「飲まない夜明け」
赤馬です。「飲まない夜明け」を手に取っていただき、ありがとう! 昭和の新宿を舞台に、酒と記憶、過去と向き合う物語を紡ぎました。ちょっと切なく、ちょっと不思議な一夜を、健次と一緒に過ごしてみてください。気軽に楽しんでもらえたら嬉しいです!
昭和四十五年、東京の新宿、ネオンの光が濡れた路地に滲むオフィス街の片隅に、「みすず」という小さな飲み屋があった。カウンターだけの店内には、いつも決まった顔ぶれが並び、酒と煙草の匂いが充満していた。その一角に、毎夜のように浴びるように酒を飲む男、佐藤健次がいた。四十歳を過ぎ、背広はくたびれ、目元には疲れと酔いが滲んでいた。健次にとって、酒は麻痺剤だった。酒が入れば、上司の愚痴も、会社の数字も、果ては自分の人生すら、なんだか面白く思えた。だが、その夜は違っていた。健次がいつものように焼酎の水割りを傾けていると、カウンターの端に若い女が座った。二十歳そこそこ、黒いワンピースに、どこか古風な髪型。健次はチラリと見た瞬間、胸が締め付けられた。女は、遠い故郷・秋田の恋人、さゆりに生き写しだった。さゆりは、健次が上京する前に別れた女。東京の喧騒に飲み込まれ、故郷のことなどすっかり忘れていたのに、その面影が突然、目の前に現れたのだ。
女は静かに日本酒を注文し、ぽつぽつと話し始めた。「私、秋田から出てきたの。田舎って、何もないけど、なんか…落ち着くよね。」その声、仕草、笑い方まで、さゆりそっくりだった。健次は水割りを忘れ、女の話に耳を傾けた。秋田の雪深い夜、凍てつく田んぼの匂い、村祭りの太鼓の音。健次が封印していた記憶が、まるで水面に浮かぶ泡のようにはじけた。「へえ、秋田か。俺も昔、そっちにいたんだよ」と、健次はつい口を滑らせた。女は目を上げ、じっと健次を見た。「ふうん。どの辺?」「山のほう。小さな村。もう、二十年近く行ってねえな…。」健次はグラスを握り、さゆりの笑顔を思い出した。あの頃、彼女と別れるとき、健次は「東京で成功したら迎えに来る」と言ったきり、音信不通だった。さゆりの手紙は、いつしかゴミ箱に消えていた。女は静かに微笑み、酒を一口飲んだ。「私の母、秋田の山の村で生まれ育ったの。名前、さゆりって言うんだけど…知ってる?」健次の手が止まった。グラスがカウンターにカチリと音を立てた。「さゆり…? まさか、そんな…。」女は目を伏せ、ゆっくりと言った。
「私、あなたの子よ。」健次の酔いが、一瞬で吹き飛んだ。頭の中で、時間が逆流した。さゆりとの最後の夜、彼女が泣きながら「待ってる」と言ったこと。東京での忙殺の日々、酒で誤魔化した記憶。女は続けた。「母はね、数年前に病気で死んだ。ずっと、あなたのこと話してた。私、父さんに会いたくて、東京に来たの。」健次は言葉を失った。女の顔は、さゆりそのものだったが、よく見ると、目尻に健次自身の面影があった。店内のラジオから流れる演歌が、妙に遠く聞こえた。女は淡々と語った。さゆりの最期、村での暮らし、健次を待ち続けた日々。健次はただ聞き、グラスを握りしめたまま、動けなかった。やがて、店のシャッターがガラガラと上がる音がした。朝だった。窓から差し込む光が、カウンターに落ちた酒の雫を照らした。女は立ち上がり、「またね」と一言残して店を出た。健次は追いかけようとしたが、足が動かなかった。カウンターには、女の飲んだ日本酒の瓶と、健次の空のグラスだけが残っていた。その日、健次は会社を休んだ。初めて酒を飲まずに夜を迎えた。さゆりのことを思い出し、娘の顔を思い出し、胸が締め付けられた。もう酒はいい、と思った。麻痺させるのは、もう終わりだ。新宿の路地では、今も「みすず」の看板が揺れている。だが、健次はその後、二度と店に現れなかった。ある者は言う。「あの男、故郷に帰ったらしい」と。またある者は囁く。「いや、娘と一緒に、どこかで新しい朝を迎えたんだ」と。(了)
赤馬です。「飲まない夜明け」を最後まで読んでくれて、ありがとう! 健次の酔いが醒めた朝、皆さんは何を感じましたか? 昭和のネオンの下で、忘れていた過去と再会する瞬間、ちょっとでも心に残ったら幸いです。娘の告白、さゆりの影、どんな思いを想像しましたか? 感想や評価をいただけたら励みになります。また次の物語で、どこかでお会いしましょう!




