朱筆
朱筆といふのは、時に恐ろしい雰囲気を纏つた「筆以外の何か」に見える時がある。
人間の誤謬を訂正してやらうという気概、狂気が垣間見えるのだ。
白い紙とそれに乗る黒い墨。
それだけで世界は完成していたであろうにも拘らず、その上から黒白の世界を上塗りしてやらうとする図々しくも堂々とした、いつそ清々しいまでの決意をその色が孕んでいるのである。
すると途端に、朱筆を持つた人間がまるで自分自身に世界を訂正する権利を与へられているやうな、偉くなつたやうな気分になり、調子に乗つて恥の上塗りのやうに朱筆を縦横無尽に走らせてしまう。
これこそが朱筆の持つ狂気の正体であり、人間が朱筆によって引き摺り出された己の本性であろうと私は考えている。
この世で朱筆を日常的に持つ人間は限られている。
大体は地位的にも精神的にも偉い奴だ。偉そうな奴だ。
例えば、教員なんかが挙げられる。
彼の職業の人は生徒たちが一所懸命に作った白と黒の答案用紙に(時には白一色の紙切れに)でかでかと罰を付け、世界を一瞬にして崩壊させてしまう。
まるでバベルの塔を崩す切支丹の神のやうに。
正しくなければ、価値は無い。
とでも言わんが如くに罰をつけ、時たま赤点といふ罰を与へるのである。
逆に彼らの正しさに背かなかつた者には慈愛のやうな丸を与へるのだ。
そして、丸とも罰ともつかないやうな場合に、最少の多角形である三角をつけるのである。
朱筆を有する限り、彼らは神と恰も同等の如く振る舞うが、一度朱筆を奪はれると、ただの人間に逆戻りである。
裁いていた事柄について極端に怯え、何が正しくて、何が正しくないか急に分からなくなり、途方に暮れるのだ。
私は、朱筆が創り出したかもしれない正しさに刃向かいたいと思ふ。
朱筆に与へられた権限を奪取とまではいかずとも、人間に何が正しくて何が間違っているのかを自分で判断させたいのだ。
朱筆を持つ人間ではなく。朱筆自体ではなく。
相討ちになるやも知れぬ。
無残に負けるやも知れぬ。
それでも、挑まずに負けるよりは何倍もましなのだろう。
そう信じて、私は筆を置いた。
あとは、この文章に朱筆で手が入れられるのを待つだけだ。
戦前。多分。
文筆家の「私」が、随筆?を書く話。