愛を強要する海で
「ほら見て、すごくきれいな貝殻」
この海水浴場で、誰よりも美しい彼女が笑った。
俺は差し出されたその煌めく破片を受け取り、微笑みを返す。
「本当だ。すごくきれいだ。ガラスみたいに」
「……ガラス?」
一瞬だけ、彼女の表情が曇った。
俺は小さく咳ばらいをして、お茶を濁す。
こんな時、普段から小説でも読んでおくべきだったと後悔するのだが、なにぶん文字の羅列には頭痛がしてくるもんだから、いつまで経っても気の利いた台詞なんてものは知らないまんまなのだ。
「かき氷を買って来たの」
彼女が言って、真っ青なシロップの掛かったそれを俺に手渡す。
夏の陽ざしを受けてちかちかと輝くそれはまるで……、いや、やめておこう。
下手なことを言って今度こそ彼女に溜息でも吐かれでもしたら、せっかくの海が台無しだ。
「ありがとう。いつの間に買って来たの」
「ふふ、あなたのために。喜んでくれると思って」
「嬉しいよ。本当に。上手く言えないけれど」
彼女が、また笑った。
そうだ、これでいい。
俺は俺なりに、この気持ちを伝えれば良い。
変に飾ることなんて無いのだ。
「美味しいよ。青い海に、その、青いかき氷。綺麗な彼女。最高だ」
「もちろん純粋な気持ちよね」
「ああ、もちろんだよ」
「良かった」
嘘なんて吐くはずがない。
幸せ過ぎてこんなの、信じられないくらいだ。
日差しの熱を溶かすような、気持ちの良い風が吹いた。
ふと訪れる眠気に、俺はゆっくりと瞼を閉じていく。
彼女の水着の黒が、海へと遠ざかる。
波の音が聞こえる。
流れる雲が太陽を隠しただろうか。
少しだけ、寒気がした。
※
今朝のニュースによるとビーチで若い男が一人、凍死したという。
なんでもそいつは一月の砂浜で海パン一丁という服装で、手には貝殻の破片が握られていたそうだ。
実に不可解な事件である。
コメンテーターはそんなありきたりなことを言っていた。
だが――。
それが僕に向けられた一つのメッセージであることはすぐに分かった。
いてもたってもいられない。
夜勤明けの微睡みなんて吹き飛ぶくらいに心臓は高鳴り、呼吸も自然と荒くなる。
現場は、千葉県と言っていたか。
車で向かうなら4時間は掛からないだろうが……。
僕は次の仕事には出られないことを伝えるために、すぐに職場の上司へ電話をした。
「あの、急で申し訳ないのですが、用事が出来まして」
『用事? なんだ、どうしても後に回せないのか』
「ええ、海へ行かなくてはいけないんです」
『海? なんで。本当に仕事よりも大事なことなのか?』
「いちいちなんでも聞かないで下さいよ! どうしても海へ行かなきゃだめだって言ってんでしょうが! あんたには理解力が足りないって、前々から思っていたんだ!」
話にならない。
僕は電話を切り、それをベッドの上に叩きつけた。
駄目だ。
これから彼女に会いに行くというのに、こんなふうに荒れていては。
テーブルの上に置かれたウイスキーの瓶を飲み干したら少しだけ気持ちが落ち着いた。
※
「ええ、一部屋。ツインで。はい。……2時から入れませんか。そう、どうしても。はい。それでは」
高速を飛ばしながら、今日のホテルの予約も済ませた。
海からも割と近い、それなりにちゃんとしたホテルだ。
彼女も気に入ってくれることだろう。
しかしどこまでも続くかのようなこの真っ直ぐな道の、なんと苛立たしいことか。
アクセルを限界まで踏み込んでいるというのに、一向に進んでいる気がしない。
空を覆う分厚い雲にも、どこか腹が立ってくる。
ホテルへは予定よりもかなり早く到着した。
フロントの受付は顔にこそ出さなかったが、「お早いお着きで」なんて、僕だって馬鹿じゃないんだ。
少しは悪いと思ってるって。
「お連れ様は……」
「部屋の鍵をくれませんか」
とうとう眉をひそめた受付から鍵を受け取り、荷物を持ってエレベーターへ。
8階の部屋を目指す。
僅かな浮遊感、そして思ったよりもやかましく鳴っていた自らの鼓動に集中した。
僕は高揚していた。
鍵を回し、扉を開ける。
「随分と早かったのね」
窓から海を眺めていた彼女がそう言って、肩越しに僕を見た。
どこか切なく目を細め、薄い唇を茶化すように吊り上げる。
「ニュースを見た。僕を呼んだだろ?」
おかしくなりそうなほどの興奮を勘付かれないように、僕は精一杯に振舞う。
でも彼女はとても愉快にくすくすと笑った。
無理なんだ。
僕はとてつもなく彼女に会いたくて、どうしようもなくて、ここまで車を飛ばしてきたんだから。
普通でなんていられる訳がない。
