48. 収穫祭
カーテンの隙間から細く朝陽が入り込んでいる。チチチ、と小鳥が飛んでいく気配でセラは少しずつ目を覚ました。ん、と伸びをして起き上がり床に足を置いた。
「ひゃ、つめたっ」
室内履きの上に足をおろしたつもりだったが目測が外れて胡桃材の床に当たり、思わず足をひっこめた。十の月も半ばを過ぎ、だんだん秋も深まって来ている。
今日は楽しみにしていた収穫祭だ。北方大陸は冬が来るのが早いので十月初旬に行われるそれは、西方大陸ではこれから始まる。ユリシーズも丸一日休みを取って収穫祭に連れて行ってくれるから、昨夜は中々寝付けなかった。
顔を洗い簡単に髪をまとめてから、今日のために用意した服を身につけた。収穫祭にはディアンドルという昔からのエプロンドレスで参加するしきたりだ。濃い緑のふわりとしたロングスカート、四角い開きの襟や袖にレースがたくさんついた白いブラウス。縁を金糸でかがった黒いベルベッドの胴衣は胸元まで白いリボンで編み上げる形になっている。自分で裾に赤い小花を刺繍した真っ白なエプロンをつければ完成だ。
男性は飾り帯を結ぶしきたりで、その飾り帯は身内や恋人が心をこめて刺繍する。セラも二か月がかりで仕上げたが、レーヴェ家の紋章はややこしい形をしているので結構大変だった。黒地のベルベッドに金、銀、自分の色である濃い緑、それからユリシーズの好きな橙と青の刺繍糸を使ってあるので華やかだ。
「おはようございます、セラ様」
「おはようございます、マリー」
扉越しに声をかけてから失礼します、とにこやかに入って来たマリーが水色の瞳を細める。
「あら、まあぁ、かわいい! 良くお似合いですわねぇ」
「えへへ、ありがとう。初めて着たけど変なところはあるかしら」
「お嫁入り前の娘さんは、今日だけエプロンの結び目を左前にするんですよ。こんなにかわいらしいのに今年限りとはもったいないこと」
マリーは結び目を作り直してから、手慣れたしぐさでセラの横の髪をさくさく編み込んでいく。仕上げに後ろ髪を丁寧に梳いてもらって完成だ。
黒革の平靴に履き替えて立ち上がり、姿見の前でくるりと回る。マリーも満足げに「ようございますね」と笑った。途中で厨房にいくマリーと別れて、セラは居間でお茶を飲んでいた祖父母達に元気よく朝の挨拶をした。
「おはよう、セラ。おお、ずいぶんとかわいいく仕上げたな」
「おはよう。あらまあ本当! 棚に飾っておきましょうか」
二人が喜んでいる姿にセラも嬉しくなった。じいやのディルクがティーポットを片手にやってきて「奥方様、どの棚にいたしましょう?」とお道化て、皆で声を立てて笑った。
「おはよー」
白いシャツと濃紺のズボンを身につけ、灰色がかった薄青の上着を持ったユリシーズが居間にやってきた。腰にはセラのあげた飾り帯を巻き愛用のファルシオンを差している。帯は結んで端を左側に垂らしていた。
「おはようユーリ!」
「ん。似合ってるな、その格好」
「ホント? かわいい?」
「かわいいかわいい。じい、俺にもお茶くれ」
さっさと定位置のセラの隣に掛けると、テーブルに置かれた風聞紙を手に取った。
「何だか心がこもってない気がする……」
「気のせいだろ。早く座って朝飯を食べような」
唇を尖らせながらセラが席に着くと良い香りの紅茶が供されて、ディルクに礼を言ってからカップを持ち上げた。
「今年は十時開催だったか。皆によろしくな。わしもご隠居連のところにあとで顔を出すとしよう」
「今日はやばいぐらい混むから、明日の方がいいと思うよ」
「そ、そうなの?」
「そうなんだよ。警邏隊に迷子のデイムを保護したと呼び出される俺の身にもなってくれ」
大げさにため息をつくユリシーズをセラはじとりと睨み付けた。
「ねえ、どうして私が迷子になった前提で話してるの?」
「ファーッハッハ!」
「セラや、ユーリのそばを離れてはいけませんよ。黒獅子公のお膝元といっても、よからぬことをしでかす者もいますからね」
「はい、おばあ様。気をつけます」
爆笑する夫と孫を綺麗に無視している祖母に笑いかけ、セラは母なる精霊に感謝の祈りを捧げてからフォークを手に取った。
