008 傷心
電車を降りると、見慣れた景色が広がっていた。
蓮司から告げられた事実。
それを受け止めきれずにいた恋だったが、10年後も変わらない街の雰囲気に、少しほっとした表情を見せた。
そんな恋を見て、蓮司が優しく微笑む。
夕陽を背にした蓮司の笑顔に、また恋の鼓動は早まった。
何よ。蓮司さんってば本当、格好いいじゃない……未来の私、この蓮司さんに何の不満があったってのよ。
「蓮司さんは、その……未来の私のこと、もう好きじゃないんでしょうか」
「ははっ、剛速球が来たね」
少しは動揺するかと思っていた。しかしそう聞かれることを予測していたのか、蓮司は笑顔でその言葉を受け止めた。
「僕は花恋のこと、今でも好きだよ」
「本当ですか」
「うん。恋ちゃんに嘘ついても仕方ないからね。別れて何年にもなるけど、今でも僕は花恋が好きだ」
「だったら」
「でもね、さっきも言った通り。恋愛というのは、相手がいて初めて成立するんだ。僕がいくら想っていても、それだけじゃ続けられない」
「じゃあ、私が蓮司さんと距離を置いたってことですか? 蓮司さんの気持ちは変わってないのに、私が」
「いやいや、そうは言わないよ。花恋だって僕のこと、嫌いになった訳じゃないと思う。ただ好き嫌いだけで何とかなるほど、男女の関係は簡単じゃないってことなんだ」
「でも蓮司さんは私のこと、好きでいてくれてるんですよね。だったら」
「恋ちゃん」
少し声を落とし、諭すように蓮司が言った。
「好き嫌いだけじゃない、今言った通りだよ。僕が花恋を好きだって気持ち、それは本当だ。僕は多分これからも、花恋の幸せを願いながら生きていくと思う。ちょっとストーカーっぽいけどね」
茜色の空を見上げて蓮司が笑う。
「花恋以上に好きになれる人はいないと思うし、出会いたいとも思わない。でもそれでも、花恋とまた付き合うことはないと思う。恋愛って本当、難しいから」
「もし未来の私が、やり直したいって言ったら」
「仮定の話には答えられないかな。それにその気持ちは、花恋じゃなく恋ちゃんの気持ちだ。君は僕にとって大切な幼馴染だし、そう言って貰えて嬉しいよ。でもそんなことは起こらないし、万一あったとしても……ね」
それ以上は聞かないでほしい。蓮司の心の声が聞こえたような気がした。
恋は言葉を飲み込み、またうつむいた。
「まあ恋ちゃん、折角ここまで来たんだ。精霊に願いを叶えてもらう、そんな一生に一度あるかないかの経験をしてるんだ。このイベント、しっかり楽しまないと」
「私の願いは、未来を見ることじゃないんです。二人の幸せな姿を見て、二人を冷やかして、思い出話に胸をときめかせて……それが望みだったんです。それなのに……」
「難しいね、男と女って言うのは……いや、人と人ってのは、かな」
いつも二人で歩いた道。
それだけで、恋にとってこの道は特別なものだった。
この道には、たくさんの思い出が詰まっている。
時には言い合いもした。蓮を困らせたこともあった。
笑った、怒った。そして泣いた。
この道は私と蓮くん、二人の歴史そのものなんだ。
それは10年後だって変わらない。
ただ違うのは、もう二人で歩くことがないんだということ。
そう思うとまた、瞳が濡れてきた。
「ただいま」
ドアを開けた蓮司と一緒に、見慣れた玄関に入る。
すると中から、物凄い勢いで走ってくる女の姿が目に入った。
「蓮司くんおかえりっ!」
声と同時に蓮司に抱き着く。その勢いに押され、恋は後ずさった。
「弘美さん、ただいま……って言うかそれ、やめてくださいといつも」
「なーに言ってるんだか。蓮司くんってば、私がいくら言っても帰って来ないんだから。こうして帰ってきた時ぐらい、蓮司くんを堪能しないとね」
弘美と呼ばれた女が、嬉しそうに蓮司に頬ずりする。明らかに恋より大きい胸を押し付ける。
その光景に圧倒された恋だったが、やがて我に返ると、顔を真っ赤にして声を上げた。
「蓮司さん! どういうことですか!」
「あ、いや、その……これは違うんだ」
「え? 何が?」
「あ、今のはその」
蓮司が慌てて口を閉じる。恋ちゃんは自分にしか見えないんだった、そう思い笑って誤魔化す。
「そんなことより! 蓮司くん、ちょっと瘦せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」
「食べてる、食べてるから。それよりいい加減離してくださいって、義姉さん」
「義姉さん?」
蓮司の言葉を恋が繰り返す。
「まーたまたまた、蓮司くんには特別、名前で呼ぶことを許可してるんだから。義姉さんなんて他人行儀な言い方しないの」
「いやいやいやいや、普通は逆だから。名前で呼ぶ方が他人行儀だから」
「相変わらず細かいなぁ蓮司くんは。まあいいわ、今日はじっくり付き合ってあげるからね。その分だとどうせ、ちゃんとしたものも食べてないんでしょ。お腹いっぱい食べさせてあげるから」
そう言って手を取り中へと進む。
蓮司は「分かった、分かったから弘美さん、靴脱がせてよ」と苦笑する。
黒木弘美。
蓮司の兄、智弘の妻。
蓮司にとって義理の姉に当たる女性との邂逅だった。