僕は、君に死ぬ。
1,2,3。さて何回数えただろう。僕は自分の脈拍を手でそっと数えて、今、自分のおかれた状況を振り返る。目の前には、横に開く黒い扉。扉の向こうから薄っすら聞こえる先生と患者の声を、僕はやけに集中して聞いていた。
でも、たとえ集中して聞いているといったって、何も扉に耳を当てるような泥棒のようなことはしない。落ち着いて、パイプ椅子に腰を預けて、心臓の鼓動とリミックスするように聞いているだけだ。そうだ、僕は緊張する必要なんて、特段ないはずだ。だって、何も悪いことなんてしてないじゃないか。
わかってんのに、わかってんのに。胃の中がきゅるきゅると音を立てて、痛い。痛い。逃げ出したい。いや、逃げればいいのか?そうしたら楽になるかな。だけど、それって約束と違うんじゃ・・・・・・。
「染谷さん、診察室へお入りください。」
どこからか声が聞こえた。僕の名字を呼ぶその声に、結局のところは逆らうことなどできなかった。立ち上がって、見ていたように扉を横にスライドする。
「失礼します。」
ノックとかした方がよかったのかな、と、いらぬ心配事をゴミの山のように積んでいけば、まさに塵も積もれば山となると言ったように、なんだか先生と、その横に立っている優しそうな看護師さんまでもが、不満げに見えた。
「どうぞお座りください。」
ゴミの山が総崩れするように、もちろん先生方は微塵も怒ってなどいなかったんだと、その一言でわかった。僕は深呼吸をしながら緑の椅子に座る。今度はパイプ椅子じゃなくて、一気に座り心地が良くなった気がする。腰もさぞかし喜びの声を上げているころだろう。
「ええっと、染谷さん。今日が初めてでしたね?」
「はい。よろしくお願いいたします。」
もっとつたない言葉になるかと思ったが、不思議とすらすら言葉が呼び起こされていった。
「それじゃあ早速だけど訊いてもいいでしょうか?染谷さん。悩みとはなんでしょう。」
いきなりだ。思ったよりもスムーズに本題に入った。もしかして、もしかすると、意外と会話できちゃってんのかな。
人と普通に会話をする。それも、血のつながりのない、赤の他人と。ある程度の常識を踏まえた、実践型会話塾のような場所だと思った。ここならいける。
「んー。言えない感じですかね?なら全然いいのですが・・・・・・。」
「はっ、ひゃひ!!」
バカだ。完全にやらかした。アホすぎる。何が、実践型会話塾だボケ。そもそも、僕が今いるのは精神科の診察室だぞ。また変に浮かれてしまったせいで顔のあたりが余計に暑い。
悩み。なんだっけ、僕はそもそもなんでここにいるんだっけ。なんで、とか、どうして、ってそう考えている内は大抵出てこないのが筋なんだよなあ。かと言って、「悩みは特にありません。」とかそんないい加減のないこと言えるわけがないだろう。多分悩みがあるから来たんだ、てことは嘘になっちゃう。
「んー。ゆっくりでいいからね。」
先生の横に立っていた看護師さんが少し気まずそうにそう話す。いかにも優しそうな看護師さんはちゃんと優しかった。笑顔が飛び出たとき、えくぼが片方だけ作られたり、目元にまだ若いだろうにしわが出来ていたことから、これはガチだ。
・・・・・・待って、僕はほんとに何をしに来たんだ。看護師さんのえくぼを見る会じゃない。そういう塾じゃない。精神科だって、なにか、悩みを。
「あ、えと。。友達がいない。です。」
焦りながらだったが、仮にも長考をして出した答えがこれでは、恐らくかなりの拍子抜けだろう。さすがにこれには優しい看護師さんも、おでこにしわのある先生も怒るはずだ。そう思った。
「ああ、そうか、大変ですね。その気持ちほんとに分かりますよ。」
「ですねー。」
