第五話:ああぁぁぁ……
シルビアさんの元へ戻り、家のことだとか小屋のことだとかの世間話をした後、私は小屋へ戻っていた。今は、何時だっけ。夕鶏が帰り道で鳴いていた。分けてもらったオーク肉は、貯蔵庫へ閉まったっけ?
「ああぁぁぁ……」
雑巾でまんべんなく拭かれた部屋の片隅で、私は現在頭を抱えている。どうやらちょっとショックだったらしい。いや、ショックというのもおかしな話だ。なんというか、拾ってきた仔犬が少し目を話している隙に立派な狼へ成長していた気分だ。いや、別にまだまだ甘えてくれて良いんだよ? 可愛い弟分だもの。ただ、あんな小生意気に成長していた男の中身が変わってなかったとなると、びっくりもする。
手で無意味に顔を隠しながら、私は呟いている。お腹減った。
「あれだ。可愛い男の子のままってわかってよかったじゃないか」
「何のお話ですか?」
一人頷いていた時に、後ろから声をかけられるなんて、びっくりするじゃないか! 誰だ本当。後ろを振り向けば、憎らしいほど整った顔が見えた。
「うわっ!? ねえなんで貴方ここにいるの?」
しゃらん、と効果音が付きそうに現れた男、ルエラ・ノージェ。なぜここにいるんだ貴様。何しに来たの? ついに殺しにきた? そう思いながら、なるべく距離を取ろうと足の進む方へ下がっていく。
「なぜ、ここにいるのか、ですか……。それはマルシェお嬢様が帰ってこないからです。貴女は公爵の娘という自覚が足りていないのではないですか?」
ルエラは興味深そうにきょろきょろと辺りを見回している。こんな姿さえ絵になるのだから、いっそどこかの貴族の養子になればいいのに。それにしても一体。
「公爵の娘という自覚……?」
何を言ってるんだろうかこの男。公爵の娘はユーリェだけだ。確かに私も公爵家の人間とされているけれど、公爵の娘としての権限は私にはない。
「そうです。美しく着飾り、人形のように微笑んで座っていることが貴女の仕事でしょう? なのに、こんな……」
ルエラは憎々しげに私を見た。私の肌へ手を伸ばし、壊れ物でも扱うように触れる。このまま、首を絞められて殺されるのだろうか。そう思うのに、体は動かない。
ルエラの言いたいことはわかった。政略結婚の道具だろう、と嗤っているのだ。自分に残された唯一の役目を放棄するのか、と。
「髪も、肌も、こんなに汚れてしまって。どうしてですか。なぜ貴女はこうまでして逃げるのですか」
それでもやはりわからない。どうしてなんてこっちが聞きたい。ルエラ、どうしてそんなにも泣きそうなの? 苦しそうなの? 貴女の主人はユーリェでしょう。そうやって私を扱わないで。私は、まだ希望が残ってるんじゃないかと思ってしまう。今、私はどんな顔をしているだろうか。
「何をしにここへ来たの? 私を、殺すの?」
口から言葉が落ちてしまった。どうして、どうして? 私はどうしてこの男の前で「私」になれないの? いつでも笑顔に、ひょうきんに、掴み所の無い頭の弱い女の子を演じているのに。どうして。
「あなたを、ころす?」
ルエラは、目を見開いて私を見た。暁はもう宵の闇に喰われてしまった。ルエラの白金が淡く輝いている。こんなときなのに、美しく見えるなんてずるいわ。見とれてしまうじゃないか。
「俺が、あなたを、殺すなんて。出来ない」
「え……?」
くるりと、背を向けてルエラは公爵家の執事に戻った。
「私もここに住みます。貴方の身の回りの世話をする人が必要でしょうから」
そう告げて、彼は「失礼します」と、外へ出ていった。がらんどうの中に取り残された私は、何が起きているのか分からなかった。ユーリェのことを愛しているはずのルエラ。それが、私を殺せない? 何が起きている。何かが変わった? それは、一体なんだ?
両腕で、私自身を抱き締める。怖い。恐ろしい。そしてなにより無力な私が悔しい。
私は恐怖に怯えるしかないのか。怖い。苦しい。期待と不安が渦巻く。
もし、ほだされたらどうしよう。ルエラに心を許してしまったらどうしよう。だってルエラが私を殺さないなんてありはしない。彼は私に多大な憎しみを抱いている。すぐにでも殺されて良いはずだ。
もしや、今。うまく騙せたと笑っているのではないか。
心の中に出来た嵐の種は、消えることはない。ああ、ユーリェ。私は今貴女が心の底から憎らしい。恐怖に怯えなければいけないことが、悔しい。
「落ち着け私。笑顔だ。笑え。いつもそうしてきたじゃないか」
怖い。それでも、あの男に負ける方が私は嫌だ。負けられない。大丈夫。私はマルシェ。大丈夫だ。悪役令嬢マルシェだから。
怯えるなんて、そんなことはない。大丈夫だ、私は私を愛している。
空腹を隠し、私はアトリエの扉を開いた。
≫≫≫≫≫
丁度その頃、ルエラは川にある大石の上にいた。ルエラは笑っていた。
「こんなにも上手くいくなんて、思わなかったな。俺も、貴女に報いるときが来たようだ。ユーリェ様」
ルエラの微笑みは、まるで天使のようだった。
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