山里の空と、重い空気
ギルドの分厚い扉をくぐると、
外の空気は、思っていたよりずっと冷たかった。
昼の名残を薄く残した青空の下、
黒鋼山の山影だけが、やけに早く夜を連れてきている。
山里の家々からは、少し早めの夕餉の匂いと、
子どもたちの笑い声がかすかに響いていた。
――さっきまで黒鋼山の話をしていたギルドの空気と、
あまりに違いすぎて、天音は一瞬足を止める。
「……外、普通だな」
ぽつりと漏らした言葉に、隣でアルカナがふっと笑った。
「“普通”であるうちに片付けないと、って顔してるよ」
「してるか?」
「してるしてる。さっきから眉間ずっと寄ってる」
そう言いながら、アルカナは顎で山のほうをしゃくる。
山里の上――
黒鋼山の向こう側の空だけが、どこか鈍い色をしていた。
雲が厚いわけでもない。
雷鳴が聞こえるわけでもない。
それなのに、そこだけ空気の膜が一枚、余計にかぶさっているような、
じわりとした重さがある。
「……行きましょうか」
少し遅れてギルドから出てきた大狼が、
胸元で結界札の束を整えながら二人に歩み寄る。
さっきまで、
黒鋼山から戻ってきた冒険者たちの話をじっと聞いていた巫女の顔には、
疲れと緊張と、それからわずかな決意が混ざっていた。
「宿、紹介してもらいましたよね」
「ああ。ギルドの斜向かいの、二階建てのとこ」
アルカナが頷く。
「今日はそこで一泊。
明日の朝いちで、あの“谷の入口”ってやつを見に行く」
「……だな」
天音も同意する。
ギルドの大剣使いが言っていた。
黒鋼山の麓には、黒鋼鬼たちが頻繁に出入りする谷が一本ある。
前回の討伐隊と黒鋼鬼王がぶつかり合ったのも、その近くだと。
まずはそこを“外側から”見る。
山そのものに飲まれる前に、自分たちの目で一度判断する。
それが、現地ギルドとA級トリオが出した結論だった。
三人は、山里の通りへと歩き出す。
道端には、荷車を押す商人、
井戸端で話し込む女たち、
走り回る子どもたち。
一見すると、どこにでもある山里の日常だ。
ただ――
「……」
大狼は、すれ違う人々の“視線の動き”に少しだけ眉をひそめた。
洗濯物を干す手を止めて、一瞬だけ山のほうを見る老婆。
荷車を押しながら、ちらと空の端を確かめる男。
遊んでいた子どもに「向こうを見るな」と小声で言う母親。
ほんの一瞬。
けれど、誰もが一度は黒鋼山のほうへ目をやっている。
山は、里の生活の一部であり――
同時に、今はいちばん触れてはいけないものに近づきつつあった。
「……今年は、山の機嫌が悪いねぇ」
井戸端で水桶を引き上げていた老婆が、そんなことを呟くのが聞こえた。
「黒鋼山の社にも、昔は巫女さまがいたろう?」
「いたいた。あの方がおった頃は、こんな“ざわつき方”はしなかったよ」
「ここ最近だよ、急に黒鋼鬼が荒れ出したのは……」
「神さま一人で、よう抑えてくれてるほうさねぇ」
大狼は、歩きながらもその会話を耳の端で拾う。
(黒鋼山の社にも、巫女さま……)
(……黒鋼山の神さまも、しんどいでしょうね)
自然と、そんな感想が胸の中に浮かんだ。
「ここも、昔は巫女がいたんだな」
ぽつりと、天音が言う。
「大狼のとこと同じで、山と一緒に暮らしてた人がいたってことか」
「そうですね」
大狼は小さく笑う。
「“山と一緒に暮らす人”がいなくなって、
今は神さま一人で、頑張っていらっしゃるのかもしれません」
「神さまも楽じゃねぇな」
「楽してたら、こんな山にはならないですよ」
そんな会話をしながら、
三人はギルドから紹介された宿屋の暖簾をくぐった。
※
宿の二階。
三人にあてがわれた部屋は、畳敷きの八畳だった。
窓からは、山里の灯と、黒鋼山の輪郭が見える。
荷物を降ろし、簡単に整理を終えると、
三人は自然と窓際のちゃぶ台を囲む形になった。
上には、ギルドから借りてきた地図が広げられている。
「ここが、山里」
アルカナが指を置く。
「で、この道を北に半日歩いて……ここが、例の谷の入口」
地図の端に記された×印。
その横には、小さく文字が添えられていた。
――前回被害地点。
「“谷の奥に巣がある”可能性が高いって言ってましたね」
大狼が指でなぞる。
「前回の討伐隊は、この辺りでまず群れとぶつかって……
そこから少し押し込んだところで、黒鋼鬼王が出てきた、と」
「そこでいったん止めて退いたのは、正直、正解だったな」
アルカナは地図を眺めながら言う。
「黒鋼鬼王の姿が見えた時点で、
“今の戦力じゃこれ以上は無理だ”って判断ができたってことだから」
