1. 迷子、攫われました
セラはダラムの町についてから、同じところをぐるぐると回っていた。あのくすんだ赤い屋根の家は、もう三回は見た。完全に道に迷ってしまった。やや目じりの下がった翡翠色の瞳は、いまや完全に困惑の色に染まっていた。
ダラムは小さな港町から発展して、今の大きさになった古い町だ。どんどん壁を増築し、家々を立て、店を増やし、町全体がまるで回廊のようになっている。最近の下町はあまり治安が良くないので、侍女長様から「絶対に行かないように」と言われていたが、その下町に完全に迷い込んでいることに、セラはまったく気がついていなかった。
ずっとつかず離れずの距離で、黒装束の男がつけていることにも。
「どうしよう……」
今日中にお届けものを港の交易所に持っていかなければいけないのに、あと数十分で受付が閉まってしまう。完全に間に合わない。そうなったら乗合馬車にも乗れず、この町で一泊しなければならなくなる。ますます帰るのが遅くなってしまう。今度こそ首かもしれない。この深緑のお仕着せともお別れかもしれない。気に入っていたのに。
がっくり、と紅茶色のおさげ髪の頭をもたげたまま、セラはとぼとぼと歩く。薄紅を浮かべる乳白色のまろい頬は、萎れた花のようにくすんで元気がなかった。柔らかな飴色の革の編み上げブーツも、すっかり砂埃まみれだ。泣きたい気持ちになりながら、さっき通った赤い屋根の家のところまで戻っていった。
別の町に行く馬車に間違えて乗ったせいで、この町に着いたのが昼三つの鐘が鳴った頃。港に向かう通りに行く角を、本来曲がるべき所よりも一つ手前で曲がったせいで、よくわからないところに出てしまった。人に道を尋ねたくても、ほとんど人通りがない。
途方にくれたようにため息をつくセラの耳に、砂を踏む足音が聞こえた。振り返ろうとした瞬間、口と鼻をつんとする嫌な匂いがする布で覆われて、一気に目の前が暗くなっていく。全身の力が抜け、手から革鞄が滑り落ちる。そこで、完全に意識が途絶えた。
ガタンガタン!と下から突き上げるような振動で、セラは目を覚ました。なぜか身動きもできず、声が出せなかった。驚いたことに、猿轡をされて後ろ手に縛られている。目線を上げると、セラの正面側に綿飴のようにふわふわした金髪の十五くらいの少女と、その左隣に肩くらいのこげ茶色の髪をした、セラと同じ年くらいの少女がいた。二人とも同じように猿轡をされて、後ろ手に縛られている。
「んんー!(なにこれ!)」
床をジタバタと踏んで、一生懸命身体を起こした。寝ている間に揺られたせいで、体中あちこち痛い。薬をかがされたせいで頭も痛い。喉が渇いたし、お腹もすいた。
こちらを見ているこげ茶色の髪をした少女が、目で「静かにして」と言っている気がして、セラはジタバタするのをやめた。金髪の少女はずっと泣いていたのか、瞳が真っ赤だった。
幌の隙間から明るい日差しが見える。朝か昼かわからないが、攫われる前は夕方になる少し前だった。ということは、確実に半日近くが過ぎている。あれから一度も連絡もしていないし、きっと町外れに鞄が落ちたままだろうから、誰かが異変を察知して来てくれるはずだ。ろくにお使いも出来ない自分が情けないけど、切実に今は助けが欲しい。優しい幼馴染と、兄のように慕っている幼馴染なら、きっと気づいてくれる。セラが迷子になったあげく、攫われたことに。
「気がついたか。そのまま寝ていればいいものを」
幌馬車の御者席から、目元だけ出した黒装束の男が、こちらをのぞき込んでいた。酷薄そうな嫌な目つきをしている。
