恋は水色?
「ノベルジム」にて掲載
・・・・・・・・・・・・この年で、まさか恋に落ちることになろうとは、露ほども思っていなかった。
そんなことを考えながら、私、こと湊川敏央は、コーヒー豆を挽いた。
35歳で脱サラし、この一度開発が終了した住宅街に実家兼喫茶店を開業、ローンを返しながら細々と店を続けてきた。
勿論浮いた話など今まであまりなく、今年で52歳になるが、いまだに独身だ。
会社勤めに嫌気が差した私は、バブルの時代に稼げるだけ稼いだ後、それを元手に純喫茶「ニューゲート」を開店した。
都市部ではないので、土地の値段はそこまで高くなく、また大枚をはたいて設置した「インベーダーゲーム」が功を奏したため、閉店することなくやってこれたが、何分個人経営のため、自分で全てを取り仕切らねばならず、色恋からは随分遠ざかってきた気がする。
「ニューゲート」はバブル崩壊後の不況期も何とか乗り切ることが出来た。
平日の昼間には近所の町内会のご婦人方がランチを楽しんだり、休日にはゲートボールを終えた同年代或いは少し上の年代の方々が運動後のひと時を寛いで過ごしたり。
夕方になると近くにある高校のミステリー研究会がここを活動場所として使ってくれるので中々楽しめ、閉店時間である8時過ぎになるとたまに夫婦喧嘩をしたであろう夫が一服しに来るのでその事情を推測したり。
商社の営業マンをしていたころには味わえなかったであろう日々が続いた。
もともと食品系の専門商社に勤めていたため、辞めた現在でも繋がりのあった業者から安くコーヒー豆を手に入れることが出来、また、いつかは辞めて何か料理店でもしようかと考えていたので、通信講座などから調理師免許を取得していた。
ただ、商社マンをやっていた頃は引く手数多であった(が、毎回断ってはいた)にも拘らず、いざ仕事を辞めてしまうと、まったく色恋沙汰がなくなってしまった。・・・もともと興味はあまりない方だったが、元同僚が年賀状で結婚や出産、ついには孫が出来たことまで伝えてくると、流石に少しは堪えるものがあった。
それでも念願かなって手に入れたこの店を手放す気は毛頭なかったし、「婚活」だとか「愛活」だとかのために店を休みにするのは常連さんのためにもできなかった。
そんな折にだ。
あれは、6月の雨が降る日だっただろうか。
雨の日は客層が客層なので、当然客数は少なくなる。
私はいつもの如く店の売り上げを計算したり、コーヒー豆の在庫を確認したり、食器を磨いたり、新メニューを考案したりしながら、気楽に過ごしていた。
店に置いているジュークボックスを模したラジオからは「恋は水色」流れてきていた。
不意に店の扉が開き、イギリスから輸入したドアベルが軽い音を響かせる。
見ると、30代後半~40代前半くらいの美しい女性が息を切らせて立っていたのである。
傘を持っていなかったのか、全身が雨に濡れていた。
「いらっしゃいませ」
言いつつ、店の奥からタオルを取って彼女に持っていく。
店が濡れるのが嫌だというのもあるが、女性をそのままにしておくのも気が引けたためである。
女性は小さな声で礼を言うと、髪の毛や体を拭いた。
そこまで服に雨水が浸みてはいなかったのか、テーブルに案内した時はそこまで雨水は気にならなかった。
メニュー表を渡し、「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」と言い、そっとしておくことにした。
店を開いて10数年、大体人の事情や心境が解ってくるようになるのは不思議なことである。
きっと事情があるのだろう、それに立ち入るのは野暮なことだ、そう言い聞かせ、お気に入りであるコスタリカ産のコーヒー豆を挽くことに専念した。
* * * * * *
暫くすると、
「すみません」
と声が掛かった。
いそいで注文を取りに向かう。
「はいはい」
女性はおずおずとメニュー表を指差した。
「ブラックコーヒーと紅茶のシフォンケーキを」
注文票にサラサラと書いていく。
「コーヒー豆は此方の十数種類からお選びいただけますが、いかがいたしましょうか?」
世界各国から集めた選りすぐりのコーヒー豆が12種類ほど揃っている。それが私のこだわりであり、「ニューゲート」のウリである。一度喫茶店専門雑誌から取材を受けたほどで、商社マン時代の人脈と、私のコーヒー好きが功を奏していると自負している。
彼女は少し思案した後、
「店長さんのお勧めで」
そう、笑顔で言った。
その笑顔に柄にもなく見惚れた私は、少し照れながらも
「承知いたしました」
そう言って、足早にカウンター裏に引っ込んだ。
ラジオからは未だに「恋は水色」が流れ続けている(骨董品の掛け時計を見たが、時間はそれほど経っていなかった)。
「お勧め」である先程挽いたコスタリカ産のコーヒー豆をコーヒーサイフォンを使用して抽出し、丁寧に淹れる。
業務用の冷蔵庫から朝に作って冷やしておいた紅茶のシフォンケーキを取り出し、一人分に切り分け、更に乗せた後にミントの葉を上に置く。
それらを木製の盆に載せ、運ぶ。
「お待たせしました。ブラックコーヒーと紅茶のシフォンケーキです」
再び彼女の顔を盗み見る。準備中は出来る限り考えないでおこうと思っていたが、再び見てもやはり美しい顔だった。
「ありがとうございます」
「では、ごゆっくり」
「恋は水色」では、ストリングスが高らかにメロディーを歌いあげている。山場のところだ。
店内は少しの物音はするものの、音楽などを除けば、奇妙な静けさであった。
自分一人しかいない静けさとは何かが異なるような。
カウンターから彼女の座る席はそれほど遠くない。
彼女がコーヒーを飲み、ケーキを食べている間、私は何とか彼女の方を盗み見ないようにと平静を保とうとしていた。
「恋は水色」のトランペットが鮮やかな彩りを添える。
このインストゥルメンタル版が奇妙な静けさを更に奇妙なものとしていた。
15分ほど経っただろうか。
「すいません」
お会計お願いします、
そう言われ、急いで玄関近くのレジ台に向かう。
伝票を受け取り、レジに打つ。
「コーヒー250円、ケーキ400円、合計で650円になります」
彼女から千円札を受け取り、350円のお釣りを返す。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
「こちらこそ、タオルと「お勧めコーヒー」とケーキ、ありがとうございます」
ドアベルが再びカランコロンと鳴る。
いつの間にか雨は上がっていた。
* * * * * *
それから3週間ほどが経つ。
常連である町内会のご婦人方の話によると、雨の日の「彼女」は名を倉橋絢乃と言い、年齢は39歳で、この喫茶店から2、3通りを挟んだところに住んでいる専業主婦なのだそうだ。
雨の日は「彼女」の夫が浮気をしていたのを「彼女」が目撃し、口論になってそのまま家を飛び出してきたのだとか。
夫の浮気は今に始まったところではなく、また子供も居ないため今に別れるのではないか、とそのご婦人は予想していた。
一生独身でも大して問題はないだろうと考えていたし、色恋沙汰に特別興味を持つ方ではなかった。
それでも、もし願いがかなうならば。
もう一つ、いや正確にはもう一人、自分の望みを手に入れても良いのだろうか。
あの日以来、店内では「恋は水色」を流すようにしている。
インストゥルメンタル版の「恋は水色」を聴きながらの執筆です。