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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
北方大陸編
17/111

17. すれちがう気持ち

 あれから侍女長がやってきて、セラは「早上がりでなら」という条件で、仕事に復帰することを許された。仕事をしていれば余計なことを考えずにすむ。そう、思っていたのだが。


 窓を拭けば、下を歩いていた長老役の頭に雑巾を落とし。


 来客へお茶を運べば、ひっくり返し。


 書類の整理を仰せつかれば、一枚ずつ番号をずらして綴じ。


 廊下を掃除すれば桶に躓いて汚水をぶちまけて、通りかかった侍女長を転ばせる始末。


 目にあまる失敗の数々に、侍女長は腰の痛みを堪えながら「本館廊下の、銀燭台を磨いてなさい」と、セラに命じた。燭台は壁に固定されているから、滅多なことでは壊れないし拭くだけでいい。セラは磨き布を持って、三階から拭いて回ることにした。


 ボーッと燭台を磨くセラを、少し離れた所から見ている、紺色のお仕着せ姿の娘達がいた。セラと同じ見習い女官だが、身分的には侍女なので、他の侍女達と同じ制服を纏っている。唯一違うのは、詰襟についた蔓薔薇の飾り釦だった。


 勝気そうな灰青の瞳を半目にして、イーダは「見事にボーっとしているわね」と呟き、肩までの褐色の髪をさらりと揺らして「張り合いのない」と、ため息をついた。

 ゆるく波打つ白金の髪を後ろ頭で一つに結ったマルギットは「燭台が磨り減りそうな勢いですわね……」と、燭台の身の上を思い澄んだ褐色の瞳を曇らせた。

 麦わら色の髪を丁寧に編みこんだ青い瞳のマイラは「本当に、どうしちゃったの、セラ」と心配そうに呟いた。あの分では手伝う間も無く、セラの手によって本館中の燭台が鏡のように磨きこまれるに違いない。


「ねぇ、オルガ様はどうしているの? あの方ならご存知でしょ、あの子があんな風になっている理由を」


 イーダは腰に手を置いて、隣にいる二人を振り返った。


「オルガ様はまだ王都ですわ。しばらく戻れないから、セラの様子を見ていてほしいってお手紙が」


 物憂げにため息をついて、マルギットは書類を綴じた束を抱えなおした。セラは几帳面でこういう細かい仕事は大得意だ。めちゃくちゃな順番に綴じるなんて、普段なら絶対にしない。


「私のところにも来たわ。心配でしょうね。今のセラは、まるでふやけた麩菓子みたいですもの」


 マイラは沈んだ様子でぽつんと呟いた。誰が見ても、今のセラは凹みまくっている。


「私のカンですけど、セラにはどなたか想う方がいるのではないかしら」


 イーダとマイラは、声を揃えて「えっ」と叫ぶと、慌てて口を押さえた。廊下の向こうでは、セラがぼーっと燭台を磨いている。まったくこちらに気が付いていない様子に胸を撫で下ろした。


