最終話「橋に刻む印」
朝の鐘が四つ。
王都の空は薄く晴れ、昨夜の湿り気が石畳の目地にだけ残っていた。白墨の帯はかすれず、蝋の線は細く硬い。今日で終わらせる。紙と石と人の足で、街の「無税回廊」を——邪魔を——きちんとどかし、正しさを確定させる。
監査局の前庭。レーネは短く指を折った。
「四拍子でいく。危険物指定 → 臨時通行確保命令 → 現地立会撤去 → 代替導線。拍子木は“タ・タタ・タ”」
ミナが頷き、記録板の端に小さく書く。
「街の歩調」
ぼくは巻尺と角度器、封蝋、そして——今日はもう一つ、薄い鉄の銘板を鞄に入れた。長く残る印が必要になる。紙は重くなった。最後は、触れられる金属で。
立会の札が路地の入口に掲げられると、人々は自然に円を作った。屋台の主人、井戸端の婦人、子どもたち、昨夜の石工ナド。少し遅れて、ゲイルが現れる。今日は従者も少なく、目の奥だけが硬い。
拍子木が最初の一打を刻む。危険物指定。
ミナが読み上げ、ぼくは白墨で仮バリケードの縄周りを囲う。
「縄の結節部が視認困難。夜間転倒の危険——危険物指定」
レーネが印章を落とし、臨時通行確保命令の紙を続けざまに掲げた。二打目。
「本日限り、監査局の権限で通行幅を規約値まで確保。第27条に基づき、異議は場所/影響の型で受け付ける」
ゲイルが口を開きかけるが、三打目が被さる。現地立会撤去。
ナドが前へ。
「石工として証言。この仮バリケードは“安全”を削る。本旨に反する仮設物。撤去——持ち上げる」
人々の手が、縄に殺到しない。四拍子が、争いを“段取り”に変える。バリケードは壊さずに持ち上がり、倉庫の内側へ移された。四打目——代替導線。
ぼくは白墨で、荷車が角で回転できる曲線を引く。橋脚の影から距離を取り、井戸の汲み上げ導線を避け、救急担架の通行幅を確保する。
「ここが“今日の正しい道”」
白墨の曲線は、日の光で薄く見え、けれど人の目には濃く刺さる。
静けさ。
次に起きたのは、音だった。
荷車が、止まらない。屋台の棚が、詰まらない。井戸の列が、絡まない。
トリヤが魚桶を揺らしながら笑う。「匂いが軽い日は、客の足も軽い」
その言葉で、ふっと肩の力が抜けた。大勝は、きっとこういう音の形をしている。
——だが、最終回は甘くしすぎない。紙は最後まで紙で、手続きを要する。
監査局・臨時閲覧所。巡回掲示で集まった異議が机の上に積まれる。同文異議の束は灰色の紐でまとめ、理由の型が埋まった紙には青い糸。
レーネが読み上げ、ぼくは地図の上に重さを置く。
「倉庫C北面、回転半径の確保——採用」
「夜間排水の“隠し門”開放により、臭気の軽減——採用」
「仮設撤去による“物理的穴”の解消——採用」
ゲイルが最後の紙束を差し出す。補注の補注。
「“内へも出した”。相殺だ」
ぼくは淡々と、三枚の写真と三つの数値を並べた。
「内側の補修記録はゼロ。補償交渉の記録もゼロ。外側の変位は二年で計七センチ。星—井戸—壁の三点測位、三夜連続でズレなし。相殺は、地面が否定」
ミナが小声で添える。
「コピペは束。理由は型。見える掲示。そして地面の三点」
レーネは最後の紙に印を落とした。
「仮更新を正式更新へ。第27条に基づき、本日を“0日目”として告示。視認性担保済み。理由ある異議のみ受理」
ゲイルの肩がわずかに落ちる。
「負けだ、と言えば満足か」
「負けという言葉は、人に向く」レーネは静かに言った。「私が見ているのは街。街は軽くなった」
人の輪が自然とほどけていく。
ぼくら三人だけが、掲示板の前に残った。
ぼくは鞄から薄い鉄の銘板を取り出し、白墨の帯の起点に当てる。
銘板には、短い文。
《測ることは、救うこと。
王都・臨時監査局 第一章更新記念》
そして、掌ほどの小さな橋の絵。
ミナが息を呑んだ。
「詩だ」
「事実だよ」ぼくは釘を受け取り、石の目地に慎重に打ち込む。「線は人を分け、橋は人をつなぐ。今日は線を正しくして、橋の準備をした。それだけ」
釘が最後の音を立て、銘板が石に吸い付く。触れる印。誰もが指でなぞれる印。紙より遅く朽ちる印。
その夜、監査局の小部屋で、ささやかな打ち上げがあった。
黒パン、固いチーズ、薄いスープ。ミナは頬を上気させ、レーネはいつもより言葉が少ない。
「リョウ」レーネが言う。「臨時を終える。——常勤の席が一つ、空いた」
ぼくは少しの間、黙った。
「ありがとう。でも、今は外がいい」
「外」
「紙の内側にいると、ぼくは注釈を書きすぎる。街の声じゃなく、ぼくの声で重くしてしまう」
ミナが心配そうに身を乗り出す。
「じゃあ、これで終わり?」
「終わらない」ぼくは笑った。「章が変わるだけ。水路の裁定は、また別の第一話になる。呼ばれたら来るし、呼ばれなくても帯のかすれを見つけたら、勝手に直す」
レーネがグラスを持ち上げた。
「自由な注釈に——乾杯」
三つの音が、控えめにぶつかった。
翌朝。
銘板の前で、子どもが指を当てていた。母親がその手をそっと持ち、読み上げる。
「測ることは、救うこと」
子どもが問う。
「食べられる?」
母親は笑い、首を横に振った。
「食べられないけど、お腹が減りにくくなる。道が詰まらないと、お店の煮込みが間に合うから」
子どもは満足した顔で、銘板の小さな橋を撫でた。
路地を抜ける風は軽い。
ぼくは巻尺を腰に戻し、白墨の残りを指先で砕いた。粉は風に乗り、すぐに見えなくなる。けれど、人の足に覚えられた曲線は、消えない。
追放は、結末ではなかった。余白だった。
余白は、注釈を待っている。
ぼくは歩き出す。次の線へ。次の橋へ。
角の先で、ミナが手を振った。
「近況ノート、私が書いとくね。“第一章 完了/毎日21:00更新の約束は守れた/次章は水”。読者の足取りが、軽かったって」
「お願い」
レーネは振り返らずに言う。
「王都は広い。蝋と白墨と拍子木、まだ足りないわ」
「足りないぶんは、星で埋める」
レーネが珍しく、声を立てて笑った。
「詩人」
空の色が一段明るくなる。
王都のどこかで、橋が一本、早く乾く。
線が正しくなったからだ。
そしていつか、この街のどこかに、もう一枚の銘板が増える。
測ることは、救うこと。
それは、ぼくらの真北のまま。
——完。