優しい。控え目に言って、天使だ。エジソンが長考した末に、電球じゃなくてトンカツを揚げたら誰もがひっくり返ったと思う。いや、トンカツは旨い。美味しい。でもそうではなく、そういう空気の話だ。求められた答えは、その時の空気によって変化するものだから、舌をぶらさげたエジソンにはきっと電球のような発明が求められていたはずだ。
そう、僕はそれくらいハズれたことをした。おかしいんだ。ドラマチックな展開になるかと思ったら、夢落ちだったくらいに冷める答えだったはず。
「まあでも、友達がいない、、うん。それは分かったんだけど、なんだろう、染谷さんはそれが全て原因で学校に行けてないって感じなのかな?」
先生があからさまに困惑したような顔をして言った。
「え。ああ、学校は行って、、、ます。そこは毎日。」
「おっとすいません、前の人と間違っていた。染谷さんは毎日学校に行ってるんだね。」
困惑から一瞬で動揺の色に変わったが、もしかしてそれほどまでに顔でも似ていたのだろうか。いや、まあ間違えることもそりゃああるか。先生だって、一日にどんだけ人の顔を見てるかわかんないもん。僕が思ってる以上にずっと、、ずぅと大変なんだろうなあ。
「じゃあ友達の作り方かなあ・・・・・・。」
「ううん、、はい。」
いらないことを考えすぎたせいで、なんでここに来たのかを忘れてしまった。そこまで大変な理由だったかな。それとも、そこまで大した悩みでもないかな。そうやってあちこちを見まわしながら考えていても、どうしようもない。やっぱり、正直に言おう。
「あのー。実は、なんでここに来たのか、忘れちゃったんですけど。」
「ということは、友達もいるってことですかね?」
「はい、います。」
これでは本当に無駄な時間になってしまう。どうしよう、でも思い出せない。そもそもなんで忘れたんだ。悩みだろ。まさか扉の前の緊張だけで、記憶が消し飛んだってことか?そんくらいで崩れる悩みは悩みと言えるのか?そうじゃない、今考えるべきは何をしにきたか、何を悩んでいたか、悩みの必要性とかはいらないんだよ。
「染谷さん。大丈夫ですよ。落ち着いて話してください。ずっと待っているから。」
「ああ、はい。」
ありがとうございます。って言いたいのに、言えない。違う、また関係ないこと考えて。あ、関係ないことないか。関係、あるよな・・・・・・・。
「同じクラスの森下!!」
「おおっ!」
「あ。ごめんなさい。つい、」
「いいよいいよ、思い出したんだね!」
「はい!」
同じクラスの森下だ!頭の中にあいつの顔が浮かんできたぞ。大声で名前を呼びながら、椅子を立ち上がる様は、まさしくスタンディングオベーションと言ったところか。看護師さんも小っちゃく拍手を取っていた。
そう、事の発端は、同じクラスの森下正也からだった。森下は、僕の数少ない友達であり、赤の他人の中では一番接しやすいやつだ。そんな森下からついこないだ、こんな相談を受けた。
「なあ染谷。俺、やっぱりおかしいよ。おかしい。」
首を横に何往復も振りながら、彼は口を酸っぱくして言う。おかしい、おかしい、とは言われても何がおかしいのかわからないので、まあ落ち着いてと諭すように僕は訳を訊いた。
「おかしいってどういう。」
「信じてくれるかい?」
「そんなにおかしいこと?」
「まあね。」
おかしいとは、本当にオカシイことらしい。多分可笑しいと笑えるようなことではなく、怪奇現象や超常現象的なオカシイものなのだ。特にオカルト好きの人ではないため、なんとなく察しがついた。
「幻覚が見えるんだ。幻聴も聞こえる。怖いんだ。見えない誰かが、俺に話しかけてきて。」
いや、まさかのまさか。超常現象や怪奇現象通り越して、もう取り憑かれてはしないのかな。幻覚が見えるとか幻聴が聞こえるとか、そういう経験したことない異様な恐怖感が背中を冷たくした。
「ごめん。あんま怖い話得意じゃなかったっけ?」