「あの鈍感娘が、恋しているっていうの?」


「まぁ、セラが恋を? 今日はお祝いね。花ご飯を炊かなきゃ」


「マイラ、もし片恋だったら、それは傷口に塩を塗りこむようなものよ」


「そんな……片恋なの? 切ない。そんなの切な過ぎるわ」


 マイラは持っていた磨き布をくしゃくしゃに握り締めた。イーダは目を細めて、マルギットの顔をじいっと見た。何かが引っかかる。


「マルギット、あなた何か知っているわね? 白状なさい」


 イーダは、ずい、とマルギットに迫ったが、逆に額同士を押し付けられる形で、ぐぐっと押し返された。


「だから、カンだと申しているでしょ」


「や、やめて二人とも、セラに見つかっちゃうわ」


 マイラがオロオロとしていると、背後側の廊下から侍女長が腰を押さえながら歩いてきた。


「マルギット、マイラ、それにイーダ。ちょうどよかったわ。今すぐ迎賓館へ行ってちょうだい。明日から、西方大陸特使の方がお使いになるそうだから」


「ええっ、私もですか?」


「ええ。休暇中なのにわざわざ騎士団領までやってくる、熱心な候補生はあなたぐらいですよ。助かりますね」


 休暇中のイーダをしっかり頭数にいれて、侍女長はきりりとした瞳を細め、微笑んだ。


「メイド達の監督と清掃。それと備品の手配を頼みます。私はこれから料理長とお食事について打ち合わせます」


「かしこまりました」


 マルギット達は優雅に一礼してその場を後にした。侍女長は彼女達を見送ると背後を振り返った。監督官のウィスタリアから、セラを本館に留めろと頼まれて、あれこれと雑用を言いつけたが失敗ばかりで危なっかしい。本調子であれば迎賓館の準備を任せたかった。侍女長は仕方なく、そっとその場を離れた。



 翌朝。


 あまり眠れなかったけれど、セラはいつもどおりに起きて、しっかり身支度を整えてから食堂におりて行った。いつもなら侍女仲間達が姦しく食事をしてる時間帯なのに、今朝は誰もいない。通常の勤務帯から外れているセラには伝わっていないだけで、きっと皆はいつもより早く仕事を始めているのだろう。大食堂のカウンターに並べられている料理から、片面焼きの卵と白芋のサラダ、木の実たっぷりのパンを選び取って、窓際の席に座った。窓からは騎士団の訓練風景や、朝日に白く輝く迎賓館が見える。


「あれ、迎賓館の窓が開いてる……」


 迎賓館のあらゆる窓が開いている。これは確実に何かいつもと違うことが起きているに違いない。急いで食事を終えると、セラは厨房に「ご馳走様でした!」と元気良く声をかけて、侍女長の執務室へと駆け出した。数間手前で歩いて、息を整える。それから執務室に在室の札がかかっていることを確認して、ゆっくりとノックした。「どうぞ」という応えを受けて一拍置いてからセラは扉を開けた。


「失礼します、侍女長様」


「セラ、あなた廊下を走ってきましたね?」


「あう、はい」


「……後で、罰金箱に三小ナル入れること。何をそんなに急いで来たのですか?まだ始業まで時間があるでしょうに」


 先生の友達はみんな地獄耳だ……と思いながら、セラは慌てて身を正した。


「迎賓館にどなたかおいでになるのですか? 他の侍女仲間の姿が朝から見えないので、そちらに行っているのかと思いまして」


「西方大陸からの特使の方がいらっしゃるの。午後に到着されるので、皆にはその準備をお願いしました。あなたには私の補佐を頼みます。さすがに私一人では手がまわらないの」


「はい、わかりました」


「結構。それでは……」


 セラは山ほどの雑用と平行して侍女長の補佐をすることになった。侍女長が必要な備品を書き出した表をもとに、本館中をあちこち走り回るうちに、あっという間に午後になった。侍女長の執務室でやたらと豪勢な昼食にご相伴して、午後からは別館の備品室で物品の補充を命じられた。


 お茶の時間に差し掛かる頃、本館全体に物々しさが増した。西方大陸からの特使が到着したのだろう。本館の裏手にある別館では、馬車の車輪の音と馬の蹄鉄が敷石を蹴るような音、大勢がざわつく声しか聞こえない。音だけ聞いていても仕方がないので、セラは手を動かすことに専念した。足りない物を数えて、補充する数を帳簿につけていく。こういう細かい作業や帳簿付けは好きな仕事だった。棚ごとに帳簿を整理していると、数度ノックの音が聞こえた気がして、顔を上げた。入り口に苦笑を浮かべる侍女長の姿があった。


