大狼神様
迷い森を抜け、山あいの街が見えてきたころには、もう陽は傾きかけていた。
「……帰ってきた、って感じするな」
門の前で、天音が大きく伸びをした。
石畳。人の声。屋台の呼び込み。
霧の中では全部遠くなっていたものが、一気に押し寄せてくる。
「まずはギルドだな」
アルカナが、肩の荷物を持ち直す。
「ロジ引き渡しと、森の状況。まとめて報告」
「ですね」
大狼も頷いた。
腰に下げた護符袋が、歩くたびに小さく鳴る。
迷い森で貼った簡易結界は、とっくに役目を終えているのに、手のひらにはまだ、あの“道を掴んでいた”感覚が残っていた。
(……あの館のことも)
思い出しただけで、背筋にうっすら汗が滲む。
霧の中に突然現れた、歪んだ洋館。
銀髪の男と、白髪の女。
そして――館を出る直前、地下の方から聞こえたあの声。
(……あれは)
少女の悲鳴、と呼ぶには少し違った。
泣き声とも笑い声ともつかない、ひび割れた叫び。
クルスは、少しだけ悲しそうな顔で、
「お前らが気にすることじゃない」とだけ言った。
その一言と、階段の向こうの気配が、頭から離れない。
「大狼?」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
ギルドの扉の前で、天音とアルカナが振り返っていた。
「大丈夫か?」
「……はい。ちょっと、考え事してました」
大狼は、小さく笑って誤魔化した。
「行きましょう」
ギルドの中は、夕方特有のざわめきで満ちていた。
依頼から戻ってきた冒険者たちと、
今から出る連中と、
酒場の席を先に押さえているちゃっかりした連中。
その喧噪の中で、受付カウンターだけは、きちんと整えられた静けさを保っている。
「おかえりなさい。……無事、戻られたんですね」
顔馴染みの受付嬢が、ほっとしたように笑った。
迷い森の依頼書の控えを手に、カウンターの内側に置く。
「指名手配犯《赤手のロジ》、確認します」
「はい。後ろで転がってます」
天音が親指で肩越しに示す。
ロジは、しっかりと拘束具で縛られたまま、入口近くのベンチに横たえられていた。
道中一言も喋らなかったが、その目だけはずっと落ち着かない色をしていた。
受付嬢は、手際よく確認を終え、印を押す。
「……確かに《赤手のロジ》です。
捕縛完了として、ギルド本部に報告しますね」
「依頼の達成は館の人たちのおかげですから」
大狼が、一応付け加える。
「ロジを実際に捕まえたのは、私たちじゃありません。
森の中で“先に捕まっていた”ところを引き取った、という形になります」
「“先に”?」
受付嬢が、少しだけ眉を上げた。
アルカナと天音が、ちら、と大狼を見る。
誰が説明役をやるか、一瞬だけ目で押しつけ合って――結局、アルカナが折れた。
「迷い森の奥で、ちょっと変な場所に行き当たって」
言葉を選びながら、アルカナは続ける。
「霧の濃いところ抜けたら、急に静かな“部屋”みたいな場所があったんです。
森の続き、っていうより、森の中にあとからくっつけた部屋、みたいな感じの」
「部屋?」
「地面も空気も安定してて、迷いがスパッと途切れるんですよ。
森の中なのに、足元だけ“普通の場所”に戻ったみたいな」
「……なるほど」
受付嬢は、ペン先を一瞬止めた。
「ロジは、その“部屋”の中で拘束されていた、ということでいいですか?」
「はい」
大狼が頷く。
「少なくとも、ロジが自分で作ったものではありません。
巫女としての感覚でも、“この土地の神社の結界”とは違う気配でした」
受付嬢は、紙にさらさらとメモを書き込んでいく。
「迷い森の“迷い方”自体は、どうでしたか?」
「おかしかったです」
答えたのはアルカナだった。
「森の地形そのものより、こっちの意識が引っ張られる感じで。
“大したことない分かれ道”なのに、何度も同じところを回ってるみたいな……」
「俺、途中からちょっと気持ち悪くなってさ」
天音が苦笑する。
「脚はまだいけるのに、頭だけぐらぐらしてくる感じ?
