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第3話「三点測位の夜」

 夜の王都は、息を潜めた工房だ。

 日中の騒ぎが収まり、音は粒になって沈む。踏まれ続けた石畳は、熱を吐ききって冷たく、星の光を受け取りやすくなる。


 ぼくらは三つの灯りを用意した。

 一つは、公館の屋上に。古から“動かせない基点”として規約地図に刻まれている角塔の足元だ。

 一つは、倉庫街の古井戸の脇に。井戸は街の骨だ。位置が変わることはほとんどない。

 もう一つは、北壁の折れ。城壁が方位を教えてくれる、無口で正確な教師。


 拍子木で合図を決める。「カン、カン、間を置いて、カン」——角塔、井戸、北壁の順。

 ミナは立会札と記録板、レーネは封蝋と印字棒、ぼくは角度器と古い星図を携えた。


「星読み、行ける?」

 レーネが尋ねる。

「行ける。風が弱い。灯も落ちた。星は紙の上に降りてくる」

 ミナが息を飲むように笑った。「紙の上に降りる星……きれい」

「詩じゃない」ぼくは角度器の支柱を軽く叩く。「精度の話だよ」


 最初の灯は角塔の屋上。

 屋上に上がると、街は黒い地図になった。明かりの点は記号、影は余白。光の等高線の谷に、例の“無税の細道”が細く走っているのが、夜でもわかる。

 ぼくは角塔の欄干に角度器を据え、北極星と、東の明るい一等星を拾う。星と星の角度から、真北のずれを微修正。

 ミナが控えめな声で解説する。

「星の角度で“真の北”を出して、その線を“紙の北”に重ねます。紙の方が間違っていたら、紙を直す。——こういうこと」

「正解」ぼくは頷き、基点の方位を確定させる。「角塔、基準角——固定」


 拍子木が一度鳴る。下の路地で、レーネが合図した。

 次は井戸だ。

 古井戸は倉庫街の裏、中庭のような空間に口を開けている。夜は水面が鏡になる。星がひと粒、そこに沈む。

 石輪に角度器の脚を据えると、足元の石がわずかに鳴いた。古い石の鳴き声は、年齢の合図だ。

 ぼくは星に合わせ、北壁の灯りとの角度を測った。角塔との角度も取る。

 そのとき、裏道をかすめる足音がした。

 レーネが低い声で言う。「来たわね」

「杭戻しの夜戦?」ミナが身を固くした。

「焦らない。拍子木の距離でこちらの位置がバレてる。むしろ呼び寄せる」


 影が二つ、井戸の向こうの木戸から現れた。革エプロンの男と、肩の広い影。先に声を出したのは、革エプロンのほう——昼間の“石工氏”だった。

「監査官、約束どおり来た。……が、後ろが勝手にくっついてきた」

 肩の広い男が一歩前へ。

「公務の邪魔立てはしないさ。ただ“現場の安全確認”に来ただけだ」

 ゲイル。声の端が笑っている。


 レーネは立会札を持ち上げ、はっきりと読み上げた。

「夜間臨時監査・三点測位実施。立会人——監査官レーネ、測量補助リョウ、文官見習いミナ、石工氏。その他関係者は“人員”として記録」

 最後の言葉に、ゲイルの眉がぴくりと動く。

「“人員”とは無礼だな」

「主人公の座席は埋まっているの」レーネは涼しく答えた。「どうぞ、静かに見ていて」


 測位を再開する。

 北壁の折れに移動する途中、路地の奥で、誰かが杭を抜こうとする布の擦れる音がした。

 ぼくは角度器を抱えたまま走って近づいた。

 暗闇に沈む杭の周りに、黒い影がしゃがみ込んでいる。

 拍子木が鳴る。レーネの合図「止まれ」。

「ここで、その手を止めて」レーネの声は低いが、よく通る。

 影はためらい、やがて手を離した。

 石工氏が灯りを持って近寄る。

「おい。おまえ……」

 黒い影は若い石工だった。昼の彼ではないが、同じ工房の粉の匂いを持っている。

「工区長の命令だ。杭を“元通り”に。監査の邪魔じゃない、昔の位置に戻すだけだ」

「昔は二年前か?」レーネが真正面から問う。

 若い石工は黙る。

 ミナが一歩進み、声を柔らかくした。

「“元通り”って、どの元? “正しかった頃の元”なのか、“都合の良かった頃の元”なのか。あなたの肩は痛い? 重い杭を夜に動かすのは、命綱を細くするよ」

 若い石工の指が、杭からほどけるように離れた。

「……おれの親方は、紙を嫌う。紙は軽いって。でも、杭が嘘なら、おれの仕事も嘘になる」

「紙を重くするのが、今夜の仕事」ぼくは角度器を杭に当てた。「星と石で、紙を重くする」

 ゲイルが小さく鼻で笑った。「詩人ごっこはうんざりだ」

「詩じゃない、測位です」ぼくは返し、角度を読み上げた。「北偏差一度半——昼の値と一致」


 北壁の折れへ。

 城壁は、夜の獣の背骨みたいに黒い。角の石は摩耗して丸く、そこに古い刻みが残っている。ぼくは手を当てて、角度器の三脚を安定させた。

