第15話
花梨の一日は、入念なストレッチから始まる。
それから湖の周りを軽くランニング。戻ってきたら木刀を使っての素振りだ。
道場なんてものがこの世界にはないから、湖の前に広がる草原で行う。
裸足になって無心に剣を振っていると、体の中が洗われていくようで気持ちがいい。
ようやく素振りが終わる頃には、着ている服が絞れるほど汗をかいてしまうけれど。
「そのドウギという衣類は存外艶めかしいですね」
そんな花梨を飽きもせず眺めているのは、花梨が滞在している屋敷の主――ヴィンセントだった。
「女性がズボンを履くなど、色っぽさの欠片もないと思ったのですが。いや、なかなか――」
仕上げのストレッチ中だった花梨は、鍛錬の最中にはあるまじき発言を繰り返すヴィンセントをじろりと睨みつける。
今日のヴィンセントは、フード付きの長いローブを着ていた。この濃紺色のローブが、魔導士の証らしい。
背中を流れる銀髪と相まってその姿はなかなかかっこいいのだが、中身はいかんせんヴィンセント。
口から吐き出されるのは、こんなくだらない発言ばかりだ。
ヴィンセントが言うドウギというのは、日本で着ていた道着を模したもの。
こちらの世界で着られていたカシュクールシャツとクロップドパンツをアレンジしたものだ。
画を描いて説明をしたら、メイドさんが半日で仕上げてくれた。
どうやら、こちらの世界で聖巫女という特別な女性達の正装によく似た衣装があるらしい。
もっとも聖巫女とやらの袴もどきは、上等のシフォンをたっぷりとつかったドレスに近い衣装だそうで、花梨の欲しがった袴は男がはくズボンみたいだとメイドさん達からはずいぶん渋られた。ヴィンセントの感想はまた別みたいだが。
「ヴィンセントって暇なの? そこでずっと人の観賞をやってて。魔導士団長って、鍛錬とか必要ないわけ?」
「優秀ですからね、いちおう私は。でも、心配していただいて嬉しいですよ」
嫌味のつもりで言ったのに。
わざと外れた答えを口にしているのか、本気でそう思っているのか。
それを感じ取らせないところは、もしかしたら本当は侮れない人物なのかもしれない。
大きく伸びをして、花梨はようやく立ち上がった。
一刻も早く汗を流したいけれど、ちょうど魔導士の団長さんがいるのなら見たいものがある。
「ね、ヴィンセント。ちょっと魔法っていうのを見せてよ」
初日に投げたマントが逆に覆い被さってきた、なんてものも魔法だったらしいけれど、はっきり目にしてわかるもので一度見たかったのだ。
「呪文とか唱えたりするの? 魔方陣とか必要?」
「おや? カリンの世界には魔法などないのでは?」
「ないよ。でも、魔法のことを書いた本とかはあるんだ。もちろん、想像でね。架空の世界の話を、小説とかマンガとかにしてあるの。草司が好きだったから、おまけで読んでたんだよね」
「草司、とは?」
「――双子の兄。突っ込むところはそこなのか」
何となく力が抜ける気がしてヴィンセントを見ると、心外そうに肩を竦めている。
「ライバルになりそうな相手のことは全て知っておきたいですから」
なんて言うくせに、きっと本気で花梨を好きなわけじゃないんだろうな、ヴィンセントは。
だから、ヴィンセントのセリフはあっさりスルーだ。
「で、見せてくれるの? くれないの?」
「いいですよ。ようやく私に興味を持って下さったんだと嬉しく思っていたところです」
「いやいや、違うから」
即行で否定したけど、ちゃんと通じているか。
満面の笑みを浮かべてヴィンセントが近付いてくる。
「あ。それ以上、今は近付かないで。汗かいているから」
「おや、かわいらしい事を言いますね。そうやって恥じらってくれるのは、私を男として見ているからでしょうか?」
「――だから違うって」
ヴィンセントもそうだが、こちらの男性達は皆いい匂いがする。
男が花の香水なんてって花梨は思ったけれど、世界が違うならそれが習慣だってことがあってもおかしくない。
もちろん、いぜん会ったエーメの妹・シェリーやメイドさん達もとってもいい匂いがしたけれど。
だからちょっと躊躇しただけだ。
いくら相手がヴィンセントとはいえ、いい匂いをさせている男に汗をかいたまま近付きたくない。
「じゃ、ごく簡単な魔法をやってみせますね」
そう言うと、ヴィンセントは花梨の前に腕を伸ばした。
ヴィンセントは何も呪文など口にしなかったし、大げさなこともしてないのに、花梨の前に差し出された手のひらには、何かキラキラ光る小さな粒子が次々と現れる。
「ふ、わぁっ。きれい」
朝の光に照らされて、バスケットボールぐらいの球状の中にキラキラとした氷の粒が浮遊している。球状の内部にある水の粒子が急激に冷やされて氷晶となっているのだろう。
これってダイヤモンドダストってやつ?
パシン、と音がしてダイヤモンドダストを作り出していた球状の形態が壊れる。
あふれ出した氷の粒は、花梨の周りでくるくると回っていつしか消えていった。
涼しい風が、一瞬だけ花梨の体にまといついた気がする。
何か、ちょっと感動しちゃった……。
体がぴりぴりするのは、魔法を体感したからか。
「あ、見せてくれてありがとう。ね、誰でもあんなことが出来ちゃうの? さっきの、どうやってやったの? あれ、もう一度出来る?」
花梨が畳みかけるように質問すると、ヴィンセントは口を開きかけたが、すぐにその口が手で覆われる。小さな笑いを堪えるように。
「朝食が先のようですね。質問にはその後でお答えいたしましょう」
む、もしかしてそこまで聞こえているんだろうか、私の体内時計の音が……。
聞こえているみたい、だ。
「オネガイシマス」
花梨は空腹を訴えるお腹を抱えてうなだれた。
あれ、おかしいな。ヴィンセントの章になりつつある。