あれ、多分放っておいたら、普通のパーティーだと判断狂うな」
「なので、迷い森は、少なくとも“普通のB級”ではないと思います」
大狼が締める。
「本部に、“未査定領域”として再調査をお願いしたほうがいいかと」
「なるほど……」
受付嬢は、しばし考え、それから頷いた。
「依頼ランク自体は、このままB級のままですが――
迷い森には“未査定領域”タグを付けて、本部に詳細報告を上げます」
ペン先が、紙の端に特別な記号を描く。
それは、単なる文字よりも、ギルドにとって重い意味を持つ印だ。
「今後しばらくは、B級以下への“軽い森仕事”は控えるよう、通達しておきます。
……教えてくださってありがとうございます」
「いえ。帰ってきたついでですから」
アルカナが肩をすくめる。
「“おかしい”って感じてても、報告しないで流す人、多いですからね」
受付嬢は少しだけ苦笑した。
「こういう情報がないと、“未査定領域”タグがつかなくて、
気付いた時には手遅れ、ってこともありますから」
「そっちは勘弁してほしいな」
天音が頭をかいた。
「俺らが戻ってきた時点で、もう誰も入ってませんように、って祈っときます」
「その祈りは、神社に届きますよ」
大狼が小さく笑う。
「ロジは、このあと拘置所に移送します。
報酬は……はい、こちらですね」
じゃらり、と袋が三つ、カウンターに置かれた。
「ロジの捕縛報酬と、迷い森の危険度情報提供料をまとめてお支払いします。
本当に、お疲れさまでした」
最後の一言だけは、仕事ではなく、個人的な感情の色が混じっていた。
「ありがとうございます」
大狼が頭を下げる。
ギルドを出たところで、天音が息を吐いた。
「ふー……とりあえず、ギルド側はこれで一段落、か?」
「ですね」
アルカナが袋を腰に括りつける。
「大狼、神社は?」
「もちろん、これから行きます」
大狼は頷き、二人に向き直る。
「お二人は、先に休んでいてください。
明日の昼頃に、改めてお話ししましょう」
「じゃあ、明日ギルド前で」
アルカナが軽く手を挙げ、天音もそれに倣う。
「ちゃんと帰ってこいよ」
「……はい」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなるのを感じながら。
大狼は、神社へ続く石段へと歩き出した。
トウカの神社は、街の少し高台にある。
石段を上るごとに、街の喧噪が遠ざかっていく。
代わりに、風の音と、木々のざわめきと、鈴の微かな音が耳に入ってくる。
鳥居をくぐると、空気が変わった。
迷い森の圧迫感とは違う。
もっと乾いて、澄んでいて、足元からまっすぐに伸びる感覚。
それが、この神社の“当たり前”だ。
「戻りました」
拝殿の前で一礼し、鈴を鳴らす。
掌を合わせると、指先から、いつもの気配が返ってきた。
――聞いとる。
声にならない声が、胸の奥に落ちてくる。
大狼は、少しだけ息を整え、それから口を開いた。
「迷い森の依頼、無事に終えて戻りました。
……ですが、森の中は、やはり“普通”ではありませんでした」
どこから話すべきか、迷いかけて――
霧の館で交わした言葉を思い出す。
――神社には、ちゃんと話しとけ。
――“迷い方がおかしい森”になってるってな。
「まず、迷い方が異常でした」
大狼は、一つ一つ、噛み砕くように言う。
「地形そのものより、こちらの意識が引っ張られる感じで。
“道を間違えてる”というより、“道のほうがずれていく”みたいな……」
拝殿の奥から、気配がわずかに揺れる。
「巫女として結界札を使いましたが、
足元だけは、“元の道”に繋がるようにするのが精一杯でした」
それでも、戻って来られた。
それは、巫女としての誇りにも繋がっている。
「それと……」
少しだけ言葉を区切る。
「森の奥で、“館”のようなものに行き当たりました。
霧の中に、突然現れた、大きな洋館です」
その瞬間、空気がぴたりと止まった気がした。
大狼は、感じ取っていながら、あえて目を逸らさない。
「その館の中で、銀髪の男の人と、白髪の女の人に会いました。
あの人たちの住処……だと思います」
『ふむ』
頭の奥に、直接響く声。
大狼神の声だ。
『銀の髪の長寿と、白い髪の長寿じゃな』
言い方があまりにもそのままで、大狼は少し身を固くした。
「……ご存じ、なんですね」
『まあな』
大狼神は、いかにも面倒くさそうに息を吐いた。
『めんどくさ……気難しいやつじゃが、悪いやつではない。
少なくとも、巫女の命をぞんざいには扱わん』
ほんの少しだけ、空気が和らぐ。
『あやつ、巫女には甘いからな』
「巫女、と分かっていて、私たちを招き入れたんですか?」
『分かっとるわ』
大狼神は、鼻を鳴らした。
『お前が迷い森に足を踏み入れたときから、
向こうもこちらの“気配”には気付いとったじゃろう』
大狼は、館の玄関で向けられた、クルスの視線を思い出す。
ただの好奇心だけではない、何かを測るような目。
