第2話「境界杭は嘘をつく」
翌朝。王都の空は薄曇りで、光は柔らかく、輪郭だけを丁寧に照らしていた。
監査局の前庭で、レーネが革袋を二つ放ってよこした。中身は、巻尺、角度器、チョーク、鉛筆、拍子木、それから小刀。
「今日は“杭の嘘”を暴く。三つの証拠をそろえてね」
「三つ?」
「材と年代/角度と偏差/環境の痕跡。どれか一つでは口がうるさい人間に負ける。三つなら紙になる」
横でミナがうなずき、紙束を抱えなおす。
「私は“市井語訳”担当です」
「頼りにしてる」
最初の現場は、昨日の倉庫街の裏。壁の内側の影は、今日も等高線のように路地へと張り出している。
ぼくは膝をつき、杭の頭に指先を当てた。
「木は、語る」
「詩人の始まり方」ミナが笑う。
「数字の前口上だよ。——見て。木口の年輪、外縁がはっきりしてる。切ってからまだ二年と少し」
「二年……」ミナが紙に書き写しながら首をかしげる。「でも、この杭は“十年前からここにある”って、地図に書いてある」
「だから嘘だ。正確には、十年前の杭は別のやつで、これは“すり替え”。材は樫に似てるけど、樹脂臭が少ない。たぶん若木。頭の傷も新しい。——レーネ、材の検査、記録して」
レーネは淡々と頷き、印字棒で木口の周に小さな点を刻んだ。「材:若年、交換痕跡。証拠①:材と年代」
ミナが、みんなに見えるように言い換える。
「“この杭、ほんとは新しい”」
「簡潔で刺さる」レーネが満足そうに言った。「次」
ぼくは角度器を杭に当て、石畳の目地に合わせて読み取る。
「目地基準で——北に二度、倒れ気味。根元の土が乾いてる。前年の旱で、土が縮んで傾いたのを、誰かが“倒れた方向に”打ち直した」
「どうして“倒れた方向に”? わざと?」ミナ。
「倒れた方向に打つと、路地の“見かけの幅”が縮むから。壁は動かしづらい。なら杭を斜めにすれば、線は素直に騙される」
レーネが角度を写し、「証拠②:角度偏差」と書き加える。
通りすがりの老婆が立ち止まり、眉を寄せた。
「杭が斜めだと、どう困るんだい」
ミナがすぐに向き直る。
「斜めの杭が“道の端っこ”だって信じられると、道が細く見えて、通る人が減って、お店の売り上げが落ちます。あと、細く見えると“通行税”や“占有料”の計算も損になることがあります」
老婆は「あらま」と声を漏らし、「昔はこんな賢い子はいなかったよ」と笑って去った。
小さな会話でも、現場の空気が動くのがわかる。人が理解すれば、数字は味方を得る。
「三つ目」レーネが顎で合図する。
ぼくは路地沿いの苔を観察した。苔は水と陰に正直だ。影が長ければ太り、風が通えば剥がれる。
「苔の帯が、壁の足もとで不自然に切れてる。去年の秋に剥がれて、春に一度だけ薄く生えた。——壁面が“触られた”痕ね。足場板の擦痕がまだ残ってる」
ミナが手鏡を差し出した。
「日光、当てます」
鏡の光で浮き出た傷は、斜めに細く走っていた。足場をかけるときの縄の跡だ。
「証拠③:環境痕跡」レーネが締める。「三点、そろった。紙になる」
そこへ、革エプロンの若い石工が現れた。肩の粉は白く、目だけが真っ直ぐだ。
「監査官さま、呼ばれました」
「呼んでいないわ」レーネは振り向きもせずに返す。
「工区長の使いです。壁の“点検”を本日午後に入れるので、通行止めの許可を」
「許可しない」
「理由は」
「点検の必要性が“あなたが削る石の量”で変わるから」
若い石工はむっとした顔付きを、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
「おれたちは命がけで石に触ってます。紙の上の人に、仕事の命綱を切られたくない」
その言葉は、ぼくの胸に刺さる。石は重い。石工の肩は実際にすり減る。
「命綱を切る気はない」ぼくが口を開く。「ただ、命綱を誰かに勝手に結び替えられてる。杭が嘘をつくと、あなた達の仕事まで嘘になる。石の重さに、紙の嘘を足さないでほしい」
「紙の嘘?」
「“十年前からこの杭”という記録。実際には二年前の若木。若木は重みに弱い。倒れやすい。そこで“道が狭い”と言われ、店が死ぬ」
石工はぼくをじっと見て、やがてエプロンの粉をぱん、とはらった。
「……じゃあ、どうすれば本当になる」
「午後、立会。石工として証言してほしい。足場の縄跡、打ち直しの角度、石粉の色。あなたの目で“いつ”“どこを”触ったか、具体的に」
石工は迷ったが、うなずいた。「工区長は怒るが……“おれの仕事が嘘にならない方”を選ぶ」
レーネがようやく振り返る。「名前」
「パス。名前は紙に残る。今日は“石工”でいい」
