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小さな情景  作者: 桂まゆ
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 祖父が、亡くなった。

 八十六歳。米寿のお祝いを目前にした、それでも大往生だと誰もが言った。

 ま、ピンと来ない。

 還暦、古稀、喜寿、傘寿。母親たちは、事あるごとにお祝いの品を送っていたらしいが、私にとっては今では疎遠になってしまった、祖父。

 亡くなったと聞かされて、やっと、祖父の事を思い出す始末なのだから。


 そう。長期休暇の度に遊びに行っていた、祖父の家。そこに寄りつかなくなってから、もう、十年近くになる。

 理由は、祖父の家に後妻に入った人の存在だった。

 その女性は、それこそ「どこの馬の骨かも解らない人」だったとかで、母が目を吊り上げて怒っていた。

 出身も解らない上に、年齢も当時の母よりも下だったらしい。

 「我が父親ながら、何を考えているのだか」と、母は泣きながらぼやいていた。

 以来、訪れた事がない家を目指して、車を出した。

 今から出れば、仮通夜の間に到着するだろう。



 思い出に残る祖父の家は、古くて怖い家だった。

 土間がある家。

 おトイレもお風呂も、二階に上がる階段も、土間のむこうにあるので、何処に行くのも靴が必要だった。そして、従兄弟たちはとても質が悪くて、私が怖がる事を知っていて、脱いだ靴を隠してしまうのだ。

 おトイレに残された時など、何度泣いた事か。

 今にして思えば、おトイレのスリッパで土間を渡れば良かったんだけど、あの頃はそんな事をして祖父に怒られる事が嫌だった。

 離れにある蔵も怖い。階段じゃなくて、ハシゴがかけてあるだけの二階。上がるのは大丈夫だけど、降りるのがすごく怖かった。頭から落ちて行きそうで。

 古い日本家屋というものは、家の中が暗い。

 だから、影の中に何かが潜んでいるような、そんな怖さがある。

 それでも、子供心というのは不思議なもので、私はそんな怖い家が多分、好きだったのだろうと思う。

 まるで、昔話の世界に入り込んだようで。

 普通では目にする事がないもの。そんな物たちにあふれた、祖父の家を従兄弟たちと一緒に探検するのが、好きだった。

 そっと引き出しを開けると、そこに在るのは、何に使うかもよく解らないものたち。


 不思議で、とても惹かれる。


 どこで遊んでも良いって言われていたけど、ただ一部屋「開かずの間」っていうものがあった。

 そこには、祖父の大切なものがあるから絶対に入っちゃけないんだって言われていた。

 勿論、子供にそんなものは通用しない。

 ひとりでは怖くて出来ない事も、従兄弟たちと一緒なら平気だった。

 一番年上の智にいちゃんこと、智紀さん。その妹の有香ちゃんは私よりひとつ上のお姉さん。有香ちゃんと同い年で、いつも一緒に居たのが喜美子ちゃん。その弟は、私と同い年の颯太くん。

 あと……もう一人、居たと思うんだけどな。なんだか思い出せない。

 取り立てて、特別な部屋だったわけではない。少し古臭い匂いがする、暗い部屋。


 そうだ。そこで、とても怖いものを見たんだ。

 何だったのか、覚えていない。ただ、怖くて怖くて。

 泣きながら傍に居た誰かの腕にしがみついた。その腕が私をだっこしてくれて、走ってくれた。

 後で、それが従兄の智紀さんだって解ったんだけど。

 私はただ、恐怖のあまり泣き続けていた。



 クラクションの音に、我に返る。

 信号は、青。いつの間に。

「ぼうっとしないで」

 たしなめるような声に、

「ごめんなさい」

 私が完全に悪いので、謝る。 

 いけない、いけない。いくら疲れているとはいえ、運転中にぼうっとするなんて、ドライバーとして失格だ。

 集中だ、集中。

 どこまでも続く、田舎の風景。国道を離れて旧道に入ると、後は一本道だ。

 ほら、見えて来た。

 カーナビが示す、旧道沿いの一角。田んぼと畑と雑木林に囲まれた、昔から変わらない、祖父の家。


「お母さん、ついたよ」

 助手席を見ても、そこは空席で。

 我が事ながら、思わず額を抑えてしまった。

 そこに、何故、母が居ると思っていたのだろう。

 母が入院して、長い。父なんか、とうの昔にどこかに行ってしまった。そして、私はひとりっこ。

 だから私が家を代表として、祖父の葬儀に参列する事になった。

 ひとりで考えて、ひとりで決めた。

 仕方ない。人間なんて、所詮ひとりで生きていくものだ。と、母の貯金を少しずつ食いつぶしている私が言える台詞ではないけれど。


 ああ、でもやっぱり入りにくいな。カーナビの時計は、23時を回っていた。時間も時間だし。

 何より、夜の中に浮かび上がる、古めかしい、家屋。

 何か異質なものが潜んでいるような、そんな漠然とした雰囲気がある。

 車を止め、とりあえず一服。

 多忙な、毎日。だから、喫煙の習慣はさほどでもない。せいぜい、一日数本。別に、無くても良い。てゆか、煙草の値段はどんどん上がっているし、勿体ない事は自分だって解っている。

 でも、心を落ちつけたい時には一本、欲しいものなのだ。

 そう。心が、どうにもざわついている。久しぶりの、祖父の家。

 此処に、祖父は居ないのだ。

 あの、祖父は、もうどこにも居ないのだ。



「もしかして、奈美ちゃん?」

 声をかけられて、振り返る。

 二十代半ばぐらいの男の人が立っていた。慌てて、手にしていた煙草を携帯灰皿に突っ込む。

「え? 智にいちゃん! 久しぶり!」

 従兄の、智紀さん。

 私より三つ上だったから、今は二十五歳か。小さい頃から、こんなお兄さんが居たら良いな的なチェックは入れていたんだけれど。うん、思った通りの良い男ぶりで。

 あれ? でも……。

「エンジン音が聞こえたから、出てみたんだ。神戸ナンバーだから、もしかしたら奈美ちゃんかなって。遠かっただろ? お疲れ様」

 疑問に思った事が、いきなり全部解決した。

 あんたは、エスパーかいと、心の中で苦笑する。

「従兄妹連中は、揃っているよ。奈美ちゃんが最後」

 差し出された手を、取る。

 そうして、私は十年ぶりにその家に入ったのだ。

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