異様な黒鋼鬼
夜のあいだに、
黒鋼山の影は、いちだんと濃くなった気がした。
宿の窓を開けると、
朝の空気はひんやりしていて――
でも、昨日ギルドで聞いた話を知っている身には、その冷たささえ少し重く感じる。
「……起きてる?」
「起きてる」
天音が寝台から上体を起こすと、
すでに支度を終えた大狼が、窓際で紐を結び直しているところだった。
巫女装束の上に、山歩き用の外套。
腰には結界札の入った小袋と、護符の束。
白い狐耳が、きゅっと一度だけ動く。
「アルカナは?」
「もう下で、朝ご飯もらってますよ」
「早ぇなあいつ」
「緊張すると、逆に早く動きたくなるタイプなんでしょうね」
大狼がふっと笑う。
天音も寝台から降りて身支度を始めた。
胸元の革鎧を締め、
拳を包むバンテージを巻き直す。
素手で殴るにせよ、
黒鋼鬼相手なら、拳のほうを守るのも大事だ。
簡単な朝食を済ませて宿を出ると、
ギルドの前には、すでに見慣れた顔ぶれが三人、待っていた。
大剣使いの男。
弓使いの女。
術師の男。
昨日、黒鋼山の話をしてくれた現地の冒険者たちだ。
「よく寝られたか?」
大剣使いが、軽く手を挙げる。
「まぁ、それなりに」
天音が答える。
「山の上で寝るよりは、よっぽどマシでした」
「それはそうだな」
大剣使いは、わずかに口元を緩めた。
「こっちは、いつでも出られる」
弓使いが矢筒の紐を確かめながら言う。
「荷物は山里のギルドに預けてきたから。
今日は“谷の入口まで”のつもりで行こう」
「了解です」
アルカナが頷く。
「最初から全部片付けるつもりはない。
“どこまで踏み込めるか”を見に行く日、ですね」
「そう思っておいてくれたほうが助かる」
術師が、杖の先を軽く地面に突いた。
「最初から“完璧に終わらせる”つもりで行くと、
退きどきが分からなくなる」
「……ですね」
大狼が小さく息を吐く。
「退く判断も、A級の仕事ですから」
その言葉に、現地の三人が一瞬だけ大狼を見る。
そして、ほぼ同時にうなずいた。
「じゃあ、行くか」
大剣使いが、黒鋼山の方角へ身体を向ける。
六人の足音が、まだ静かな山里の通りを抜けていった。
※
山里から北へ伸びる道は、最初のうちは穏やかだった。
畑が途切れ、低い木立が始まり、
踏み固められた土の道を、歩きやすいペースで進んでいく。
背後に山里の屋根が見えるあいだは、
まだ“日常の延長”という感覚がついて回る。
だが――
小一時間も歩くと、
道端の景色は少しずつ変わっていった。
木々の幹が太くなり、苔が増え、
道の両側には、ところどころ古い祠の残骸のようなものが見え始める。
崩れかけた石の台座。
折れた鳥居の柱。
誰も掃除していない小さな社跡。
「……この辺りまで、昔は“里”だったんですかね」
大狼が、崩れた祠を見やりながら呟いた。
「今はもう、山のほうに飲まれてしまってますけど」
「そうだな」
術師が頷く。
「古い記録だと、昔はこの辺りにも家が何軒かあったらしい。
今は“黒鋼鬼がうろつき始めてから、順番に引いた”って話だ」
「“山の機嫌が悪くなったから下がった”ってやつか」
天音が、昨日の老婆の言葉を思い出す。
「ここも、昔は巫女がいたんだな」
「黒鋼山の社の巫女さま、ですか」
大狼が小さく笑う。
「“山と一緒に暮らす人”がいなくなって、
今は神さま一人で、頑張っていらっしゃるのかもしれません」
「神さまも楽じゃねぇな」
「楽してたら、こんな山にはならないですよ」
昨日も同じことを話したような、そんな会話をしながら進 むうち、風が少しずつ変わっていった。
山里の生活の気配と、炊き出しの香りと、
人の暮らしの“温度”が、すうっと薄れていく。
代わりに、
土と石と、鉄の気配が濃くなってきた。
黒鋼山の名の通り、
この山にはあちこちに鉄を含んだ岩肌が露出している。
日が当たるところでは鈍く光り、
影になっているところでは、黒い斑点のように口を開けている。
「……嫌な気配ではないですけど」
