オマエダッタノカ
目撃者を探しています。
令和三年八月十三日午前一時頃、この付近で乗用車と歩行者のひき逃げ死亡事故が発生しました。当事故を目撃された方は左記までご連絡ください──。
丁字路付近に設置された古びた電柱の真下、そんな物騒な文言が記載された見慣れた立て看板に妙齢の女が一人、ほとんど寝そべるような体勢でもたれかかっている。その様相は、さながら不法投棄されたマリオネットといったところだろうか。
時刻は午前一時、川越の外れにあるショットバーからの帰り道。四、五杯ほど引っかけたカクテルによりいつになく気が大きくなっていた清掃会社勤務の若手社員、久保賢一は、誘蛾灯に吸い寄せられる哀れ羽虫のように、気づけば女のもとへふらふらと歩みを進めていた。
「君、大丈夫?」
「……はい」
生温い夜風に消え入るような、か細い声。
どうやら酔いつぶれているらしい。いかにも危うい呂律がそれを物語っている。
世間は今、お盆休みまっただ中。近隣の大学に通う薬学生だと言う彼女は、おそらく帰省中の友人らと同窓会という名のどんちゃん騒ぎでもって羽目を外し過ぎてしまったのだろう。ほろ酔いの思考でそこまで一気に推測してから久保は、そして女を自宅まで送り届けることにした。
無論、そこに下心はない。何せ久保は既婚者である。新婚である。ただ、どこか陰りのある雰囲気や曲線的な身体のシルエットが、久保の好みと合致していることは事実であった。
「ほら、掴まって」
数秒のタイムラグのあと、黙したまま手を伸ばす女。快く肩を貸す久保。
妖しげな月明かりの下、通夜よろしく静まり返った住宅地を二人並んで歩く。ミュールの底が硬いアスファルトを打つたびに女の長髪が、真っ赤なマキシ丈ワンピースの裾が、控えめに揺れる。時折香る甘い匂いは香水だろうか。白檀調の濃厚な芳香が幾度となく鼻先をかすめた。
辺りに人気はなく、虫の音すら聞こえず、眼前には深く、黒々とした闇がただひたすら広がっているだけである。
大した会話もないまま、やがて十分ほどが経過した頃だろうか。周囲を木々に囲まれた、傾斜の緩やかな坂道を登りきったところで「ここです……」と女が臙脂のネイルで指し示した先には、外壁が幾多もの蔦で覆われた二階建ての一軒家があった。
経年劣化で黒ずんでしまったと思われる木製の表札には「黒瀬」の文字。
いわく、母親と二人暮らしらしいが、時間が時間だけに灯りは消えている。
「部屋までお願いします……」
「あ、ああ」
直後、扉に手をかける。鍵が開いている。ためらいながらも、そのまま玄関に足を踏み入れる。
正直、なんだか薄気味悪い。それは幽霊屋敷然とした異様な外観も手伝ってのことだとは思うが、いずれにせよ久保の脳内では今、後悔にも似た念が螺旋状に渦を巻き始めていた。
「……」
耳が痛いほどの静寂、軋む廊下を進むたびに心拍数の上昇を自覚する。脂汗がこめかみの辺りをたらりと伝ってゆく。
突き当たりを左に折れ、言われるがまま奥の襖を開けたときのことだ。ほのかな線香臭と共に、背筋の辺りにぞっと寒々しいものがひた走った。
震える指先で中央のペンダントライトを引っ張ると、そこには八畳ほどの和室が広がっていた。
何やら嫌に整然としている。
ただならぬ不安に駆られた久保は、女を手際良く畳に寝かせると、
「じゃあ、俺はここで──」
と、次の瞬間、背後に妙な気配を感じ、脊髄反射的に後ろを振り返った。
「うわあああ!!」
思わず絶叫。
視線の先、和室の出入り口にぽつねんと立っていたのは、背の高い、青白い顔面をした痩身女性だった。年にして四十代後半。この粗末な寝間着姿の人物が女の母親だということに気づくまで、さして時間は必要としなかった。何せ顔が瓜二つ。彼女は、女をやつれさせ、そのまま老けさせたかのような面立ちをしていた。
ひどく落ち窪んだ眼窩の奥に潜む、ぎょろりとした一対の三白眼が、ただただじっとこちらを見つめている。
久保は、感じた気配が霊的なものではなかったことに安堵しつつ、いやしかし不審者認定されてしまっても困ると、事の経緯を平時の一・五倍速で捲し立てた。
「……というわけなんです」
すべてを話し終えた久保に、母親は艶のない、だらしなく伸び切った黒髪を垂れ下げながら深々とお辞儀をし、低くかすれた声で律儀に礼を述べた。
「娘のためにわざわざ、どうも」
「いえ……」
つぶやきながら、見るとはなしに後方に視線を放る。
久保が我が目を疑ったのは、その刹那、
「……!?」
いない。今の今まで畳に寝そべっていたはずの女の姿が、どこにも見当たらないのだ。
久保は半ばパニックに陥りながら周囲を見渡す。隈なく見渡したところで、ある一点──奥の仏間に設えられた仏壇の遺影の前で、ぴたりと眼球が止まった。
「嘘だろ……」
ほとんど無意識のうちに漏れた声。
この言葉に呼応するかのように、母親が訥々と語り始めた事実は、常人には到底理解しがたいものであった。
「娘が、麗奈がひき逃げに遭ったのは、二年前の今日のことでした」
「……」
「犯人はまだ捕まっていません」
「そんな……」
「実は昨年の命日にもあなたのような親切な方が、娘を自宅まで送り届けてくださったんです。もっとも、私の前には最後まで姿を現してくれませんでしたが」
あはは、と母親が力なく笑う。弓なりに弧を描いた双眸には、うっすら光るものが滲んでいる。
幾ばくかの沈黙のあと、
「これもきっと何かのご縁です。娘のために線香を一つ、あげてはいただけないでしょうか?」
「ええ、もちろん」
動悸を感じたまま、それでいて乞われるまま仏壇の前に正座し、慣れない手つきで線香に火を灯す久保。
久保の脳裏には今、帰り道で見かけた件の立て看板が高解像度でもって浮かび上がっている。女の魂は今もなお、あの丁字路辺りを彷徨い続けているのだろうか。すっかり酔いの醒めた頭で思いながら、そしてある一つの想いを胸に久保は、目の前の遺影に手を合わせた。
ゆらゆらと立ち昇る煙を無言で見つめる二人。
針が止まったままの壁かけ時計は、奇しくも事故発生時刻と同じ午前一時を指し示している。
「どうか、どうか安らかにお眠りください」
そして久保は、心の中でぼそりと独りごちる。
……君があのときのコだったなんてまさか夢にも思わなかったけれど、ごめん。俺には自首するつもりがないんだ。何せ来年には妻が出産を控えているものでね。旦那がひき逃げ犯だなんてシャレにならないだろう?
この重い十字架を背負って、麗奈さん、君のぶんまで生きていくよ──。
直後、遺影に写る女の両目から赤黒い雫が滴り落ちたのとほぼ同時、ひき逃げ犯の鼓膜を静かに揺らす声があった。
「オマエダッタノカ」
意識が、途切れた。
『オマエダッタノカ』完