009 黒木家の団欒
中に入ると、既に夕食の用意が整っていた。
換気扇の下で煙草を吸っている兄の智弘が、蓮司に気付き手を上げる。
「ただいま」
「おかえり蓮司。ほら、ちゃんと手を洗ってね。すぐご飯だから」
テーブルに料理を並べながら、蓮司の母、昌子が声をかける。
「お義母さんお義母さん、私がしますから座っててください」
「いいのよ。いつも弘美ちゃんにばっかり働かせてるんだから、これぐらいしないと。ずっと座ってたら体もなまっちゃうし」
慌てて台所に入る弘美に、そう言って昌子が微笑む。
手を洗った蓮司は自分の席に座り、緊張気味に頭を掻いた。
「だーかーらー。蓮司くん、折角手を洗ったのに髪を触ったら駄目だって、いつも弘美ちゃん言ってるよね」
弘美の口調に圧倒され、蓮司は慌ててもう一度立った。
「あ、はい、そうでした……すいません、洗い直します」
「全く。ふふっ」
もう一度洗面所に向かう蓮司を追って、恋もついていく。
「恋ちゃんはご飯、食べなくても大丈夫なのかな」
「麦茶も飲めたんだし、食べることも出来ると思います。だからちょっとだけ、一緒に食べられないのは寂しいですけど……大丈夫ですよ」
「だよね。ごめんね」
「いえいえ、気にしないでください」
「どうせ帰る時、馬鹿みたいにお土産持たされる筈だから。帰ってから一緒に食べよう」
「はいっ」
「それと……椅子もないんだけど」
「大丈夫ですよ。その辺ウロウロしてますから」
「いや、それはそれで僕が落ち着かないんだけど」
「ふふっ……でもよかったです。おじさんが亡くなったって聞いたから、おばさんのことが少し心配だったんです。でも智兄の奥さん、弘美さんを見てたら安心しました」
「元気しかない人だからね」
「でも……蓮司さん」
「な、何かな。ちょっと目が怖いんだけど」
「弘美さんに抱き着かれて、本当は嬉しかったんじゃないですか? 胸だって私よりずっと大きいし。なんだかんだ言いながら、鼻の下も伸びてましたし」
「誤解、誤解だって」
「ふふっ。でもこっちに来て、初めてほっとしたって感じです」
「ならよかった」
「はい!」
食卓は賑やかだった。
昌子と弘美は、料理の味を確かめ合っている。
お義母さんの味付け、本当難しいです。
弘美さんのご実家の味付けだって、勉強になるわ。
今度は何の料理に挑戦しようかな。
そんな他愛もない言葉を紡ぎながら、二人共笑っている。
嫁姑問題は、この家には存在しないようだった。
そしてそんな空気をよそに、男二人は無言で料理を胃に詰め込んでいた。
「ふふっ」
二人の様子に恋が笑う。
智弘も蓮司も、食が細い方だった。
特に蓮司に至っては、最低限の栄養を摂取してる、そんな感じの食生活だった。
しかしそれを許すほど、弘美は甘くないようだった。
母の昌子には強気に出ていた兄弟だが、どうもこの二人、弘美には勝てないようだった。
「ほら蓮司くん、野菜もちゃんと食べるんだよ」
「分かってる、分かってるから弘美さん、ボウルごと持ってこないで」
「弘くんもお肉、しっかり食べないと。夏バテしちゃうからね」
「いや、だから頼むから、詰将棋みたいに皿を前に進めないでくれ」
「そうしないと弘くん、すぐにギブアップしちゃうじゃない」
「勘弁してくれって……成長期じゃないんだから、こんなに食べられないって」
「なーに言ってるのよ。これぐらい普通よ、普通」
「弘美ちゃん、もっと言ってやって。この二人は本当、食に興味がないんだから」
「エネルギー効率がいいんだよ、俺らは」
「はいはい、屁理屈はいいからね。ほら、これも食べてよ、お義母さんの漬物」
「蓮司、あんた好きだったでしょ。あんたが今日帰って来るって言うからお母さん、用意しておいたんだからね」
