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第1話「追放測量士、路地で拾われる」

 路地は、線一本で値段が変わる。

 朝の市で荷車がつかえた。地図では三歩分の幅があるはずなのに、今日は二歩しかない。屋根から落ちた雨樋が、いつのまにか“境界線”になっていた。

「通れないなら税は払わない」

 屋台の主人が怒鳴る。監査官が眉をひそめる。

 ぼくはしゃがみこんで、石畳の目地を指でなぞった。雨の筋が流れこむ溝が、南北にわずか——親指半分——東へ曲がっている。

「——ズレてます。杭が」


 言った瞬間、背中で革靴が止まった。

「君、無許可の測量?」

 涼しい女の声。顔を上げると、濃紺の外套に銀の徽章。監査局の紋章だ。左手に巻尺、右手に細い短剣——ではなく、規約棒。現地告示の封蝋を割る道具。

「すみません、癖で」

「癖で境界を撫でる人間は珍しいわね。名前は」

「リョウ。元、王都測量組合の見習いです」

「元?」

「追放になりました。書庫の地図に注釈を入れすぎて、先輩に嫌われて」

「注釈?」

「“この路地は雨季に幅が縮む”、とか」

 女監査官は片眉を上げた。

「私はレーネ。監査官。ここで揉めているのは“無税の細道”よ。登録上はただの路地。けれど、ある店だけが“通行税免除”の扱いになっている。なぜだか分かる?」

「分かります。杭が嘘をついてる。去年の洪水のあとに打ち直して、向こうの壁に寄せた」

「証拠は」

 ぼくは荷車の影に回り、石畳の端の白い筋を指差す。

「苔の線。壁が近づいたなら影が濃くなって、苔が太る。これは一年もの。杭の頭には新しい打痕。木口の年輪が若い」

 レーネは屈み込み、杭を軽く叩いた。鈍い音。

「入職前で、その目か」

「退職、です」

「ややこしいわね。……立会人が足りない。君、臨時で雇う。今日だけ」

「今日だけ?」

「長期の予定は、証拠を積んでから考える主義なの」


 彼女は手早く現場の布告を掲げた。「臨時監査、立会開始」。その紙の角は、風に揺れるたび、路地の人の視線を集めた。周囲のざわめきが、少し静かになる。

 レーネはぼくに巻尺の端を渡した。

「測る。基準は角の公館。あそこは三代前の規約地図で“動かせない基点”になってる」

「了解」

 距離を取る手は、学生の頃の癖を思い出して勝手に動く。壁の膨らみ、石畳の継ぎ方、雨樋の固定金具の向き。雑音の中の“揺るがない点”だけ拾って、線に戻す。

 巻尺の数字を読み上げると、レーネは手元の板に書き込んだ。板の角には、小さく刻印がある。規約地図。地図に法律の注釈(規約)が直に刻まれ、行政や税の根拠になる王都の仕組みだ。

(※規約地図:地図+注釈のセット。道路幅、井戸、橋脚、境界などが“規約”として記録され、税率や通行権の根拠になる)


 測り終えると、屋台の主人が待ちきれずに詰め寄ってきた。

「で、通れるのかい、通れないのかい」

「通れますよ。本来は」ぼくは答えた。「ただ、杭が斜めに刺さってて、雨で緩んだまま固定された。誰かが“都合のいい角度”で」

「誰かって誰だ」

「まだ言えません」

 レーネが小さくうなずく。「現場では推測を口にしない。いい癖ね。——掲示するわ」

 彼女は板の“注釈”部分にさらさらと文字を走らせた。

《当該路地の実測幅は規約値より二十五センチ縮小。杭の材質・打痕は新しい。現地にて仮補正し、通行を回復》

「仮補正?」屋台の主人が首をかしげる。

「杭の角度を“とりあえず正しい方向に戻す”だけ。正式な更新は、告示から三十日異議が出なかったら確定する」(※規約第27条:現地告示後30日異議なしで“更新案”確定)