大狼が小声で言った。
「“しんどい気配”ですね。神社的には」
「神社的に?」
「山そのものは、きっと“悪い山”じゃないんですよ。
黒鋼鬼も、もともとは“この山の中で暴れてるだけ”だったはずで」
「だが、今は違う」
弓使いが、前を見たまま言う。
「“暴れているだけ”じゃなくなっている」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
さらに一時間ほど歩いたところで、
道の傾斜がきつくなり始める。
木々の間から見える空の面積が減り、
黒鋼山の斜面が、真正面から迫ってくる。
「この先だ」
大剣使いが足を止め、前方を指さす。
獣道のような、細い道が一本、谷のほうへと下っている。
そこから先は、
地図の上でも“前回被害地点”“黒鋼鬼出没多発”と赤字で書かれていた場所だった。
「ここから先が、“黒鋼鬼の本気でうろついてる範囲”です」
術師が、いつになく真面目な声で言う。
「ここまでは、まだ“里からの延長”。
この先は、“山の腹の中”だと思ってください」
「……腹の中ね」
天音が、ごくりと喉を鳴らす。
「戻れなくなりそうな言い方やめろ」
「戻れるうちに戻るための目安だよ」
弓使いが、それだけ言って矢筒を背中にかけ直した。
「とりあえず、今日は“谷の入口をこの目で見る”とこまで。
黒鋼鬼の様子次第で、すぐ退く」
「了解」
アルカナも、自分の剣の柄に触れて深呼吸した。
谷へ下る細道は、
一歩先が見えづらいほど曲がりくねっていた。
足元は湿っており、苔むした石も多い。
慎重に歩かなければ、簡単に足を滑らせそうだ。
「足元、悪いですね」
大狼が小さく呟くと、
結界札を一枚抜き取り、指先で軽く弾いた。
足を置くべき石だけが、
ごく薄く、見えない膜で固定される。
「滑りやすいところだけ、“足場を固める”結界を敷いておきます。
全部を覆うと、こちらの気配が濃くなりすぎるので」
「助かる」
大剣使いが短く礼を言う。
「やっぱり、こういうとこ慣れてるな」
「山に入る仕事が多いので」
大狼は、前を向いたまま頷いた。
谷の底に近づくにつれて、
空気の温度が少しずつ下がっていく。
風が止み、
代わりに、どこか遠くで何かがぶつかる低い音が聞こえ始めた。
ドン……
ドン……
ドン……。
一定の間隔で、鈍い衝撃音が響いている。
「……聞こえるか」
先頭の大剣使いが、振り返らずに言う。
「聞こえる」
天音が短く答える。
「何の音だ?」
「黒鋼鬼の“仕事”だよ」
術師が低く言った。
「岩を砕いて、道を広げて、巣を補強してる。
それと――鉱石を持ち帰ってる」
「鉱石?」
アルカナが眉をひそめる。
「黒鋼鬼は、鉱石を主食みたいに食う。
鉄を多く含んだ岩なんか、あいつらにとっちゃごちそうだ」
ドン、ドン、と続く音に、
天音の背筋がじわりと汗ばむ。
それは、単なる地鳴りではなかった。
何かが、意志をもって山を叩いている音だ。
やがて――
視界がぱっと開けた。
細い山道の先に、
ぽっかりと口を開けた谷が広がっている。
左右を切り立った岩壁に挟まれたその谷は、
上から見れば、山肌に刻まれた深い裂け目のようだった。
谷底には、黒い影がうごめいていた。
「……黒鋼鬼」
アルカナが、無意識に息をひそめる。
甲殻をきしませながら歩く、
巨大な黒いカニのような魔物たち。
個体ごとの大きさには差があるが、
どれも人と同じくらいの大きさがある。
硬そうな黒い殻。
地面を抉る太い脚。
左右に伸びた巨大な鋏。
谷底全体が、
“動く黒い岩塊”で埋め尽くされているように見えた。
その中には、
岩壁を鋏で削り、砕けた鉱石の塊を抱えて巣の奥へと運んでいく個体の姿もある。
「……数、多いですね」
大狼が小さく呟く。
「前の報告より、ずっと」
「黒鋼鬼って、ああやって鉱石運ぶんだな……」
天音が、思わず見入る。
「山の鉱石が主食、って話は聞いてたけど、
まさかここまで“工事現場”みたいに動いてるとは」