「セラ、トゥーリ様がお呼びよ。呼ばれついでに、貴賓室にお茶を二客分お持ちして」


「はい、侍女長様。あの、まだ帳簿の整理が済んでいないのですが……このままにしておいても?」


 セラは手元を見て、眉を困ったように寄せた。


「ええ。ここまで終わっていれば上出来です。ここは私が片付けておきますから、トゥーリ様の御用が済んだら、あなたはそのまま上がりなさい」


「は、はい。それでは行ってまいります」


 後片付けを上司に押し付けるような形になって後ろ髪を引かれたが、トゥーリのお召しでは仕方がない。お茶の準備をするためにセラは厨房へと急いだ。


 本館二階にある貴賓室は、団長や師団長といった幹部だけが使用できる、重厚な趣の来客用の部屋だ。セラはカートを傍らに止めて、ノッカーを三度叩いた。普段なら中にいる騎士が開けてくれるのだが、今日は何も応えがない。仕方なく、数秒待ってから「失礼致します」と静かに扉を開いた。


「ありがとう、セラ」


 下座に掛けていたトゥーリが振り返った。その端正な顔は疲れ気味で、セラは少しだけ心配になった。あの石切り場で別れてから、王都に行ったり精霊殿に行ったり、色々忙しくしていたに違いない。


 窓際には黒い騎士服を着た人が立っていた。来客は背を見せていて、逆光で顔はわからない。セラはそちらに背を向けて、盆にカップとソーサーを乗せようとした。


「久しぶりだな」


 低くて艶のある、良く通る声が響いて、カップを取り落とした。



 ぱりん。かららん。



「ちょ、ちょっとセラ?! それ、僕のお気に入りじゃない?!」


 トゥーリは勢い良く立ち上がって、セラの足元を見た。薄い白地の磁器が粉々になっている。


「くっ……。危ないから触るんじゃない。後で人をやって片付けさせる。そこの彼が、君と話したいそうだから、僕は少し席を外すよ」


 明らかに疲れ以外の何かに打ちひしがれて、トゥーリが部屋を出て行った。セラは声を発することも、身動きすることもできなかった。一番聞きたい声の人が、いま、真後ろにいる。


「一週間、いや、十日ぶりくらいか? おーい、何で固まってるんだよ?」


 ユリシーズは、背を向けて石のように固まったセラの前に回りこんだ。そして、その顔を見てぎょっとした。ぼろぼろ涙をこぼすセラに動揺して、思わずその細い肩をつかんで軽く揺さぶった。


「お、おい、何で泣いてんだよ?」


「あ、会いたかった」


「俺も会いたかったよ」


「お、れいも、おわかれも、言えなかったから」


「お礼はともかく、お別れは言われたくないな」


 両手で顔を覆って声もなく泣くセラに、どうしようもなく庇護欲が掻きたてられる。ユリシーズは抱きしめようとした手をグッと握り締めると、そっと背中を押して、椅子にかけるように促した。


「とにかく座れ。茶でも飲んで落ち着け。俺、セラに泣かれると、どうしたらいいかわかんねーよ」


 ユリシーズはカートからお茶の入ったカップを取って、黒樫のテーブルに置いた。椅子のすぐ傍に跪いて、弱りきった顔で涙をこぼすセラの顔を見上げた。


「そ、の格好は? やっぱり騎士だったの?」


 ポケットから淡いクリーム色の手巾を取り出して、次々溢れてくる涙を拭う。


「うん。西方大陸の『黒き有翼獅子の騎士団(グライフ・オルデン)』って知ってるだろ? 噂の残虐非道な黒騎士団」


「敵も、味方も、皆殺しの黒騎士……?」


 良く見るとユリシーズは全身黒で統一された騎士服を着ていた。黒一色というのは珍しいが、よく見ると上着の開襟部分と内着の立て襟に、いぶした銀糸で細かな刺繍がされている。胸元には、剣を咥えた漆黒の有翼獅子のエンブレムがあった。


