006 夢と現実
「それで、その……聞きたいことがあるんですけど」
恋の真剣な眼差しに、蓮司が静かにうなずく。
「うん……なんでも聞いて」
「あの、蓮司さん……工場で働いてるってことですけど、その……小説の方は……」
「……だよね」
笑顔のまま、蓮司が麦茶を口にする。
「やっぱりまだ、デビュー出来てないんでしょうか」
勇気を振り絞り、恋がその言葉を口にした。
蓮は子供の頃から、本を読むのが好きだった。
低学年の頃は童話や偉人の本、高学年になると歴史物を夢中になって読んでいた。
中学に入ると図書館に通い詰めるようになり、純文学から大衆文学まで、幅広く読むようになっていた。
そんな中、彼の中でひとつの夢が芽生えていった。
自分にこれほど感動を与えてくれる文学。与えられる側でなく、自分も創り出す側になりたい。そんな思いが日に日に強くなっていった。
それから蓮は手帳を持ち歩くようになり、ひらめいたこと、面白いと感じたことを書き残すようになっていった。
いつか自分で物語を書くんだ。
目を輝かせて夢を語る蓮に、恋はときめいたのだった。
高校に進学すると、蓮は本格的に執筆活動を始めた。
これまで集めたたくさんの言葉、たくさんの思いをまとめ上げ、二年の内に数本の小説を完成させた。
完成するたびに、蓮は嬉しそうに恋に報告した。蓮の初めての読者は、いつも恋だった。
――口下手な蓮くんが、小説だとこんなに自分の思いを表現出来るんだ。
もっと知りたい、もっと蓮くんの世界を感じたい。
蓮の作品に魅了された恋は、彼の創作活動を心から応援した。
そしてそんな励ましに、蓮の中でいつしか『作家になりたい』といった夢が生まれていったのだった。
「デビュー、ね……」
蓮司が囁くようにそう言い、小さく笑った。
「蓮くんも、その……毎日頑張ってます。今書いている作品も、新人賞に出すんだって張り切ってて」
「頑張ってるんだね、10年前の僕も」
「はい。でも……10年経ってもまだ、夢は叶えられていないんでしょうか。それで蓮司さんは、働きながら書いてるのかなって」
「小説はやめたよ」
「え……」
突き放されたような気がした。
蓮司との距離が、急に遠くなったように感じる。
蓮司に対して、怖さすら感じる。
彼の放った言葉は、恋にとってそれぐらい衝撃的なものだった。
「やめたって……どういうことですか」
「言葉通りだよ。もう書いてないんだ」
「どうして」
「今の恋ちゃんには受け止められないかもしれない。まだまだ夢を追ってる年齢だからね。未来は明るいに違いない、頑張ればきっと結果が出る、そう信じてると思う。
でもね、大人になっていくってことは、それがただの夢なんだって認めることでもあるんだ。いつまでも夢に酔いしれて、現実を見ないで生きていく……そんなことを続けていても、何も得られないんだ。
夢はあくまでも夢だと自覚して、捨てる勇気も必要なんだ。何より僕は社会人だし、自分の食い扶持は自分で稼がないといけない。
恋ちゃんが言ったように、働きながら創作している人もいるだろう。でもね、それは大変な情熱と労力を必要とするんだ。仕事をしながら続けるなんてこと、並大抵の覚悟で出来るものじゃない。僕はね、恋ちゃん。自分の限界を知ったんだ。自分には才能がない。続けていくだけの情熱も持っていない。だから諦めたんだ」
蓮司の言葉。
その一つ一つが恋の胸に突き刺さっていった。
心が痛い。壊れそうだ。
私の前で夢を語っていた蓮くん。
あんなに輝いた瞳、見たことがなかった。
夢を語っている蓮くんは、本当に幸せそうだった。
その横顔にときめいた。蓮くんのことが好きなんだ、そう思い知らされた。
その蓮くんが今、無残に砕け散った夢を淡々と語っている。
優しい笑顔で。
でも、その笑顔が痛々しかった。辛かった。
いつの間にか恋の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
その涙に気付くと、一気に感情が溢れてきた。
ひっく、ひっくと肩が揺れる。
蓮司がタオルを差し出し、「ありがとう、恋ちゃん」そう優しく囁く。
その言葉に、恋の感情は暴発した。
「やだよ……なんで、どうして……」
タオルに顔を押し付け、肩を震わせる。
哀しみが止まらなかった。
蓮司さんはきっと、いっぱい悩んだのだろう。
いっぱい泣いたんだろう。
夢に破れる人がほとんど。そんなこと、高校生の私にだって分かってる。
でも、それでも……蓮くんには叶えてほしかった。
蓮くんの唯一と言っていい、自分が自分でいられる世界。それが創作の世界だった。
その世界と決別する為に、どれだけの涙を流したことだろう。
どれだけ悩み、どれだけ苦しんだことだろう。
そしてきっと、今も辛いはずだ。
だって蓮司さん。もう覚えてないかも知れないけど、あなたは私にこう言ったんですよ。
夢っていうのは、ある意味呪いみたいなものなんだって。
叶うまでずっと、僕はその呪いから逃れられないんだって。
だったら今、あなたの心はどうなってるんですか?
