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第4話「規約第27条の穴」

 王都の掲示板は、風に弱い。

 紙はめくれ、鋲は抜け、読むべき人の目に届かない。規約第27条はそこに乗っている。——「現地告示から三十日、異議なくば更新確定」。

 簡潔で強い条文ほど、穴が空く。見えない掲示は、時を進めない。形式だけの異議は、時を止める。それが、ゲイルの好むやり口だった。


 午前、監査局の小会議室。壁に王都の規約地図を貼り、レーネは条文に指を置いた。

「二十七条の“異議”は、理由の明示が要件。けれど、現場では“異議あり”の一言紙で止まることがある。判例は甘い。ゲイルはここを突く」

 ミナが眉を寄せる。「つまり、“中身のない紙”で三十日を延ばす?」

「そう。日付を小分けにして、連続で出す。掲示が目に触れていないと主張して差し戻す。穴は二つ」

 レーネは板書する。

 ①視認性の欠如(掲示が見えなかった/遠かった/小さかった)

 ②理由なき異議(形式だけの紙で足止め)

「これを逆手に取る。見える掲示と、理由の形をつくるのよ」


 ぼくは席を立ち、机の上に道具を広げた。拍子木、白墨、封蝋、巻尺。

「視認性は、紙から線へ。昨日の“蝋の帯”を昼でも見える“白墨の帯”にする。地面に“読む掲示”。五十歩おきに読点の札を打つ」

 ミナが目を丸くする。「地面が掲示板になる……市井語訳はこう。“目で読む道”」

「もう一つ」ぼくは白い板を示した。「巡回掲示。掲示板が遠いなら、掲示板のほうが行く。屋台と井戸端を回る“移動札”(小型の木札)を持ち、立会時間に読み上げる。読み上げと時刻は、鐘と太鼓で時刻署名する」

「時刻署名?」

「紙の下に、鐘の数を書き込む。午刻二つ、三番太鼓——音が街中に残る。音は嘘をつきにくい」

 ミナはすでに走り書きを始めている。「読点の札、移動札、時刻署名。見える掲示の三点。」


 レーネは満足そうに頷き、次に②へと指を滑らせる。

「“理由なき異議”。これは理由の型で封じる。異議は具体箇所と具体影響——この二つの空欄を埋めていない紙は、形式的却下が可能だと監査例規にある」

 ぼくが口を挟む。「でも、現実には“却下すると揉めるから受理”が多い」

「だから、受理して分別する。“同文異議”を束にして一件扱いにする。文の癖は残るの。書式の揺れ、言い回し、筆圧。書式指紋でまとめる」

 ミナがぱっと顔を上げる。

「市井語訳:“コピペは束にする”。理由のある紙だけを三十日の相手にする」

「完璧」レーネは笑う。「いい? 私たちは“異議を潰す”んじゃない。“理由を聞く耳”を整えるの。だからこそ、理由を書けるように、先に市井の人に“型”を渡す」


 その“型”の最初の相手は、魚屋の未亡人トリヤだった。

 細い腕で桶を運び、氷を崩す音は強いのに、話になると目が泳ぐ人だ。

「異議って、偉い人が出すんでしょう」

「違うよ」ぼくは札の余白に二つの枠を描く。

《どこが変わる?(場所・幅・時間)》

《誰がどう困る/助かる?(具体)》

「ここを埋める。たとえば“倉庫Cの北面の壁が外に一枚出ると、荷受けの台車が回れない”。午後の仕入れが遅れて夜の煮込みが出せない。日販で三割減。——こう書ければ、行政は耳を貸す」

 トリヤは枠を追い、唇をかんだ。

「……困ることだけ、書いちゃいけないの?」

「助かることを書いてもいい」ミナが優しく挟む。「“夜の排水が流れるようになって、朝の仕込みが早くなる”とか。“隠し門”が開いて、臭いが減る、とか。街は足し引き。どっちも書いて、重く受け止める」