「セラに言われるとさすがに凹むな……。そうだよ、俺はその黒騎士だ。何か色々言われてるけど、俺達は絶対味方には手を出さないからな」


「リオンさんも、アキムさんも、黒騎士?」


 すん、と鼻を啜って、赤くなった鼻を手巾で隠して、答えを待った。


「うん、二人とも黒騎士。もしかして、オルガとトゥーリから、何も聞いていないのか? 俺の本名も?」


 こちらを真っ直ぐに見るユリシーズは、苦笑いを浮かべていた。そういえば、二人から手紙が来ていた。


「オルガから、お手紙が来ていたけど、まだ読んでいないの」


「知らん顔してたから、俺の素性を知って、口聞いてもらえなくなったのかと思った」


 ニヤッと笑って、ユリシーズは立ち上がった。


「そ、そんなことしないわよ。でも、ユリシーズの本名って? そういえば家名を聞いてなかったわね」


「俺はユリシーズ・レーヴェ。『黒き有翼獅子の騎士団(グライフ・オルデン)』の、騎士団長だ」


「そう、だったんだ……」


 セラはユリシーズの素性を知って、頭が真っ白になった。騎士は騎士でも噂の黒騎士。しかも、その黒騎士達を率いる騎士団長。為政者のような雰囲気を持っているのも、命令することに慣れているのも、きっとそのせいだ。

 ユリシーズの顔が直視できなくて、セラは俯いたまま「そうとは知らずに、数々のご無礼を……」と、しどろもどろな謝罪を述べた。知らなかったとはいえ、結構な無礼を働いたような気がする。おまけに怪我までさせて。申し訳なくて、顔が上げられなかった。


「無礼って、何が?」


 ユリシーズはきょとんとした顔で、セラの顔を覗き込んだ。


「ひ、平手うちしたし、失礼なことも言ったし、怪我もさせたし……」


「そういえば助平って言われたな。言っとくが、男はだいたい助平だぞ?」


 きりっとした顔で「男は助平」と言い切るこの青年は、本当に黒騎士団の偉い人なのだろうか。あっけにとられたおかげで、セラは完全に涙が引っ込んだ。


「真面目な顔で、そういう冗談はやめてよ」


「俺はいつだって真面目だ。とにかく、セラが畏まったりする必要は一切ないから」


 ちょうど話が一段落したところで、扉がノックされた。少ししてから、ひょいとトゥーリが顔を出した。


「そろそろいいかい? セラ、おいで。ユーリも」


 セラはトゥーリがユリシーズを愛称で呼ぶのが不思議だった。いつのまに、そんなに仲良くなったのだろう。不思議に思って、前を歩くトゥーリの背中に問いかけた。


「トゥーリ様、その呼び方って」


「ん? 一緒に組んで仕事したことがあるんだよ。なんだかんだで、もう四年くらいの付き合いかな」


「そうだったのですか。意外と世間って、狭いのね……」


 セラ達はトゥーリに連れられて、本館一階奥にある軍師専用のサロンに通された。軍師達が話し合う部屋だけあって、継ぎ目のない扉は中の音を一切漏らさないようになっている。その部屋で、セラの恩師ウィスタリア・シーグバーンが待っていた。


「せ、先生? 私に御用なら、お屋敷に行きましたのに」


「ごめんなさいね、セラ。忙しいのに呼び立てたりして。ここでないと話せない内容なの」


「いいえ。それで、お話とは何でしょうか?」


「あなたのお父様のことです」


「私の? 私が産まれる前に亡くなった、父のことですか?」


「ええ。あなたの隣にいるレーヴェ卿が、お顔のわかるものをお持ちだそうよ」


「ユリシーズが……?」


 ユリシーズは上着の内ポケットから、飴色の革手帳を取り出した。セラは顔も見たことがなかった父のことをユリシーズが知っていると聞いて、なぜか胸騒ぎがした。差し出された手帳を受け取り、セラはそっと表紙を開いた。


「これ、絵じゃないのね……。こんなに鮮明な肖像画、初めて見た」


「出所は聞かないでくれ。真ん中の人が、セラのお父さんだ」


 左隣にはユリシーズによく似た笑顔の青年がいて、右隣には神経質そうな眼鏡の青年がいて、真ん中に明るい笑顔を浮かべた青年がいた。確かに、目じりの下がった感じが笑ったときの自分に似ている気がする。