夢に破れた人間として、敗北感と罪悪感を背負ってるんじゃないんですか?
なのに、なのに……
あなたは今、私を慰めてくれている。
穏やかに微笑みながら……
やるせない気持ち。哀しみの感情が恋の心を支配する。
恋は何度も蓮司に、「ごめんなさい、ごめんなさい」そう言った。
「……失礼しました、取り乱しまして」
落ち着きを取り戻した恋が、涙を拭きながら頭を下げた。
「僕こそごめんね。ここまで泣かれるとは思ってなかったけど、でも……嬉しかったよ。ありがとう」
そう言って笑顔を向ける蓮司に、恋はまた赤面して視線をそらした。
「それでその……蓮司さんの今の状況は理解しました。蓮司さんは今、工場で頑張ってるんですね」
「まあ、頑張ってるのは間違いないけど、でもほら、僕って不器用だろ? 中々うまくいかなくってね、苦労してるよ」
ははっと笑う蓮司の笑顔は爽やかだった。
「蓮司さん、実家を出られたんですね」
「うん。三年くらい前になるかな。親父が死んでしばらくして」
「えっ! おじさん、亡くなられたんですか!」
「ああ、うん……ほら、恋ちゃんも知ってるだろ? 親父、いつも調子が悪いって言ってて」
「そう、ですね……休みの日はいつも、家でゆっくりされてます」
「ちょうどいい。僕からも一つ質問、いいかな」
「はい、何でしょう」
「恋ちゃんはどの頃の恋ちゃんなのかな。10年前ってのは分かってるんだけど」
「あ、はい、蓮くんと付き合い出したばかりです」
厳密に言えば付き合って半年、しかも今日、初めてキスしたんです。本当ならそこまで言うべきなのかもしれないが、恥ずかしくて言えなかった。
「そっか。僕が一世一代の告白をした、その頃の恋ちゃんなんだね」
「はい……やだもう。蓮司さん、真顔でそんなこと言わないでください」
恋が両手で顔を隠すと、蓮司は「ごめんごめん」と笑った。
「その頃ならもうすぐだね。親父はもう少ししたら検査をする。結果は胃がん、ステージ4だった」
「……」
「放射線治療を受けながら頑張っていたんだけど、それから4年ほどで亡くなったんだ」
「そう……なんですね」
「まあ、ステージ4なら5年生存率が10パーセントもないらしいからね。そういう意味ではよく頑張ったと思うよ。
その後しばらく母さんと二人で暮らしていたんだけど、半年ぐらいして兄貴が戻って来てね、奥さんと一緒に住んでくれることになったんだ」
「智兄、結婚されたんですか」
「うん。奥さんもいい人でね、母さんと一緒に住みたいって言ってくれたんだ。で、それを機に僕は独立、会社に近いこのアパートに引っ越したんだ」
「そうだったんですね……ほんと、色々あったんですね」
「10年だからね」
「それで蓮司さんは、ここで生活しながらお金を貯めてるんですね」
恋が照れくさそうに言った。
「私との結婚資金を貯める為に今、頑張ってくれてる」
その言葉に、蓮司はまた穏やかな笑顔を向けた。
「恋ちゃん、ごめんね」
「何がですか」
「僕はね、いや、僕たちはね、恋ちゃん……もう付き合ってないんだ」