと、子供の頃からずっと言っていましたから」
セラは、ユリシーズが「力になりたい」と言っていた意味が、いま初めてわかって、涙が溢れてきた。初対面と思えないと言っていたのも、セラがジュスト皇子の娘だと知ったから。友達として助けたいと、子供の頃からずっと思っていたから。ずっと優しかったわけがわかって、ユリシーズに会いたくてたまらなかった。
「クレヴァ様、私が西方でできることは、何ですか。私、何ができますか。ユリシーズに、黒騎士のみんなに、戦ってほしくない。誰にも、死んでほしくない、です。私の知っている人達、みんなが笑って暮らせるために、できること、ありますか」
しゃくり上げながら、前を歩くクレヴァに問いかけた。
「何も。何もしなくていいんですよ、セラフィナ様。貴女様は貴女様の好きにしていいんです。ここに残るのも、私達と西方に戻るのも。どちらを選んでも、誰も貴女様を咎めたりはしません」
「クレヴァ様。抜け駆けはなし、でしてよ」
カツカツと、磨かれた石床を蹴る靴音がして、顔を上げると王宮側の通路から駆けて来るウィスタリアの姿があった。はぁはぁと上がった息で、セラのところまで早足で駆けつけると、セラの身体をぎゅうっと抱きしめた。
「セラ、あなたどこにいたの? 女官達みんなで探し回っていたのに」
「あの、ここでぼんやりしてました……ごめんなさい……」
「こんなに泣いて……あのおじさんに、何を言われたの?」
冷たい目でちらりとクレヴァを見て、ウィスタリアは幼子をあやすように頭を撫でてやった。
「先生、私、西方に行きます。ユリシーズの、力になりたいんです。私、何にもできないけど、力になりたい……」
ぎゅうっとウィスタリアの首にしがみついて、声を上げて泣きじゃくった。
「そう言うんじゃないかって、思っていましたよ。私はこれでも、あなたの母代わりですからね」
「ごめんなさい、勝手に決めて、ごめんなさい、先生……」
頭を撫でる手が優しくて、涙が後から溢れて止まらなかった。
「行きましょうか。皆の前で、あなたの気持ちを聞かせて頂戴」
「はい、先生」
クレヴァのほうを見ると、痛いところを触られたような顔をしていたが、セラを見て一つ頷くと、先に立って歩き出した。先導されて連れてこられたのは、王賓待遇の重厚な設えの賓客のための部屋で、セラは緊張して手に汗が出てきた。北方諸侯はオルガの父で精霊騎士団第一師団の長、ローネ卿と、女官監督官ウィスタリア、第四師団長ウルリーカ、そして精霊騎士団の団長ラウニだった。まさか団長がいるとは思わず、セラは回れ右をしたくなった。王姉のラウニがセラのために来てくれるとは思っても見なかった。
西方諸侯側は、クレヴァと、上品そうな老婦人と、顔の左側に恐ろしげな爪傷のある五十代くらいの武人、そして矍鑠とした老将軍といった風情の四人だった。はっきりいって怖かった。下手な事を言うと怒鳴られそうな気がする。
「初めまして、セラフィナ・エイルと申します」
侍女服の端っこを摘んで、淑女の略式礼を取ると、ギロリと矍鑠とした老将軍に睨まれたが、次の瞬間、老将軍がボロボロと大粒の涙を流し始めて、セラは一瞬ギョッとなった。
「わしはフェアバンクス公爵、ガウェインと申す。この泣いているじいさんは、フィア・シリス王国のバハルド将軍だ」
武人が太い笑みを浮かべながら、戦枯れした太い声で名乗った。続けて、その隣にかけていた上品そうな老婦人が名乗った。
「わたくしは、そのフィア・シリスの女王、コンスタンスと申します。といっても、吹けば飛ぶような小さな国ですから、普通のおばあさんだと思ってくださいまし」
おっとりと微笑むその様子は、テラスで小猫を膝にのせているのが似合いそうだ。諸侯どころか女王陛下のお出ましで、セラは本当に逃げたくなってきた。「ユリシーズ、大物ばっかりと来てるって、どうして教えてくれないの!」と、胸倉を掴んでやりたい衝動にかられた。
「うぐ、本当に姫様の目元が、ジュスト皇子に瓜二つで、うぐぅぅぅ」