「もしかして、この左の人は、ユリシーズのお父様? 面影がそっくり」


「ああ。俺の父だ。反対側の人がエーラース卿だよ」


「この人が、私のお父さん……」


「……ウィグリド帝国第九皇子ジュスト。先代皇帝の庶子だった方よ」


 唐突に響いたウィスタリアの硬い声に、セラは驚いてそちらを振り返った。


「えっ?」


「あなたはウィグリド帝国の皇女ということになるわね。フェリシアに……あなたのお母様には、黙っていてほしいと頼まれていたのだけれど。こんな形で伝えることなってしまって、本当にごめんなさい」


「い、いきなり、そんなことを言われても。私……私どうしたらいいのか」


「セラ、落ち着きなさい。皇女だからといって、あなたが何かをしなければならないとか、そういうことではないのよ」


 ウィスタリアが静かな顔で、セラの両頬を包み込むように手を添えた。セラは涙を湛えた瞳で、添えられた手に自分の手を重ねた。母のようにずっと慈しんでくれた手が、少し震えている。たまらず涙がひとつ零れた。


「ごめんなさい、私、混乱しているみたいです。す、少し、庭で頭を冷やしてきます」


 すぐ傍に立っていたユリシーズの手に革手帳を押し付けて、セラはそのままサロンから飛び出した。三人は黙ってそれを見送り、誰ともなく重たいため息をついた。


「知らせたくなかったのは、みんな一緒、か。俺が現実をつきつける形になったな」


「気に病まなくていいよ、ユーリ。いずれセラにはこのことを知らせるつもりだったんだ。帝国の目が北方をむいた時点でね」


「例の死人兵が現れたときから、想定はしていました。七年前のようにジュスト皇子の落胤を、また探しにくるのではないかとね。侍女長に知らせるのが遅れたせいで、うかつにも外に出してしまって……あれは、本当に生きた心地がしませんでした」


「やっぱり南部地帯閉鎖は、あなたの差し金だったんですね。おかげで俺はセラに出会うことが出来ましたが」


 ユリシーズは「運命」なんて言葉は大嫌いだったが、今は少し運命とやらに感謝したくなっていた。セラとは、会うべくして会った。そんな気がしたからだ。


「そのせいで君達西方諸侯にセラの存在が知れてしまった。因果なものだね……。セラのネックレス、取り上げて金庫にでも入れておくべきだったよ」


「トゥーリ様、あなた、そんな酷いことできて? あの子にとって唯一の父の形見なのに」


 ウィスタリアは苦笑して、できもしないことを言うトゥーリを嗜めた。妹分に関しては、得意の毒舌も鈍るようだ。


「いいえ。ユーリ、セラのそばにいてやってくれるかい? たぶん君が一番適役だ」


「それはどうかな……。では、俺はこれで失礼する」


 一礼してユリシーズがサロンを出て行った。扉が閉まると同時に、廊下を駆け出す音がする。


「ずいぶんと、真っ直ぐな瞳をした方ですのね、若き黒獅子公は。あの瞳がセラの女心をくすぐるのでしょうね」


 ウィスタリアは腕を組んだ姿勢で、隣に立つトゥーリに笑いかけた。冷徹そうな女軍師の顔は消えて、いつもの柔和な貴婦人然とした顔に戻り、どこか楽しそうな表情を浮かべている。


「もうちょっと曲がってもいいと、僕は思いますよ。あれじゃ、いつか折れてしまう」


 トゥーリは四年前とは違う、どこか思いつめるような瞳が少し気になっていた。あの若さで騎士団を率いているのも並大抵の苦労ではない。セラのことといい、苦労ばかり背負い込むのが気の毒だった。



 セラはサロンを飛び出して、真っ直ぐ別館の裏庭まで走った。別館のずっと奥にある裏庭は、適当に植えられた垣根が繁るばかりでほとんど人がこない。壁に背を預けて上がった息を整えた。