 トリヤはうなずき、字をゆっくり置いた。

 墨が乾く間、彼女はぽつりと漏らした。

「紙は怖いね。間違えると、誰かの生活が変わっちゃう」

「だから型がある」ぼくは答える。「型は、怖さの手すりだ」


 午後、巡回掲示が始まった。

 ミナが読み上げ、拍子木が合図する。鐘の二打が、広場へ、路地へ、倉庫へ、音の輪を描く。

《夜間三点測位により、通行幅は規約値へ仮回復。異議は“場所/影響”の型で提出を》

 読点の札は白墨の帯に沿って打たれ、人々の視線を帯に戻す。掲示が“道の一部”になる。

 ぼくは帯の“途中”に座り、古い木箱を机にして異議の紙を受けた。

 “場所”と“影響”が空欄の紙は、灰色の紐で束ねる。同文異議だ。文末の点の癖、文頭の空白、紙の切り方——書式指紋が同じものは、同じ手から出た紙だ。

「こっちは“受理”だけど“一件”扱い」ミナが札に書き込む。

 ゲイルの差し金の男たちが、遠巻きにこちらを見ている。目は鋭く、足は近づかない。紙が重くなっているのを、彼らの足が知っている。


 夕刻、監査局・臨時閲覧所。

 レーネは受け取った紙を手早く分け、理由の型が埋まっているものだけを読み上げた。

「倉庫C北面、夜間の荷受け、回転半径——採用。橋脚の影で露店の列が詰まる——採用。通りの臭気が減る見込み——採用」

 採用の紙には青い糸、差し戻しには灰の糸。束はすぐに地図の上に置かれる。地図の指し示す箇所に、重さが乗る。

 ぼくはその様子を見ながら、ふと気づいた。

「“助かる理由”の紙、少ないな」

「助かるほうは、声が上がりにくい」ミナが言う。「困ってる人は喉が痛いから声が出る。助かってる人は、喉が平らで、音が鳴らない」

「なら、鳴らす装置がいる」ぼくは立ち上がる。「**“助かる声の聞き取り所”**を帯の途中に一つ置く。口で言えば、書式係が文章にして渡す。ためらう舌に、手を貸す」


 夜。二度目の鐘。

 昼に束ねた同文異議が、束になって戻ってきた。紙の角が無造作で、筆の墨が濃すぎる。急造の匂い。

 レーネは束を受け取ると、静かに頷いた。

「形式受理。同文連続のため“一件”とする。理由の型が空欄——補充求む」

 使いの男が苛立ちを見せる。「受理したなら止めろ」

「止めるのは“理由のある異議”。理由が空欄なら、止めるべき中身がない。止めるのは紙じゃない。人の暮らしよ」

 使いは歯ぎしりをして去った。

 ミナが小さく拳を握る。「コピペは束。理由は型。見える掲示。——二十七条の穴、埋まってきた」


 ——翌朝。

 掲示板の前で、朝の混み合いが渋滞ではなく滞在になっていた。読む人が立ち止まり、隣の人に説明する。帯の上で子どもが遊ばない。線が“意味”になっている。

 トリヤがこちらに走って来て、胸の前で紙を握りしめた。

「書けた。助かるほうも、書けた。夜の排水が流れて、朝の魚の匂いが軽い」

 紙には拙い字でこう続いていた。

《匂いが軽いと、客の足も軽い。》

 レーネは笑い、青い糸を結んだ。


 午後、机上戦の二回戦。

 ゲイルは今度、図面を厚くしてきた。補注の補注。安全と利便の単語が糊のようにべたべた貼られている。

「こちらは**“工事計画の正しさ”。壁は内へも外へも出た。相殺だ」

「ならば足し引きの証拠を」レーネが返す。「内側に出した証拠は——補償交渉の記録。外側は——蝋の帯と白墨。内側の紙が一枚もないのは、相殺と呼ばない」

 ぼくは白墨の帯の上に、三点測位の数値を重ねる。

「図面が紙の上で言う“相殺”に、地面は頷かない。星—井戸—壁の三角は、昨夜と今夜でズレなし**。外にしか出てない」

 ゲイルは肩をすくめ、最後の穴に手を伸ばす。

「では、“視認性”。人目につかぬ掲示は、告示にあらず。路地裏の札は遠い。この差し戻しを——」

「——却下」レーネの声が刃を含む。「巡回掲示で読み上げ、鐘と太鼓で時刻署名。五十歩ごとの読点札。視認性の担保は紙より厚い。**“読ませる努力”**を尽くした側に正当性がある」

 周囲がざわめき、やがて静まった。見える掲示は、人の記憶に残っていた。

 ミナが小声で囁く。「穴に蓋、できた」

「まだ一つ残ってる」ぼくは帯の端を見た。「物理の穴」


 物理の穴は、路地の真ん中にあった。木製の仮バリケード。昼間は上に荷を置かれ、夜は杭に縄で結ばれる。“工事前の安全確保”の名目で、通行を狭め続ける装置。

「条文で蓋をしても、木が笑ってる」ぼくは言った。

「第5話に行くわよ」レーネが珍しく冗談めかす。「大勝は“邪魔の撤去”。法の順路に沿って、一度で終わるやり方で」

 ミナが目を輝かせる。「順路?」

 レーネは指を折る。

「危険物指定 → 臨時通行確保命令 → 現地立会撤去 → 仮設の代替導線提示。四拍子。拍子木で刻む」


 その夜、拍子木が一度、二度、三度——四度目に、路地の空気が変わった。

 立会札、灯り、紐、そして代替導線の白線。

 石工ナドが前に出る。

「危険物指定。さっき、子どもが縄に足を取られた。“安全”の名で置いたものが、安全を削ってる」

 レーネが臨時通行確保命令の紙に印を落とす。

 ぼくは白墨で代替導線を引いた。荷車の回転が可能な角度を取り、橋脚の影を避ける。

「撤去」

 拍子木が、短く、四つ。四拍子。

 人々の手で、仮バリケードが持ち上がる**。持ち上げるから、争いにならない。壊さない。ただ、置き場所を変える。倉庫の内側へ。

 ゲイルが声を上げかけ——飲み込む。代替導線と印章が先に動いている。遅れた声は、紙の重さに勝てない。


 静けさのあとに、音が戻る。

 荷車の軋み、魚屋の樽の水音、子どもの笑い。

 トリヤが袖で目を拭き、ぼくらに小さく頭を下げた。

「匂いが軽い日は、客の足も軽い」

 その言葉が、今日いちばん重かった。


 監査局の机で、レーネは二十七条の欄外に小さく書き込んだ。

《注釈:見える掲示は、道で行う。理由の耳は、型で開く。紙は音で重くなる》

 ミナがうっとりする。

「それ、詩」

「事実」

 ぼくは笑って付け足した。

「注釈:四拍子は街の歩調」


 窓の外、王都の夜がゆっくり降りてくる。

 穴は完全には埋まらない。明日も別の穴が顔を出すだろう。

 でも、測ることと、聞くことと、見せること。

 その三つで、街は今日より少しだけ正しくなる。

 ぼくの追放にも、注釈がつき始めている。

 “測ることは、救うこと”——これは、何度でも胸の内で確定できる真北だ。

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