猫とクズ男
私の心の中をそのまま映したら、あの空みたいになるのだろうか。そんな益体のない考えが思い浮かぶほど、今日の空はどんよりと淀んでいて、お世辞にも「良い天気」なんて言えそうもなかった。肌にまとわりつく外気から、私は粘度の高いどろりとした液体を想像する。確か、今日の湿度は……やめよう。考えれば考えるだけ不快指数が増すだけだ。
今朝、彼はいつものように部屋を出ていった。次の約束はしていない。それもまた、いつものことだ。
大体夕方ごろ。私の仕事も終わり部屋に帰ってきて一息ついたあたり。ふらりと突然やってきては、「腹が減った」やら、「風呂に入りたい」やら、勝手なことを口走る。そして、まるで「彼から離れられない」ことを確認するかのように、私を抱き、そして朝になってまたふらりとどこかへ行ってしまうのだ。ついでとばかりに財布の中からいくらかのお金をくすねて。それが一ヶ月に二回くらい。
私は今年三十歳になる。彼との関係は五年前くらいからだっただろうか。出会った頃はもっと普通の恋人らしい生活をしていたような気がする。いや、それでも普通とはかけ離れた関係であったことは、言い逃れのない事実だったのだが。
彼はいわゆる夢追い人というやつ、らしい。「らしい」と最後に付け足したのは、私が彼の夢について知らないからだ。というと語弊がある。彼から話自体は聞いている。しかし、数回会うたびに違う「夢」を語られるこちらの身にもなって欲しい。私はいつからか、彼の夢についての話を、話半分で聞く以上のことをしなくなった。誰だってそうだろう。この感覚は世間一般のそれと大きく齟齬は無い、と思っている。
深夜まで寝かせてくれなかった、心の中の彼に向かって毒づきながら、重いまぶたをこじ開けて、私はマンションのエレベーターを呼ぶ。下に向かう矢印が書かれているボタンを人差し指で押し、丁度一緒になった同じ階の中年男性に会釈をする。しばらくして、エレベーターが七階に着いた。両開きのドアが、ゆっくりと開く。中へ入り込み、一階のボタンを押す。中年男性も同じように入り込むが、私は知らないふりをしてカバンの中からワイヤレスイヤホンを取り出し、耳に着ける。ノイズキャンセリングによって、エレベーターが出すホワイトノイズすら聞こえなくなり、スマートフォンに入っている音楽が鼓膜を震わせる。流行っているというだけで選んだ、別に好きでもなんでも無い曲を聞きながら私は仕事場に向かうのだ。
最寄り駅まで徒歩五分ほど。そこから上野駅まで十五分。山手線へ乗り換えて品川へ。品川駅高輪口から歩いて十二分のオフィスビル、その九階が私の仕事場だ。大手通信会社グループのコールセンター。はっきり言って面白くもなんとも無い仕事だ。想像してみて欲しい。午前九時から午後五時まで延々と顔も知らない相手からの電話を受け続ける毎日を。人によっては苦痛で仕方がないのではないか? 付け加えるならば、ひとたび通話が始まれば、ヘッドセットからは罵声のシャワーが耳に浴びせられることも珍しくない。メンタルを壊して辞めていった同僚を何人も見てきた。
しかし、意外にも感じられるかもしれないが、私はこの仕事に対して明確な苦痛を抱いたことはない。一方で面白みも感じたためしも無いけれども。他人からの悪意を受け流すのは得意だ。他人のご機嫌取りをするのは得意だ。私が担当したクレーム客は、通話が終わる頃にはすっかり気を良くして電話を切る。小さい頃から人の顔色を伺うのが得意だった。私の両親はいわゆる「良い親」では無かったものだから、毎日両親の顔色を伺って生きてきた経験からなのだろう。そして、いつからか顔を見なくても声色だけで相手の機嫌がわかるようになった。
オフィスビルの一階。綺麗にこさえられたエントランスを通り過ぎ、社員証をかざしてゲートを通る。エレベーターを待つ行列の最後尾に並び、イヤホンを外してケースにしまった。しばしの待ち時間。いつもこのタイミングで思うことは、このビルは酷く綺麗に取り繕ってはいるけれど、中で生活する人間の心は、表情は、生活は、どれだけ綺麗なのだろうか、等というどうでも良いことだ。少なくとも私に限って言えば、このオフィスビルのように綺麗ではない。自分がそうだからといって、他の人間も同じだろうと考えてしまうのは、自身の歪んだ認知によるものだと理解してはいる。ただ、他の人間も同様に綺麗である筈が無い、という確信に近い思い込みがあることも事実だ。張りぼての美しさ。張りぼての清潔感。それらにシンパシーを感じてしまうのは私だけだろうか。