「三十日も?」

「法律は急がないのよ」

「腹は減るがな」

 主人は笑い、肩の力を抜いた。荷車の列が少しずつ動き出す。狭い路地の空気が、少し広がった。


 杭を戻すのは簡単じゃない。人手も道具もない現場で、ぼくは近くの石屋の廃材を探し、割れ目の角度がちょうど良い石片を拾った。杭の根本に打ち込む“くさび”。

「勘がいい」レーネが言う。

「勘じゃないです。石の割れ目は、いつかの力の履歴だから」

「詩人めいた測量士ね」

「詩じゃない。数字です」

 楔を入れて杭を垂直に近づける。石畳の目地と並行に、杭の影も伸びる。ぼくの指の感覚に、石と木がひとつの固い音に合う瞬間がくる。

「——はい。仮補正」

 レーネが規約棒で杭の傍らに印をつけ、紙片で覆った。封蝋に彼女の印章が沈む。

「これで“現地仕様”が回復。今日の荷車は通れる」

 屋台の人たちが小さく拍手した。その音は乾いたはずなのに、ぼくの耳には湿って聞こえる。追放されてから、拍手の音を忘れていた。


 現場の空気が緩むと同時に、背中のほうで柔らかい声がした。

「すごい……杭、まっすぐになりました」

 振り向くと、麻色のチュニックの少女が紙束を抱えて立っていた。年はぼくより少し下。目がまっすぐで、でも言葉にする前に一度考える癖が顔の筋肉に出ている。

「誰?」

「文官見習いのミナです。監査局の研修で現場見学に」

「ちょうどいいわ、ミナ」レーネが呼ぶ。「君、今のを“市井のことば”でまとめて」

「は、はい」ミナは紙の角を揃えて、早口を我慢するように一拍置く。「えっと……この路地は、本当は三歩幅。でも杭がずれて二歩に見えてた。杭は去年の洪水で弱くなって、誰かが都合よく斜めに刺し直したのかも。で、監査官が“仮の正しさ”に戻して、通れるようにした。正式には、三十日みんなから文句が出なかったら、本当の地図も更新されます」