「岩を砕いて、道を広げて、巣を補強して。
あいつら、山をいじるのが得意なんだ」
大剣使いが低く言う。
「この谷、元はもっと浅かったはずだ。
黒鋼鬼どもが、何年もかけて掘って、広げて、今の形にした」
そして――
「あれだ」
大剣使いが、谷の中ほどを顎でしゃくった。
黒鋼鬼の群れの間。
岩の出っ張りの上に、ひときわ目立つ影が陣取っている。
他の黒鋼鬼より一回り大きい。
殻には細かい傷が多く、
鋏の縁は岩を叩きすぎたせいか、ところどころ欠けていた。
そいつは、谷全体を見下ろす位置から、
群れの動きをじっと見ていた。
「黒鋼鬼王……?」
「だと思う」
弓使いが息を詰める。
「前に見たときと、立ち位置も雰囲気も似てる。
ただ――」
「ただ?」
「前より、“静か”だ」
その言葉通りだった。
黒鋼鬼王は、咆哮も上げず、鋏も振り回さない。
ただ、谷底の動きを見ている。
それだけなのに、
谷全体の黒鋼鬼たちの動きには、奇妙な統一感があった。
岩を砕く個体。
割った岩をどかす個体。
鉱石の塊だけを器用に抱え、巣の奥へと運んでいく個体。
まるで、“誰かの頭の中の図面”に合わせて、
それぞれの役割をこなしているような――そんな動き。
「……気持ち悪いな」
天音が、ぽつりと漏らす。
「“ただ暴れてる”ほうが、まだマシだ」
「分かります」
大狼が、小さく頷く。
「“何をしているか分からない暴れ方”より、
“何か作ろうとしている動き”のほうが、怖いです」
「そういう意味では、今日は来てよかったな」
アルカナが低く言う。
「この光景を“見たことがあるかどうか”で、
明日以降の判断が変わる」
その瞬間だった。
――ギチ、と。
谷底の空気が、ほんのわずかだが変わった。
黒鋼鬼たちの動きが、一拍ぶんだけ止まる。
谷の奥で、黒鋼鬼王が、
ゆっくりと首を持ち上げた。
濁った赤い視線が、
こちらのいる岩場のほうへ、真っ直ぐに向けられる。
「……見つかったか?」
天音が、喉を鳴らす。
「距離、あるよな? まだかなり――」
言い終わる前に。
黒鋼鬼王が、咆哮した。
空気を震わせる、低く長い咆哮。
岩壁に反響して、谷全体が唸ったように感じる。
その合図と同時に、
谷底の黒鋼鬼たちが、一斉にこちらを向いた。
岩を砕いていた個体。
鉱石を運んでいた個体。
そのすべてが、
谷の出口――彼らがいる岩場に向けて体をひねる。
「やべっ」
弓使いが、反射的に矢をつがえた。
「来るぞ!」
大剣使いの叫びと同時に、
谷底の黒い影が波のように動き出した。
脚が地面を抉る音。
甲殻同士がぶつかる音。
谷全体が、
“こちら側を押し潰すための塊”になったかのようだった。
「多すぎる……!」
術師が顔を引きつらせる。
「三体や四体じゃない、“群れごと”だ!」
「一回引く!」
大剣使いが怒鳴る。
「ここで踏ん張る場所じゃねぇ、押し潰される!」
六人は、もと来た細道のほうへ身体を向けた。
だが、その細道に向かう途中――
斜面を駆け登ってくる黒鋼鬼の影が、すでに見えていた。
谷底から少し離れた位置の斜面を、
数体が鋏で岩に食らいつきながら、信じられない速度で登ってくる。
「嘘だろ、あの傾斜で……!」
「正面突破するぞ!」
大剣使いが前に出る。
登ってきた一体の鋏を大剣で受け、火花が散った。
硬い。骨の芯まで響く重さだ。
「っ、相変わらず石みてぇだな!」
「文句言ってる場合か!」
天音が別の一体に飛びかかり、
脚の付け根めがけて全力の蹴りを叩き込む。
甲殻にひびが入り、黒鋼鬼が体勢を崩した。
「大狼、後ろへ!」
「はい!」
大狼は素早く細道側へ下がりながら、
結界札を切って足場を補強していく。
だが――
「右からも来る!」
弓使いの叫びに、
アルカナがちらりと右の斜面を見た。
別の斜面からも、黒鋼鬼の列がこちらへ回り込んできている。
谷底から真っ直ぐ押し寄せる群れと、
左右の斜面を登ってくる個体。
細道へ続く狭い岩場は、
あっという間に“挟み撃ち”の形になろうとしていた。