「セラ!」


 唐突にセラを呼ぶユリシーズの声がして、肩がびくっと跳ね上がった。敷石をカツカツと踏む音が近づいて来る。どうしてセラがここにいるとわかったのだろう。とにかくここから移動しなければ。今ユリシーズの顔を見たら、ひどいことを言ってしまいそうな気がする。慌てて垣根を潜ろうと屈んだ瞬間に、暖かな手が二の腕を掴んだ。


「見つけた」


 少し息を弾ませたユリシーズが、黒い騎士服が汚れるのも構わず、すぐ隣に跪いた。


「は、離して!」


「イヤだ。絶対離さない」


「一人にして、お願いだから。ユリシーズに、ひどいこと言ってしまいそうだから」


「俺にいくらだって言えばいい。全部ちゃんと聞くから。元はといえば、セラの居所が知れてしまったのは、俺のせいだ。俺がセラの首飾りのことを、クレヴァ様に報告したんだ」


「首飾りなんて、いつ見たの」


「平手される前に。セラの首飾りが帝国の国章を模したものだと、すぐわかった。俺の家にも似たようなものがあったからな……」


「私は、お父さんの形見としか、聞いてない……。何なのかなんて、知らない」


「それは皇帝一族が身につけるものだ。クレヴァ様にも確認を取ったから間違いない。本当にジュスト様の遺児がいるとは、誰も思っていなかったから、西方諸侯達は喜んだよ。是非とも、その方をお迎えするべきだと」


「それじゃ、ユリシーズは、私を迎えに北方大陸に来たの?」


「違う。帝国と結びついている反王国派を調べるために、特使団より先行して北方に入ったんだ。俺とリオンは、南部地帯で真相を探っていて……そこで、セラに会った」


「私と会ったのは、偶然なの?」


「ああ。セラに会ったのは、本当に偶然」


「私が皇女だって知ったから、ずっと助けてくれてたの? 私が置いてって言っても、聞いてくれなかったのも、そのせい?」


「皇女なんて知らない。俺はセラを守りたいだけだ。君に騎士の忠誠を捧げろと言われたら、喜んで誓うよ」


「な、何、言ってるの? 騎士が女性に剣を捧げる意味、わかって言ってるの?」


「騎士の俺が知らないわけないだろ。一ナルの契約とはわけが違うぞ、一生ものだ」


「や、やめてよ、私に剣を捧げて、一生独身でいるっていうの?」


「セラが俺のものになれば、独身じゃなくなるけど?」


「さっきから何言ってるの。冗談にしては、たちが悪いわよ……」


「俺は本気で言ってる。何なら、今から誓おうか」


 じっとセラの瞳を見る蒼い瞳は、怖いぐらいに真剣だった。本当に腰に佩いた長剣を鞘ごと外し始めたので、セラは慌てて「やめて!」と叫んだ。


「……私達、会わないほうがよかったね。会わなければユリシーズが変な役目に縛られたりすること、なかったもの」


「俺は会えてよかったよ。セラと会えたことに絶対後悔なんてしない」


「どうして、お父さんの肖像画なんて、持ってきたの? 本当は、命令されて私を迎えに来たんでしょう……」


 話すうちにどんどん心が真っ暗になっていく。胸が締め付けられるように苦しくて堪らなかった。


「俺はセラを、無理やり連れて行ったりしない。それだけは信じてほしい」


「命令されたこと、否定しないのね」


 セラは、責めるような口調で、ユリシーズに詰め寄った。


「命令だからお前を連れて行くって、そう言ったほうがいいのかよ!」


 セラは語尾を荒げたユリシーズに、びくりと身を竦ませた。そんなセラの様子に、ユリシーズはひどく傷ついた瞳になって、ふいっと顔をそらした。


「きつい言い方をして、ごめん。無理かもしれないけど俺を信じてくれ。少しの間だけここで厄介になるけど、今までどおりにしてくれると助かる」


 ゆっくりと二の腕を掴んでいた手が離れる。怖くて顔が上げられない。すぐ傍にあった気配が、すっと離れていく。カツカツと石畳を行く規則正しい音は、すぐに聞こえなくなった。それが無性に悲しくて、後から後から涙が溢れてくる。あんなに会いたいと思っていた人なのに。会えてよかったと、言ってくれた人なのに。信じることもしないで、ただ傷つけて、怒らせた。