 星と、角塔の灯、井戸の灯。三つを順番に捉えていく。

 角塔—井戸—北壁。三点の角が星図上で閉じる。

「——閉じた」ぼくは息を吐いた。「誤差は——指先二本」

 ミナが数字を記録し、レーネが封蝋を温める。

「封蝋を置くのは“点”じゃない。線に置く」

 レーネは細長い蝋の帯を作り、三点を結んだ延長上に、地面へ糸のように垂らした。蝋は冷えて固まり、暗闇の地面に“線”として現れる。

 ミナが呟く。「線が、見える……」

「人の目は線に弱い」レーネは帯をもう一本引いた。「だから“線を見せる”。杭が嘘をついても、星は嘘をつかない」


 そこへ、別の影が走ってきた。

 杖を突いた老人が息を切らしながら、こちらへと手を振る。昼、路地の端で黙って見ていた屋台の長老だ。

「監査官さま……遅れてすまねえ。立会の証言、持ってきた」

 老人は懐から布包みを出す。中には古い地図。王都第三版の控え写し。

「親父の代に“許された道”の印がある。ここだ」

 指先が震えながら、印の左に小さな赤点を示す。そこは、今夜ぼくらが蝋で引いた線の上だった。

 ゲイルの顔に、わずかな陰が差す。

 レーネが静かに頷いた。

「これで、三点+古証。机上戦も夜戦も、ここで終わり」


 封蝋の帯に監査局の印が沈む。

 “夜の更新案”が地面に固定された。

 その場で、通行ルートの仮の縄が張られる。昼の喧騒とは違う、夜の小さな歓声が、息を呑むように生まれて、少しずつ広がった。


 作業が片付く頃、ゲイルが近づいてきた。

「監査官。紙は重くなった。認めよう」

 意外な言葉だった。

「だが、紙が重くなるほど、街は動きづらくなる」

「動きづらい紙は、動かすときにだけみんなが集まるの」レーネは蝋の帯を指でなぞる。「今夜みたいに。——それが街の“正しい動き方”よ」

 ゲイルは目を伏せ、踵を返した。

 石工氏がその背に短く声を投げる。

「親方。明日、立会に出る。名前で」

 ゲイルは振り向かない。代わりに手を上げ、指をひとつ折った。承知の合図か、苛立ちの癖か、夜の影は表情を食べてしまう。


 やがて拍子木を二度鳴らし、今夜の測位は終わった。

 角塔の灯が消える直前、ミナがうっとりした顔で空を見た。

「星、冷たいのに、温かい」

「地面が、受け止めてくれるからね」ぼくは角度器を畳み、肩に担ぐ。「数字は孤独じゃない。星と石と、人が一緒にいる」


 ——翌朝。

 王都の掲示板に“夜間仮更新”の札が貼られた。蝋の帯は昼の目でも線に見える。

 屋台の主人たちが、縄の内側を押し合って笑い、荷車は止まらずに流れた。

 子どもが指で蝋の線をなぞり、母親が手をそっと引く。

「それ、街の“正しい道”なんだって」

「正しい道」子どもが繰り返す。「食べられる?」

「たぶん、お団子二つぶんにはなる」


 監査局の小さな机で、レーネが淡い笑みを見せた。

「最初の勝ち。数字で人の暮らしが軽くなる瞬間は、何度見ても飽きない」

 ミナが記録板を掲げる。

《三点測位により、通行幅の規約値回復。異議申立期間:本日より30日》

「コメントを添える?」ぼくが尋ねる。

「添えるわ。“線は人を分け、橋は人をつなぐ”。昨夜、蝋で引いた線は、人を分けるためじゃないの。——橋の準備」

「詩ですね」ミナが笑う。

「事実よ」レーネは肩をすくめる。「それに、君たち、詩が好きでしょ」


 午後、石工氏が監査局に来た。

 粉のついたエプロンのまま、深く頭を下げる。

「名を出す。ナドだ。親父の名は帳簿に残ってるはずだ。あれも石工だった」

「ようこそ、ナド」レーネは手を差し出した。「あなたの“石の目”が紙を重くした」

 ナドはごつい手で握手を返し、照れくさそうに笑う。

「重い紙は、石の上でも滑らない」


 小さな勝利は、街にはじまりの音を置いていく。

 ぼくの耳の奥で、昨日の拍手がまた鳴った。

 追放の烙印は消えないかもしれない。でも、注釈のない日々には戻らない。

 測ることは、救うことだ。

 その言葉を、黙って胸の内で繰り返した。


 外に出ると、北壁の陰でミナが空を見ていた。

「リョウさん、次は?」

「水だ」

「水?」

「線で守ったのが道なら、次は流れで守る番。共同井戸と夜間排水の隠し門。水路の裁定」

 ミナの目が、夜の星みたいに瞬いた。

「じゃあ、私の“市井語訳”は、“水は借り物。返し忘れると街が風邪をひく”、でどう?」

「いい。読者はすぐに“街の咳”を想像できる」

 レーネが二人の横を通り過ぎ、振り返らずに言った。

「咳は喉の奥。街なら排水口。——行くわよ」

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