脱走
「あら?」
唇を離した魔女が首を捻る。
「毒が効かなかったかしら?」
ヘイレング卿は顔を汗まみれにしながらも、弱る気配すらなかった。必死で身を捩り、棺桶の縛めから逃れようとしている。
「超即効性の筈ですのに……」
魔女は鉄鍋の中の液体をゆっくりと搔き回した。
「超即効で苦しみはじめ、長く激しい苦しみの末にゆっくりと、ゆっくりと、死んでいく筈ですのに……。ジョリン・ジョリン・ターナー男爵との会話が長すぎたのね。液体にかかっていた魔力が飛んでしまったんだわ」
そう言うと、呪文を唱えはじめる。
「海の子供達よ、集え、ここに。黒く血塗られた安息日にアイアンマンのパラノイドを捧げよ。天国と地獄の端まで煙アゲアゲよ。若くして死んだ夜を転覆させよ。首のない十字架に戦いの豚を……」
ヘイレング卿は先程のジョリン・ジョリン・ターナー男爵の作ってくれた時間を無駄にはしていなかった。弱体化されたヴァンパイアの力を少しずつ、己を縛める薔薇の鎖に集め、緩くしていた。
「ガアッ!」
渾身の力を込めて、両腕でそれを引き千切った。
「パァナマァッ!!」
「あっ!?」
魔女が初めて慌てた。
「捕らえなさい! リッチー!」
「ジャンプ!」
背中からコウモリの羽根を伸ばし、ヘイレング卿が天井まで飛び上がる。
「ゲット・ハイヤー! アンド・ハイヤー!」
ハイトーンになるほど鋭さを増すその声に、リッチーは思わず聴き惚れてしまった。
「何をしてるの、リッチー!」
「……はっ? しまった聴き惚れてしまったわい!」
慌てて追おうとしたが遅く、開いていた大きな窓からヘイレング卿は外へと飛び出していった。黒い大きな満月の中へ飛び込むように。