見てくれについてよく褒められた。自身が一般的に「美人」というジャンルにカテゴライズされることを私は理解している。ただ、内面を褒められたことは少ない。学生時代――いや、学生時代に限らずだ――お付き合いをした恋人は、三ヶ月もすれば私から離れていった。彼を除いて。
私と一度恋人同士になった人間達が一様に言うセリフがある。「お前はつまらない」のだそうだ。美人は三日で飽きるとは、なんとも昔の人はうまいことを言ったものだと思う。張りぼての美しさ。張りぼての清潔感。一皮剥けば私はつまらない人間だ。他人の顔色を伺って、望むがままに行動するだけの人間。「実は私は未来からやってきたロボットなのです」という新事実が発覚したとしよう。私は間違いなくそれを信じる。
さて、ようやっとエレベータがやってきた。人の濁流に身を任せながら、ぎゅうぎゅうの庫内に入り込む。「9」と書かれたボタンを押そうと腕を伸ばしかけてから、既にオレンジ色に点灯していることを確認してやめる。九階には私が勤めるコールセンターしかない。どうやら、エレベーターの中に同僚が居るらしい。
「あ、佐倉さん」鳥が鳴くような美しくか細い声が聞こえた。「おはようございます」
「おはようございます」狭いエレベータの中で、なんとか身を捩り、声の方向に振り返って返事をする。眠たそうで野暮ったい顔が印象的な後輩だ。「眠たそうで野暮ったい」と失礼な評価を述べたが、一方でそれを差し引いても彼女には愛嬌がある。誰にでも可愛がられるタイプ。話すたびに、自分の内面の浅ましさが露呈するのではないか、という謎の危機感さえ沸き起こる程度には、私は彼女が苦手だ。他人の顔色を伺って生きてきた私にはわかる。彼女はいつだって心の底から笑い、心の底から楽しみ、心の底から涙する。何度かクレーマーに心無い言葉をぶつけられて、すすり泣く彼女を慰めたっけか。
エレベーターはパブリックスペース。雑談は社内規定により固く禁じられている。そうでなくても芋洗いの様相を呈した庫内で気軽に話せるほど私は会話に飢えていない。何度か途中の階で止まりながら、エレベーターは目的の九階へたどり着いた。
「すみません、降ります」と声を上げるまでもなく、前方の方々が律儀に一度エレベーターから降りる。軽く会釈をしながら、私はモーセの奇跡のように、進む道が開けたエレベーターを進む。木村さんも慌てた様子で私の隣についてきた。
「佐倉さん?」彼女が何やら心配そうな声を出す。心の底から私を心配している声だ。「体調大丈夫ですか?」
「ありがとう、木村さん。大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」人当たりの良さに特化した笑顔を仮面のように貼り付けて返事をする。
「……もしかして、例の恋人ですか?」あぁ、そう言えば彼女は知っていた。私と彼の非生産的な関係を。飲み会で酔い過ぎて、うっかり私が口を滑らせたのだ。「早く別れたほうがよいですよ」
「自分でもわかってるんだけどね」
「佐倉さんはお綺麗ですし、もっと良い人がいますよ」これも本心。「私許せないです」これもきっと本心。
「ありがとう」本心からの言葉に、嘘で塗り固められた礫を返す。やめてくれ、と思う。彼女は私には眩しすぎる。「でも、大丈夫だから」
「で、ですが……」
「あ、木村さん。始業時間が迫ってるよ、急がなきゃ」そう言って角を立てないように会話を打ち切る。私はうまく笑えているだろうか。無意識で頬に手を当てた。大丈夫。笑えている。大きなお世話だ。彼女にはわからない。頬を触った手を、そのまま彼女に向けて小さく振ってから、自席へ向かう。
自席に座る直前、私は「大きなお世話」と彼女に対して感じた事実にはっとした。大きなお世話。不思議だ。彼女の言うことはご尤もで、私だって彼との関係を精算したいと常日頃から望んでいるはずだ。なのにどうして?