『あやつは、面白そうな相手が好きなんじゃ』
大狼神の声に、僅かな呆れと、微かな愉快さが混じる。
『巫女であり、ギルドマンでもあるお前らが、
どう迷い、どう選ぶか――
そういうのを見ておる』
見透かされている、と感じたほうが近かった。
大狼は、胸の奥が少しざわつくのを感じる。
『今回も、“巫女”と知っておって招き入れた。
それが分かっとるから、わしも無理には手を出さん』
そこで、少し間があく。
『落ち着いたら、顔を見せに行け』
「……え?」
『巫女として、礼ぐらい言っておけ』
大狼神の声は、飄々としているが、その奥に芯があった。
『森で道を踏み外しても、ちゃんと戻って来られたのは、
お前自身と、その護符と――それから、あの銀髪のやつの結界のおかげじゃ』
「……はい」
大狼は、思わず背筋を伸ばした。
クルスの顔を思い出すと、まだ胸の奥でざわつくものはある。
恐怖とも警戒ともつかない、落ち着かない感覚。
――それでも、あの館の奥と地下の気配には、少しだけ“知りたい”という感情も混ざっているのを、自分で誤魔化した。
「……その、館を出る前に」
大狼は、そっと付け加える。
「地下の方から、女の子の声が聞こえました」
『声?』
「はい。悲鳴、とも違っていて……」
言葉を探す。
「泣いているような、笑っているような、壊れそうな声で。
クルスさんは、“お前らが気にすることじゃない”とだけ」
霧の中ではなく、石の下から響いてきた声。
あれを思い出すだけで、指先が冷たくなる。
『……あれは、まだお主は知らんでよいことじゃ』
穏やかだが、きっぱりとした声だった。
大狼は、思わず口をつぐむ。
『いやしかし……ふむ』
大狼神の気配が、わずかに揺れる。
何かを思い出し、何かを比べているような、そんな揺れ方。
「大狼神さま……?」
呼びかけると、一拍おいて返事が返ってくる。
『……“同じ”であれば、力になれるかもしれん』
「同じ……?」
『気にするな』
しかし、その言葉は柔らかかった。
『自分から進んで助けるものでもない』
そこで、言葉の調子が少し変わる。
『本当に力が必要とされる時が来れば――
あやつか、その隣におる女か、あるいは誰かが、必ず声をかけてくる』
エヴァンの白髪と、細い笑みが、ふと脳裏に浮かぶ。
『その時は、その時じゃ』
大狼神は締めくくる。
『今のお前が気にすべきは、
地下の誰かではなく、この社と、この街と、お前自身の足じゃ』
「……はい」
返事をしながらも、あの声は耳から離れない。
でも――
「今、自分から扉をこじ開けてまで踏み込む話ではない」と、
神にまで言われてしまえば、これ以上は踏み込めない。
『今回、お前はよくやったぞ』
そこで、声色が少しだけ柔らかくなる。
『迷いを感じても足を止めず、
“自分たちだけでは危うい”と判断したところで、ちゃんと戻ってきた』
ゆっくりと、言葉が降りてくる。
『巫女であり、ギルドマンでもあるお前にとって、
“退く”ことを選ぶのは、そう易くはなかろう』
図星だった。
あの霧の中で、何度も思った。
――ここで引き返したら、誰かが困るかもしれない。
――もっと奥まで確かめるべきじゃないか、と。
それでも、戻ってきた。
ギルドに迷い森のことを報告し、
神社にもこうして伝えている。
『手に負えぬと悟ったなら、退いてよい』
大狼神の声は、どこか遠くの記憶をなぞるようだった。
『退いたうえで、ギルドなり、他の者なり、別の手を頼る。
一人で抱え込まぬことも、巫女の務めじゃ』
「……はい」
視界が、少しだけ滲んだ。
「必ず、ここに戻ってきます」
大狼は、拝殿に向かって深く頭を垂れた。
「迷い森のことも、これからのことも。
どれだけ怖いことがあっても、必ず、“ここ”に報告に戻ります」
『うむ』
短い返事。
『それでよい。――それからさっきも言うたが』
大狼神は、ふっと調子を軽くする。
『落ち着いたら、例の館にも行ってこい。
巫女として、きちんと礼を言っておくんじゃ』
「……はい」
クルスの顔を思い浮かべると、正直、胃のあたりが重くなる。
けれど、「神社としても、それが良い」と言われたのなら――やるしかない。
社の鈴が、風もないのに、かすかに鳴った。
石段を下りながら、大狼は息を吐いた。
霧の館も、地下の叫び声も、
すぐにどうこうできる話ではない。
けれど――
(……ちゃんと、“ここ”に戻ってこられた)
それだけで、何か一つ、大事なところを踏み外さずに済んだ気がしていた。
明日になれば、またギルドに顔を出す。
天音とアルカナに、神社で聞いた話を、話せる範囲で伝えるつもりだ。
(あの地下の子と、
いつか、どこかで向き合うことになるかどうかは――)
それは、もう少し先の話。
今はただ、迷い森で“拾ってきた”情報を、
それぞれの場所にちゃんと渡していくこと。
その一歩一歩だけを、確かめるように踏みしめながら。
大狼は、夜の街へと降りていった。
――まずは明日、ギルドで二人に話をするところからだ。




