「浮気は五年ぶりだから」と王太子殿下が言った
貴族学院に在籍していたとき、平民上がりの男爵令嬢と恋に落ちた王太子殿下はわたくしに言った。
「真実の愛なんだ! だけど、彼女を王妃にはできないと知っているよ!」
何が真実の愛よ! 言葉を言いかえたところで浮気は浮気! 気持ちが悪い!
心の中では叫んでいたけれど、長年の淑女教育、王太子妃教育を受けたわたくしは、微笑みを浮かべるしかできない。
「……それで? 殿下はどうなさるおつもりでなのですか?」
「もちろん彼女との関係は学生時代の美しい思い出とするよ! 貴族学院卒業後は、彼女とは縁を切って君だけを愛すると誓う」
王太子殿下と侯爵令嬢であるわたくしの婚姻は、王命によって決められたもの。
覆すことができないもの。
ならば、彼女を愛妾にしたいなどと言い出さないよりマシかと、思ってしまったのが間違いだったのかもしれない。
王太子殿下との婚姻など絶対に嫌だと、わたくしのお父様に泣いて頼めばどうにかなったかもしれない。
……まあ、無理だろうと当時のわたくしは諦めてしまったのだけれども。
王太子という地位にありながら、殿下の貴族学院での成績は、なんとか平均点を取れる程度。
だけど、王族の直系男子は殿下お一人しかいない。
だから、平凡な能力しか有していない王太子殿下の政務を支えるために、わたくしが選ばれたのだ。
別に、王太子殿下に対する愛があったわけではない。
婚姻など、高位貴族としての義務だ。
誰も、王太子妃になりたくないのだから、わたくしが引き受けねばならない。
そんな自己犠牲の精神。
それでも、王太子殿下は、ご自分が言った通り、彼女との愛は学生時代だけのものにし、卒業後は彼女との交流を一切止めた。
「真実の愛ではあるが、君にとっては不貞や浮気としか思えないだろうからね。今後はもうしない。言った通り、君だけを愛するつもりだ」
王太子殿下はそう言って、彼女とは手紙のやり取りすら行わなかった。
わたくしは、正直に言えば、疑った。
真実の愛とまで言い切った彼女との交流を、いつか再会するのでは……と、心のどこかでは疑いを持っていた。
だけど。
殿下との婚姻後、一年か二年の間は、疑い続け。
三年目あたりから、本当にわたくし一人を愛してくださるのでは……などと思い始め。
四年目には、わたくしも、殿下を愛するようになっていった。
なのに、五年目。
夜中までの政務を終えて、夫婦の寝室へ向かったわたくしが見たものは……。
寝台に寝転ぶ一組の男女。
男のほうはもちろん殿下だ。
女のほうは……、知らない顔。だけど、学生時代、真実の愛だと叫んだ彼女と似たような容貌のかわいらしい顔の女性。
「あれ? 今日はもっと遅くに帰って来ると思っていたのに。意外に早く政務が片付いたんだね」
一糸まとわぬ姿の殿下が、悪びれずに笑顔をわたくしに向けた。
「浮気は五年ぶりだから、別に構わないだろう?」
真実の愛を捨て、わたくしだけを愛すると言った殿下。その殿下が……。
込み上げてくる吐き気を押さえることが出来ず、わたくしは嘔吐した。
「うわ……、汚い! おい、誰か!」
殿下が鳴らした呼び鈴の軽やかな音。
寝室に入ってくる使用人の靴音。
「お、王太子殿下⁉ そちらの女性は……⁉」
「王太子妃様⁉ だ、誰か! 侍女を呼べ! 医者も……!」
「失礼します、王太子妃様! 寝台に……」
寝台と言われたが、夫婦の寝台に横になるなんて冗談ではなかった。
そこは、王太子殿下が、見知らぬ女と情を交わした場所。
「い、嫌! 嫌ああああぁぁああああ!」
叫び声が、わたくしの、喉から、途切れることなく続いて……。
そして、その後のことは、もう覚えていない。
叫び、嘔吐をし……。
繰り返した。
叫び続ければ、医師が呼ばれ、鎮痛剤を処方され。
だけど、すぐに吐いてしまうから、薬など飲んでも無駄。
食べ物なども取れず、水すらほとんど飲めず。
わたくしの身体は急速に衰えていった。
当然、政務など行えるはずもなく。引き継ぎすらできず。わたくし個人の部屋の寝室で寝たきりになって。
見舞いではなく「お前がいないから政務が進まない。外交も失敗した」などと、王太子殿下がわたくしの寝室にやって来て文句を言ったこともあった。
殿下の顔なんて見たくない、声も聞きたくない。
毛布をかぶって、寝台で丸まって。
何も見ず、何も聞かず。
叫んで、泣いて、吐いて……。
どのくらい、そうしていたのか、わからない。
わたくしの腕は、体は、もはや骨と皮だけになった。
もう、すぐにでも死ぬと思ったのに。
侍女たちが半ば無理やりに水や果汁を飲ませてくるから、なかなか死なずにいた。
生きることも、積極的に死ぬことも、もう、どうでもよくなった。
度々殿下がやって来て、ああだこうだと文句を言うが、わたくしの耳にはもう、殿下の声など聞こえない。殿下の姿も見えない。
幽鬼のような状態で、このままわたくしがゆるゆると死んでいくのだろう。
悔しさも悲しさもすでにない。
どうでもいい。
なのに。
歌が。
聞こえた。
初めは、天からの迎えの音楽なのかと思った。
ああ、わたくしはもう、天に召される。神の使いが、天からの御使いがご降臨されたのだ……と。
もう、これ以上、わたくしは苦しむことなく、つらさも痛みもない場所へと行ける。
そう思ったのに。
違った。
わたくしの寝台の横に置かれている椅子。そこに座っている侍女。