金髪の少女が怯えた様子を見せた。裾にレースをあしらったかわいらしい菜の花色のワンピースを着ていて、どこか品の良さを感じるので、どこかの貴族の令嬢ではないかとセラは思った。こげ茶の髪の少女は、いたって普通の町娘風の姿なので、どこかの奉公人なのかもしれない。やたらと落ち着き払っているように見えるのが不思議だった。
「じきイプスターにつく。それまでおとなしくしていろ」
そういい捨てて、御者席側の幌がおろされた。
イプスター。ダラムから約二日の距離にある、地方貴族の治める町だ。なんで。どうして、そんな辺鄙なところに連れて行かれるのだろう。もし逃げ出せたとしても、王都に帰り着くまでにひと月近くかかってしまう。
そういえば侍女長様が、若い女性の行方不明事件があちこちの町で起きていると言っていた。もしかして、これがそうなんだろうか。とんでもないことに巻き込まれたことに気づき、セラは顔面から一気に血の気が引いた。
何とかして騎士団に通報しないと。
この二人も何とかして助けないと。
舗装されていない道を走る幌馬車の揺れと、薬のせいでぐわんぐわんと揺れる頭で、セラは懸命に考えをまとめようとした。揺れる馬車の上では、考えはまとまらず気持ちの悪さだけが増していく。ぐったりと木枠に寄りかかり、目を閉じた。
ガトゴト走ること数時間。ようやく幌馬車の揺れがおさまり、セラは目を開けた。気づけば、こげ茶の髪の少女に寄りかかったままの姿で、セラは慌てて身を起こした。どうやら肩を借りて、ぐっすり眠りこんでしまっていたらしい。セラは猿轡をされたまま「ごふぇん」とふごふご謝った。
金髪の少女もセラ達のやりとりに目を覚まし、困った顔をして申し訳なさそうに起き上がった。こちらは思いっきり彼女の膝枕で眠っていたようだ。そんな二人に、こげ茶の髪の少女は軽く頭を振って「気にしないで」というように、薄茶色の瞳に優しい笑みを浮かべた。
「降りろ」
黒装束の男が命令したが、恐怖のためか誰も動こうとしなかった。業を煮やした男は、一番手前にいたこげ茶の髪の少女の胸倉を掴むと荷台から放り出した。続いて、泣き喚いて暴れる金髪の少女を抱えて、荷物のように荷台から落とした。最後にセラが腕を掴まれて、乱暴に引き摺り下ろされた。男は地面に転がした金髪の少女を担ぎ上げて、二人を目の前にある小屋に入るように促した。セラ達がしぶしぶ歩き出すと、男は後ろからついてきた。これでは隙をついて走り出すこともできない。おまけに男が持っている鞄はセラのものだ。手がかりが一緒に来てしまった。これではみんなに探しに来てもらえない。セラは希望が断ち切られて、どん底に落ち込んだ。
「この中でおとなしくしていろ、すぐ迎えが来る」
セラとこげ茶の髪の少女は、小屋の中を見回した。中は小さな明り取りの窓があるだけで、何もなかった。男が最後に入ってきて、金髪の少女を小屋に放り込んだ瞬間、こげ茶色の髪の少女の身体にぶつかった。偶然受け止めるような形になったおかげで、金髪の少女が痛い思いをせずに済んだのを見て、セラはホッと息をついた。いくらなんでも、女の子に対する扱いが雑すぎる。怒りに燃えた瞳でキッと黒装束の男を睨んだが、男は意に介さず、セラの鞄と頭陀袋を小屋の奥に放り込んだ。そのまま無言で扉から出て行くと、すぐにガン!と乱暴に閂が下ろされる。セラが扉に耳をつけて様子を伺うと、男は馬車でどこかに行くようだった。ガラガラと車輪の回る音、馬の蹄の立てる音が遠ざかっていく。小屋の中は、金髪の少女の啜り泣きが響くだけで、静かだった。
「大丈夫?」