「挟まれる!」
「とりあえず、正面の列を削る!」
術師が杖を振る。
石礫の弾丸が黒鋼鬼の顔面に叩きつけられ、
何体かが足を止めた。
だが、その後ろから、
何体も何体も、同じ速度で駆け上がってくる。
黒鋼鬼王の咆哮が、二度目に響いた。
今度は、さっきよりも短く鋭い。
その瞬間――
黒鋼鬼たちの脚が、一段階速くなった。
鋏が岩肌を噛み、
脚が石を砕きながら、こちらへ迫ってくる。
「……っ、まずい」
大剣使いが、ほんの一瞬だけ本音を漏らした。
「このままだと、本当に押し潰されるぞ!」
「アルカナ! 天音!」
弓使いが叫ぶ。
「どっちか一人でも崩れたら、後ろごと押し込まれる!」
「分かってる!」
天音は拳を握り直す。
心臓が、耳のすぐ横で脈打っているみたいだった。
足の裏がじわじわと冷たくなる。
それでも、前に出るしかない。
(ここで止まったら、全員死ぬ)
「大狼!」
アルカナが振り向きざまに叫ぶ。
「細道まで、絶対下がらせる! そこまで保たせろ!」
「……やってみます!」
大狼は息を吸い込み、
自分の結界札を細道の入り口に叩きつけた。
足場を補強し、
崩れそうな岩を“踏ん張れる地面”に変える結界。
だが――
それはあくまで“逃げ道を守る”ためのものであって、
黒鋼鬼の突撃そのものを止められるものではない。
前衛三人は、
後ろの“最後の一歩”を守るために、半歩も下がれない場所で黒鋼鬼とぶつかる。
一体、二体――
なんとか谷側へ突き落とした。
だが、その足元を、
また新しい黒鋼鬼が駆け上がってくる。
左右の斜面からも列が合流し、
黒い塊が一つの波になって押し寄せてくる。
「……っ、キリがねぇ!」
天音が吐き捨てる。
その顔は、
もはや笑う余裕すら削げ落ちていた。
(マジで、もたない)
腕が重い。
足が焼けるように痛い。
それでも、まだ黒鋼鬼の列は尽きない。
斜面の上のほうで、
細道の入口に立つ大狼が、必死に結界札を貼り替えているのが見えた。
あそこが崩れたら――本当に終わりだ。
黒鋼鬼王の咆哮が、三度目に響いた。
今度は、短く、鋭く、一撃の号令のように。
その声に応じるように、
先頭の黒鋼鬼たちが、揃って鋏を高く振り上げる。
次の瞬間――
“押し潰す”ことだけに全てを振った突進が、前線に殺到した。
「――っ!」
大剣使いの足が、一瞬だけ滑った。
ほんのわずかな、バランスの崩れ。
そこへ、黒鋼鬼の鋏が振り下ろされる。
避けられない。
受けても持たない。
この一撃で、前線が抜かれる――
そう思ったその瞬間。
――ガン。
空気そのものを殴りつけたような、鈍い音がした。
黒鋼鬼の鋏は、大剣使いの頭上で止まっていた。
見えない“何か”に引っかかったように、そこから先へ進まない。
次の一撃を狙っていた別の個体も、
同じ場所で、ありもしない壁に鋏を叩きつけて弾き返される。
「……え?」
天音の口から、間抜けな声が漏れた。
目の前には、何もない。
透明な板も、光る紋も見えない。
それなのに、黒鋼鬼たちは――
そこに“確かに何かがある”としか思えない挙動で、次々と叩きつけられ、弾き返されていた。
壁にぶつかるたび、
黒鋼鬼の甲殻が軋み、ひびが入り、血と鉄片が散る。
それでも、彼らは止まらなかった。
前列が砕ければ、
その上に中列が乗り上げる。
砕けた甲殻と肉片を踏み台にして、
なおも“壁”に体当たりを続ける。
「……おかしいだろ、これ……」
弓使いの喉から、自然と声が漏れた。
恐怖というより、理解が追いつかないという顔だった。
普通の魔物なら、
少なくとも“痛み”や“死”に対する本能的なブレーキがある。
怪我が一定以上に達すれば、
逃げるか、怯むか、吠えるか――何かしらの反応を見せる。
だが、目の前の黒鋼鬼たちは違った。
自分の甲殻が砕け、骨が折れ、
内側の肉が“何か”に潰されてもなお、動きを止めない。
叫び声は上げている。
だが、それは悲鳴ではなかった。
ただ、突進のリズムを維持するための咆哮にしか聞こえない。
