黒鋼山
黒鋼山編、導入回です。
迷い森で「B級のはずなのにB級じゃない場所」を踏んだ三人が、
今度は最初から「未査定領域」タグ付きの山に向かうことになりました。
今回はまだ戦闘はありませんが、
・ギルドの空気がいつもと違うこと
・黒鋼山から戻ってきた人たちの「話し方」
を通して、「あ、この山はちょっとヤバいかも」という雰囲気を出せていたら嬉しいです。
トウカ支部の扉を押し開けた瞬間、
天音は「あれ?」と眉をひそめた。
「……なんか、静かじゃね?」
酒と汗と油の混じった匂いは、いつも通りだ。
けれど、音が違う。
普段なら、この時間のギルドはうるさい。
新人っぽい連中が掲示板の前でわいわい騒ぎ、
常連のオッサンたちが昨夜の武勇伝や愚痴を大声でぶちまけ、
誰かが笑えば、それに乗っかって笑いが広がる。
今日のざわめきは、低い。
声の高さが一段落ちていて、
小さな笑いも、すぐに周囲の空気に吸い込まれていく。
視線が、ところどころで一方向に流れていた。
――掲示板。
壁際のその前だけ、人だかりが不自然に割れている。
「天音、顔怖い」
後ろからアルカナが小声でつつく。
「いや、なんかよ。いつもと違くね?」
「違う。だから、見に行く」
アルカナは足を止めない。
大狼も、その二人の斜め後ろを歩きながら、
巫女としての感覚でギルド全体を一度“撫でる”。
(……誰かが亡くなった後の空気じゃない)
喪の沈黙とは違う。
もっと、“いま現在進行形で、まずい何かが動いている”ときの張りつめ方だ。
三人が掲示板の前まで行くと、人の輪が自然と割れた。
常連のひとりが、天音の顔を見て、あごで板の一角を指す。
「おう、A級トリオ。
見といたほうがいい紙が出てるぞ」
「……物騒な前置きだな」
アルカナが一歩進み、紙を目で追った。
【依頼ランク:A級】
【未査定領域タグ:付与】
――未査定領域。
迷い森のとき、初めてその言葉を自分たちの依頼で見た。
「帳簿上のランクだけでは測れない」と、ギルドが自分で認めた印。
その下に、地名が記されている。
「黒鋼山……」
天音が文字を追って、声に出した瞬間、
周囲の何人かが、ちらりとこちらを見る。
敵意ではない。
「ああ、そこに行きうる連中が来たな」と確認するような、短い視線だった。
「知ってる山?」
大狼が尋ねると、天音は肩をすくめた。
「名前くらいだな。
“硬ぇ魔物が多いから、前衛の修行には悪くねぇ”って、酒場のオッサンが言ってたくらい」
「“硬いだけ”なら、ここまで空気重くならないでしょ」
アルカナが、依頼書の本文を目で追う。
・黒鋼山周辺における黒鋼鬼群の挙動調査
・可能であれば、群れの長と見られる個体の討伐
・現地ギルドとの連携、および追加情報の持ち帰り
「“可能であれば”って便利な言葉だよな」
「“無理なら逃げろ”も含んでるやつですね」
大狼の耳が、ぴくりと揺れた。
依頼書の“備考”欄には、
もともとの文に後から行が書き足されたような痕がある。
文字の大きさや行間が、ところどころ揃っていない。
「……最初は、もっと軽い依頼として出てた感じですね、これ」
「途中で話が変わった、ってことか」
天音が依頼書の端をつまみ、ちょっとだけ持ち上げてから、またそっと元に戻した。
そのとき、受付カウンターから声が飛んだ。
「天音さん、アルカナさん、大狼さん!」
いつもの受付嬢が、少し声を張って手を振る。
「ギルドマスターから、お話があるそうです。
少し、奥まで来ていただいていいですか?」
「……やっぱり、そういう流れか」
アルカナが、掲示板から紙をはがす前にため息をつく。
「行くしかねぇだろ」
天音が紙を丁寧に取り、折らずに握った。
ギルドを満たす低いざわめきの中、
三人は受付の横を通り抜け、
いつもはあまり使わない奥の扉へと向かった。
奥の小部屋は、会議用の部屋だった。
粗い木のテーブルが一つ。
壁際に書棚と、簡単な地図。
そのテーブルの片側に、三人の冒険者が座っている。
大柄な大剣使い。
細身の弓使い。
ローブ姿の術師。
三人とも、見覚えはあった。
トウカ支部で中堅どころとして名を知られているパーティだ。
だが、今の彼らは、いつもと違う。
鎧の隙間から覗く包帯。