柔らかな落ち着いた声がしたので、セラは俯いていた頭を勢いよく上げた。そこには猿轡をはずし、口と両手が自由になったこげ茶色の髪の少女が立っていた。驚きつつも一つ大きく頷くと、彼女は安心したように微笑んだ。そのまま背後に回って、いとも容易くセラと金髪の少女の縄を外すと、二人の目を真剣な表情で見つめた。
「大きな声を出さないって約束してくれるなら、猿轡を取るけど」
二人は一生懸命に首を縦に振った。
「ありがとう」
「ひっく、あ、ありがとうございます」
セラは大きく深呼吸した。埃臭い空気がちょっと嫌だったが、開放感に息を吐く。
「怪我はない?」
「大丈夫。さっきまで薬のせいで気持ち悪かったけど」
「私はおしりが痛い……」
「えっ、うーん、困ったね」
心底困ったように、こげ茶の髪の少女が呟いた。その困りようを見て、セラも表情を曇らせた。本当に怪我をしていても、ここには薬も包帯もない。男が置いていった頭陀袋の中身も、およそ役に立つものは入っていない気がする。微妙に落ち込んだ雰囲気を打破すべく、セラは口を開いた。
「あの、私は騎士団で侍女をしているセラというの。貴女は?」
「グスっ、私はパルヴィといいます。父はルズベリーの領主です」
「私は……フィニ」
「フィニね。あなた一体、どうやって縄を解いたの?」
「それは内緒。私はある人に雇われている傭兵で、若い女の子の誘拐事件を探ってる」
「つ、捕まったのに?」
パルヴィは世間知らずなのか、フィニがわざと捕まったということには考えが及ばないようだ。まだ十代の少女なのに、傭兵として生計を立てている姿は頼もしさすら感じる。
「潜入捜査と言って欲しいなぁ」
フィニは苦笑しながら、解いた縄をまとめて始めた。慌ててセラも床で絡まった麺のようになっている縄を綺麗に束ねて、フィニに手渡した。
「ありがとう」
見る人を和ませるような笑みを浮かべるフィニに、セラも思わず微笑んだ。今日、初めて笑った気がした。
「セラちゃん、何か書くもの持ってない?」
「私の鞄に入ってる! ちょっと待ってて」
小屋の隅に投げっぱなしにされていた鞄に駆け寄ると、自分の帳面と鉛筆を取り出した。
「助かる。相棒に荷物預けたままなんだ」
フィニは笑顔でセラから帳面と鉛筆を受け取ると「ちょっとごめんね」と呟いて、帳面の端を切り取り、綺麗な字でさらさらと何かを書き綴った。
フィニに倣い、セラも帳面の端を切って幼馴染への救援を書き綴った。どこかで誰かに渡せるかもしれない。セラは隠しから出した小さな鍵に赤いインクを少し塗って、帳面の切れ端に押し付けた。この鍵は一人ひとり違う意匠になっていて、侍女の身分証明を兼ねるものだ。騎士団に渡してもらえたら、騎士団の誰かが必ずセラのことに気がついてくれる。
フィニは服の中から、鎖に通した何かを取り出した。それはセラの小指の先くらいの小さな銀の笛のように見えた。じっと見ていると、フィニが窓の近くで咥えて息を吹き入れた。笛にしては何も音がしないので、セラは不思議に思って尋ねた。
「それ、何?」
「鳥笛。近くにいてくれるといいんだけど」
フィニは遠くを見るように目を眇めて、小さな窓から外を見た。小さな明り取りの窓からは、やや曇った空が見える。日差しの傾き具合からして、昼十二を過ぎた頃だろうか。
昼十二といえば、お昼ご飯の時間だ。空腹を思い出すと、お腹がきゅう、と音を立てた。昨日から水も飲んでいないから、喉がカラカラだ。セラは切ない鳴き声を立てるお腹を宥めながら座り込んだ。そういえば、男の置いていった頭陀袋は何が入っているのだろう。ごそごそしだしたセラが気になるのか、お尻を擦りながらパルヴィが近寄ってきた。
「あ、お水」
