帰る場所と、眠る場所
私は猫である、抜けるような青空を見上げる猫である。
しかし、暑いのである。
今は、人間達でさえ打ち水をして暑さを凌ぐ季節だ。
私の目に映る大きな入道雲に日陰を期待したが、その雲は風に流されて私の目の前を通り過ぎた。
通り過ぎてしまった雲を目で追い、再び私の体毛を焼かんと強い日差しが降り注ぐ。
こういう時に生まれながらの黒色の体毛を呪いたくなるが、今更それを言ったところでどうしようもない。
黒毛玉の私は、涼を求めて人間達の住まう建物の間を縫っていく。
右に左に上下に建物の隙間に入り込み、柔らかいか体に感謝しつつ最短距離であの場所に向かう。
それは偶然見つけた風の通り道、この猛暑に打ち勝つための場所である。
その場所に近づくにつれて、風が私を追い越していく。
追い風が私の尾を揺らし、私の気持ちを代弁してくれた。
薄暗く生活臭が鼻を突いていたが、やがて開けた場所に出る。
そこは、風と日差しと蒼穹が視界を覆う場所。
人間達の生活を見下ろすように建てられたその家は朽ちかけてはいるものの、その存在感は衰えてはいない。
むしろ綺麗な街並みには負けないぞと言わんばかりに、かつては映えていたのであろう白の外壁を降り注ぐ日光に見せつけている。
そんな健気な家の外壁の影に、体を預けて寝転ぶ。
そんな私の格好を察してか、追い風だった風向きが向かい風に代わる。
髭と瞳を揺らしながら、私は誰もいない所で涼を楽しむ。
そう、楽しんでいたのだ。
「おや、こんにちは」
声が、聞こえた。
まるで、初めからそこにいたかのような自然さで人間の声が聞こえた。
普通は警戒するはずだ。
人間と関わったってろくなことはない、そう同族が捕らえられるところを見て思い知っている。
だから、人間には近づかないようにしている。
その筈なのに、何故か体は動かない。
縛られているわけじゃない、なのに体が動こうとしない。
野良猫の本能が、こいつは安全だと囁いている。
「ここは涼しいな、すまんが一緒に涼を取らせてもらうぞ」
そう言いながら、私の横に腰かけた。
風のようなそいつの横顔を、見上げた。
派手な和装に身を包んだその男は、愁いを帯びた顔で空を見ている。
整った顔だ。
丹精と人間達なら口にするのだろう。
切れ目に、薄い唇。
長いまつ毛が、切れのある目尻を一層際立たせる。
女はもちろん、男でさえこの男に声を掛けられたら抗うことは出来ないだろう。
それ程、この男が纏うものは今まで出会った人間達とは違った。
果たして、この男は人間なのだろうか。
そう疑いの目を持って、目を細めた。
「そう怖い顔をしないでおくれ、久々に息の詰まる会合に出てきたばかりなんだから休ませておくれ」
私の視線を受けた男は、困ったように笑いながら私の頭を撫でた。
その手に、温かみはなかった。
人の手にしてはあまりにも冷たい、だけど今の季節にこの冷たさは有り難い。
黒い体毛に蓄えた熱が、男の手によって冷やされていく。
涼を感じる私を見ながら、男は私に語り掛けてきた。
「眷属よ、お前は今――幸せか?」
撫でられる手に僅かに力が籠るのを感じて、視線を男に向けた。
その表情の奥ある感情が何なのか、私には分からない。
だが、聞かれた以上は私も思考しようと思う。
猫は人間達によって、愛玩動物という自然界にはない地位を確立できた。
けど、野良猫である私は人間達の愛玩動物にはなれなかった。
実に理不尽だと思うが、代わり私は人間達の生活を外側から眺める権利を得た。
その視点から見た時、飼われた猫は幸せだと思う。
食べ物に困ることもないし家族同然に扱われて、最後の時まで幸せだとは思う。
だが、羨ましくはない。
だって、私が生きる所は私が選びたいし私が食べたいものはその日に決める。
自由の謳歌こそ、猫の本分だと思っている。
それに、眠る場所くらい選びたいじゃないか。
看取られる事がないのなら、死に場所くらい選びたい。
その自由奔放な生こそ、喜びなのだと思う。
「成程、お前は生粋の猫だな」
私の思案を覗いていた男は、静かな所作で私の体を持ち上げた。
「だが、見送る者が居なというのは寂しいではないか」
男は、真っすぐ私の目を見つめた。
正面から慈愛の視線と言葉を送られて、思わず視線を外してしまった。
「なら、もしもお前の命が終わる時になったら我が傍にいてやろう」
その提案は、贅沢というものだ。
私は猫だ、自由を謳歌すし勝手にくたばるか弱い存在だ。
それに、こいつは私の場所など知らないはずだ。
告げるつもりもない。
「何を言っている、ここに来ればお前に会えるのだろう?」
男は、静かに微笑んだ。
それに気付けたのは再び男の顔を見たからだ。
視線を合わせた男が、笑った。
それは、いつか見た家猫を見つめる家族の顔だった。
あぁそうか、ここに来ればこいつに会えるのだな。
どうやら私は、雲のように流れることは出来なくなってしまったようだ。
だって私は、贅沢を覚えてしまった。
私は、この笑顔に見送られたいと思ってしまったのだから。