「泣き止んでください、バハルド翁。話が進みません」
「す、すまぬクレヴァ殿。わしに構わず、話を続けてくだされ」
「では、セラフィナ様のご意志をお伺いいたしたく。皆様、ここでのことは他言無用。沈黙の誓いを」
全員がスッと口を抑え、その手を降ろして組んだ。
「私は、十九年間、何も知らずに、北方で何不自由なく暮らしてきました。母や先生や、師団長様達。友達に支えられて、これからもずっと、何事もなく暮らしていくのだろうと、そう思ってきました。でも、今は。レーヴェ卿と出会って、自分の出生を知って、私にできることがあるのなら、西方に行かねばならないと思いました」
セラは先生を見て、それからクレヴァを見た。二人とも、じっと優しくセラを見返している。おなかのあたりで組んだ両手に、ぐっと力が入った。
「私には、剣を振るう力もないけれど、私にしかできないことがあるなら、お役に立ちたいんです。だから、私は、西方諸侯の皆様と、西方に行こうと思います。皆様から受けた恩も返せずに、こんな勝手な事を言って、本当に申しわけ」
言いながら頭を下げようとした瞬間、ふんわりとした優しい声が遮った。
「セラ、いいのよ。頭をさげたりしないで。あなたの気持ちは、よくわかりました」
「ラ、ラウニ様!」
「王族の一員として、セラに一つだけ私が伝えられるのは『人のためにあれ』ということよ。ふふ、私もなかなか実行できないのだけれど。これを心に留めて、セラにできることを、一つずつ探していきなさい。あなたには、もう助けになってくれる人がいるのでしょう?」
「私も、ミリアも、オルガも、セラの選んだことに反対などしないよ。オルガはしばらく荒れるだろうがな。受けた恩とか、そんなことは考える必要はない。遠く離れても、セラの事は家族だと思っているから」
「おじ様……。ありがとう、ございます」
「セラをお嫁に出す心境って、こういう感じなのね……」
「ウルリーカ様! お嫁って」
「あら、違うの? 私てっきりユリシーズ様についていくものだと」
「なにいいいいい!」
バハルド翁とフェアバンクス公爵が、勢いよく同時に立ち上がった。
「あのクソ坊主! よりによって姫様に手を出しおって!」
フェアバンクス公爵が太い声でがなった。
「どういうことだクレヴァ! ユリシーズの伴侶探しはお前の仕事じゃろうが!」
バハルド翁が、隣に座るクレヴァに、つばを飛ばして食ってかかると、手巾で顔を拭きながら、クレヴァが淡々と応じた。
「それは私の仕事じゃありませんよ。それに、伴侶はご自分で探すとおっしゃってました。お二人とも、まだ会談中ですよ。落ち着いて」
「シーグバーン殿、今から闘技場への参加はできんのか! 公衆の目前で仕置きしてくれるわ!」
「もう締め切りました。それに年齢制限がございましてよ。若者の仕官への登竜門ですから」
暗にジジイは出るな、と言われて、フェアバンクス公爵は憮然として椅子に座りなおした。
「で、姫様は、本当によろしいのですかな? あのクソ坊主のところに嫁ぐおつもりだと」
「セドリックの嫁とりも大概だと思ったが、息子までとは思いもせなんだわ」
「いえ、あの、その、私」
オロオロするセラに、フィア・シリス女王陛下は扇をパタパタと仰ぎながら、穏やかに微笑みかけた。
「ホホホ。悲しいお別れになるのかと思って、わたくし、姫様には残られては、と進言するつもりでした。ユリシーズ殿の伴侶としておいでいただけるのでしたら、ちょっぴり切ないお別れになりますのね。ようございました」
北方諸侯達は「この人達のところに、この子を預けて、ホントに大丈夫かな?」という顔をして、じっとセラを見ていた。セラもどうしたらいいのかわからなかった。
闘技場で武術大会に出ているユリシーズの知らないところで、話がどんどこおかしなほうに転がっていく。何でこんな話になったんだろう。何て説明しよう、そればかりが、セラの頭のなかをぐるぐるとまわっていた。