一杯のコーヒーの記憶
私はここのカフェに通い始めてまだ数年。コーヒーとかの味はいまだにわからないが、ただ一つだけの理由でここに通っている。
ドアに下げてある鈴がカランコロンと鳴り響いて黒いコートを羽織った初老の紳士が帽子の雪を払って来店した。
紳士は帽子とコートを預けると迷わず自分の座っているカウンターへ座る。
カウンター席は四席だがその左右の一席は私と紳士が使用している。
紳士はメニューも見ずにコーヒーをマスターに頼んだ。
やはり、こういう紳士がコーヒーを注文する姿は絵になると思った。そんなことを考えていた時に紳士が言った。
「コーヒーを頼む仕草は誰だって絵になりますよ。それが例え小説家のお兄さんであってもね」
「え、あ。はい……って、あ、原稿」
なんでわかったのかと思っていたら紳士の足元に書きかけの原稿が一枚落ちていた。
それを紳士が拾い私に返してくれる。その動作ひとつひとつに無駄がなくまるで昔の映画に出てくる英国紳士そのもの。まさにエレガントだと思った。
「ありがとうございます」
「いや、何の。それよりもそれは書き始めて長いのかね?」
「いえ、そこまで長くないです」
「そうか」
そこで会話が途切れてしまう。
私にはどうしてそんな質問をするのか、と聞くことは失礼になるんじゃないか。あまりいい表現ではないから気分を害するんじゃないかと思いやめた。
だから、質問もしていないのだが、紳士は独り言を語る様にしゃべり始めた。
それは誰も知らない物語。何を追い求め、努力し、苦難を進もうとするのかという夢追いの話。
「ここの店も開店はずいぶん前。戦前から始まって今では三代目の店主、マスターだが、コーヒーの味は落ちていない。私もかつてはこの店に負けないように自分の腕を磨いたものだ」
「あなたもコーヒー屋さん?」
「コーヒー屋だが、ここには一度も勝ったと思っていない。文句が無く世界一のコーヒーカフェだと思っているほどに、な」
コーヒーができるまでのこの時間は一番楽しみで長い。待ち遠しい気持ちが時間間隔を狂わせてしまう。今日は話を聞いているからか特に長く感じる。
「私は世界まで行って勉強をした。栽培、引き方、その地域でのいぶし方、こし方。それらをすべて統合して新しいコーヒーを作ったつもりだったが、それは失敗だった。味にまとまりが無くなって全然うまいと感じたことが無かった」
「世界を旅してコーヒーを、何故です?」
「味、コク、苦みに香り。すべてを統合したような完璧な理想のコーヒーを追い求めた結果だよ」
そう話した紳士の前にマスターが一杯のコーヒーを差し出す。
ありがとうと受け取った紳士はまず、香りを楽しむように深呼吸をして一呼吸置く。
少し口につけて味を確かめながら一口飲む。その様子をマスターも見ていて感想を待っていた。
「未だ完成は遠いが少しずつ近づいている。あの時のコーヒーに」
「そうですか。そう言われるともう少しって感じがします。親父もこうして鍛えられたって言っていましたから」
「そうか、親父さんはもう……」
「はい。去年の冬でした。例のコーヒーをつくれるようになってすぐでした」
「君はまだ若い。すぐにでも親父さんを超えられる。親父さんは君の年くらいで始めたんだが、不器用でね。いつも失敗していたよ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
そう言うとマスターは奥に行って洗い物をする。
「さて、小説家のお兄さんもなぜここにいるのかは知らず知らずのうちにわかっていると思ったが、君はなぜこのカフェに来るのかな?」
「私はコーヒーの味はわかりませんが、ここだと自分が何をしたいのか、考えがまとまるという感じがしているだけで特に理由は……」
「はてしてそうかね。私には別なはっきりとした理由があると思う。今はわからなくてもいい。いずれ分かる」
そう言って紳士はコーヒーをゆっくり味わい。その場を後にする。
ある一つのはっきりとした理由で私も来てはいるが、そのはっきりとした理由がわからない。
ただ、一つだけなのは確かなのだ。昔の記憶、というか、体が覚えている感覚でその時の記憶なんかは思い出せていない。
考えれば考えるほどわからなくなり、手術をしたお腹がひきつり筋肉痛になる。ここのコーヒーはその痛みを和らげてくれる。ホッとして緊張がほぐれるからと思っている。
そして、私が手術をしたのも去年の冬だった。