考えながら、明るい緑色のオフィスチェアに腰掛ける。カバンをデスクの引き出しにしまってから、業務用パソコンを起動して、タイムカード代わりの打刻アプリを起動し、「出勤」のボタンをクリックする。ヘッドセットを頭に取り付けて、着信を待つ。程なくして、本日一件目のクレーム電話が私に割り振られた。通話を開始するボタンをクリックし、笑顔でマイクに向かって喋る。
「お電話ありがとうございます――――――――」
§
午後六時すぎ。コールセンター業務が閉まった後、スーパーバイザーからのフィードバック会議をこなすと、私の仕事は終わりだ。自分のパソコンで打刻アプリを起動し「退勤」のボタンをクリックする。引き出しにしまいこんだカバンを取り出して帰宅。
今日は何と無く仕事に身が入らなかった気がする。尤も、普段から真剣に仕事に打ち込んでいるわけではない。しかしどうにも今朝、木村さんの言葉に「大きなお世話」と感じてしまったことが気にかかる。クレーム電話を受け流しながらずっと考えていた。
会社からの帰路を駅へ向かう人の流れに沿って歩く。歩きながらもずっと考えている。私は彼との関係を望んでいる……のだろうか。何度も「もう別れよう」と思った。思わせられた。そんな彼との関係を。考え事をしながら歩くときは、帰宅ラッシュの人混みは楽だ。前を歩く人の背中を馬鹿みたいに追いかけるだけで良いのだから。考える。考える。
そんな折、ふとカバンの中のスマートフォンが震える気配を感じた。歩きスマホは良くないと思いながらも、カバンから簡素なクリアケースに包まれたそれを取り出し、通知を確認する。メッセージアプリの通知だ。差出人は「リョースケ」。彼だ。驚いた。昨日会ったばかりで、二日連続とは彼らしくない。ロックを解除して、メッセージの内容を検める。だらだらと何やら書かれていたが、要約すると「今日も会いたい。部屋で待ってる」とのことだ。小さくため息を一つ。恐らく明日も寝不足だろう。私はスマホを手早く操作して、了解の旨と、夕飯は何が食べたいかを尋ねるメッセージを送る。数秒ほどして、「とんかつが食べたい」というメッセージが返ってきた。
とんかつか。また面倒なものを。そう思いながらも、裏腹に私は冷蔵庫の中身と、最寄り駅内に併設されたスーパーで何を買えば良いのか、そして帰った後の一番効率の良い動き方などをシミュレートする。確かキャベツは残っていたはずだ。ご飯は……。あ、予約を忘れてた。早炊きで炊いてっと。味噌汁はあり物で作るとして……、スーパーで買うのは、豚ロースとパン粉を切らしていたな。そんなことを考えながら、いつものルートを通って自宅の最寄り駅まで買える。長いこと続けてきた都会暮らし。満員電車にも慣れたものだ。
スーパーに寄って、豚ロースとパン粉を買う。きっと彼はお酒をご所望だろう、と考えて昨日切らしてしまったビールも数缶。その他、切らしていてそのうち買わねばと思っていた消耗品をいくつかカゴに入れて、レジで会計を済ませる。
スーパーから出て、閑散とした家路を歩く。足取りはいつもよりゆっくり。脳内リソースの大部分を締めていた、帰宅した後の動き方シミュレートを完了させて、先程まで考えていた「大きなお世話」について改めて考え始める。しかし、どれだけ考えても答えは出ない。私は彼と別れたいはずだ。不毛な関係を断ち切りたいはずだ。そう思ってきたはずだ。だが、何故だか離れがたく、ずるずるとここまできた。別に彼のことが嫌いな訳では無い。だが、好きかと、愛しているかと、聞かれれば私は否と答えるだろう。答えられるだろうか。いや、答えられるはずだ。
つまるところ、彼との関係から、私はなにかを得ている。ふとそう思った。それは天啓のようでもあった。安っぽい恋愛感情でもなんでもなく、もっと現実的ななにかを得ている。なんなのかは分からない。分からないが、「私は何かを得ている」ということに、確信に近い納得感を抱いた。
