魔女の谷
風の吹かない谷があった。
雨も降らないその地に住む者はいない。そう、思われていた。
若きヴァン・へイレング卿がその地を訪れたのは、失踪した恋人が、その地にいるという噂を聞きつけたからであった。
話に聞いていた通り、森と切り立つ岩山しかない場所である。
『こんなところに……なぜ、ミアが?』
ヘイレング卿は訝しがりながらも馬を進ませた。道は存在し、森のあいだを抜けてどこまでも続いているように思われた。轍の跡も人の足跡もなく、たまに獣の通った跡を見ることがあることが、なぜか彼の胸を安堵させた。
手がかりは何もない。ただ、ミアがこの地にいると、どこからともなく彼の耳に噂が届いたのみである。藁にも縋る思いで彼はやって来た。最愛の人を、このまま失ってしまいたくはなかった。
夜が降りようとしていた。
愛する人どころか、人間の気配さえない森で、ヘイレング卿は諦めかけていた。こんなところに人間がいるわけがない。獣の姿すら見えないこんな地に、ミアがいるわけはない。そう思った時だった、コウモリが音もなく舞う薄暗い空を仰ぐと、少し遠くに意外なものをヘイレング卿は見た。
『城……か?』
森の上に尖塔が姿を現したのだった。
「あそこに……! ミアが!?」
ヘイレング卿は折れかけていた心を奮い立たせ、その方向へと馬を走らせた。
古びてはいるが立派な城の城門に辿り着いた。彼が前に立つと門はゆっくりと、勝手に開いた。
「ようこそ、お客人」
中から迎えに現れたのは、長い金色の髪の老人であった。
「私は執事のデイヴ・ムスチン。主が貴方様をお待ちでございます」
「主というのは……」
ヘイレング卿は訝しむこともなく、求めるように聞いた。
「もしや貴婦人?」
「さようでございます」
執事は頷いた。
「ずっと貴方様を待ち焦がれてらっしゃいました」
「その貴婦人の名は……」
ヘイレング卿の呼吸が荒くなった。
「もしやミアというのでは?」
「まぁ、とりあえず中へ」
執事は慇懃に、ヘイレング卿を中へ入るよう、促した。
「お会いになれば、すべてわかることでございます」
薄暗い通路を、ヘイレング卿は執事の後を歩いていった。
蝋燭の炎に黒が混じっているように見えた。しかし彼の心は躍っていたので、気にはしなかった。
「こちらでございます」
執事は大きな扉の前で立ち止まると、ニヤリと笑った。
「この奥で、主人が貴方様をお待ちです」
自分で開け、ということらしかった。ヘイレング卿はそれを無礼とも思わず、ただ期待に胸を弾ませて、その扉を開いた。
ギ……、ギ……ギイと、鉄の巻弦を撥で擦るような音とともに、扉が開いた。
大きな窓が見えた。その空洞を背に、一人の貴婦人が振り向いた。黒い貴婦人であった。ヘイレング卿は彼女を認めるなり、声を漏らした。
「ミアではない……。貴女は? 初めて会うような気がしない……」
「ごきげんよう、ヘイレング卿さま」
女は、とても嬉しそうに笑顔を歪ませながら、名乗った。
「私の名はタル・アイオミ。千年前より貴女さまをお待ち申し上げておりました」
「タル……アイオミ……」
ヘイレング卿は記憶を辿る。
「どこかで聞いた名だ。どこでだったか……。あ、もしや、シェフ・ペック伯爵のところでお会いしましたか?」
「確かにシェフ・ペック伯爵のお邸に居候はしておりましたわ。でも、私が貴方を知ったのはもっと前」
アイオミ嬢は、言った。
「貴方があのミアとかいう女と知り合うよりも、ずっと前でしてよ」
「ミア!」
その名を出され、ヘイレング卿は身を乗り出した。
「ミアはここにいるのですか!? いるのなら、どうか会わせてほしい!」
令嬢アイオミの赤い唇が、吊り上がった。
「ええ。ミアも貴方に会いたがっていますわ。どうぞ、こちらへ」