十時少し前。トラウゼンの街につくと陽気な音楽が聞こえてきてセラは繋いだ手に力がはいった。色とりどりの衣装の若い娘達が笑いさざめきながら街へと入っていく。恋人同士が仲良く腕を組んだり、手を繋いだりして散策する姿もあった。解放戦争が終わって若者の結婚がすごく増えたから若夫婦かもしれない。
「何だか楽しそうね。あの音楽何かしら」
「旅芸人だな。後で連れてくからちょっと待ってて」
「トラウゼン中の町や村の長達がみんなご挨拶に来ているんでしょ? 私も一緒にいてもいい? 邪魔しないから」
「邪魔なわけないだろ、助かる」
フッと目元を和らげて、絡ませた指同士が優しく握り込まれた。街の中心を東西南北に分ける大通りまでやってくると領民達がわっと集まって来た。噴水の周りはすごい数の屋台が並んでいる。簡易天幕が張られて、その中に椅子やらテーブルやらがたくさん置かれていた。ここで休憩したり食事をしたり、芸人達の出し物を見たりするのだ。
「あっ、ユリシーズ様とセラ様よ!」
賑やかな少女たちの声がしてセラは笑顔で振り返って手を振った。領民から絶大な人気を誇るユリシーズの隣にいると、こうしてしょっちゅう声がかかる。今までの生活からは考えられない環境で、何とも言えない面映ゆさに頬を染めた。
広場にある大きな時告げの鐘が十時を知らせると、セラとユリシーズのいる噴水の真正面にある街の役場から数人の老若男女が出てきて、全員がこちらに気が付くと我先にとやってきた。この人達が領主から地方自治を任されている長達のようだ。
「ユリシーズ様。お久しゅうございますなぁ。お加減はいかがですか、ひどいお怪我をされたと聞きましたが」
「ああ、もうだいぶいいんだ。視察に行けなくてすまない。冬になる前に様子を見に行くよ」
「ええ、ええ、ぜひともおいでください! もちろんセラフィナ様も一緒に」
「蒸留酒はどんな感じだ? 来年は南方だけじゃなく、北方からの商人も買い付けに来るだろ。あっちじゃ甘藷の酒は飲まれてないから売れるぞ」
「ははは、首尾は上々ですな。先週、葡萄の絞りが済みました。今日の市で大麦と甘藷を買い付けてすぐに仕込みに入ります」
「そうか。よろしく頼む」
「領主様、さっそくの橋再建のご手配ありがとうございます。つつがなく工事が進んでおります」
「工期は十一の月末までだったな。足りない資材や人手があったらすぐに言ってくれ。雪が降る前に終わらせよう」
セラはユリシーズの隣で長達のご機嫌伺いを受けながら、ユリシーズが如何にして統治に心を砕いているかをつぶさに知ることとなった。武勇の誉れ、領民への細かな配慮。皆が安心して暮らせるように毎日夜遅くまで頑張っているから、こうして皆に愛されている。
「領主様! こちらへどうぞ! 収穫祭開始の音頭をお願いいたします!」
収穫祭運営を任されている街の若い衆達の威勢の良い呼び声に手を振ると、ユリシーズはセラに上着を預けて彼らの待つ壇上へ歩いて行った。警邏に出ていた第一師団の黒騎士達がさりげなくセラの周りにつく。
「今年も皆の働きのおかげで、無事に収穫祭を迎えることができた! もたらされた精霊の恵みを皆で分かち合い、来年も皆の暖炉や食卓が豊かなものになるように、働くことに喜びがあるように、母なる精霊へ感謝を捧げよう! さあ、酒樽を開けろ!」
ユリシーズの言葉が終わると同時にわぁっと歓声が上がって、そこここに置かれた酒樽の蓋が木槌で一斉に叩き割られた。シュウッという音と泡、それから酒精の香りがあたりに広がる。広場に集った人々は母なる精霊への感謝を口々に叫んで配られるエールで乾杯しあった。
「ひゃあ」
セラは警邏隊の「もう少し下がってください、デイム。エールがかかりますよ!」という笑い交じりの忠告に慌てて後ろに下がった。
「まだお昼にもなってないのにお酒を飲んじゃうのね!」
「そうだよ。今日だけ無礼講。お前らも昼番と交替したら飲めるだろ、あと三時間の我慢だ」
足早に戻って来たユリシーズに一礼すると、警邏隊は酌み交わされるジョッキを見ないようにして街の巡回へ戻っていった。くい、と手を引かれて一層賑やかな街の中心に向かう。しっかり手を繋いで歩くセラとユリシーズに、そこらじゅうから声がかかった。あれを食べろこれを食べろと、紙の皿を渡されてそこに色々な屋台料理が乗せられていく。
「ユーリ、私のエプロンに小銭入れが」