「……見て。綺麗な海」
彼女は問いかけには答えず、また窓の外へ目を遣った。
僕は言われた通り、彼女と同じほうを見る。
薄い青の海に、白い穏やかな波。
空も雲一つなく、太陽が嫌味なくぎらついている。
浜辺でゆったりと揺れるヤシの木が、輝くような砂浜に涼やかな影を作り出していた。
千葉の海がこんなにも素晴らしいなんて思っていなかった。
「今から行こうか」
僕は彼女の横に立ち、そう尋ねた。
「私、夜の海が見たいわ」
彼女は僕の肩に頭を預ける。
「それまで時間はたくさんあるわね」
そしてそう言った。
※
夜の海はとても静かで、波の音だけが優しく囁きかけてくる。
月は水面に浮かび、溶けてしまいそうに揺れて歪んだ。
二人だけの神秘的な夜。
水着姿の僕と彼女はビーチへ駆けだした。
「ふふ、ほら水がとても気持ちいいわ」
「ああ。最高だ」
僕らは水をかけあい、子供のようにはしゃいだ。
本当に最高だ。
僕は彼女に会いたかった。
こんなに綺麗で、愛らしい彼女と離れたくない。
あの一人暮らしの、味気ないアパートへ帰らなくてはいけないなんて、考えたくない。
ずっとここにいたい。
「なら、ずっと一緒にいましょうよ」
彼女が言った。
「毎日こうして海へ来て、ずっと愛し合いましょう?」
――ああ、そうしよう。
決めたぞ。
僕は帰らない。
彼女と一緒にいる。
彼女を愛しているんだ。
「見てて」
不意に彼女はそう言って、暗い海の中へ潜った。
水面に起こされた波紋はすぐに波にかき消される。
「……ちょっと」
しばらく姿を現さない彼女に僕は不安になってきて、暗闇の水の中を手さぐりで探した。
だが見つからなかった。
嘘だ、彼女がいなくなるなんて有り得ない。
「おい、ちょっと、冗談だろ!」
耐えきれず叫んだ時、僕の腕が後ろから掴まれた。
冷たい感触に弾かれるように振り返る。
「びっくりした?」
悪戯っぽい笑顔がそこにあった。
僕は心の底から安堵する。
「消えてしまったかと」
「なにそれ。そんなわけないじゃない」
そう言って彼女はまた笑った。
「今度はあなたの番。私に見つからないように、上手く隠れて」
「なんだよその遊び」
「いいから」
渋々、といった態度をとりながら、僕は長く潜れるように深呼吸を繰り返す。
きっと彼女のことも不安にさせて、それを後ろから強く抱きしめてやる。
「ようしいくぞ」
息を止め、足に力を込めた――。
「コラ、何やってんだお前!」
その時、砂浜のほうで誰かが叫んだ。
そこに立つ姿には見覚えがあった。
声も聞きなれたものだ。
「……ササキさん?」
それは職場の上司であるササキアユミという女だった。
今朝電話をした、理解力の足りないあの上司だ。
「どうしてここに? こんなところで何しているんです?」
「お前に聞きたいよ。馬鹿じゃねえの、こんな真冬に。一人で」
「一人? あれ、彼女は……?」
気付けば、彼女の姿は消えていた。
僕は辺りを探そうとするが、そんなことより――。
「うわ寒っ」
「当たり前だろ。一月だぞ」
急いで海から上がると、ササキアユミはコートを脱いで僕にかけてくれた。
波しぶきが顔にぶつかり大きく身震いをした時、海がひどく荒れていることに気が付いた。
風も強く、空には月なんか出ちゃいなかった。
「彼女は……」
呟くと、ササキアユミは訝し気に僕の顔を覗き込む。
「彼女なんていつ出来たんだお前。なんていう子だ。言ってみろ」
「あの、……思い出せないんですけど、すごく綺麗で、いい匂いで……」
「私も悪いと思ってるよ。お前がここまで追い詰められていることに気が付けなかった」
いや、僕には彼女がいたんだ。
それなのに、何も思い出せない。
紅茶に角砂糖を落としたみたいに、彼女に関する記憶の一切が消え失せてしまったのだ。
「僕なにやってたんだろう。死にたかったのかな。ていうかササキさん、なんでここが分かったんです」
「心配で、頑張って探したんだよ」
「いやおかしいですよ。もしかして僕のこと好きです? 実はね、僕も少し気になっていたんです。性格は置いといて、ギリギリ重力に負けちゃってるお尻なんか、最高だなあって」
「とにかく体を温めた方が良い。ホテルは取っているのか」
「ええ。でもすこぶる散らかっているのでちょっと時間をください」
「まじで何してたんだよお前は」
分からない。
僕は誰かに呼ばれ、その誰かに会いたくてしょうがなかった。
そしてあの時、確かに僕は幸せだった。
でもその幸せは、何によってもたらされたものだったのか。
……僕は本当に幸せだったのか?
読んで頂きありがとうございます。