001 ファーストキス
「私……キスしたんだ……」
夢の中にいるようで、頭がふわふわしていた。
――胸の鼓動がおさまらない。
泳いだ後の様に重い体。脱力感が半端ない。
それなのに足取りは軽やかで、そのまま宙に浮いてしまいそうな……不思議な感覚だった。
赤澤花恋。高校2年の17歳。
夏休み前、終業式の今日。
いつものように幼馴染の同級生、黒木蓮司と寄り道をした。
子供の頃からずっと一緒だった二人。名前に「レン」が入っている二人は、互いのことを「レン」と呼び合い、その仲睦まじい姿は近所でも有名だった。
近所にある人気のない神社。
付き合い始めて半年になる二人は、学校帰りにいつもここに来ていた。
他愛もない日常の出来事や愚痴を話し、互いの気持ちを共有する。
とは言え、話すのはいつも恋の方だった。
無口な蓮は恋の話を聞き、静かに笑ってうなずいていた。
しかし今日。
蓮の様子が少し違っていた。
いつもの様にオチのない話を続ける恋も、その様子に気付き声をかけた。
「ちょっと蓮くん、聞いてる?」
「う、うん、聞いてるよ」
「ほんとに? だったら京ちゃんが何したか言ってみてよ」
「……ごめん、分からない」
「ほらー。もう、どうしちゃったのよ。今日の蓮くん、ちょっと変だよ。もしかして具合でも悪い?」
「そんなことは」
「ほんとに?」
そう言って蓮の額に手を当てると、少し熱く感じた。
「もしかして熱あるの? 帰る?」
心配そうに蓮の顔を覗き込む。
その時だった。
額に当てられた手を蓮がつかみ、そのまま握り締めた。
「……蓮くん?」
蓮は大きく息を吐くと恋に向き合い、肩に手をやった。
いつも物静かで穏やかな蓮。
ずっと想ってきた初恋の相手。
半年前、泣きそうな顔で告白してくれた、気弱でかわいい幼馴染。
しかし今の蓮は、何かを決意したような強い視線で恋を見つめていた。
こんな蓮くん、見たことがない。
ゆっくりと蓮が近付いてくる。その時初めて、恋は何をされるのかを悟った。
夢にまで見た、蓮とのキス。
人気のないこの神社に来ていたのも、その為だった。
いつなんだろう。今日だろうか、明日だろうか。
ずっと思っていた。
しかし女の自分から言える訳がない。
こういうことは男からするものなんだ。そう思い、ずっと待っていた。
ついに、ついに蓮くんとキス、するんだ……
恋が静かに目を閉じる。
蓮の息が間近に迫る。
そして。
蓮の唇の感触が伝わってきた。
その瞬間、恋は全身に電気が走るような感覚を覚えた。
待ち望んでいた瞬間。
それなのに心の中には、満足感と同時に「怖い」という気持ちが生まれていた。
歯がカチカチと音を立てる。
――初めての経験って、こんな感じなんだろうか。
しかしやがて、その感情は静かに消えていった。
「……」
頬に伝わる一筋の涙。
それは恋の中に生まれた、満ち足りた幸福感だった。
ああ、私は幸せだ。
もう何もいらない。
私には蓮くんがいる。
それだけでいい。
唇が静かに離れる。
恋がゆっくりと目を開けると、涙のせいで蓮の顔が歪んで見えた。
その時初めて、自分が泣いていることに気付いた。
「あははっ……ごめんね、私ったら」
そう言って涙を拭う。
「……ご、ごめん……」
涙に動揺した蓮が、囁くようにそう言った。
「え? あ、あははっ、何謝ってるのよ。そんなんじゃないから」
蓮の手を握り、恋が微笑む。
しかし蓮はいつもの様にうつむくと、小声でもう一度「ごめん……」そう言った。
「きゃーっ!」
枕に顔を埋め、身をよじらせる。
体を振る度に、腰まである長い髪が揺れる。
あの時のことを思い返すと、体が燃えるように熱くなった。
足をばたつかせ、枕に顔を押し付け、何度も「きゃーっ、きゃーっ」と声を上げる。
「……」
しばらくしてようやく落ち着いた恋は、枕を抱き締めたまま起き上がった。
「蓮くん、蓮くん……」
蓮とのキスは、想像していた以上に恋の心を乱していた。
明日から夏休み。
学校があれば毎日蓮くんと会える。一緒に登校出来る。
しかし休みになると当然、会う機会は減ってしまう。
それは嫌だ。
毎日蓮くんと会いたい。
私にはもう、蓮くんしかいない。蓮くんと一緒にいたい。
蓮くんだって、きっとその筈だ。
そうだ、毎日一緒に宿題をしよう。
そしてその後で遊びに行く。うん、これなら自然だ。
そんなことを考えていると、口元が緩んできた。
「ふっ……ふふふっ」
二人きりの部屋で勉強会。そして勉強が終わったら……
妄想が止めどなく広がり、恋はその度に枕を抱き締めて声を上げた。
「え? 何の音?」
妄想が広がる恋の耳に、何かを叩く音が聞こえた。
慌てて枕を置き、耳を澄ませる。
音は窓の方からしていた。
「……何の音? ここ、二階なんだけど……」
ゆっくりと立ち上がり、窓の方へと進む。
そして小さく息を吐くと、勢いよくカーテンを開けた。
「……え?」
窓の外にいたもの。
それは白い子猫だった。
「……子猫? どうして子猫がこんな所に……あ、ひょっとしてあなた」
そう言って窓を開けると、子猫はかわいい鳴き声をあげて部屋に入ってきた。
「やっぱり! あなただったのね」
頭を撫でると、子猫は嬉しそうにもう一度鳴いた。
「元気になったみたいだね。よかった」
「ありがとう、恋ちゃん」
「いいのよ別に。それよりこんな時間にどうしたの?」
「恋ちゃんにどうしても、お礼がしたくてね」
「お礼だなんて、そんなのいいってば。気にしないでよ」
「そんな訳にはいかないよ。受けた恩はちゃんと返さないとね」
「恩って、ふふっ、おませな子猫ちゃんだね。困った時はお互い様で………………え?」
「どうしたの、恋ちゃん」
「……」
「恋ちゃん? おーい、聞こえてる?」
恋が目をパチパチさせて子猫を見る。
そして叫んだ。
「ええええええええっ? 猫が、猫が喋ってるうううううっ!」