「もう、やだぁ……」


 このまま、何も言わずにお別れしようと、セラは思った。ユリシーズが西方に帰るまで、もう会わないほうがいい。しばらく胸は痛いだろうけど、大好きな人を傷つけるより、きっと痛くないはずだから。



 ユリシーズに会わないと決めたはいいものの、これがなかなか大変だった。会わないと決めた一日目。迎賓館にいるはずのユリシーズは、しょっちゅう本館にやってきた。騎士団の上層部と会議をしたり、別館の図書室で調べ物をしたり、至るところで異常接近しそうになる。そのたびに慌てて物陰に隠れたり、別の部屋に飛び込んだり、お茶の係をマルギットに交替してもらったり。とにかく徹底的に避けつづけた。

 その翌日は、マイラから「あのね、黒騎士のすごく綺麗な男の人と、かわいい感じの男の人が、セラに会いたいって言ってたわ」と伝言をもらった。その次の日にも同じ伝言が何度も来たが、仕事を理由にひたすら断り続けた。あの二人に会うということは、必然的にユリシーズと会うことになるからだ。ユリシーズ達が再び王都に戻るまで、あと四日。


「これは、思っていたよりきつい……」


 思わずぼやいて、扉にもたれるようにずるずると座り込んだ。すっかりおなじみの備品室は、セラの憩いの場となりつつあった。


「そうでしょーそうでしょー」


 唐突に背後から、のんびりとした柔らかい声がした。


「キャー!」


 セラは驚いてその場から飛び退った。背中が勢いよく棚にぶつかって、がたんがたんと、何かが落ちる。


「冷たいねぇ、セラちゃん。俺達、来てくれるの待ってるのにさー」


 セラが図書室から持ち出した冒険小説を片手に、作業机の上に腰掛けていたのは、黒い騎士服姿のリオンだった。


「ど、どこから入ったの、リオンさん!!」


「そこの窓からだけど」


 ぴっ、と指差したのは、はしごがないと登れない高所にある、明り取りの窓だった。


「誰かぁ! け、警備兵! 侵入者よ!」


 セラは備品室の扉を開け放って、廊下に大声で呼ばわった。


「セラちゃんがユーリ様を避けまくるから、迎賓館は毎日お葬式状態なんだけど?」


「さ、避けてなんか」


「嘘ついてもわかるよ。ユーリ様のこと、初日からずっと避けてるでしょ。そのせいで、見てられないくらい落ち込んじゃってるんだよね」


「え……」


「責任、とってね?」


 にっこり笑って、どこからともなく縄を取り出すと、リオンは一瞬でセラを拘束した。ついでに猿轡もはめてあげた。


「うわぁ、何だか懐かしいねぇ。最初に会ったときも、こんな風に縛られてたもんね」


「んんううもも、んがーーーー!」 (何するのよ、バカーーーー!)


「ごめんね。こうでもしないとセラちゃん、絶対ユーリ様に会おうとしないでしょ」


 手足を縄でぐるぐるに巻かれ、じたばた暴れるセラを「よいしょ」と軽々と肩に担いで、リオンは迎賓館へと歩き出した。

迎賓館の前に着くと、そこで待ち構えていた黒騎士達に「いらっしゃーい」と、満面の笑みで出迎えられた。玄関を潜り、居間をまっすぐ通り抜け、二階奥にある居室へと連れて行かれる。

途中でマルギットとマイラにも会ったが、二人とも人質状態で担がれているセラを見るなり、その場に崩れ落ちた。レディとしてありえない笑い声を上げているのが、廊下の向こうからまだ聞こえる。


「いいお友達だね。セラちゃんの潜伏先、率先して教えてくれたんだー」


「んむむむもも!」(裏切り者!)