乾いた血の染み。
目の下の濃い隈。
何より――瞳の奥の色。
最近まで現場にいた者特有の、
まだ山の空気をそのまま連れてきてしまっているような目をしていた。
大狼は、席につきながらそっと息を吸う。
テーブルの真正面には、トウカ支部のギルドマスターが座っていた。
いつもの飄々とした表情を、今日は少し抑え気味にしている。
「来たか、A級トリオ」
声も、いつもより低い。
「掛けてくれ。
こいつらの話を、まず聞いてほしい」
三人が席につくのを待ってから、
ギルドマスターは目線で“帰還パーティ”に合図を送った。
「黒鋼山――」
口を開いたのは、術師だった。
唇の色がまだ完全には戻っていない。
水を一口含んでから、ゆっくりと言葉にする。
「……名前くらいは、聞いたことがあるか?」
天音とアルカナが、ほぼ同時にうなずく。
「“硬い魔物が多い山”って程度っすね」
「黒鋼鬼が出る山。
B〜A級の討伐依頼がちょくちょく出る、くらいのイメージです」
「そこまでは、帳簿通りだ」
大剣使いが、重い腕を組んだ。
「今回、俺たちが受けた依頼も、それだった。
“黒鋼鬼が例年より多いから、数を減らしてきてほしい”ってな」
ギルドマスターが横から書類を一枚持ち上げる。
「予測ランクはB〜A級。
黒鋼山向けとしては、よくある文面だな」
「ふもとの様子も、最初はいつも通りだった」
弓使いが、指先で卓をとん、と叩く。
「黒鋼山の噂話はしてたが、
“気をつけろよ”って程度の、よくある送り出しだ」
そこまでは、どこにでもある話だ。
「おかしくなったのは、山に入ってからだ」
大剣使いの声が、一段低くなる。
「黒鋼鬼そのものの“硬さ”は、覚悟の範囲内だった。
前衛で受けて、横から削る。
そこまでは、今までの黒鋼山と変わらねぇ」
「でも、“引き際”が違った」
術師が、カップを両手で包み込む。
「普通の黒鋼鬼は、
ある程度傷を負ったら、本能的に下がる。
殻が割れかけたやつは、一度距離を取ろうとする。
……今までは、ずっとそうだった」
大狼も、山里に伝わる話で同じことを聞かされていた。
乱暴だが、自分の命まではそう簡単に投げ出さない魔物――それが黒鋼鬼、だったはずだ。
「今回は、そうじゃなかったんですか?」
アルカナの問いに、三人は短い沈黙を挟んだ。
「傷の入り方に関係なく、“前に出続けようとする”動きが目立ってた。
今までの黒鋼鬼じゃ、あんまり見なかった種類のしつこさだ」
大剣使いが、言葉を選ぶように続ける。
「抜けてもおかしくない傷を負ってるのに、
足を引きずりながら、まだ前に足を出そうとする。
『ここまで来たら退く』ってラインが、どこかおかしくなってた」
「全部が全部、そうだったわけじゃねぇ」
弓使いが付け足す。
「今まで通りの動きの個体もいる。
だから余計に、変な動きが目についた」
「王は、見えましたか?」
大狼の問いに、大剣使いは黙ってうなずいた。
「いる“らしい”ってところだな」
彼は、少し眉をひそめる。
「稜線の上に、ひときわデカい影が見えた。
でも、正直“はっきり見た”とは言えねぇ。
こっちはこっちで手一杯でな」
「“強化っぽい何かをしていた”って感覚はあるが……」
術師が、苦い顔をする。
「“あそこで何が起きてたか”って聞かれても、
ちゃんとした形には、まだ落とし込めない」
「だからこそ、“調査”依頼ってわけだ」
弓使いが、こちらを見る。
「俺たちだけじゃ、山全体の様子までは見切れなかった。
ただ、“今までの黒鋼山と同じだ”とは、とても言えねぇ」
「撤退は、どう判断したんですか?」
アルカナの問いに、今度は術師がうなずいた。
「治癒の手が足りなくなりかけた。
このまま前に出し続ければ、誰かの足が止まる。
そこで、“これ以上は情報も持ち帰れなくなる”って判断しました」
その「判断しました」の一言に、
悔しさと、安堵と、わずかな自嘲が全部混じっていた。
天音は、拳を膝の上で握る。
迷い森で、自分たちが一度退いたときの、あの胸の重さを思い出す。
(あの時みたいに、“退く”って言えたんだ)
それだけで、目の前の三人の肩書きとは別の重みが、胸に落ちてくる。
「――以上が、帰還パーティからの一次報告だ」