「了解。“石工氏”」
ミナがくすりと笑って紙に書く。「石工氏、証言予定」
午前中の測り直しを終えると、監査局に戻って簡単な昼を取った。
パンをかじりながら、レーネが指で机面に図形を描く。
「午後は“机上戦”。ゲイルは必ず図面を出す。“上書き図面”。古い地図に新しい線を重ねて、いつの間にか“こちらが本物”という顔をする。対策は?」
「年代の固定」ぼくは指で三角形を描いた。「図面には紙の年代がある。墨の風化もある。さらに“地面の年代”をぶつける。杭の年輪、石粉の採石場、苔の世代。地面の三点測位で図面の嘘を挟む」
「三点測位……“三角測量”の応用ね」ミナが身を乗り出す。「地面由来の三つの証拠を三角にして、図面の“どこを向いても逃げられない”ようにする」
「そう」
レーネは淡く笑った。「君たち、現場での会話は“読者に優しい”。——午後、やるわよ」
午後一番。監査局の立会札が路地の入口に立ち、周囲は自然と円になった。ゲイルが姿を見せる。今日は朝より笑っている。
「監査官、図面を用意した。王都第六版補注。“壁面補修に伴う微修正”で路地幅の変更を——」
「微修正の根拠は?」レーネ。
「現場判断だ。剥落の危険があった。安全のために壁を“厚く”した。安全は規約に優先する」
なるほど、と周囲がざわつく。安全は強い言葉だ。
ぼくは先に一歩出た。
「安全のために厚くする。その判断自体は否定しません。ただ、“厚くした分をどこに出したか”が問題です。壁の内側に出せば敷地の持ち主の庭が狭くなる。外側に出せば路地が狭くなる。補修履歴を見る限り、外側にばかり厚くしている」
ゲイルが肩をすくめる。「内側には出せん。倉庫が立っている」
「だから、内側に出すべき時は、事前に“補償交渉”が必要です。交渉が面倒だから外側に出した。数字は正直です。——杭、角度偏差二度。材は若木。足場縄の斜痕。採石粉の色は“閉鎖場の白”。二年前から計画的に“外へ”出している」
レーネが印字棒で掲示板に項目を写していく。
《証拠① 材と年代:杭は若木、二年前交換》
《証拠② 角度偏差:北へ二度。旱の後の再打設》
《証拠③ 環境痕跡:足場縄痕、採石粉“閉鎖場白”》
石工氏が前に出た。
「証言。おれは一昨年の秋、ここに足場をかけた。工区長の指示で“外へ二枚”厚く積んだ。中へは——倉庫が邪魔で無理だと言われた」
ゲイルの顔が固まる。
「裏切り者が」
「“嘘の壁”の上で仕事すると、石が泣く」石工氏の声は静かだった。
人々の視線が、紙と、杭と、壁へ、行ったり来たりする。紙を地面に縛りつける。そのための三点。
ゲイルは最後の足掻きで図面を差し出した。
「ほら、ここに補注の記録がある。“現場安全のため外へ二枚”。ちゃんと紙に残ってる」
「補注の印が“今日の日付”」レーネの声音が一段低くなる。「今日、ここで議論してから押した印ね。——上書きの上書きは、もう通らない」
ゲイルは沈黙し、やがて手を下ろした。
レーネは掲示板に大きく記す。
《仮補正命令:壁面厚の測地線基準内戻し/杭の角度是正/通行幅の規約値回復》
《告示:規約第27条に基づき30日間の異議申立期間を設定》
屋台の主たちの間から、ため息にも歓声にも似た音が漏れた。
終わってから、ミナが小さな声で訊く。
「レーネさん、ゲイルさんはこのまま、引くのかな」
「引かないわ。机上戦の次は夜戦」
「夜戦?」ミナが目を丸くする。
「夜のうちに杭を“戻す”——悪い意味で。掲示が出ていても、暗がりは“正直の敵”になる。だから」
「三角点を結ぶ」ぼくは答える。「三点測位の夜。紙ではなく、星と地面で。“本当の線”を固定する」
レーネは満足そうに目を細めた。
「今夜、やる。公館の基点、倉庫街の古い井戸、そして北壁の角。三点で取れば、誰の手でも動かせない線になる。——ミナ、君は記録。リョウ、君は“星読み”」
「星読み?」
「測量士の嗜みでしょ」
「嗜みというより、青春の墓標」
「詩人め」
ミナが笑い、すぐ真顔に戻る。
「でも、夜は危ない」
「危ないから、事実で殴る準備をする。拍子木、灯り、立会札。数字を守る道具は、多い方がいい」
夕暮れがにじむ頃、ぼくは監査局の屋上で角度器を星に合わせる練習をした。
風が鳴り、遠くで鐘が二度。
地面は重く、空は遠い。
そのあいだに、嘘は入り込む。だから結ぶ。三点を。
紙と石と星で。
杭が嘘をつくなら、星に誓わせる。
屋上の扉が軋んで、レーネが顔を出した。
「準備は」
「できてる」
「じゃあ、行きましょう。夜の地図は、夜のうちに描くのが礼儀よ」