砕けた体の上に、次の体が乗る。
ひしゃげた殻の上に、さらに別の殻が重なる。
赤と黒がぐちゃぐちゃに混ざりながら、
それでも“前へ”と押し込もうとする。
「……っ」
術師が、思わず口元を押さえた。
「何なんだよ、これ……
あいつら、“ここに壁がある”って分かってるのに、止まらない……」
その異常さを目の当たりにして、
現地ギルド組の三人は、心の底からゾッとした。
足が竦む。
手の汗が、武器の柄を滑らせそうになる。
もし、目の前にこの見えない壁がなければ――
今頃、自分たちの体が、あの押し潰される側に混ざっていたはずだ。
(……怖い)
天音も、正直にそう思った。
拳を握った手が、自分でも分かるくらい震えている。
(これ、俺たちの力の範囲じゃない)
ただ一人、別の“何か”を感じている者がいた。
大狼だ。
(……この気配)
黒鋼鬼たちがぶつかっている“壁”から、
薄く、しかし確かに――
神社の気配がした。
大狼神の結界とも、自分の結界とも違う。
けれど、“社に由来する何か”がそこにある、と
巫女としての感覚が告げていた。
(“こちら側”から、誰かが守ってる)
そう直感した。
顔も、名前も、分からない。
けれど、“見ている側”の何者かが、
彼らと黒鋼鬼のあいだに、見えない壁を立ててくれている。
「下がりましょう!」
大狼は振り返り、全員に叫んだ。
「今なら下がれます! この結界が持っているうちに!」
その声に、
前衛たちの視線が一瞬だけ揃った。
まだ足は震えている。
でも、“今動かなきゃ死ぬ”ということだけは、全員が本能で理解していた。
「退け!」
大剣使いが怒鳴る。
「ここで全滅しても意味がない! 一時撤退だ!」
弓使いが矢筒を抱えて後退を始める。
術師は防御魔法を後ろ向きに展開しながら、足元を確かめて下がる。
天音とアルカナは最後尾につき、
黒鋼鬼たちが壁を突き破ってきた瞬間に備え、半身を残したまま後退した。
細道に踏み込んだ瞬間、
ふくらはぎが一気に焼けるように痛くなる。
全力疾走を強制される道だ。
後ろから、
黒鋼鬼たちの脚音と咆哮が追いかけてくる。
ただ――
さっきまで耳を裂いていた“ぶつかる音”が、
少しずつ遠ざかっていくのを、大狼だけは感じていた。
(……護りきってくれてる)
誰にともなく、心の中で頭を下げる。
一行は、谷から少し離れた場所まで撤退し、
岩陰に身を潜めて息を整えた。
全員、膝が笑っていた。
「……今の、マジで紙一重だったな」
大剣使いが、額から汗を拭う。
「あと三歩遅かったら、挟まれて終わってた」
「黒鋼鬼って、あんなに速かったか……?」
弓使いが、震える息を吐く。
「俺の矢が間に合わねぇ速度で登ってくるとか、聞いてねぇんだけど」
「報告には、“あんなの”なかったです」
術師も、肩で息をしながら言う。
「“硬くてしつこい”までは聞いてましたけど――
今のは、“群れごと潰しに来てた”」
天音とアルカナは、
少し離れた岩にもたれかかりながら、互いの顔を見合わせた。
「……怖かったか?」
アルカナが聞く。
「当たり前だろ。
足、まだ震えてる」
天音は、笑ってみせた。
その笑いは、
岩場で無茶を言うときのそれより、ずっと生々しかった。
「でも、“生きて逃げる”って選択、
今ここで叩き込まれたのはデカいと思う」
「……ああ」
アルカナも頷く。
二人とも、
さっきの“見えない壁”の正体が何かまでは分からない。
ただ、
自分たちの上には、まだ“届かない領域”がある――
その実感だけは、嫌というほど刻み込まれていた。
大狼は最後に一度だけ振り返り、
谷のほうを見た。
斜面の向こうに黒鋼鬼たちの姿は見えない。
けれど、山肌の奥で、まだあの甲殻のきしむ音が続いている気がした。
そして――
ほんのかすかに、風の向こうから、神社の気配が揺れては消えた。
(……ありがとうございます)
胸の中で、誰かに向けて礼を言う。
その“誰か”の顔を、
彼女は薄々と気づいていた。