ギルドマスターが、短くまとめる。
「この報告を受けて、本部は黒鋼山に“未査定領域”タグを付けた。
帳簿上の予測ランクはA級のまま。
ただし、“黒鋼鬼の挙動に異常あり、要追加調査”って注記付きだ」
机の上に、新しい書類が置かれる。
さきほど掲示板に貼られていた依頼書の、正式な写しだ。
「S級をぶつけるには、まだ決め手が足りん。
かと言って、このままB〜A級扱いもしづらい。
――そういう時に、お前たちみたいなA級を出す」
ギルドマスターの視線が、三人の顔を順番になぞる。
「A級トリオ。
お前たちに、この依頼を託したい」
声には、軽口を挟む余地がほとんどなかった。
「依頼内容は――
黒鋼山における黒鋼鬼群の挙動調査。
王と見られる個体の位置の特定。
“可能であれば”排除」
“可能であれば”のところで、
ギルドマスターはあえて少し声を強めた。
「ただし最優先は、生存と報告だ。
さっきの三人にも言ったが――
“死んで情報を持ち帰れない”のが、一番愚かだ」
「……分かってます」
大狼が、まっすぐギルドマスターを見てうなずく。
「迷い森のときと同じく、
“自分たちだけでは抱えきれない”と思ったら、必ず退きます。
退いた上で、ギルドに報告を上げます」
彼女の言葉に、
帰還パーティの弓使いが、かすかに目を細めた。
「黒鋼山の予測ランクは、紙の上ではまだ“A級”だ。
だが、実測ランクは“未査定”のまま止まっている」
ギルドマスターは、机の端を軽く叩いた。
「お前たちが山で見てきたものが、その“実測”になる。
どこまで踏み込んで、どこで退くのか――
それ自体が、今後の基準になる」
「……重いな」
天音が、苦笑とも溜め息ともつかない息を吐いた。
「でも、やるしかねぇだろ」
アルカナは、紙に視線を落としたまま言う。
「迷い森で、“自分たちで完結できないものがある”ってのは、もう分かってる。
だからって、“じゃあ放っておきます”って背中向けるのも、違う気がする」
「黒鋼山が、これからもずっと、
“B〜A級だと思ってたけど実はそれ以上でした”って顔してるのも、気持ち悪いですしね」
大狼の言い方は穏やかだったが、
その瞳にははっきりした意志が宿っていた。
ギルドマスターは、短く息を吐いて笑う。
「……頼もしくなったな」
ほんの少しだけ、柔らかい声だった。
「出発は、いつにする?」
「明後日の朝でお願いします」
大狼が即答する。
「今日ギルドで資料を読み込んで、
明日は一度神社に戻って大狼神さまにも報告したいので」
「よし」
ギルドマスターはうなずき、数枚の紙束を差し出した。
「黒鋼山周辺の地形図と、過去の討伐記録だ。
現地ギルドへの紹介状も用意しておく。
装備や物資で必要なものがあれば、リストを出せ。
支部として出せる範囲で支援する」
「了解です」
天音が紙束を受け取り、アルカナと大狼もそれぞれ目を通す。
黒鋼山を囲む稜線。
登山道の位置。
黒鋼鬼の出没地点に赤い印がいくつも重なっている。
(……“普通の山”だった時間が、たしかにあったんだな)
大狼は、記録の古いページに残っている、
素朴な書き方の報告文に指先で触れた。
“黒鋼鬼数体を討伐。硬いが動きは鈍重。
前衛二名、重傷なく帰還”。
今の話と、あまりにも違う。
明々後日の朝。
薄曇りの空の下、
黒鋼山へ向かう街道を、馬車が一台きしみながら進んでいた。
御者台には、トウカ支部で雇った馭者。
荷台の幌の中には、三人分の装備と荷物、
そしてA級トリオの三人。
車輪が石を踏むたびに、
ぎし、ぎし、と規則的な揺れが続く。
「……思ったより、静かな道だな」
幌の隙間から外を見ながら、天音が言う。
森のざわめきも、魔物の唸り声も、ほとんど聞こえない。
あるのは、風と鳥と、遠くの山にぶつかる雲の流れる音だけ。
「黒鋼鬼が下りてくるのは、基本的に山腹から上だからね」
アルカナが膝の上の地図を広げたまま答える。
「ふもとの村までは、そこまで危険度高くない。
だからこそ、“黒鋼山=B〜A級”って認識が長く続いたんだろうけど」
「でも、今は山のほうが落ち着いてない」
大狼は、揺れる荷台の中で、
護符袋にそっと手を入れて指先を馴染ませる。
黒鋼山のほうから吹いてくる風を、一度胸いっぱいに吸い込んで――