 居室に続く扉の前には、黒い騎士服姿のアキムが立っていて、セラを見てふんわりと優しい顔になった。優しい艶声は「お久しぶりですね、セラちゃん」と、再会を喜んでいるものだったが、語尾は完全に笑っていた。酷すぎる。一番止めてくれそうな人だと思っていたのに。


「ユーリ様は?」


「仮眠中」


「よっしゃ。このまま放り込んでおこっか」


「んむ?! んむむ!」(うそ?! やめて!)


「あ、床に投げたりしないから。ちゃんとユーリ様の寝台に置くから」


「んむんむ! んむむ!」(うそうそ! やめて!)


「寝台はまずいんじゃないか。ユーリ様も男だからな」


「……! ……!」


「それならソファにしとこうか」


 アキムの発言に絶句状態のセラを担いで、リオンは音を立てずに部屋に入った。窓際に置かれた一人掛けの椅子には、顔の上に本を乗せたユリシーズがいた。襟元を緩めた白いシャツと、黒い騎士服のズボンという寛いだ格好で転寝をしている。


 リオンはそっとソファにセラを置くと、唇の前で人差し指を立てて「静かに」と、無音でセラに言い含めて、素早く部屋から出て行った。セラは焦りに焦った。あの勘のいい人が、セラが避け続けていたことに、気づいていないわけがない。ずっと不愉快な思いをしていた筈だ。合わせる顔がない。

 唐突に、ばさり、と本が落ちる音がして、セラは身体がびくっと竦んだ。


「ん……さっきから、うるっせーな……」


 寝起きの掠れた声がして、ギッと椅子が軋む軽い音がした。水差しからこぽこぽとコップに注く音が聞こえる。身をよじって起き上がろうとした瞬間、立ち上がって水を飲んでいる最中のユリシーズと、ばっちり目があった。


「ぶほっ」


 横を向いて水を噴出し、ユリシーズは盛大に咽た。


「き、気管に、はいった」


 ゲホゲホ咳き込む合間に苦しそうな声が聞こえて、セラは申し訳なさに身を縮こまらせた。縮こまったせいで体勢を崩して、ソファからころりと転がり落ちた。


「い、いったい、何してるんだよ……」


 ぜーはーと息をしながら、腰の革帯から小さな短剣を抜いて、ユリシーズは床にひっくり返っているセラの傍に屈みこんだ。


「縄を切るから、暴れるなよ」


 ぶつ、という音がして、まず手が自由になった。続けて、足のほうからも縄が切れる音がして、足が楽になる。セラは自力で何とか起き上がって、猿轡をとった。


「どうして俺の部屋で拘束されてんだ」


「リ、リオンさんが、私を縛って、ここに連れてきたの」


「あいつめ……怪我は?」


 ふるふる、と首を振る。実に気まずい。


「その格好どう見ても仕事中だよな。アキムに、送らせるよ」


 すたすたと扉まで歩いて行く後姿を見て、セラは泣きたくなった。明らかに気を遣われている。セラを避けようとしている。自分がそうなるように振舞ったくせに、そんな自分勝手なことを思う自分を殴りたくなった。

 しつこく扉をガチャガチャする音がして、不思議に思って顔を上げると、壁に足を掛けて、取っ手を思い切り引いているユリシーズの姿が見えた。


「おい、扉に何をした! 開かないぞ!」


 ドンドンと扉を叩いて、外にいるはずのアキムを呼ぶと、申し訳なさそうな声が返ってきた。


「リオンが、扉に錠前をくっつけて逃げました。捕まえてきますので、しばらくお待ちください」


「何だと! セラが仕事に戻れないだろうが!」


「セラちゃんは早上がりですから、今日はもうお仕事終わりですよ。問題ないかと」


「問題大有りだよ! おいアキム、確かお前も、錠前破りできたよな?」


「……この鍵は複雑すぎて、俺には無理です」


「何ぃ! あ、おい、待て!」


 しーん、と静まり返る室内と、二人の間に流れる妙な緊張感に、セラは非常に居たたまれない気持ちでいっぱいになった。

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