「いいんですよ、セラフィナ様! お代は領主様からもう頂いてますから! こっちのザワークラフトもいかが?!」
セラは翡翠の瞳をこぼれんばかりに見開いて、傍らのユリシーズを見た。しれっとした顔で酒樽を太鼓にしている若者に声をかけている。
「エールをくれ。セラにはそっちの葡萄のジュースを頼めるか」
葡萄ジュースを片手にユリシーズがエールに口をつけたところに、すかさず酒肴を扱う肉屋の主達が寄ってくる。
「どうです、領主様! 今年は豚も良く肥えたんで、いい脂がのってますよ、この腸詰! 酒のあてに最高!」
「うちの塩漬けベーコンもいかが! セラフィナ様、お味を見てってくださいよ! デイムのお墨付きをもらったら売り上げがあがるんでっ」
「うわぁ、こんなに食べられないわ!」
うちのチーズも、この鮭のマリネも、と食べ物が次々乗せられていく紙皿に目を丸くして、声を立てて笑った。さっそく楊枝のささった一口大の塩漬けベーコンを食べてみる。塩気がちょうどよく、口の中でとろりと脂が溶けていく。出来たてのベーコンは柔らかくて美味しい。笑顔でその感想を伝えると買い物かごを手にした奥様がたや定食屋の店主、通りかかった街の住民達がどれどれと集まって来た。
「おし、こんだけあればいいだろ。公園に行こうぜ」
セラに飲み物を渡すと片手で屋台料理満載のお皿をひょいと持って歩き出した。広場のすぐ近くにある公園では同じように屋台料理を広げる人々の姿があった。
「ん、この塩漬けベーコン美味いな。領館の食堂に卸してもらおう」
「この揚げ菓子おいしーい。こっちはどうかなぁ」
二人して芝生に腰を下ろして、屋台料理に舌鼓をうつ。セラは甘くてふわっとした衣にチーズが入った揚げ菓子が特に気に入った。塩気のある衣は軽食に、甘い衣はおやつにぴったりだ。この搾りたての葡萄ジュースも甘酸っぱくて美味しいが、ユリシーズが美味しそうに飲むエールも気になった。
「何だよ、じっと見て」
「エールって美味しいのかなって」
「うん。出来たてだし。あそこの酒場のは味がしっかりしてて俺好みでさ。飲みたいのか?」
「ひとくちだけ」
はい、とジョッキを手渡されて、セラは一口だけ含んでみた。ぬるい。そして苦い。思わず眉が寄った。
「何て顔だ」
「私、エールと仲良くできそうにないわ」
「ハハッ!」
食べ終わった紙皿を公園に設けられたごみ箱に捨てて、ジョッキとコップは回収している清掃屋の引く荷台に置いて公園を後にした。街の至る所で賑やかな音楽や歌う声が聞こえる。旅芸人や吟遊詩人の出し物を眺めながら、あちこち見て回った。途中で休暇を楽しむ側近達とエマ、友人達と一緒のハンナに出会ったが、彼らも屋台料理を片手に楽しそうだった。
「ね、ユーリ、このヤドリギ探しって何をするの?」
セラはあちこちの街路樹に掲げられた『ヤドリギ探しませんか?』という張り紙が気になったので、繋いだ手を引っ張って尋ねた。
「街中にある吊るされたヤドリギを探して、その下で告白してキスすると公認の恋人同士になれる。うちの連中も目当ての女を必死になって誘ってたな」
「み、皆の前で?」
「そうじゃないと意味ないだろ。収穫祭は独身同士のお見合いの場も兼ねてるからな。することのない冬の間にくっついて秋に子どもが産まれるという寸法だ」
「生々しすぎる講釈ありがとう。私達はもう結ばれちゃってるから他の人に譲りましょ」
「だな。疲れてない? そろそろ引き上げようか」
「ちょっとだけね」
ユリシーズは「正直でよろしい」と笑って、セラの手を引いて歩き出した。中心から離れた区画のほうへ歩いて行く。何度か街まで来たが、ここにくるのは初めてだ。住宅街の横を抜けて裏門を潜ると行軍時に使う広い街道に出た。緩やかな丘の上に領館と、少し離れた所にある濃紺の屋根が見えた。
「ここに出るのね」
「まだ夕の四時か。晩飯まで自分の館で本でも読もうっと」
取り出した懐中時計を眺めるユリシーズの気の抜けた声を聞いて、セラも微笑んだ。
「私も行く。お茶入れるね」
「うん」
ぶらぶら繋いだ手を揺らしながら『丘の館』に続く小道を歩く。来年もその次の年も、そのまた次の年も。いつか家族が増えても。こうして誰よりも一番大切な人と手を繋いで歩いていく。それは優しく幸せなことで、心が柔らかく温かなもので包まれるような気がした。