「すごーくかったいパンが二個」
水筒が二つ、日にちがたって固くなったパンが二個。数は足りていないが、一応人質を死なせるつもりはないらしい。手を縛られ猿轡をしている前提で閉じ込められているのに、今ここで食べていいものか少し迷ったが、それは後で考えることにした。お腹がすきすぎて、今はそれどころじゃない。あまりにも固くて手で割れないので、三人の中で一番力があると思われるフィニに「半分こにして」と手渡した。セラから渡されたパンをじっとみてから、フィニは笑って言った。
「私はいいから、二人が食べて」
「そんな! じゃ、せめてお水だけでも」
全部セラとパルヴィにあげると言い張るフィニに、無理やり水筒を渡すと、セラとパルヴィはもう一つの水筒を交互に飲んだ。ぬるく革の味がする水が喉を潤していく。
「歯が折れそうだけど、ないよりマシよね」
ボリボリと音を立ててパンを齧るセラを見て、かわいらしい笑顔を浮かべると、パルヴィもおっかなびっくり齧り始めた。
「こんな固いパン、生まれて初めて食べたわ」
「王都にこんな感じのパン菓子があるわよ。小麦のパンを薄く切って角牛のバターを塗って、お砂糖をまぶしてから窯でカリカリに焼くの。お砂糖が焦げてて、香ばしくって美味しいんだ」
「へー美味しそうだね」
壁に寄りかかって座りながら、一口だけ水を飲んだフィニが笑って言った。
「セラちゃんは騎士団の侍女だっけ? 王都の人なの?」
「ううん。精霊騎士団の侍女だから、騎士団領よ」
「まぁ! 精霊騎士様にお仕えしているの!?」
「うん。下っ端だけどね」
パルヴィは目を輝かせて、セラにあれこれと質問をした。気がまぎれるのならと当たり障りのないことだけを答える。当代守護騎士様が、女神官長様のおやつを作っているくだりでは、聞いていないようで聞いていたフィニが、思わず吹き出して笑っていた。誉れ高き精霊騎士団のまさかの裏話に、パルヴィは大喜びだった。
囚われているという緊張感がいまいち薄いなか、フィニがサッと立ち上がって鳥笛を吹いた。甲高い鳴き声とともに、窓から小さな影が滑り込んできて、フィニの差し出した腕に留まった。パルヴィは影に驚き、セラにしがみついて小さな声を上げた。
それは足に金属製の小さな筒をつけた、小さな鷹だった。青みがかった灰色の背中に、薄墨色の腹と灰の斑点が浮いた胸。嘴は黄色く、小さな体の倍以上ある翼は羽根先にいくにつれ黒くなっている。金色の鋭い目が、くるん、とこちらを見ていた。そしてピュイ!と高く鳴いて、しきりに足の筒をつつく。
「はいはい、ちょっと待ってね」
フィニは小さな鷹を小脇に抱えて、金属製の筒から紙切れを取り出すと、自分の書いた紙切れを小さく折りたたんで入れた。
「よろしくね、レーレ」
伝書鳩よろしく、一、二度お辞儀するような仕草をすると、小さな鷹は再び小さな明り取りの窓から飛び立っていった。
「よかった、意外と近くまで来てるみたいだ」
鷹から受け取った紙切れに素早く目を通すと、フィニは嬉しそうに呟いた。どうやらフィニの相棒さんが、すぐ近くまで助けに来てくれているようだ。セラはホッと胸を撫で下ろした。
確か、あの黒装束の男は「迎えがくる」と言っていた。この小屋からイプスターに連れて行かれるのは確かなのだろう。イプスターに着いたあと、どうなるのかはまったくわからない。フィニの相棒が間に合ってくれないと、非常にまずいことになる。傭兵なのに丸腰のフィニは、素手でも頼りになりそうな感じだったが、できることは限られているに違いない。
セラは母なる精霊に祈った。
フィニの相棒が間に合いますように、と。