さて、「何か」とはなんだろう。考える。考える。考えながら歩く。歩きながら考える。考えることに対して、何かしらの徒労感を感じながら。無意味だと理解しながら。それでも私は考えた。そして、答えが出ないまま、私はマンションにたどり着いた。
鍵は開いていた。彼は鍵を閉めない。私が何度注意しても。
「ただいま」扉を開ける。「リョースケ、いるの?」
彼が部屋の奥からパタパタと出てきた。彼はクズだが、顔は良い。ついでに人当たりも良い。人懐っこさを感じさせる無防備な笑顔が、実際の年齢とちぐはぐな若々しさを感じさせる。
「おかえり、カナエ」そう言って彼が、靴を脱いだ私に勢いよく抱きついた。
「なぁに? どうしたの?」これは話を聞いて欲しいモードだ。すぐに察する。「何かあった?」
「ちょっと、嫌なことがあって」私の首筋に顔を埋めて、彼がくぐもった声を出す。「なんか、カナエに会いたくなった」
「そっか。とりあえずご飯作るね。とんかつ、食べたいんでしょ?」
右手で彼を優しく引き剥がして、スーパーの袋を見せる。彼が頷いた。
§
ご所望のとんかつ定食を作り、揃ってビールを二缶ずつ開け、彼の愚痴を思う存分に聞いてあげた後、深夜二時。私を思う存分抱いた彼は今はすうすうと静かな寝息を立てている。彼は自分勝手なセックスをする。彼に抱かれている最中私が考えていることは「早く終わらないかな」だけだ。避妊もしないものだから、付き合って一年くらいで私はピルを飲み始めた。子供を産む気にはなれないし、彼もそれをご所望ではない。
幸せそうに寝息を立てる彼の背中に少し爪を立ててみる。眉間にしわを寄せて小さく唸り声をあげるも、目覚めることはなかった。
本当に気まぐれな男だ。自分のタイミングでふらりとやってきて、わがままを言い、そして幸せそうに寝ている。この人は私がいなければ生きてはいけないのではないか、と錯覚してしまう。いや、恐らく錯覚ではない。何度か言われた。「俺、カナエが居なかったら、生きていけないかも」、と。私だからわかる。その言葉は正しく心の底からのものだった。
ふと、亡くなってしまった母方の祖父母が飼っていた猫を思い出した。小太郎と言う名前だったか。幼い頃に惜しまれながらも亡くなってしまった茶トラ猫。実家がペット禁止のマンションだったことから、物珍しいその生き物に私は大層興味を惹かれた記憶がある。祖父母の家に遊びに行くたびに、小太郎を追いかけ回したものだ。最初は「小さな子供」を怖がる気持ちが勝っていた小太郎も、徐々に私に慣れ、最後は気まぐれにすり寄って来る程度には懐いた。
勿論、猫という生き物は気まぐれだ。人間の思うようにはならない。猫は自身がしたいように生きる。寝たいときに寝て、食べたい時に食べ、撫でてもらいたいときにだけ甘える。そんな猫の気質が好きだった。
しかし、なぜ彼を見て、小太郎を思い出したのだろう。いや、「なぜ」など考えるべくもない。彼も猫のように気まぐれな生き物だ。寝たいときに寝て、食べたいときに食べ、私を抱きたいときにだけ抱く。気まぐれで、それでいて見た目はふてぶてしくも愛らしい。考えれば考えるほど、小太郎と彼の共通点が浮き彫りになっていく。喧嘩をしたりして、少し冷たくすると、途端に不安になってすり寄ってくるところ。いつの間にかどこかへ行ってしまっているところ。気づけば帰ってきているところ。
「ふふふ」
思わず笑いが溢れる。
わかったのだ。
わかってしまった。
私は先程、彼から何かを得ているという確信を得た。もう一度言う。それは天啓にも近いもので、限りなく事実に近いものだ。もう疑いようが無い。だから離れがたい。だから離れられない。