「……あそこで踏ん張ろうとしてたら、今ここにあの人たちはいない」
天音も、小さく息を吐いた。
ギルドで話をしてくれた三人――
大剣使い、弓使い、術師。
彼らの顔は、
“まだやれる”と“もう無理だ”の境目を、ぎりぎりで踏みとどまった人間のものだった。
「で、今回は、その先をどうにかしろって話だろ」
「ですね」
アルカナが苦い顔で頷く。
「“前の討伐隊が作った情報の土台を踏まえた上で、
A級と現地戦力を合わせて、もう一歩踏み込んでくれ”って」
「……楽しそうだな」
天音が、わざと軽く言う。
「怖いのは怖いけどさ。
“前の人たちがちゃんと戻ってきて、俺たちにバトン渡してくれた”って思えば、
怖いだけじゃねぇだろ」
そう言って、拳を軽く握る。
「俺らも、“ここまで行けた”ってとこまでは行って、
それでも無理だと思ったら、ちゃんと戻ってくりゃいい」
「“戻ってくる”前提なのは、偉い」
アルカナが苦笑する。
「さっき黒鋼山の話してくれた三人さ」
天音は、地図から視線を外して言った。
「全員、“あそこで死ぬ間際だった”みたいな顔してたよな」
「……してましたね」
大狼がそっと頷く。
「“あそこで引かなかったら、今ここにはいない”ってことを、
自分たちで分かっている顔でした」
「だから、俺らは“戻る”って決めておこうぜ」
天音は、窓の外――黒鋼山の影を見やる。
「黒鋼鬼王を倒せたら、それはそれでいい。
倒せなくても、“ここから先はS級案件です”って胸張って言えるくらいの情報を持って帰る」
「それができれば、十分“A級の仕事”だな」
アルカナも頷いた。
「……で」
そこでアルカナが、少しだけ表情を崩す。
「今さらだけどさ」
「ん?」
「怖い?」
「あー……」
天音はあからさまに迷ってから、正直に答えた。
「怖い」
即答だった。
「黒鋼鬼そのものは、前に“別の山”の討伐依頼で一度だけ殴ってるし、
“硬いけど、やれない相手じゃない”ってのは分かってる」
「うん」
「でも、今回のは“知ってる黒鋼鬼じゃないかもしれない”って話じゃん」
ギルドで聞いた報告がよみがえる。
傷の入り方に関係なく、
前に出続けようとする動き。
いつもより、“止まる”という選択肢を失っているような突進。
それは、“硬い魔物”というより、
“何かに背中を押し続けられている群れ”に近かった。
「“何してくるか分かってる”相手より、
“何してくるか分かってない”相手のほうが、普通に怖い」
「まともな感覚でよかった」
アルカナが安堵混じりに笑う。
「大狼は?」
「……怖いですよ」
大狼は、少しだけ視線を落として、正直に言った。
「巫女なので、黒鋼山の神さまの“しんどさ”も、
なんとなく伝わってきてしまいますし」
山の向こうから吹いてくる風の中に、
鉄と、火と、古い祈りが混ざったような重さがある。
「黒鋼鬼そのものも怖いですけど……
“山全体がしんどそうにしているところに踏み込んでいく”のも、正直怖いです」
「……だよな」
天音がぽりぽりと頬をかく。
「じゃ、“怖い三人”で行くってことで」
「それでいいんじゃないですか」
アルカナが笑う。
「怖いって分かってて、その上でどう動くか決めるほうが、よっぽどマシだ」
窓の外で、風が一度、強く吹いた。
三人とも、反射的にそちらを見る。
黒鋼山のほうから吹き下ろしてきた風が、
山里の家々の屋根を撫でていく。
その瞬間――
(……?)
大狼は、風の中に、ごく小さな“異物”を感じた。
神社のそれとも違う。
黒鋼山の神の気配とも違う。
もっと幼く、
形が定まっていない何かが、
山の奥のほうで、寝返りを打ったような……そんな感覚。
けれど、次の瞬間には、
それは風の音に紛れて溶けてしまった。
「どうした?」
天音が気づいて問いかける。
「……いえ。気のせいかもしれません」
大狼は首を振る。
今は、まだ言葉にできるほどはっきりしていない。
それを口にして、仲間に余計な不安を足す必要はない、と本能が告げていた。
「よし」
アルカナが、ぱん、と手を打つ。
「怖いのは確認した。
じゃあ、明日の動きだけ決めて、今日はちゃんと寝るぞ」
「おう」
「賛成です」
三人は再び地図を覗き込み、
谷までの道のり、退路の確認、
万が一の場合の合図の決め方などを、ひとつずつ詰めていった。
窓の外では、黒鋼山の輪郭が、ゆっくりと夜に溶けていく。
山里の灯りがひとつ、またひとつと増え、
その上に広がる空には、まだ星がまばらにしか見えていない。
夜は、静かに、しかし確実に近づいていた。




