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お手洗いに立ちあがったのは、夜中の三時を回った頃。
年上の従姉たち二人は、かなりテンションが落ちて、ぐったりしている。多分、少し眠いのだろう。ついでに、コーヒーでも入れて来ようと、思った。
お手洗いは、仏間から二部屋通り抜けた玄関の脇。
お台所は玄関から続く、廊下の先。その途中に二階へと続く階段があって。
そうだ。階段の下が、「開かずの間」。
子供は入ってはいけないと言われていた、部屋。私はそこで、とても怖い目に合った筈だ。
台所に向かうついでに、そっと階段の下を確認する。やはり、そこに部屋がある。だが、印象はかなり違う。多分、土間を廊下に改装した時に、この部屋も改装されたのだろう。引き戸だったものはノブのついたドアになっているし、その横のスペースに、小さな絵が飾られている。
「麦秋だね」
突然の声に、さすがに飛び上がった。
夜中の三時。薄暗い廊下の、怖い記憶が残る部屋の前。これだけの舞台が出来上がっているのだ。子供の頃だったら、一目散に逃げ出した筈だ。
逃げ出す代わりに、素早く振り返る。ポニーテールが、ぶんと舞った。
「わ、びっくりした」
そこで、驚いたわけではないけど、お義理にその言葉を吐いた的な発言をした――簡単に言えば、そこに居たのは、智紀さんで。ま、仕方ないかと思う。
勿論、ここに居たのが颯太だっりしたら絶対に顔面にパンチのひとつやふたつ、めり込ませていたと思う。智紀さんだから、とりあえず地団太踏むだけに留めておいた。
「驚かさないでよ! もう、心臓ばくばくしてるし」
「まさか、驚くとは思ってなかったんだよ。ごめんごめん。で、奈美ちゃんはこんな時間に何をしてるのさ?」
うん。男前だから許してあげる。
「コーヒーをもらいに行く途中だったの。で、何? 麦秋?」
落ち着いたので、改めて扉の隣に据え置かれた小さな絵を見る。
「あ、本当だ。お米じゃない」
金色に輝いてみえるそれは、穂を垂れる米ではない。真っ直ぐに立つ、麦。
麦畑。
なんだか、懐かしい気がするのが、不思議だ。
麦畑なんて、見たことがない筈なのに。
「あのね、智にいちゃん。昔、この部屋には入っちゃいけないって言われていたよね?」
「うん。でも、僕と颯太と奈美ちゃんとでこっそり入ったよね」
慌てて、智紀さんの顔を見る。初めて、記憶が一致したから。
「何?」
「やっぱり、やっぱりそうだよね。で、私、ものすごく怖い目にあった」
「うん。奈美ちゃんはそう言っていた。逃げないと、何もかも、壊れてしまうって」
え?
「壊れてしまうって、そう言ったの? 私が?」
「だから、僕が奈美ちゃんの手を引いて、走ったんだ。でも、奈美ちゃんは転んでしまって。そりゃあ、泣いて泣いて」
うん。そのあたりはすごく、記憶に残っている。
泣いている私を、だ。抱っこして走ってくれたのは、ここに居る人で。
うわ。考えただけでも顔が赤くなる!
「何が怖いのかって聞いても、奈美ちゃんは答えてくれなくて、ただ怖い怖いって、言って、泣いて。何が怖かったのかは今でも解らないんだけど?」
「うん、それは私にも解らない」
なんだそれ。
自分でも思うけど。本当に、そこの記憶は全くないのだ。ただ、怖かったとしか。
「あ、だから、智紀さんが私のこと抱っこしてくれたんだ」
今更ながら、赤面する。
でも、良かった。これで、私の記憶の一部だけは間違いがない事が解った。
「土間」の記憶は、もう忘れても良いかも、そんなことを想いながら、ふと気づいた。
「そういえば、智にいちゃんは有香ちゃんと二人で来たの?」
そう思った理由は、智紀さんの両親にご挨拶をしていないから。
ついでに、颯太の両親の顔も見ていないし。
おかしそうに、智紀さんが笑う。
「まさか。父親と母親も一緒だよ。颯太の両親と一緒に、二階で寝ている」
「一度も、顔を見ていないから、不思議で」
「奈美ちゃんが来た時間が遅かったからなぁ」
それでも、玄関であんなに騒いでいたのに。
「明日になれば、嫌でも顔を合わすよ。奈美ちゃん、疲れてるんじゃないか? ちょっと、変だよ?」
変と聞きますか?
変でしょうとも。なんか、疑心暗鬼になっている。
「智にいちゃん、この家、本当にお祖父ちゃんの家なのかな?」
これは、本当に頑張って言った言葉なんです。
ここで、智紀さんが「解らない」とか「どうしてそう思うの?」的な発言をしたら、どうしようかと。本気で悩んだ程に。
「おかしなことを言うなぁ。なっちゃんは」
言ってから、失敗したと。
智紀さんは、そんな顔をした。
「なっちゃん」。
幸枝さんは最初から私の事、「なっちゃん」って呼んでいた。
改めて言う。私は、「なっちゃん」ではない。みんな「なみ」とか「並」とか言うけど。
今まで、誰にもそんな風に呼ばれた事、ない。
そういえば、幸枝さんは何を言っていた?
行方不明の女の子? なんだか、頭が痛い。
「で、智にいちゃんは、こんな時間に何をしていたの?」
私の問いに、智紀さんの応えは、最悪で。
「トイレに行くついでに、線香番三人娘にコーヒーでもと思って」
だよね。別に、甘い展開を予想していたわけではない。
「私が淹れて来るから、智にいちゃんはゆっくり休んでいて」
「そうだね。おやすみ」
「信じちゃだめよ。誰も、信用しちゃ駄目」
それは、母親の口癖だった。
「解っている」
いつものように、返事をする。
慌てて隣を見るけれど、母親は居ない。居る筈がない。
だって、病気で、入院中なんだから。
なんだか、おかしい。
この家に来てから、私はどうなってしまったのだろう。
コーヒーを手に、仏間に戻る。中からひそひそ声が聞こえて来た。
ああ、良かった。ちゃんと起きているんだ。お姉さん方は。
安心して、障子に手をかける。
「なっちゃん」
障子に触れた手が、止まる。
「なっちゃん、そろそろ解らなくなってきているみたい」
「だったら、もうじき、ぼろを出すよ」
私が? 何だというのだろう。
やっぱり、ここは祖父の家なんかじゃない。
なんだろう。私は、何処に迷い込んだというのだろう。
ここは、鬼の棲家か何かで。では、私は?
怖い。
慌てて、駆け出そうとした手が掴まれた。
「同じだね、あの時と。奈美ちゃん」
手を掴んだのは、智紀さん。
自分でも信じられない程の悲鳴が、喉をついた。