その「何か」とは一体なんなのか。
「うん……。どうした? カナエ」
「ふふ、ふふふ。なんでも無い。ふふふ……。ふふ。ごめんね起こしちゃって」
「え? なんか怖いんだけど」
「気にしないで」息も絶え絶えになりそうなほどに笑いながら答える。「ちょっと、わかったちゃっただけ」
笑いを堪えきれない。
「何々? 何がわかったの?」
「ふふふ……。ううん、リョースケには教えない」
「えー?」
眠そうに目をこすりながらも、不満げな表情を浮かべる彼を見て、ますます私は笑ってしまう。
両親はいわゆる「良い親」ではなかった。私は他人の顔色を伺って生きてきた。それが私の処世術だった。
他人に支配されて生きてきた。他人の感情に振り回されて生きてきた。
私は支配され続けて生きてきた。
でも、どうだろう。彼を見ろ。
彼はきっと私無しでは生きていけない。突然別れを切り出せば、彼は狼狽するだろう。これは予測ではない。確定した未来だ。なんでわかるかって? 一度試したことがあるからだ。別れを切り出した私に、彼は涙さえ浮かべながら懇願してきた。「別れたくない」、と。心の底からの言葉だった。間違いなく。何しろこんなクズを、どうしようもない男を、大切に大切にかわいがってあげられる女なんて私くらいだ。付き合った当初、彼には私のような関係の女がたくさんいた。別に責めるつもりは無い。何しろ、その女達は皆彼から離れていったのだから。
彼は小太郎なのだ。いや、小太郎に近い何かだ。気まぐれでありながらも人間様が居ないと生きていけないか弱い生き物なのだ。ペットなのだ。
つまり私はペットを飼っている。大事に大事に面倒を見て、気まぐれないきものを「やれやれ」と言いながら愛でている。彼の生殺与奪の権利は私が握っているのだ。
彼はきっと、私を都合の良い女だと思っているだろう。「飯を作れ」といえば作ってくれる。「風呂に入れろ」と言えば用意してくれる。「抱かせろ」と言えば、抱かせてくれる。彼にとってのイメージは「彼が私を支配している」構図だ。しかし、逆だ。
私が人間様で、彼はペット。腹が立つこともある。気まぐれに手を出すと、引っ掻かれ、噛まれ、そして威嚇される。だが、ペットを支配しているのはその実人間だ。
「ふふふ……」
「な、何? マジで怖いんだけど……」
「ううん。気にしないで。リョースケ」
そう言って私は彼を抱きしめる。素肌が擦れ合う感覚が心地よい。この心地よさは、別に肉体的接触によるものではない。悟ったのだ。私は悟りを得た。
「そういえば、嫌なこと、忘れられた?」
そう尋ねる私に、彼が「あー、うん」、と答える。お腹が一杯になって、散々甘えて、撫でてもらえば満足する。
彼は猫だ。いや、それは正確ではない。彼は猫ではない。彼と猫を同一視するなど、猫に対して失礼だ。
彼は、私のペットだ。愛玩動物ホモ・サピエンスなのだ。
彼の望むものを与え、彼の望むがままに行動し。そして、彼は私に依存している。ちっぽけな征服感を感じたいが為に、吹けば飛ぶようなプライドを傷つけられれば私の元へ来る。そして、私に撫でてもらって機嫌をなおす。
征服しているのは私だ。
「ふふふ、良かったね、リョースケ」
彼の柔らかな髪の毛を手で梳く。気持ちよさそうに彼が目を細めた。久しぶりに心の底からの言葉を吐けた気がする。久しぶりに心の底からの笑顔になれた気がする。彼が私を見る。何やら満足気な表情をしている。知らないだろう。知る由もないだろう。彼は自分が偉いと思っている。しかし逆だ。私が彼を支配し、征服している。
「大丈夫、私がいるからね」
生かすも殺すも私次第。私次第なのだ。
私は微笑んだ。私が死ぬ時、貴方も殺してあげるね。じゃないと生きていけないよね。それは可哀想だから。ちゃんと殺してあげるから。
「安心して」