結界
「魔女タル・アイオミ……」
ヘイレング卿は突きつけるように、言った。
「……さようなら」
こうなっては仕方がない。力を消耗してしまうが、コウモリの翼で空へ逃げるしかなかった。相手はあまりに多勢だ。何より魔女の力はヴァンパイアをも縛る。
しかし、背中から翼の自由が失われていた。拳を握ろうとしても力が入らず握れないように、麻痺した感覚がヘイレング卿をいつの間にか襲っており、逃げることをさせなかった。
「フフフ……。飛べないでしょう?」
魔女の得意げな笑みが黒い月明かりに濡れる。
「ここはわたくしの結界の中。逃げることは叶いませんのよ」
「さっきから同じところをぐるぐる回っている気がしたが……」
ヘイレング卿は仕方なく魔女のほうへ向き直った。
「これも貴女の仕業か」
「貴方を逃さない」
魔女の目が、ヘイレング卿を鋭く突き刺すように見つめる。
「160年、この時を待ったのよ」
殺気を放ちながら、リッチー・ブラックヘアが黒いストラト・ソードを手に、前へ出た。
「待って、リッチー」
魔女がそれを止めた。
「わたくしが直々に殺したいの」
とても殺したそうな表情を仕方なく収め、リッチーが後ろへ下がる。
「なぜだ……。タニヤ」
ヘイレング卿は魔女を説得しにかかる。
「なぜ僕を殺そうとする? 君と僕は昔……愛し合っていた筈だ」
「今はタニヤではないわ。タルとお呼びなさい」
魔女はそう言うと、少しだけ懐かしそうな表情を浮かべた。
「生まれ変わったのよ。あの麗しい愛の日々はもう、どこにもありません。失われて、そして二度と永遠に見つからないの」
そして赤い口を大きく開き、笑わせた。
黒い月を背に、白い牙だけのように見える魔女の姿を見て、ヘイレング卿は思わず口にした。
「貴女は邪悪だ!」
「恋に狂った女は誰でも邪悪なものですのよ」
魔女が懐から銃を取り出し、
「長い時を……貴方と再び愛し合える時を待ったのに……」
ヘイレング卿に突きつけた。
「貴方は! あんな! くだらない! 胸が大きいだけの女に! 心を奪われて! ヴァンパイアと愛し合う人間は、わたくしだけでよかった筈よ!」
黒い月夜に銃声が響いた。
銀の銃弾がヘイレング卿を襲う。
しかし、それは逸れた。
「あっ?」
慌てた声を漏らす魔女に、素速くヴァンパイアは襲いかかっていた。その怪力で魔女の胸に手を深く、突き刺した。
「タル!」
リッチーが目を見瞠き、叫んだ。
その胸から腕を引き抜いたヘイレング卿の手には、脈打つ心臓が握られていた。
「エ……ディー……」
魔女タル・アイオミは口から真紅の体液を流しながら、愛しい人の顔を熱烈に見つめた。
「貴方……わたくしを殺すのね」
「邪悪を滅するのだ。それだけのことだ」
ヘイレング卿の顔に後悔の色は一欠片もなかった。
「消えろ! この世から! 僕はおまえなんか知らない!」
手に掲げていた魔女の心臓を、ヘイレング卿は躊躇いひとつなく、握り潰した。
「タルーーっ!」
リッチーが悲痛な声をあげながら、動かなくなったその体を支えようと、駆け寄った。しかしそこにもう彼女の命の火はなく、ぐねぐねとその腕の中で、重力に引きずり下ろされるままの屍となっていた。
魔女が引き連れていた黒い集団が、森に立ち込める霧のように消えた。彼女が魔法で作り出していた者たちだったようだ。
リッチーだけは消えることなく、そこにいた。魔女タル・アイオミの亡き骸を抱き、蹲っていた。涙と一緒にその額から前髪がパサリと落ちたが、気にする様子もない。
「愛してくれるやつはいたんじゃないか……。新しい恋人と生きていけばよかったものを」
戦意を失っているリッチーから空へ視線を動かすと、ヘイレング卿は言った。
「結界が解けたようだ。私は人間の街へ帰る」
リッチーは追わなかった。その場で石のように動かなくなると、魔女の亡き骸とともに、いつまでもいつまでも、そこにじっと蹲っていた。