「いや、大丈夫、、」
大丈夫じゃあない。まったく大丈夫じゃない。背が丸くなったまま戻らなくなるくらいには大丈夫じゃないよ。年を老いたみたいに、ただずっと腰が丸い。変な冷や汗が丸い背中を伝ってからシャツに染みていく。僕はそれでも、未だ平気そうを保って訊く。
「どんな人が見えるの?」
「どんな人。そうだねー。」
放課後の廊下、階段に入る防火扉の前で僕らは突っ立って話していた。少しでも教室という人のたまり場を避けるための選択だったが、今となってから人が惜しくなってきた。
影と夕日が喧嘩をするように境目を沿って混ざり合う。こげきった茶の影が段々領域を増やし、僕らを包んでいった。それと同時に、長考を決め込んで黙っていた森下が口を開いた。
「今、通った。」
「え?」
訊きたくもない返答が返ってきてしまった。人がいない場所を選んだのも、森下であるが、思えばそういうことか。なんだかちょっと腹が立ってくるけど、まあいいや。なんかどうでもよくなってくる、多分余りの恐怖に麻痺してるんだろうな。僕はオカルト系が大の苦手だ。
「あ、でね。どんな見た目かって言うとね。」
人差し指で見えないそいつを追いかけて、指はやがて階段の踊り場で止まった。話しながら、森下は後ろを振り返った。そして、今度は僕に指をさした。爪の先がやけに鋭く見えるくらい、もう刺さりそうなくらいの勢いで、僕の目の前に指が現れた。
「え?」
「君だ。君と同じ姿をしてる。」
目がまん丸で、嘘をついているようないつもの冗談めかした彼ではなかった。これは、ガチなのだ。
「なんで。なんで僕、、なの?」
ますます怖くなって、心臓がどくどくと早くなる。震える声を出す。
「わからない。でも、君と顔がおんなじで、それ以外の誰でもない。鏡を見てたら、俺の後ろに。寝ていたら、ベッドの下に。付きまとわれてるみたいだ。」
「え、ほんとに。どういうことなのそれ、なんでそうなるん?」
「わかんないって!!!だからもう、付きまとってこないでくれ。疲れた。」
「は?いや、それはさすがに嘘だよ、、、、」
彼は本当に僕の前から消えた。階段の踊り場まで、僕は人差し指をその顔に突き刺していた。何かがおかしい、いや、オカシイ。僕の精神状態がおかしいのか、それともあいつが、オカシイのか。
「わかった。そういうことなら知っているよ。」
「え、本当ですか?」
自信満々にそう答えた先生は、深呼吸をしてなぜだか緊張してそうに続けた。
「あのね、本当に悪いとは思うけど、その、森下くんはきっと存在しない。」
「え?」
なわけない。だってあいつは、僕の友達で。僕の、僕の。
僕のなんだ?
「染谷くんは最初に入ってきたとき、ひどく緊張しているように見えた。でも、先生と話していてやけに緊張するような話題は持ってなかった。で、それで森下くん。こういう仕事をやってると、わかるよ。」
僕が僕じゃないような、まるで僕の中で、新しい僕が僕を暴走して奪おうとしているような気がする。
「それと、君は話してる途中に、何回も先生の横を見てたけど、それはなぜかな?」
「看護師、が見えました。ちょっとだけ茶髪気味で、白い帽子被った笑顔の素敵な人です。」
「いない。それにここに看護師なんて役割はない。」
「え?精神科じゃ。」
「そうじゃない。」
何を言っても、そうじゃない、そうじゃない。そうだ、いつもこうだ。僕は誰に何て言っても、そうじゃないって片づけられるんだ。僕には見えるあいつも、みんなには見えなくて、僕の初めてできた友達も誰にも見えてなくて、、そんで最終的には僕にすら、見えなくなるんだ。
僕だけが見える思い出が、僕にすら残らないままあっさり消えていく。
「じゃあ先生が話を聞こう。ゆっくりでいいから、話して。」
「今日、この相談所に、なんできたの?」