「いや、だからいつも言ってるけど、好きって言ったのは小学生の頃だろ。今は別にそこまで」
「いくつになっても好きな物は変わらないでしょ。あんた、これがあったらご飯おかわりしてたじゃない」
そう言って、皿を目の前に置く。
「……なあ、兄貴」
「何も言うな。これは黒木家に生まれた俺たちの業なんだ」
「……だよね」
青い顔をしながら、兄弟が揃って漬物を頬張る。
茶碗が空になるタイミングで、昌子と弘美が手を差し出す。
「はい、おかわり入れるからね」
兄弟のため息が食堂に響き渡る。
そんな二人を見て、昌子も弘美も声を上げて笑う。
恋も一緒になって笑っていた。
「ごちそうさま……」
「ご、ごちそうさま……」
ようやく解放された二人が箸を置き、声にならない声を上げた。
蓮司は熱々のお茶を口にし、一息つく。
智弘は食べ終わると同時に立ち上がり、換気扇の下で煙草に火をつけた。
「本当、何がそんなにおいしいのかしらね」
満足気に煙を吐く智弘を見て、弘美が突っ込む。
「お腹いっぱいになったのに、肺には余裕があるんだね」
「これは女子の言うところの別腹なんだよ。それにこうして煙を入れると、パンパンになった胃に隙間が出来るような気がするんだよ」
「いつもそれ言うよね。全然分からないけど」
「分からなくて結構。これは吸った者にしか分からない感覚だから」
「でも本当、吸い過ぎには気を付けてよ」
「分かってるよ」
「弘美ちゃん、もっと言ってやって」
「ちょっとちょっと、母さんまで入って来るなよ」
「だってそうでしょ。お父さんだって何十年も吸ってたんだし。そのせいで」
「……」
昌子が声を落としてそう言うと、また始まったと蓮司が頭を掻いた。
「体に悪いのは分かってるから。だから本数も控えてるし」
「でもね、もしあんたがお父さんみたいに」
「はいはい、この話は重いし長くなるから。折角蓮司が来てるのに、今しなくてもいいだろ」
智弘が煙草を揉み消し、冷蔵庫からビールを取り出した。
「ほら蓮司」
「ありがとう」
二人が缶を持ち、「お疲れ」そう言ってビールを口にする。
そんな二人に微笑みながら、テーブルを片付けた弘美が洗い物を始める。
昌子もテーブルに着くと、弘美の淹れたお茶を口にし、頬杖をついて二人を見つめた。
「本当……幸せだよね、私」
「母さん?」
しみじみと語り出した昌子に、蓮司が声を掛けた。
「お父さんが死んだ時は、本当に目の前が真っ暗になった気がしたわ。あんたたちも成人してたし、もう私の役目も終わって……早くお父さんのところに行きたい、そんな風に思ってた」
「母さん、そういうこと言うなっていつも」
「でも、弘美ちゃんが一緒に住もうって言ってくれて……私、いいお姑さんになれるかなって不安だった。でも弘美ちゃんは本当に優しくて、こんな私のことを大切にしてくれて」
「私はお義母さんのこと、大好きなんです。これからも元気でいてもらわないと」
弘美が洗い物を終え、手を拭きながら昌子の前に座る。
「嫁として受け入れてもらえて、至らない私に一つずつ教えてくれて。私は幸せな嫁です」
「智弘は子供の頃からやんちゃだったし、勉強も得意じゃなかった。こんなことでこの子、ちゃんとやっていけるのかって心配だった。
弘美ちゃんのような人に嫁いでもらって、本当によかったと思ってるわ」
「ありがとうございます、お義母さん」
「あとは蓮司だよね」
その言葉に、恋の表情が曇った。
「母さん、その話は」
「あんたが恋ちゃんと、ずっと一緒ならよかったんだけど……でもあの子はあんたのことを」
「やめろってば」
蓮司が少し声を荒げ、昌子の言葉を切った。
慌てて恋を見ると、恋はしゃがみ込んだまま、膝に顔を埋めていた。