朝と昼と夜、または曜日によって座っている者は異なる。
ただじっと、わたくしの様子を見ているだけの侍女たち。
その中で、一番年若い侍女が、時折、無意識なのか、歌を歌っていた。
わたくしに聞かせるための歌ではない。
ただ、口ずさむ、旋律。
歌詞をきちんと覚えていないのか、気まぐれに鼻歌になり、また、何かの歌詞を呟いて……。
「……陸の終わりは、海の始まり。その先に何があるのか」
「……水の中で、水を探す。ただ一つの、光を抱いて」
「……愛など知らない幼子の、その手に掴む者は何か」
ああ……、なんて綺麗な歌声。まるで、天使様が、侍女の身体を借りて、わたくしに歌を届けてくれているよう……。
ぼんやりと、耳を傾けて。
「……恐れと喜びの空に向かって」
「……胸の奥深くへ」
「……行こう、その先へ、光あふれる約束の場所へ」
ああ……、わたくしにも、まだ、何かを綺麗だと感じる心が残っていたのね……。
「ねえ、あなた……」
その侍女に、わたくしは問いかけていた。
「愛って何なのかしら……? 真実の愛と言いながら、すぐに忘れるようなもの? 君だけを愛すると言いつつ、五年程度で浮気も構わないというような薄っぺらいものなの……?」
侍女は、わたくしを見た……。
綺麗な、透き通った、水晶のような瞳。
「さあ……。私のような若輩者には分かりませんが……。ただ……」
「ただ、何?」
「……異国の神様がいて、その神様は人間である弟子に裏切られ、処刑されたそうなのです。そのときに……」
「そのときに?」
「処刑されるまでの間、こういったそうです。人を愛することは難しい。だから、愛せと命じる……」
「命じる?」
「はい、神様にも答えは分からない。だから、愛を祈り続けろと命じたそうです」
「命じる……」
「何故、人は愛を口にしながら裏切るのか。信じるとは何か。答えなどでないその問いに対して、神様は息絶えるそのときまで、ひたすらに考え続けた」
「考え続けるの? 神様なのに、答えを教えてくれないの?」
「はい。神様にも、答えは分からないんです。だから、愛せと命じる」
「分からないのに、命じるの?」
ずいぶんと酷い神様だ。
難しい。答えなど分からない。だけど、愛を祈り続けろ。考え続けろなんて。理不尽だ。
裏切りに対して制裁をと言ったほうがまだ理解ができる。
「神様にも分からないんです。だって、人は裏切るけど神様は裏切らない。だから、理解ができない」
「神様は、裏切らない……」
「神様の愛は、裏切りを知らない。だけど、人間の愛はときに裏切る。愛を言葉にしながらも、それは愛ではなく欲であったりしますしね」
欲……。
そう……ね。少なくとも殿下の愛は、欲でしかないのでしょう。
「だから、人間の愛は神様には分からないんですよ」
「じゃあ、わたくしたち人間はどうすればいいのかしら? 愛などないと傷ついてそれで終わるの?」
「さあ……、私にも分かりません。ただ、神様は、最後の最後まで、己に問いかけよ。真摯に向き合あったその先に、手にする愛があるのかもしれない……と教えてくださったのかもしれませんね」
罪を、許すのではなく。
自身で、自身の愛を考えろということかしら……?
分からない。
黙って考え込んだわたくしに、侍女はもうこれ以上は何も言わず、ただ、歌を歌った。
綺麗な旋律で。
教え諭すのではなく。
ただ、歌った。
その歌を、わたくしは、聞いた。聞き続けた。
答えはない。
神様にも分からない。
できるのは、考え続けることだけ。
罪を、許すのではない。
考える。
「ねえ、あなた……」
「はい」
「あなたの歌を、わたくしにも教えてくれる……?」
「はい、もちろんです」
侍女が歌う。
わたくしも、歌う。
愛の歌を。
心を彷徨わせながらも。
わたくしは、ただ無心に歌った。
歌い続けた。
侍女が居ても、いなくても。
わたくし一人でも。
時折、殿下がやってくる。
「ねえ、いい加減に政務に復帰してくれよ。一人で政務なんてこなせないんだよ。側近たちも最終判断は僕になんていうし、父王も母上も、王となる者は最終判断をしないといけないんていうし」
殿下の声はわたくしの耳に伝わって来るけれど、わたくしは答えない。
ただ、歌う。
侍女に教わった歌を、旋律を、ひたすらに。
「浮気程度、いい加減許せよ。真実の愛を捨てて、君を王太子妃にしてやったんだからさ」
歌う。
殿下の言葉などはどうでもいい。
わたくしは、わたくしの歌に没頭する。
「いい加減にしろ! 答えろ! 歌ってごまかすんじゃない!」
誤魔化しなどしない。
わたくしは、わたくしの愛を見つめる。
殿下の愛は愛ではなく。欲でしかない。わたくしを愛しているのではなく、便利に使っているだけ。
愛ではない。
では、愛とは何だろう?
わたくしはくすりと笑った。
「神様にお分かりにならないことが、わたくしに分かるはずもないわね」
分からなくても。
心は既に軽い。
どうしてだが分からなくても。
わたくしの心の中に、殿下という存在は、小指の爪の先ほども残っていない。
だから、憤る殿下に、わたくしは言った。
「わたくしに殿下の愛は不要です。王太子妃の位も、王妃の立場も、わたくしには必要ない」
「は⁉」
「離縁しましょう。さようなら」
さあ、遠くまで、行こう。
地の果ては、海の始まり。
たとえ、その海に、光があろうとなかろうと。
わたくしは、わたくしの胸の中に光を灯して。
遠くまで、軽やかに、進んでいこう。




