称呼
前世を覚えている。スピリチュアルな話じゃない。本当に、自分ではない他人の過去を覚えているのだ。
記憶は地続きである。小さな頃のぼんやりとした記憶の先に、さらに輪郭をぼやけさせた記憶があるのだ。
はっきりと思い出せることもいくつかある。
それは例えば、前世の自分に、死に別れた恋人がいることとか、だ。
残念ながら、顔や声は覚えていない。ただそういった存在が居たことだけをはっきりと記憶しているのである。お互いまだ若く、未来を夢見る二人だった。
けれど死んだのだ。あっさりと、死が二人を分かつた。
お決まりの文句として、過去の自分は例に漏れることなく相手と来世の約束をしていた。来世でもまた出会い、恋人となり、ゆくゆくは夫婦になろうと。死に際、愛しい相手とそう契りを交わしたのだった。
大恋愛だ。死んでも忘れられない。本でも一冊書けそうな恋だった。
だから、前世なんてものを覚えているのかもしれない。
そしてだからこそ、いつまでたっても恋人のひとりも作れないのかもしれない。
というのは言い訳か。
カラリ、ストローで混ぜたカフェラテをひと口、ため息と共に飲み込んだ。カフェの窓際。横並びのカウンターから見える外に、仲睦まじく歩く男女が通り過ぎていった。
結局、ため息。
決して、羨ましいとは思っていない。
そもそも、今世の自分は恋愛に興味を持つことも出来ずにいるのだ。過去の自分に対してさえ、冷めた目を向ける始末。どうにも、面倒臭く感じてしまうのである。
それでも、いつか目の前に前世の恋人が現れたその時には、ときめく心がこの身にも在るのではと期待はしていた。
だって、本当にそうなったとしたならば。だからいつまでたっても恋人のひとりも作れなかったのだと、自分自身に言い訳が出来るじゃないか。だから……。
今世もまた、あの人に会いたいと願い。同時に、二度と会うことのなく、ただの夢に出来たのならばとも考えているのだ。
そう、怖いんだよ。長い時間抱え続けたこの想いに、どんな結果だろうと決着がつくことが、怖くて仕方がなかった。
「すみません、ここ、いいですか?」
そんな日々の延長線上。混み合った店内に、ひとつ飛ばしで空いていた席へひとりの男が声をかけてきた。
――……あぁ。
ひとり、嘆息。
ひと目見て、分かったのだ。
――あぁ、この人だ、と。
直感が、言う。
この人が、来世を約束した男だと。確信が、息を詰まらせた。
それは互いに同じだったのだろう。相手の見開かれた両目が、こちらから視線を逸らすことも出来ずに、唇を戦慄かせた。
「――……」
それは、夢の中で幾度となく呼ばれた過去の自分の名前だった。身体に電流が走るとはこのことか。喜び、打ち震えるまま頷き、応えようとした心は早鐘を打っていた。
けれど。
運命の女神は楽しげに笑っていることだろう。
男の、左手薬指に、真新しいシルバーの指輪がはめられている事に気が付いた。
「どうぞ、いま、帰るところだったので」
震える唇が咄嗟に紡いだ。何でもない台詞に、勝手に傷つく。
「あの、――じゃ、ないですか……?」
なおも食い下がる。男の声に頷けたのならどれほど良かったか。
「いいえ?」
けれど遅すぎた。二人の出会いに首を傾げて笑っておいた。
「違います」
その拒絶を読み取ったのか。
「あ……すみません」
落胆する男に会釈し、素早く席を後にした。これでいいと、まるで悲劇のヒロインぶって。振り返り見つめたその背に聞こえないよう呪いをかけた。
「ではまた、来世で」
そこからは振り返ることなく早足で立ち去る。
痛む胸を鷲掴んで。
あぁ、なんだそこにいたのかと。
この身に宿った、たったひとつの恋心が泣き声を聞いていた。