「完璧」レーネは口角をわずかに上げた。「見習い、合格」

 ミナは頬を赤くして笑った。「ありがとうございます。あの、リョウさんの説明が、分かりやすかったからです」


 ひと段落——と思ったところで、角の陰から威勢のいい拍手が聞こえた。拍手主は拍手に似合わない顔をしている。太い首、上等な布の袖、腰には工区印の革帯。

「さすが監査官。現場の“邪魔”がお得意だ」

 声の主は、工区長のゲイルだった。王都の道路工事の裁量を握る男だ。

「邪魔ではないわ。規約の回復」レーネが淡々と返す。

「規約、ね。規約は紙だ。紙より石のほうが重い」

「だから紙に石を写すの。間違いなく」

 ゲイルは鼻で笑った。

「いずれにせよ、こんな仮補正で仕事を止められては困る。今日の午後に区画の運搬を入れている。通行止めにするしかない」

 屋台の主人たちがざわつく。

「午後は売れ時だぞ」

「材料が届かないと夜の仕込みが——」

 ゲイルは太い手で宥めるふりをする。

「心配するな。工事が終われば、もっと立派な道になる。税も少しは増えるかもしれんが、繁盛するぞ」

「“少し”」レーネが繰り返す。「税は規約で決まる。勝手な“少し”は許されない」

「ならば異議申立てを——」

「どうぞ。規約第27条に基づき、今日から三十日のあいだ、誰でも意見を出せる。あなたの“工事計画の正しさ”も、その場で示せばいい」

 ゲイルは舌打ちを飲み込むように喉を鳴らし、ぼくを見た。

「その小僧は誰だ」

「臨時の立会人」レーネが答える。

「小僧、ものを見る目は悪くない。だが、目は買っても口は買わん。余計な注釈を地図に書けば、飯の種が減る」

 ぼくは返事をしなかった。代わりに、杭の足元をもう一度なでる。石の冷たさは、どの時代にも等しい。

「午後、こっちは通すわ」レーネが短く言った。「監査局の権限で、今日だけ」

 ゲイルは肩をすくめ、踵を返した。「好きにしろ。紙の好きに、な」


 ゲイルが去ると、路地の空気はまた軽くなった。ぼくは巻尺を巻き取り、胸の内側の時計を眺めるように呼吸を整えた。

「リョウ」レーネが声を落とす。「君、追放理由をもう少し詳しく」

「“地図は法律より強い”って言ったんです。組合の会議で。誰も笑ってくれなかった」

「笑えないほど正しいからよ。——臨時は今日で終わり。けれど、もう一つ見てほしい場所がある」

「どこです」

「“無税の細道”の発生源。地図の切れ目。君の注釈が生きる所」

 彼女は王都の規約地図を二つ折りにして、紙端の小さな裂け目を親指でたどった。

「地図は線でできている。けれど、線の合間に“見落とし”がある。そこに人が住み着く。店が生まれ、税が流れる。——午後、連れていく」

「アルバイト代は」

「日当は規定通り。夕食つき」

「行きます」


 昼休み、監査局の小部屋で、パンと薄いスープをいただいた。ミナが向かいに座り、スプーンを握ったままこちらを見ている。

「どうかした?」

「リョウさんは、どうして“詩じゃない、数字だ”って言ったのかなって。私、少しうらやましくて」

「うらやましい?」

「私は数字が怖い。間違えたら、誰かの生活が変わってしまうから。だからつい、言葉で優しく包もうとする。監査官には“遠回り”って言われます」

「遠回りな言葉で救える人もいるよ。数字は冷たいから」

「でも、さっきの杭、数字があってこそ救えた」

 ぼくはパンをちぎって、スープに落とした。浮かんだ半身が、ゆっくり沈む。

「数字も言葉も、地面の上で生きる。地面に触ってなきゃ、どっちも嘘になる」

 ミナは目を細めて笑った。「リョウさん、やっぱり少し詩人です」


 午後、監査局の馬車に揺られて、王都の北環へ向かった。壁沿いの道は整って見えるが、壁の内側に細い影が続く。日が傾くと、影は濃く、長く、地図の“線”よりも雄弁になる。

「ここよ」レーネが降りた先は、倉庫街の裏。泥の溝が、壁と路地の境に等高線のように走っている。

「“無税の細道”は、こういう陰から生える。壁の修繕で石が少しずつ内側に積まれて、路地に押し出される。積年のズレは、誰も覚えていない」

 ぼくは壁の目地に触れた。新しい石と古い石で、触感が違う。細かい砂のノリ、石粉の匂い、指先の白さ。

「……五年前から、年に二度、石が動いてる」

「五年前?」ミナが反射的に尋ねる。

「この石粉の色は、あの採石場の。五年前に閉鎖された。まだ倉庫に余剰が残ってたんだろう。修繕の名目で、内側に積み足してる」

 レーネはうなずき、手帳を開いた。「倉庫の持ち主の名簿……工区長の親類。やっぱり」

「工区長……ゲイル?」

「ええ。彼は“紙のほうが軽い”と思ってる。だから石で押す。——押した石の記憶は、紙より饒舌で厳しい」

 ぼくは泥の溝の幅を測った。規約値と実測値の差が、数字になって並ぶ。

「ここを“最初の案件”にする。明日、仮の経路で荷車を通す。反対は出るでしょうけど、第27条がある」

 ミナが頷いた。「掲示して、三十日。小さな“正しさ”を積んで、確定させる」

「積むのは面倒だ。けど、積み上がった正しさは、誰にも蹴り倒せない」

 レーネは紙を閉じ、馬車に戻った。

「リョウ、今日の臨時はここまで。——明日も来る?」

「来ます」

 本当は、黙っていても足が向いたと思う。追放されてから、ぼくは“注釈のない日々”を生きていた。世界は注釈で理解できるのに、口を閉ざしていた。

 紙の隅に、レーネが小さく何かを書いた。

「何を書いたの」

「“注釈:この日、測ることが誰かを救うと再確認”」

「詩人みたい」

「私は監査官。事実しか書かない」


 夕方、王都の鐘が二度鳴った。

 ぼくは巻尺を腰に戻し、空を見上げる。壁沿いの細い影が、夜と混じり始めていた。影は線だ。線は地図になる。地図は——人の暮らしに触れている。

 明日は、もっとはっきり測れる。誰かの怒りや不安や“少し”という曖昧を、数字でほどく。

 追放は、たぶんぼくの結末じゃない。

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