少しだけ眉を寄せた。
(……荒れてる)
山の気配は、酒場で聞いた「修行向きの山」のイメージより、
ずっと刺々しく、ざわざわと波立っている。
黒鋼鬼の魔力だけじゃない。
もっと大きな、“山そのものの落ち着き”が揺れている感じ。
「大狼?」
天音が、彼女の表情の変化に気づいて声をかける。
「……ちょっと、山が不機嫌です」
「不機嫌?」
「はい。
“いつもの呼吸が崩れている”みたいな感じです。
水の流れとか、風のまわり方とか……そういうのが、落ち着いてない」
言葉にすると抽象的だが、
巫女にとってはそれが一番しっくりくる言い方だった。
「黒鋼鬼だけじゃなくて、
山全体の“当たり前の流れ”が乱されてる……そんな気配がします」
「それ、だいたいろくでもねぇやつじゃん」
天音が、頭をがしがしかく。
「誰かがどうこうっていうより、
“今のまま放っといたら嫌なことになる”タイプですね、たぶん」
アルカナが、地図の一点を指先で叩いた。
「現地ギルドで、まずは詳しく聞くしかないな」
馬車はやがて、視界いっぱいに黒鋼山の稜線を映し出す地点まで来た。
山の斜面は、ところどころ黒く、鈍い光を帯びている。
鉄と石と、何かが混ざったような色。
ふもとの小さな町が、山の足元に寄りかかるように広がっていた。
街道から分かれ、馬車が石畳に乗り入れる。
鍛冶屋の金属音。
子どもの叫び声。
洗濯物を干す主婦たちの話し声。
一見すると、どこにでもある山里の光景だ。
だが、その“日常音”に、
微かな緊張の色が混ざっているのを、大狼は聞き逃さなかった。
笑い声が、少しだけ短い。
子どもの駆け足に、ときどき大人の鋭い声が飛ぶ。
――そこから先には行くな。
そんな“見えない注意の境目”みたいなものが、
町のあちこちに薄く漂っている。
ギルドの建物は、すぐに分かった。
山向きの通りに面した、灰色の二階建て。
扉の上には、どこの町でも見慣れたギルドの紋章が掲げられている。
馬車が止まり、三人は荷台から飛び降りた。
石畳に足を下ろした瞬間、
黒鋼山から吹き下ろす風が、正面から三人の顔を撫でる。
鉄の匂い。
湿った土の匂い。
そして、その奥に、説明しづらい“きしみ”。
(……やっぱり、山が怒ってる)
大狼は、胸の奥でそう呟いた。
「行くか」
天音が、ギルドの扉に手をかける。
厚い木の扉は、意外なほど軽く開いた。
中から、声と人いきれと、汗の匂いが一気に流れ出てくる。
トウカ支部より少し狭いが、構造はほとんど同じだ。
右に受付カウンター、左に掲示板。
奥のテーブルには、数組の冒険者たちが腰を下ろしている。
ただ、全体の空気が違う。
笑い声はある。
賭け事の声も飛んでいる。
けれど、そのどれもが、どこか落ち着きなく途切れる。
――いつでも、山側の扉が開くかもしれない。
そんな気配が、部屋の隅々に薄く張りついていた。
外から新顔が三人入ってきた瞬間、
いくつもの視線が一斉に向けられる。
値踏みするような、
期待するような、
そして少し、距離を測るような目。
「……歓迎されてる気は、あんまりしねぇな」
天音がぼそっと呟く。
「“また山に登るやつらか”って目ですね」
アルカナは、そんな視線をまるで気にしないように、まっすぐ受付へ向かった。
「トウカ支部所属、A級冒険者三名。
黒鋼山調査依頼で来ました」
そう告げた瞬間、
受付嬢の表情が、はっきりと揺れた。
驚きと、安堵と、そして少しの不安。
「……遠路はるばる、お疲れさまです」
彼女は、慌てて姿勢を正した。
「トウカのギルドから話は届いています。
“黒鋼山の現状を、ありのまま伝えろ”とのことでした」
その言葉に、ギルドの空気が、また少しだけ重くなる。
黒鋼山。
この町の誰もが一度はその名前を口にし、
できれば“これ以上ひどくならないでくれ”と願っている山へ――
A級トリオの、二度目の“未査定領域”が、
静かに口を開けて待っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
黒鋼山編の一歩目として、
「紙の情報はA級だけど、現場の空気はそれ以上に重い」
というギャップを描いてみました。




