第39話
「……キャハハ……キャハハハ」
俺は狂った。
「……キャハハ……キャハハハ」
俺の頭にはまるで思考能力が残されておらず。ただ、酷く鋭敏になった感覚器官を頼りながら、周囲で動くものに食らいつくだけ。
「……キャハハ……キャハハハ」
しかし、それは意外にも俺の心は恍惚とした感覚に満たされていた。
「……キャハハ……キャハハハ」
まるで愛おしい母に抱かれているような。途方もなく安らかで、どこまでも温かく。
「……キャハハ……キャハハハ」
もう、これでいい。もう、ずっとこのままで。俺はただその悦楽を、眠るように噛みしめて。
「何してんだ、お前?」
そのときどこからか聞こえてくる、ウッドベースのような渋い声。
「……キャハハ……キャハハハ」
だが、そんなものは関係ない。この気持ちのいい靄の中では、それは些細なこと。
「ああ、なるほど。そこの嬢ちゃんが、これを引き起こしているのか。だったら――」
重みのある声はため息交じりに語る。次いで。
「ほらよ」
ぱちんっ。その場に軽快な音が響く。いや、渡る。この破滅的状況下においては、頼りなくさえ思えたその振動。けれど、それはどういう訳か一つの大きな波のように空気を伝い、全てを巻き込みながら広く、限りなく広く影響していった。すると。
「キャハハ?」
最初に感染者の誰かが気付く。
「キャハハッ」
続けて他も。
「……キャハハ……キャハハハ」
ぽつり。一粒の液体。ただし、血ではなく。それはもっと純粋なもの。
「キャハ……ハ?」
狂気的な笑い声の中に、焦りのような感情が生まれ始めた。彼らの中に理性はない、だが故に本能的に彼らは気付いたのかもしれない。
「キャハハ……っ!」
発動した事態が、自分達にとって致命的な打撃を与え得るものだ、と。
「キャハハアっ!」
雨。その場に雨が降り始めた。
「キャハハ……っ! キャハハ……っ!」
そこで感染者達の取った行動は皆ほぼ同じ。体に雨の滴が当たるや否や、地に倒れ、何かから逃れようと苦しそうにもがく。
「キャハっ! キャハアっ!」
しかめられる顔、もだえる体。まるで聖水をかけられた悪魔のようだ。しかし。
「……キャハハ……キャハハハっ!」
それに関しては俺も例外ではなく。
「……キャハっ! うがっ……、うがああああああ!」
そして。
「キャハっ! うがあっ…………あれ?」
ふと気が付くと俺はあの逃れ難いまどろみの中から抜け出していて。おそらく雨で体に付着していた血液が洗い流されたからだろう。
「おはよう、ねぼすけ」
男。俺の目の前には男が立っていた。肌は浅黒く、うねうねとパーマがかった頭髪を後方になびかせて。筋張った頬が、濃い二重の瞼が強い存在感を見る者に与える。
その相貌を一言で表すとするなら、獅子。何者の干渉も受け付けぬ百獣の長。
「親父!?」
それは俺の親父だった。
親父はこの猛雨の中でも飄々と、まるで一人だけ別次元に存在しているかのように濡れもせず、タバコを吸っている。また、しばらくするとその雨も上がった。
「久しぶりだな、タクヤ。元気だったか?」
「な、何でこんな場所に!?」
「お前、ルリに何かしたのか?」
「……え?」
「あいつ、めちゃくちゃ怒ってたぞ。それにどういう訳か俺の部屋から、あれまで勝手に持ち出して。一応返すように言ったんだが、珍しく全然言うこと聞かなかった。だから、お前にも話を聞こうと思ってこっちに来たんだよ」
「……」
やっぱり。俺は奥歯を噛みしめる。うすうすと察しは付いていた、どういう方法でルリが世界を征服したのか。だが、ただの予想でしかなかったそれは親父の言葉で確信に変わる。やはり、やはりルリは親父の持つあれを使ったのだ。
「それでお前、ルリに何した? また、あいつのパンツでも盗んだか?」
「……!」
心外だ。俺は声を荒げる。
「パンツじゃない、ブラだ! パンツじゃないから差し支えないもん! それに俺がルリのブラを盗んだのは一カ月も前のことだ! 怒るならそのとき既に怒っているはずだろ!?」
「……ま、そうだな。お前がルリの下着を盗むのは今に始まったことじゃない。さすがに、ルリもそれでここまで怒りはしないだろう」
「そうだ! というかそもそも、妹の下着は兄貴の所有物だ! だから、俺は盗んだんじゃない。返してもらっただけだ! ルリにそれを使用してもらってからな!」
「はは。我が息子ながら相変わらずいかれてやがるな、お前は」
親父は一泊置いて。ふう、とタバコの煙を吐き出した。
パンツがないから……(以下略。




